224 歳暮
あらたまの年のうちにもうぐひすの初音ばかりの春はきにけり
四三七 あら玉のとしの内にも鶯のはつねばかりの春は来にけり
□岡崎などの実景なり。反て春は聞えぬ時あるなり。年内立春也。題はわけずあれども、年内立春の体なり。最初はあらたまの年の内よりとなり。後あらためし。
○岡崎などの実景である。かえって春は聞えない時がある。年内立春である。題では分けていないけれども、年内立春の体である。最初は「あらたまの年の内より」となっていた。後に改めた。
225
徒にあかしくらして人なみのとしのくれともおもひけるかな
四三八 いたづらに明(あか)しくらして人なみの年の暮とも思ひけるかな 享和二年
□此れは、津の国中村に居たりし年に、二時百首を詠じたる中の歌なり。千蔭、春海が「筆のさが」は、此の二時百首の中より十八首出したり。いよいよおとなげなかりし。毎日梁岳法師と赤尾可官と三人、ものよみしたりしなり。巳刻よりして人々講釈によるなり。其の人々のよるまでに二時の間によみたりしなり。赤尾七十首、梁岳六十首出来たり。此の三つをよせて□□(二字欠字)とせり。
○これは、津の国中村に居た年に、二時百首を詠じた中の歌である。千蔭、春海の「筆のさが」は、この二時百首の中から十八首を出した(批判書である)。(だから)いよいよ大人げない所為であった。毎日、梁岳法師と赤尾可官と三人で、歌を詠んだのである。巳刻から人々が講釈に集まる。その人々が集まるまでに、二時の間に詠みおおせたものだ。赤尾が七十首、梁岳が六十首出来た。この三つをよせて□□(二字欠字)とした。
※有名な「筆のさが」一件については、景樹関係の諸書に必ず出て来るので特に注記しない。
226
年の緒もかぎりなればやしら玉のあられみだれて物ぞかなしき
四三九 年の緒もかぎりなればやしら玉のあられみだれて物ぞ悲しき 文化二年
□「年の緒」すべて連続して長きものを「を」と和語に云ふなり。年も連続してつづくものなり。「みだれて」「かなしき」と云ふやうにつづけるなり。玉は穴あり。数珠の如く緒を通しておくなり。其きれたる所よりしてみだるるなり。此歌、歳暮のもの悲しきことを云ふなり。
門人云、此歌大人自得の歌なり。
○「年の緒」は、すべて連続して長いものを「を」と和語に言うのである。年も連続してつづくものだ。「みだれて」「かなしき」というように続けるのである。「玉」は穴がある。数珠のように緒を通しておくのだ。その切れた所から乱れるのである。この歌は、歳暮のもの悲しきことを言ったのである。
門人の言うには、この歌は、大人の自得の歌である。
※「門人云」は後の書き込み。
227 雪中歳暮
白ゆきのふる大空をながめつゝかくて今年もくれなんがうさ
四四〇 しら雪の降(ふる)大空をながめつゝかくてことしもくれなむがうさ
□ありのまゝなり。此のやうに雪のしきりにふる頃が歳暮なり。
降を打ちまもりて見るを、直に「ながめ」にかけるなり。物思ひつゝと云ふ意になしてみるべし。「くれなんがうさ」、くるゝぞ、ういと云ふを云ふなり。
○ありのままである。このように雪のしきりにふる頃が歳暮である。
(雪が)降るのをじっと見守るように見るということを、直に「ながめ」にかけているのだ。物を思いながら、という意味になしてみるとよい。「くれなんがうさ」は、暮れるぞ、憂い、という(心事)を言うのである。
228
明日からはふるとも春のものなればことしのゆきのつもる也けり
四四一 明日からはふるとも春のものなればことしの雪の積る也(なり)けり
□大年に大雪降しけしきなり。冬の雪があたりまへなり。それ故に春の領内ではなきなり。冬のうちにふりておかうとて、つもるなりと云ふなり。
○大晦日に大雪が降った景色である。冬の雪(の方)が当り前である。だから春の季節のうちではないのである。冬のうちに降っておこうといって、積もるのだ、というのである。
229 歳暮近
限あれば我が世もちかくなるものをとしのみはてと思ひけるかな
四四二 限(かぎ)りあればわが世も近くなる物を年のみはてと思ひけるかな
