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新潟淡麗辛口の蔵の人々と”庶民の酒飲み”の間で過ごした長い年月
(昭和五十年代~現在)を書き続けているブログです。

鶴の友について-6--NO2

2022-05-05 11:08:51 | 鶴の友について

 

 鶴の友について-6--NO1の続き

新潟淡麗辛口という高品質高コストではあるが日本酒のゲームチェンジャーになり得る、存在を月桂冠に代表されるNBという存在よりほんの僅かに高い消費者にとっては費用対効果が極めて高い存在になるためにどのような『方法』を編み出したのかを以下に書いていきます。

1. 原則として従来の問屋ルートの販売は極力排し、新潟県内もメインのターゲット東京を含む関東も新規取引は蔵と小売店との直接取引(直取引)しか        
  行わない。

2. 蔵と小売店の話し合いで前年度の実績に基づいた今年度の数量を決定し蔵はその合計数量を造り供給する、小売店は自分達がお願いした数量を売り切
  る責任を負う。
        
3.  新潟県外は蔵からの発送運賃は酒販店側が半額負担(一部の蔵は酒販店が全額負担)し蔵も半額を負担することが基本の原則で銀行振り込み料も小売店 
  側が負担する。

『方法』は以上になるのですが、今の時点で見ると何の変哲もない当たり前の話なのですが、昭和四十年代終わり~五十年代初めの時点では 『とんでもない話』で蔵サイドでも小売店サイドでも受け入れ難い『方法』だったのですが、地方公務員という枠をかなり逸脱していた嶋悌司先生と、従来の酒販店の常識には全く囚われていない早福岩男社長(現会長)と、ごく一部の蔵であっても世間の動きを見て強い危機感を覚えていた蔵を保有していた新潟淡麗辛口は少数の蔵ですが1~3を越えてしまうところが現れ、そのことが小さくない波及効果を及ぼしていくことになるのです---------。 

1.はこの年代では非常識極まりないものでした。
逆に今は、ある程度の評価のある地酒(地方銘酒蔵)が問屋ルートでの販売がメインだとしたら常識外と言われるようで、❝時代の皮肉❞を私は感じざる    を得ません。
この年代はNBを中心した酒蔵→→酒問屋→→酒販店が当たり前の流通ルートで、ごく一部の地元の近場の酒蔵と例外的に直取引(直接取引)あるぐらいでした。
新潟淡麗辛口の蔵もこの例外ではありませんでしたが、たとえ地元であっても新規の取引は直取引の原則を曲げずに対処して行き従来からの問屋ルートもできる限り直取引に変えようと努力を継続し続けていました。
その理由は単に中間マージンを排除してより酒質の向上にコストをかけたいというだけでなく、2.にもまたがる理由がありました。

2.は新潟淡麗辛口にとって一番の重要項目かも知れません。
良い酒を造りたいという気持ちは多くの酒蔵には存在していますが、置かれている状況によって『良いをどのレベルで考えるか』の違いが出てきます。
私が体験し実際に見てきた酒蔵は「たとえ赤字スレスレでもエンドユーザーの消費者が求める高酒質の酒を造りたい」との気持ちは持っていましたが、
「ただし造った酒の全量を酒販店サイドが売れても売れなくても引き受けて値引きの要求や返品を一切しない」とい条件ならばだけれど---------------。
この条件も現時点でみれば❝不思議な話❞ではありませんが、この時期の常識では「売れているNBより仕入れ価格が安くなければ取り扱う必要は無いし、ある程度の月日が過ぎても売れなければ返品する」のが当たり前だったのです。
これでは高酒質であるが高コストである新潟淡麗辛口造れるはずもありません。

2.はこの時代に高酒質・高コストの新潟淡麗辛口を、けして高くないリーズナブルな価格でエンドユーザーの消費者に提供するためには絶対に外せない条件であり、その条件を受け入れた新潟市を中心にした(早福岩男会長の存在が可能にしたのですが)少数の酒販店から取り扱いが始まったのです。
そしてその試みのもつ可能性の大きさにいち早く気付いた新潟県外の酒販店からの新規取引の依頼が増えてくるにつれ3.が浮上し始めたです。

