〇『石本隆一評論集成』という大部の書物が、石本晴代さんの手によって刊行された。その前の『全歌集』とあわせて、一人の歌人の一生の仕事が目に見える二冊の本のかたちをとって、どんと後進の者たちに手渡されたのである。
私はこの歌人には会ったことがないのだが、難解な事柄をわかりやすく書く努力を惜しまないでいて、同時に深く丁寧に掘り下げてゆくその語り口に好感を持った。その一方で、繊細鋭敏にして誇り高く、時には矯激と言ってもいいほどの激しさをもって、言葉に関する祀りごとを執り行い続けた神官の気配も併せ持った文章を書く人だと思う。文章のそこここに、何やら穏やかでない白刃がひらめくような神経の糸がびーんと張って、時に感性のほとばしるようなところは神がかりである。ものすごい迫力だ。好き嫌いをきっぱりと言っているから嘘が無く、読んでいておもしろい。自分のなかの少しだけこの人に似た部分をそそのかされる。
と、ここまで書いてみて思い当たったのは、若い頃に石本隆一のところにいた何人かの中堅の歌人を私は現在知っているが、みんな少しずつそういうところがある。感性のほとばしる瞬間を論理の言葉に繋ぐことに賭ける、とでも言おうか。もしかしたら、知らず知らずのうちに石本隆一の影響を受けたのではないか。そういう意味では、石本隆一の独特な志向性は、後の歌人に受け継がれているのである。詩というものを神秘化して語らないためにも、また同時に詩の秘儀を殺さないためにも、この書物のことは語られなければならない。
私は本を読むのが遅いので、まだ第一部の「前田夕暮」のところを拾い読みしただけだ。今後は第二部の「香川進」の文章、第三部の歌人論・作品論以下を時間をかけて読んでゆく楽しみがある。
私はこの歌人には会ったことがないのだが、難解な事柄をわかりやすく書く努力を惜しまないでいて、同時に深く丁寧に掘り下げてゆくその語り口に好感を持った。その一方で、繊細鋭敏にして誇り高く、時には矯激と言ってもいいほどの激しさをもって、言葉に関する祀りごとを執り行い続けた神官の気配も併せ持った文章を書く人だと思う。文章のそこここに、何やら穏やかでない白刃がひらめくような神経の糸がびーんと張って、時に感性のほとばしるようなところは神がかりである。ものすごい迫力だ。好き嫌いをきっぱりと言っているから嘘が無く、読んでいておもしろい。自分のなかの少しだけこの人に似た部分をそそのかされる。
と、ここまで書いてみて思い当たったのは、若い頃に石本隆一のところにいた何人かの中堅の歌人を私は現在知っているが、みんな少しずつそういうところがある。感性のほとばしる瞬間を論理の言葉に繋ぐことに賭ける、とでも言おうか。もしかしたら、知らず知らずのうちに石本隆一の影響を受けたのではないか。そういう意味では、石本隆一の独特な志向性は、後の歌人に受け継がれているのである。詩というものを神秘化して語らないためにも、また同時に詩の秘儀を殺さないためにも、この書物のことは語られなければならない。
私は本を読むのが遅いので、まだ第一部の「前田夕暮」のところを拾い読みしただけだ。今後は第二部の「香川進」の文章、第三部の歌人論・作品論以下を時間をかけて読んでゆく楽しみがある。
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