□五十余の時のうたなり。
○五十余歳の時の歌である。
230 都歳暮
百式の大宮びともいとまなきとしのをはりになりにけるかな
四四三 もゝしきのおほみやびともいとまなき年のをはりに成(なり)にける哉 文政五年
□憶良の「大宮人はいとまあれや」より取て来たる也。憶良の家に中将が少将があつまりたるなり。扨々大宮の御方には富貴にしてひまあるなり。この方貧乏のものは中々かなはぬことなり。梅をかざして元日めでたくも御出なりと云ふ事なり。此れを「新古今」に直してとんと聞えぬことにしたり。定家郷(※当て字)などのあやまりなるべし。「桜かざしてけふもくらしつ」としたり。とんととんと合はぬなり。上の句下の句、自他たがへり。「あれや」は、他を推量するなり。「今日もくらしつ」は、自らくらすなり。此でちがふなり。
○憶良の「大宮人はいとまあれや」から取って来たのである。憶良の家に中将が少将が集まったのだ。さてさて大宮の御方には、富貴でひまがあることである。私らのような貧乏人には、なかなか適わないことである。梅をかざして元日めでたくも御出になったという事である。これを「新古今」で直してとんと意味不明の歌にしてしまったのである。定家卿などのあやまりであろう。「桜かざしてけふもくらしつ」としてしまった。まったく少しも合わないのだ。上の句下の句、自他くいちがっている。「あれや」は、他を推量するのである。「今日もくらしつ」は、自身が暮らすのである。これでくいちがうのである。
※景樹は「憶良」と言っているが、赤人のかんちがい。「和漢朗詠集」に赤人の名で所収。私が注意したいのは、「古今和歌六帖」にもあることで、景樹の「講義」で口をついて出て来る「万葉」歌がほとんど「古今和歌六帖」にあるものだということだ。
※元は「万葉集」巻十の作者不明歌。「ももしきの-おほみやひとは-いとまあれや-うめをかざして-ここにつどへる」一八八七(一八八三)。しかし、ここには例によって景樹のテキスト考証力の一端が示されている。「ももしきの大宮人はいとまあれや桜かざしてけふもくらしつ 赤人」「新古今和歌集」一〇四。ここで「赤人」とあるのは平安時代以来の誤伝を踏襲したもの。
231 山家歳暮
うぐひすのこゑより外に山里はいそぐものなき年のくれかな
四四四 鶯の聲より外に山里はいそぐ物なきとしのくれかな 享和三年
□いそぐ、元来用意するなり。春のいそぎをするなり。春のためにいそぐことなり。一つ越えたる語なり。春のためにいそぐ用意なり。それ故いそぎをするといへば用意することなり。世上ではいろいろ用意して春いそぎをするなり。山家は用意なく、今日中にせねばならぬなどとすることはなきなり。
○「いそぐ」は、元来用意をする、の意味である。春のいそぎ(用意)をするのである。春のためにいそぐことだ。一つ(冬の季節を)越えた言葉だ。春のためにいそぐ用意である。それだから、「いそぎをする」といえば、用意をすることである。市中ではいろいろと用意をして春の支度とするのである。山家はそんな用意もなく、今日中にしなければならない、などというような用事はないのである。
232 老後歳暮
なれなれて年のくれともおどろかぬ老のはてこそあはれなりけり
四四五 なれなれてとしの暮とも驚かぬ老のはてこそあはれなりけれ
□老いて見ればよくわかるなり。おいては頓とかなしからぬなり。年のくれのつらさは、三十五、六より四十にては大に覚ゆるなり。五十、六十彌かなしきなり。
○老いて見るとよくわかることだ。(ある程度まで)年をとってしまうと(数え年での加齢の近づく年の暮れといっても)ちっとも悲しくはないのである。年の暮れのつらさは、三十五、六から四十歳頃の年齢ではずいぶん感ずることだ。五十、六十となるといよいよ悲しいのである。
※結句「けり」はテキストのままでおそらく誤記。
※以上で春歌、夏歌、秋歌、冬歌の部の講義を終わる。秋歌の後半から冬歌の前半が欠けてしまっており、特に冬歌の前半には名歌が多いので残念。
あらたまの年のうちにもうぐひすの初音ばかりの春はきにけり