3.現在より運賃は少し安かったように記憶していますが、30~50本程度の本数では発送の手間も含めて酒蔵の負担分は、取り扱い店が増えれば増えるほど軽いものではなくなっていきます。
新潟市などの県内には蔵が直接配達しても本数も取扱店もある程度あるため蔵の負担感もあまり多くありませんが、東京を中心とした県外の酒販店の発送には軽くない負担感がありました。
取り扱い酒販店のことも考え妥当な落としどころで半額負担が浮上してきたと思われますが、振り込み手数料の酒販店サイドの負担は❝象徴的意味合い❞もあって酒蔵としては妥協できない部分だったと思われます。

昭和五十年代初めに『酒販店の跡継ぎ』という自分の立場を嫌っていた私は、1~3には何の抵抗も無かったのですがその当時の業界の常識では受け入れ難いことであったようです。


上記に、新潟淡麗辛口がエンドユザーの消費者(特に若い層)に広めていくという『目的の達成』のための『手段としての方法』を書いてきました。
現在日本酒に少しでも興味のある人達ににとって、1~3の『方法』は珍しいものではなくむしろ当たり前のものかも知れません。
今人気のある地酒あるいは地方銘酒の蔵には、この新潟淡麗辛口が『開発した方法』は受け継がれていますが、むしろそれよりはるかに大事な『目的』はまったくと言って良いほど受け継がれてはいません。
「このままでは新潟清酒はエンドユーザーの消費者(特に若い世代)に❝自分達には縁がないもの❞と思われ飲まれなくなってしまう。どのような造り方で、どのような酒質で、どのような価格で、どのような販売の仕方なら、日本酒に関心のない若い需要層の消費者にも飲んでもえるのか?それを本気で考え全力で走らないと新潟清酒は滅びかねない」とい切迫した『動機が生んだ目的』は、現在の地酒の蔵や地方銘酒の蔵には残念ながら、ごく一部の蔵を除いては受け継がれていないと言わざるを得ないのです--------------------。
現在本当にごく一部を除いた製販の日本酒業界に致命的なほど不足しているものは『エンドユーザーの消費者からの視点』です、この視点が欠けているならばどんなリサーチもマーケティングも❝日本酒の浮上❞にはつながらないと私には思えてならないのです----------------。


どのくらい時間が掛かるかも分かりませんが、この記事への投稿は続けていきますので、気長にお待ちいただければ助かります。

 

 

 






 

 


鶴の友について-6--NO1

2021-10-10 14:33:26 | 鶴の友について

 

 

思ったより長い時間が過ぎてしまいました。
コロナ渦で新潟の蔵に行けない間に、昭和五十年代から大変お世話になった方々の訃報が届いたのですが葬儀にも参列出来ず残念な思いが募っています。昨年秋には嶋悌司先生、今年は早福岩男会長の奥様が亡くなられていますし、体調不良あるいは入院手術されて方がいても聞こえていない状況が続いています。
今は少しずつ落ち着てきていますがまだ安心には遠く、ワクチン接種2回目を終えた私も来年春には3回目のブースター接種が必要になるかもしれない状況では、残念ながら新潟の蔵にお邪魔するのにはもう少し時間がかかりそうです。


さてこれまでに書いた記事(下書きで未公開)は3本ほどあるのですが、2~3か月かかっても完成しなかったので投稿していません。
この記事も完成まで待っていれば未投稿になるのが確実なので、一番最初の「長いブログのスタートです」と同じようにこの記事は書き終わった分をその時に投稿しそれを繰り返して完成までもって行こうと思っていますので、どのくらいの分量でいつ完成するか分かりませんがかつて新潟淡麗辛口が起こした『破壊と再生』とは規模の大きさもその影響を及ぼす範囲も比較にならない『コロナ渦が引き起こす破壊と再生』の中でどのような酒蔵・酒販店がその存在をエンドユーザーの消費者に認めてもらえる可能性があるのか一個人の考察に過ぎませんが、少しずつゆっくりでも書いていきますので気長に見ていただければ本当に助かります。
私自身は、自分自身のためにも長い時間を費やしても、この記事は完成させるつもりでいます。

