さいかち亭雑記

短歌を中心に文芸、その他

諸書雑記

2022年11月27日 | 
 写真家の齋藤陽道の文章を筑摩の国語教科書の見本で読む。帰宅途中で出会った道に迷っているらしい視覚障害者の老人を聴覚障害者である筆者が道案内しようとして苦心する、という内容の文章である。記述は丁寧かつ繊細で、現代日本の書き言葉として完成された文体のひとつだろう。こういうものは「無私」でないと書けない。つまり、自分を相手に認めさせようとか、ほめられたいとか、そういう気持が強くては書けない性質のものだ。

 ブログのアクセス数とか、「いいね」の数とか、フォロワーの数とか、そういう自己宣伝や自意識と他人からのフィードバックの対応関係が、自動的に釣り合うように設計された情報環境のシステムをまるで空気のように自然なものとして受け止める状態に慣れきってしまった感性があり、一方で斎藤のような無私の精神を表現する文体がそういうシステムと特に衝突もしないかたちで成立しているらしいことの不思議さを思いつつ、自分を「〇〇として認めさせたい」ということに骨を折って来た私自身の過去に改めて反省が及ぶのは、なかなか無慚なことではある。

 以下も雑談だが、数か月前に梅原龍三郎の回想談を読んで、それからこの二、三日、成田重郎訳のヴォラアル著『ルノワル』を読んでいる。ヴォラアルは戦争でパリから避難しようとしている時に、後に積んでおいたマイヨールの彫像が運転手が急ブレーキを踏んだはずみに倒れてきて頭に当たって死んだという。この本は戦前に東京堂から出た本で、私の持っているものには里見勝蔵の蔵書票が付いている。表紙裏にトンボがとんでいる手書きの絵が貼られていて、さっと筆でなすってあるだけなのに、その青灰色を塗り残した背景の余白がいかにも水の反射しているように見える。本をめくると、絵のタイトルに鉛筆で印がついている。何度も利用した本らしく、背表紙は傾いている。そこでのルノアールの談話は、ユーモアに富んだ精彩のあるもので、読んでいると随所に画家の哄笑が響いている。蔵書票だけ外して小額にでも入れようかと思っていたのだが、読んでいるうちに画家のこの本への愛情が感じられてきて、それはやめることにした。

 さらに昨日めくったのは、堀口大學の『水かがみ』である。病気がちの青年時代を回想した「わが半生の記」がおもしろかった。それと日本に来たジャン・コクトーを案内した時の文章もいいと思って読んだ。大學の訳したコクトーの詩は、私にはよくわからないところがたくさんある。特に同性愛や娼婦にかかわるような詞章は、読みにくい。当時は常識としてわかっただろう仄めかしが、今は相当に伝わりにくくなっている。わざわざ隠してあるものを解説するのは野暮かもしれないが、わからないのだから仕方がない。川柳のように誰か解説の労をとってくれないだろうかと思うものだ。

 「私は思うのである。歴史の中に女の分け前を相当に分ち与えることによって、初めてわれらは、人類の過去の事蹟に対してもっと人間的な、もっと第一義的な親しさを感じ得るにいたるのではあるまいか。」 
 
 「ボルシェヴィズムは驚嘆すべきイズムである。見給え、彼は世界の穀倉ロシアに饑えを与えた。」
                           
「驪人漫語」より堀口大學