四三七 あら玉のとしの内にも鶯のはつねばかりの春は来にけり
□岡崎などの実景なり。反て春は聞えぬ時あるなり。年内立春也。題はわけずあれども、年内立春の体なり。最初はあらたまの年の内よりとなり。後あらためし。
○岡崎などの実景である。かえって春は聞えない時がある。年内立春である。題では分けていないけれども、年内立春の体である。最初は「あらたまの年の内より」となっていた。後に改めた。
225
徒にあかしくらして人なみのとしのくれともおもひけるかな
四三八 いたづらに明(あか)しくらして人なみの年の暮とも思ひけるかな 享和二年
□此れは、津の国中村に居たりし年に、二時百首を詠じたる中の歌なり。千蔭、春海が「筆のさが」は、此の二時百首の中より十八首出したり。いよいよおとなげなかりし。毎日梁岳法師と赤尾可官と三人、ものよみしたりしなり。巳刻よりして人々講釈によるなり。其の人々のよるまでに二時の間によみたりしなり。赤尾七十首、梁岳六十首出来たり。此の三つをよせて□□(二字欠字)とせり。
○これは、津の国中村に居た年に、二時百首を詠じた中の歌である。千蔭、春海の「筆のさが」は、この二時百首の中から十八首を出した(批判書である)。(だから)いよいよ大人げない所為であった。毎日、梁岳法師と赤尾可官と三人で、歌を詠んだのである。巳刻から人々が講釈に集まる。その人々が集まるまでに、二時の間に詠みおおせたものだ。赤尾が七十首、梁岳が六十首出来た。この三つをよせて□□(二字欠字)とした。
※有名な「筆のさが」一件については、景樹関係の諸書に必ず出て来るので特に注記しない。
226
年の緒もかぎりなればやしら玉のあられみだれて物ぞかなしき
四三九 年の緒もかぎりなればやしら玉のあられみだれて物ぞ悲しき 文化二年
□「年の緒」すべて連続して長きものを「を」と和語に云ふなり。年も連続してつづくものなり。「みだれて」「かなしき」と云ふやうにつづけるなり。玉は穴あり。数珠の如く緒を通しておくなり。其きれたる所よりしてみだるるなり。此歌、歳暮のもの悲しきことを云ふなり。
門人云、此歌大人自得の歌なり。
○「年の緒」は、すべて連続して長いものを「を」と和語に言うのである。年も連続してつづくものだ。「みだれて」「かなしき」というように続けるのである。「玉」は穴がある。数珠のように緒を通しておくのだ。その切れた所から乱れるのである。この歌は、歳暮のもの悲しきことを言ったのである。
門人の言うには、この歌は、大人の自得の歌である。
※「門人云」は後の書き込み。
227 雪中歳暮
白ゆきのふる大空をながめつゝかくて今年もくれなんがうさ
四四〇 しら雪の降(ふる)大空をながめつゝかくてことしもくれなむがうさ
□ありのまゝなり。此のやうに雪のしきりにふる頃が歳暮なり。
降を打ちまもりて見るを、直に「ながめ」にかけるなり。物思ひつゝと云ふ意になしてみるべし。「くれなんがうさ」、くるゝぞ、ういと云ふを云ふなり。
○ありのままである。このように雪のしきりにふる頃が歳暮である。
(雪が)降るのをじっと見守るように見るということを、直に「ながめ」にかけているのだ。物を思いながら、という意味になしてみるとよい。「くれなんがうさ」は、暮れるぞ、憂い、という(心事)を言うのである。
228
明日からはふるとも春のものなればことしのゆきのつもる也けり
四四一 明日からはふるとも春のものなればことしの雪の積る也(なり)けり
□大年に大雪降しけしきなり。冬の雪があたりまへなり。それ故に春の領内ではなきなり。冬のうちにふりておかうとて、つもるなりと云ふなり。
○大晦日に大雪が降った景色である。冬の雪(の方)が当り前である。だから春の季節のうちではないのである。冬のうちに降っておこうといって、積もるのだ、というのである。
229 歳暮近
限あれば我が世もちかくなるものをとしのみはてと思ひけるかな
四四二 限(かぎ)りあればわが世も近くなる物を年のみはてと思ひけるかな
□五十余の時のうたなり。
○五十余歳の時の歌である。