 

 

昭和四十年代後半、新潟県は酒造量の多い県であっても銘醸蔵の多い県というイメージは全くと言っていいほど無い県でした。
その県が起こしてしまった、あるいは起こさざるを得なかった『破壊と再生』の原因は❝二つの恐怖❞にありました。
このブログ内でも何回も書いているので詳しくは触れませんが、「このままでは日本酒は若い世代には全く飲まれずに将来滅びてしまうのではないか」という恐怖と「県産酒は将来滅びる前に、月桂冠に代表されるナショナルブランドの県内でも淘汰されてしまうのではないか」という恐怖が、今の時点だから見えるのですが、最大の要因だったと思われます。

❝二つの恐怖❞は他の県も持っていたはずなのになぜ新潟県だけが『破壊と再生』が可能だったのでしょうか?
1 越乃寒梅 故石本省吾蔵元が存在したこと
2 この時点で新潟県の酒蔵が108蔵存在していたこと
3 県独自の醸造試験場を持ちかつ嶋悌司先生が在籍(のちに醸造試験場長になられます)していたこと
4 当時の常識では考えられなかった(今では当たり前の)考え方と方法論を持った酒販店店主の早福岩男さんが存在したこと

以上のこと以外にもその要因は存在していますが、新潟県の酒造業界が新潟淡麗辛口という❝ゲームチェンジャー❞を造り出し当事者たちの想定をはるかに上回る『破壊と再生』をもたらし、月桂冠に代表されるナショナルブランドをその時点で追い詰める結果となったのは1~4の存在が大きかったのですが、皮肉なことに当事者が意図したことではなくても平成十年代後半以降の新潟淡麗辛口の❝段階的な縮小再生産❞に繋がる要素が内在していたのです----------。

1の存在の最大の価値は、昭和四十年代前半に今までの新潟県産酒とはまるで違う異端とも言える淡麗辛口を強い意志で造り出し周囲の反対を押し切って      こだわり続け、色々な意味で良くも悪くも『その後の展開の軸』となったことです。

2は銘醸酒を造り出している県ではなくてもある程度のボリュームの日本酒を生産しており、その時点でも、蔵単体でも新潟県酒造組合としても関東などと比べるとまだ❝力と余裕❞が残っていて、一部の蔵であっても先行して『破壊と再生』を実行できる余地があったことを示しています。

3の醸造試験場は47都道府県の中で唯一現在も残っているのは新潟県のみという事実が、過去に果たした役割の大きさを指し示しています。
県職員の枠を大きくはみだした嶋悌司先生の存在が無ければ新潟淡麗辛口の栄光も存在しなかったはずです。
昨年亡くなられたとき親しくさせていただいてる蔵から連絡を頂いて知っていましたが、まさかにYAHOOニュースが嶋悌司先生の訃報を報じるとは思いもよりませんでした。
日本酒業界、特に地酒(地方銘酒)業界では『酒の神様』として有名でしたが、YAHOOニュースが主な功績として取り上げていたのは朝日酒造の久保田の成功の立役者としての部分でしたが(もちろん素晴らしい仕事だと私も思っています)、私個人は『久保田以前の仕事』がエンドユーザーの消費者に大きな貢献をした嶋悌司先生の最大の功績だと思えてなりません。

残念ながら、越乃寒梅・故石本省吾蔵元に私はお会いしたことはありませんが、嶋悌司先生には久保田の発売半年前に初めてお会いし、その後私が平成三年に酒販店を離れるまで大変お世話になりました。
嶋悌司先生のことは何度もこのブログで書いていますのでここでは簡単にしか触れませんが、かなり怖い先生でしたが怒られることが分かっていても思わず寄って行ってしまう魅力のある面白い先生でしたが、今振り返ると、たとえお粗末だろうが能天気だろうが一生懸命酒に取り組もうとしている人間には本当に優しい方だった----------私個人にはそう思えてなりません。

