さいかち亭雑記

短歌を中心に文芸、その他

武藤雅治歌集『あなまりあ』

2016年06月27日 | 現代短歌 文学 文化
 積み上げた本の中にまぎれていた歌集が、やっと出てきた。いま見ると八〇ページしかない。道理で厚みがないわけだ。それでも一ページ三首組みで、数えてみると二二一首あった。まず、さまざまに工夫した表現技巧の見られる歌を引いてみよう。

なまたまごのきもちとゆでたまごのきもちとはどちらがきもちがいいか
あつちからみればめざはりのえだもこつちからみればなくてはならない
男の、ために黒い日傘を差してひぐらしの林の奥に消えてゆく、女たち
ベンチにすわりみんな値札のやうなものぶらさげて待つてゐる顔ばかり

 これは、単純に読んでいて楽しかった。もう少し掘り下げて論じてみようか。

朝からまたテレビに笑ひごゑはながれてあたまが貧乏になるではないか
ほしぞらを見よ美しく生きやうなどとはもはや誰ひとりいふことはない
日本はダメだとはじめて言つたのは啄木たぶん啄木だつたのではないか
  ※石川啄木の「啄」は、文字化けを避けるため正字にしていません。
ひとつ灯のしたにあつまるかほとかほとかほとかほがみんな昆虫のかほ

 生活時間のなかには、小説家の椎名麟三の語彙で言うと、その「陋劣さ」に身もだえしたくなるような瞬間が、たくさん仕掛けられていて、一首めの朝から聞こえて来るテレビの「笑ひごゑ」なども、その一つにちがいないのだが、すべての出来事は避けようもないのだから、黙々として引き受ける。それが生活者というものではあるけれど、かつて詩人の千家元麿は、私と空の星とはつながっているという確信を堂々とうたいあげたものだった。株価と円相場のグラフに一喜一憂しているようなこの現代日本の生活には、そういう美しい心情が失われている、と二首めで作者は言いたいのだろう。

時々そういう現実への耐え難さが我慢の限界に近づくことがあって、それを四首めでは、昆虫の「かほ・顔」が累々とひしめくという表象をもって作者は表現しているのである。一首めの「あたまが貧乏になる」ような感じとも共通する空無感から、こういう歌が出て来る。

 三首めについて。啄木の「時代閉塞の現状」という文章は、かつて文学青年だった人の場合は、たいてい体に浸み込んでいる文章で、ここには引かないが、卓を叩いて議論をする青年の姿を描いた詩が、この一連の歌の下敷きになっている。私なども、何かというとすぐに「時代閉塞」などと口走ってしまう癖があるので自戒したいところなのだが、これだけ情報が統制された国に生きていながら自由だと思っているような人には、こういう焦慮はわからないかもしれない。そういう情報統制の一例として、TPP条約のことがある。

あめりかといふからだに見えない敵として棲むあめりかといふからだに

 作者が私と同じ考え方の人かどうかはわからないが、現在TPP条約に賛成している政治家・評論家はすべて買弁である。念のために説明しておくと、買弁というのは、他国の利益のために自国の利益を売り渡す人間のことである。私は「あめりかといふからだ」の一部だろうか。わからない。そうかもしれないし、そうではないかもしれない。最低限読み取れることは、違和の自覚だろう。こんなふうに日常生活の中で実感することの積み重ねのなかから語るという思想が、武藤雅治の歌にはある。たぶんこれは、若い頃の思想が歳月を経て生きる思想として結晶したかたち、スタイルなのである。その自由闊達な破れ方、外れゆき方が、この歌集の文体となっているのだが、そこのところのこだわりを押さえないと、単に奇をてらうものとみなされたり、若手の流行の文体とひとつものにされてしまう可能性があるので、私はここに釘を刺しておくのである。
 

 






最新の画像もっと見る

コメントを投稿