230 都歳暮
百式の大宮びともいとまなきとしのをはりになりにけるかな
四四三 もゝしきのおほみやびともいとまなき年のをはりに成(なり)にける哉 文政五年
□憶良の「大宮人はいとまあれや」より取て来たる也。憶良の家に中将が少将があつまりたるなり。扨々大宮の御方には富貴にしてひまあるなり。この方貧乏のものは中々かなはぬことなり。梅をかざして元日めでたくも御出なりと云ふ事なり。此れを「新古今」に直してとんと聞えぬことにしたり。定家郷(※当て字)などのあやまりなるべし。「桜かざしてけふもくらしつ」としたり。とんととんと合はぬなり。上の句下の句、自他たがへり。「あれや」は、他を推量するなり。「今日もくらしつ」は、自らくらすなり。此でちがふなり。
○憶良の「大宮人はいとまあれや」から取って来たのである。憶良の家に中将が少将が集まったのだ。さてさて大宮の御方には、富貴でひまがあることである。私らのような貧乏人には、なかなか適わないことである。梅をかざして元日めでたくも御出になったという事である。これを「新古今」で直してとんと意味不明の歌にしてしまったのである。定家卿などのあやまりであろう。「桜かざしてけふもくらしつ」としてしまった。まったく少しも合わないのだ。上の句下の句、自他くいちがっている。「あれや」は、他を推量するのである。「今日もくらしつ」は、自身が暮らすのである。これでくいちがうのである。
※景樹は「憶良」と言っているが、赤人のかんちがい。「和漢朗詠集」に赤人の名で所収。私が注意したいのは、「古今和歌六帖」にもあることで、景樹の「講義」で口をついて出て来る「万葉」歌がほとんど「古今和歌六帖」にあるものだということだ。
※元は「万葉集」巻十の作者不明歌。「ももしきの-おほみやひとは-いとまあれや-うめをかざして-ここにつどへる」一八八七(一八八三)。しかし、ここには例によって景樹のテキスト考証力の一端が示されている。「ももしきの大宮人はいとまあれや桜かざしてけふもくらしつ 赤人」「新古今和歌集」一〇四。ここで「赤人」とあるのは平安時代以来の誤伝を踏襲したもの。
231 山家歳暮
うぐひすのこゑより外に山里はいそぐものなき年のくれかな
四四四 鶯の聲より外に山里はいそぐ物なきとしのくれかな 享和三年
□いそぐ、元来用意するなり。春のいそぎをするなり。春のためにいそぐことなり。一つ越えたる語なり。春のためにいそぐ用意なり。それ故いそぎをするといへば用意することなり。世上ではいろいろ用意して春いそぎをするなり。山家は用意なく、今日中にせねばならぬなどとすることはなきなり。
○「いそぐ」は、元来用意をする、の意味である。春のいそぎ(用意)をするのである。春のためにいそぐことだ。一つ(冬の季節を)越えた言葉だ。春のためにいそぐ用意である。それだから、「いそぎをする」といえば、用意をすることである。市中ではいろいろと用意をして春の支度とするのである。山家はそんな用意もなく、今日中にしなければならない、などというような用事はないのである。
232 老後歳暮
なれなれて年のくれともおどろかぬ老のはてこそあはれなりけり
四四五 なれなれてとしの暮とも驚かぬ老のはてこそあはれなりけれ
□老いて見ればよくわかるなり。おいては頓とかなしからぬなり。年のくれのつらさは、三十五、六より四十にては大に覚ゆるなり。五十、六十彌かなしきなり。
○老いて見るとよくわかることだ。(ある程度まで)年をとってしまうと(数え年での加齢の近づく年の暮れといっても)ちっとも悲しくはないのである。年の暮れのつらさは、三十五、六から四十歳頃の年齢ではずいぶん感ずることだ。五十、六十となるといよいよ悲しいのである。
※結句「けり」はテキストのままでおそらく誤記。
※以上で春歌、夏歌、秋歌、冬歌の部の講義を終わる。秋歌の後半から冬歌の前半が欠けてしまっており、特に冬歌の前半には名歌が多いので残念。
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