新潟淡麗辛口の栄光は嶋悌司先生と共にありましたが、新潟淡麗辛口が創り出した栄光の光が強ければ強いほど創り出したた影も、残念ながら、小さなものではなかったのです。



4 早福岩男早福酒食品店社長(現会長)の存在は、『破壊』の面でも注目すべき部分も多々ありましたが、私自身は『再生』の局面のほうでの存在感が極めて大きかったと痛感していますし、「コロナ渦」というゲームチェンジャーがもたらす大変化の先であっても活躍出来る可能性まで未来の酒販店の店主に指し示しているとも感じてます。
むしろ早福さんは、『再生』をしようとしたために業界の常識の少なくない部分を結果として『破壊』せざるを得なかった---------そう言った方が実態に即した❝表現❞なのかもしれません。
その早福さんの❝考え方❞と嶋先生の❝問題解決の意識❞が出会うことによって、ご本人達も想像出来なかった規模と大きな影響力を持つゲームチェンジャーに新潟淡麗辛口は育ってしまったのです。

早福さんは当時108あった酒蔵の全てを訪ね、知らない知識を得るために醸造試験場に通いそこで嶋悌司先生と知り合ったことはよく知られています。
その辺のことを早福さんに尋ねると「俺は酒のことはよくわからん。俺が分かるのはこれだけだ」と小指を立てるのが常でした。
そのあたりの❝諧謔❞は若くお粗末で能天気な昭和五十年代初めの私には到底理解出来ないものでしたが、年を重ね当時の早福さんの年齢を越えた今の私には何んとなく理解出来る部分もあります。

今よりまだのんびりしていた時代だとしても、新潟県のすべての酒蔵を訪ね勉強に醸造試験場に通うなどの努力を支えた情熱は『仕事だとの意識』だけなら存在することはありえません。
ではその『情熱』を支えたのは何なのか、何がそれを可能にしたのか---------自分個人の『想像と意見』にしか過ぎませんが以下に書いていきます。


 

早福岩男早福酒食品店社長(現会長)は、❝商売の家の出❞であっても酒販店が家業ではなく一度❝跡継ぎの立場❞を嫌って若いころ❝家出❞をもされたこともある方が、なぜここまで『日本酒の世界にのめり込んだ』はある種の解き切れない謎として、今も私の中に存在しています。
『短期間の家出』として頻繁に新潟の蔵を訪ね、酒販店の三代目としてやる気もやりがいも全く持てなかった二十歳代前半の体験がある私には何となく分かる部分もあるのですが、それでも大部分は謎として残っています。

昭和五十年代初め新潟の酒蔵を訪ねる酒販店の中で私は、異例と言って良いほどの最若手でした------------なぜならこの時期に酒蔵で出会った酒販店の店主は一番若い人でも❝ひと回り以上の年上❞で、二十歳代前半は私しかいなかったからです。
この時期の月桂冠に代表されるナショナルブランド(以下NBと略)はイメージも実態も若い需要層にはまったく魅力的ではなく、その酒質も『清酒風アルコール飲料』と評されても仕方がないもので、さらに残念なことに大部分の地方酒(以下地酒と略)サイドはそのNBと比べてもイメージも実態も平均的な酒質のレベルもさらに下回っていたのです。
事実、二十歳でまだ学生だった頃の私は酒販店の跡継ぎの立場にも関わらず「日本酒は年齢の高い人専用の酒で、日本酒なんてものは二十一世紀は無くなっている」と本気で公言してくらいだったのです。
その私が業界を離れてまでなぜここまで❝日本酒の世界❞から離れらないのかを考えると、早福岩男早福酒食品店社長(現会長)がなぜここまで『日本酒の世界にのめり込んだ』かという謎の一端が見え始めてくるのです。

間違いなく早福岩男早福酒食品店社長(現会長)も商売の家の跡継ぎという立場とそれに付随している親が商売上培ってきた❝押し付けられた常識❞には反発していたはずです。
❝押し付けられた立場と常識❞が受け継ぐ人間にとって、楽しくも無く面白くもなく❝やる気の起きない仕事❞であることは自分の体験でも痛感していたことです。
どのようなことで新潟淡麗辛口と早福さんが出会ったかはは分かりませんが、押し付けられた立場と仕事には無い『面白さと楽しさ』に強く引き付けられたと想像できます。
早福さんが当時108あった酒蔵の全てを訪ねた動機には『酒蔵を訪ねることが楽しくて面白かった』----------商売上の差別化という面も多少はあったとしてもこの感情がほとんどを占めていたのではないかと思われるのです。

昭和四十年代後半当時、他の業界に比べ酒造・酒販業界(特に地方は)古く遅れていると言われも仕方がない状況にありましたが、同時に他の業界が失っていた古くから続く古き良き伝統も色濃く残っていましたがそれもいつまで残っていられるのか見通しがつかない状況だったのです。
色々な状況が絡み合って新潟淡麗辛口が誕生したのですが、商売の家育ちであっても酒蔵育ちでも酒販店育ちでもない、客観的に冷静に現実を見れる眼を持ちながらも古き良き伝統と文化を受け継いできた酒蔵が大好きで、全部は無理でも出来るだけ酒蔵に残って欲しいとの熱い気持ちを持っていた早福さんが存在していたことは、新潟淡麗辛口にとって❝大きな幸運❞であったことは誰かが否定しようとしても否定出来ない❝歴史的事実❞だと私は感じています。




早福さんは日本酒の伝統だけではなく受け継いできた❝遊び心の塊である文化❞を守り育てることにも熱心でした。
新潟市の古町に今もきちんと存在している花柳界のために出来る範囲での貢献を現在も続けておられます---------花柳界の踊りを撮影したDVDや写真集を私も何回か頂いています。
早福さんは守り育てることに熱心だったのは日本酒の伝統だけではなかったのです。

早福さんが行った❝再生❞は今の酒造業界も酒販業界も引き継いでいますが、残念ながら特に製販の地酒業界では、デットコピーを重ね続けてきた現在はかろうじて❝その形式❞のみが残っているだけで「なぜそうしたのかという❝動機と精神❞」の部分がまったく残っておらず、コロナ渦の中でエンドユーザーの消費者によって淘汰されかねない危機的状況にあると私個人には思われてならないのです。

まさに昭和四十年代後半の新潟清酒は、このまま何も手を打てなければ主な需要層である年配者が病気やお亡くなりにつれ❝縮小再生産❞という負のスパイラルに陥る未来しか見えない状況でしたが、ある種の奇跡とも言うべき「新潟淡麗辛口を実現させ成功させる要素」が、苦境の中でも揃いつつあったのです---------今にして思うとこのある種の奇跡も、時代によってもたらされ❝半歩先が見えていた方々❞に担われて実現したもので、残念ながらけして❝永続するもの❞ではなかったのです---------------。

嶋悌司先生を中心とした製造サイドと早福岩男早福酒食品店社長(現会長)の販売サイドも新潟淡麗辛口の開発には『逆転の発想』で臨んでいました。
何故なら『従来の発想や常識、秩序の順守』ではNBにも勝てず、エンドユーザーの若い消費者に相手にされないことを痛感していたからです。
「都会の若い人たちに飲んでもらえる日本酒とはどの様なものなのか」---------酒蔵や酒販店の都合とかをゼロクリアして従来の日本酒に否定的な消費者に納得し評価されるにはどう変えるべきか、酒造・酒販の❝半歩先が見えていた方々❞懸命に考え行動して初めて新潟淡麗辛口は誕生したのです。

『LIGHT&DRY』----------嶋悌司先生や早福岩男さんを始めとする方々の進むべき方向は決まっていました。
食生活が洋風化し重さやくどさを避ける方向が多数を占めていた若い世代に飲んでもらうそれしかありませんでしたが、その酒質はそれまでの新潟清酒とはまったく違うものでしたが、嶋悌司先生や早福岩男さん達には確信があったはずです。
その確信を支えた理由は、異端との批評・批判を受けながらもそれに屈せず造り続けた越乃寒梅・故石本省吾蔵元の淡麗辛口が都会の若い層の好評価を受けていたことと、一部の蔵元と嶋悌司先生を中心にした新潟県醸造試験場の努力により(今から見ると時代による幸運に揃えてもらった)協会10号酵母、新潟県開発による酒造好適米の五百万石によって可能になった低温発酵により造り出した市販本醸造酒が当時の吟醸酒なみの高いレベルの酒質を実現していたからです。

従来の新潟清酒と一線を画した淡麗辛口の販売の仕方についても既存の常識的売り方を破壊する必要がありました。
その中心にいたのは嶋悌司とも親しく当時の新潟の蔵をすべて訪れていて、酒販店としては一番❝酒蔵の内外❞を知っていた早福岩男・早福酒食品店社長(現会長)だと私自身は確信しています。
蔵元の立場に立てば新潟淡麗辛口への挑戦は、自身の酒蔵の現状を打破する魅力的な提案でしたがよりいっそうの技術的レベルの高さが必要なため原料、設備面でのコスト増が避けられず難しい面が多々ありました。
私個人の経験でも、良いものを造り出したいという意識は酒蔵には存在しており赤字スレスレでも造るという意欲も潜在的には存在していました。
しかし酒蔵側には「赤字スレスレで良いものを造ったとしても酒販店はそれを全量売ってくれるのか?売れなかった本数は返品するというような話なら絶対に乗れない」という酒販店側へ不信感も強く存在していたのです。
その不信感を払拭し酒蔵に動いてもらうためには、従来の常識を破壊した新たな売り方が必要でしたがそれが出来るのは酒販業界の❝常識の外側❞にいてなお且つ❝酒蔵の長所と欠点❞も理解しながらも、日本酒と日本酒を造る人達に深い愛情を持つ酒販店が存在することが絶対に必要だったのです。
そしてそのあり得ない酒販店の店主が早福岩男・早福酒食品店社長(現会長)だったことは、新潟淡麗辛口にも新潟の酒蔵にとっても幸運だったのです。

では早福岩男・早福酒食品店社長(現会長)が取った販売方法はどの様なものだったのでしょうか--------それは❝発想の逆転❞だったのです。

結論的に言うと、「酒蔵が全力(コスト、技術力の飛躍的増大も含む)で造った酒をすべて引き受けて売るにはどの様な仕組みが必要か」----------その視点から販売の仕方を❝組み立て❞た結果として、不本意な面や苦渋の決断があったと思われますが、従来の慣習や販売の常識を❝破壊❞し四十年以上たった今もなおその残滓が残る新たな販売方法を造り出し❝再生❞を図らざるを得なかったのです。


いろいろ忙しかったり春特有の体調のやや悪化も手伝い記事を書くのが遅れに遅れてしまいました。
この後新潟淡麗辛口が日本酒の❝再生❞を目指して実行した❝具体的手法❞を書いていく予定だったのですが、後輩などの❝身内❞から「更新が遅すぎる。いつ更新したか分からない」などクレームが多かったのでこの続きは、鶴の友について-6--NO2として早めにアップした上で同じように「長いブログのスタートです方式」ですべて書き終わらなくても書いた分だけ投稿していきますので、よろしくお願いいたします。

 

 

 

 

 

 

                             

 

 

 

 

 

 


鶴の友について-5--NO5

2019-10-06 19:07:08 | 鶴の友について
 


いつの間にやらかなりの時間が過ぎてしまいました。
今年の四月から、“まったく畑違いの職場”にフルタイム(当然前職より収入は低いですが)で再就職したこともあり、更新する余裕がありませんでした。
また平日の休みから土日の休みにかわったこともあって、通院とか各種の用事で意外と休みが忙しく時間が有るようで無かったのです。
落ち着いたら新潟の蔵に報告に行こうと思っていたのですが、いまだに、鶴の友にも〆張鶴にもお邪魔していません。
それでもようやく記事を書こうという気持ちが少しですが表面に浮上してきたので、私にとってはですが、短めに書いてみようと思います。



 



思えば不思議なもので、酒販店を離れてからほぼ三十年が経っているのですが当時取引があった(八海山、久保田を除く)〆張鶴、千代の光、鶴の友の蔵元、早福岩男早福酒食品店会長との人間関係がありがたいことに“当たり前のように”続き、盆暮れの挨拶とともに自分が中元・歳暮用使う本数プラスαを送って頂いています。
昭和五十年代初め私が最初に訪れた酒蔵は八海山でしたがそこから〆張鶴→→早福岩男会長(当時社長)→→鶴の友・千代の光と縁が繋がり拡大していったのは“運が良かった”としか言い様がありません----------なぜならそれは“日本酒のルネサンス”と後世から言われるであろう“新潟淡麗辛口の最前線”に意図することなく無自覚に足を踏み入れてしまったことを“証明”しているからです。
昭和五十年代初め~平成三年まで、県外の酒販店としては、取引先の新潟淡麗の酒蔵を訪れた回数が多い方の人間の一人だと思われます。
この時期この期間に、自分の目で、自分の耳で、自分の鼻で、自分の舌で見たり聞いたり利いたり味わった“経験と縁の蓄積”は自分にとって“一生の宝物”になっていると思われます--------なぜなら今の自分が自分自身だと思っている大部分がこの時期に形作られたからです。

さて最近、獺祭が原酒に加水(水を加えてアルコール度数を調整する工程)の際に攪拌を怠ったため12度~17度のバラバラな状態で瓶詰されてしまったとのニュースがありましたが、本当に呆れました。
年産200石(一升瓶換算20000本)の極めて小さな蔵であってもナショナルブランド(NB)の月桂冠のような量産メーカーでも『考えられない想定外のミス』だからです。
いかに大量に製造してようとも吟醸酒以上の酒しか造っていない酒蔵としては普通の酒蔵より厳しい管理が必要とされているのに、これでは普通の蔵以下の管理しかされていない、ごく普通の蔵が持つ酒造りに対する丁寧さと愛情が少ないのではないか、と疑われてもやむを得えません。
酒蔵の販売量が拡大して“ファクトリー化”すること自体にも個人的には疑義がありますが、“ファクトリー化”を選択した場合管理のレベルが数段階上がらなければならないのが当然であるべき流れです。
もともとは造る人の神経が隅々にまで届く量しか造っていなかった酒蔵が杜氏や蔵人の目が届かないほどの製造量の大規模拡大になった場合、温度管理、湿度管理を始め蔵内部、タンクなどの数値管理の出来る設備を導入し『ある程度の範囲内に酒質の低下を抑える』しかその酒の評価を守る方法がないのです。
その管理体制に穴があれば、たとえヒューマンエラーが原因だとしても、あるいはヒューマンエラーが原因のためゆえ、その銘柄の酒質への信頼は低下せざるを得ないのです。
このブログでは4~5年前から獺祭への“疑義”を書いてきましたが、残念ながら、今回のニュースは“その疑義”が間違いではないことの補強になっているのではないかと思われます---------。


 


私個人は“獺祭への疑義”はそれ以前から有りましたが、私自身は取り扱った蔵でも無かれば訪れたことも無い蔵だったため、このブログの記事には書くことを控えてきましたが、4~5年前にこのままでは〆張鶴や鶴の友のようなエンドユーザーの消費者にとって非常にありがたい蔵の『真摯な継続し続けている努力』が“獺祭への疑義”の影響で誤解されかねないという強い“危惧”があり、書かざるを得ないと痛感したのです。
エンドユーザーの消費者の一人に過ぎない私ですが、昭和五十年代初めから現在まで“日本酒の興亡”を眺める位置を場所を変えながらも維持してきました。
「このままでは地方の日本酒は生き残れない、いや日本酒そのものが生き残れない」という強い危機感が生み出した新潟淡麗辛口の“疾風怒濤の時代”を実際に体験してきた私ですが、“あの時代”は危機感と背中合わせであったとしても遠くに光が常に見えていました----------それゆえお粗末で能天気な私でも楽ではなかった状況から逃げなかった、逃げられなかったと思われます。
現在は私自身が酒販店として“味わってきた困難”より困難が多く遠くにすら“光”があるのか分らない状況にあると私個人は感じざるを得ないのです。

私が学生であった昭和四十年代後半には、大多数のエンドユーザーの消費者にとって、日本酒は『遠ざかる風景』そのものでした。
今振り返っても、当時のナショナルブランド(NB)や地方の酒蔵の大多数の造っていた日本酒は『清酒風アルコール飲料』と言われてもしかたがない存在でした。
テーブルに毀れるとべたつくその酒質と熱燗中心の“その飲酒スタイル”は、大多数のエンドユーザーの消費者とって「年配者のためのものであって自分達には関係ないもの」と思われており私自身もその例外ではありませんでした------------。
そんな私でしたが、昭和五十年代初めに“意図できない偶然の連続”で当時あまり知られていなかった『最先端の新潟淡麗辛口の最先端の蔵』にぶち当たり続けてしまったのです。
“日本酒に否定的な感情”を持っていた私だっただけに、『最先端の新潟淡麗辛口の最先端の蔵の酒質やその姿勢や情熱』に新鮮な驚きと感激があり、蔵に行く回数が増えるば増えるほど“情熱の一端と確信”が私の中にも生じ始めたのです。


 


私の中に生じた“情熱の一端と確信”とは、「軽くて切れの良い新潟淡麗辛口の酒質と蔵の姿勢は、かつての私自身のような日本酒に否定的な大多数のエンドユーザーの消費者にも必ず受け入れてもらえる」--------そのためには売る側も一人さらに一人と地道にこつこつ分ってもらう、ファンになってもらうたゆまない努力をし続ければ“その飲酒スタイル”は新しい時代のものとして評価され定着するという確信です。
“そんな確信”を持ったため私は昭和五十年代後半まで捨てる本数(文字どうりの廃棄や試飲用のばらまき)が少なくないという“苦戦”を続けるのですが、なぜか“確信”が揺らぐことはなくほんの少しづつですが私と同世代の新潟淡麗辛口のファンが確実に増え続け、一回り以上上の世代にも広がりを持ち始め100回続くことになる『吟醸会』へ繋がり「新潟淡麗のファンが新潟淡麗のファンを“拡大再生産”してくれる」流れになっていったのです。
昭和の終わりのころには、逆に、特に〆張鶴・純を中心に新潟淡麗辛口の“需要に対する供給”に苦しむようになっていました。
売っているより投げている本数が多かった時代から飲んで頂いた“庶民の酒飲み”の皆さんの必要本数を確保しながら、「ご自分の住む地域の正規取扱店では〆張鶴も八海山も売ってもらえないため遠くから来店される“庶民の酒飲み”の皆さんに買って頂く本数の捻出が難しかったからです。
売れない時代の“1本の有りがたさ”を忘れられない私としては出来るだけ対応したのですが、売れ始めた流れの中では“個人の努力”では限界がありましたが『業界としてサイレントマジョリティの庶民の酒飲みの要望に応えられない』という実態には強い危機感がありました。

需要に供給が追いつかないとき生産量の拡大、量産化を考えるのが“自然な流れ”だと私も思いますし量産化自体は好ましくないが私自身も否定ばかりするつもりはありません。
しかしこのブログの中でも何回も書いていますが『量産と酒質の高さの維持は相性が悪い』-----------私の経験では残念ながらそれが“事実”なのです。
新潟淡麗が昭和の終わりから平成の初めには強くあったエンドユーザーの消費者の支持が、残念ながら現在は縮小均衡の状況ですがその原因の大きな一つが口の悪い人に“新潟ナショナルブランド”と言われる一部の蔵の同じ時期のファクトリー化と量産化による“酒資の低下”にあると思われます。
“新潟ナショナルブランド”と言われる三銘柄は、私個人には、三十年以上前の丁寧な造りの酒質と比べればまるで違う酒質としか思えませんが、それでもファクトリー化と量産化から現在に至るまで今回の獺祭の呆れるようなとんでもないミスをする可能性は過去も今もありません--------------。

獺祭の“今回の事件”は原因がそれだけではないにせよ“ファクトリー化と急激な量産化の歪み”が大きな要因だと思われます。
獺祭と獺祭の取扱店は“今回の事件”についてあまり危機感がない------事実かどうか分りませんが私はそう聞いていますが一人のエンドユーザーの消費者の
私にとっては「獺祭の今後を左右しかねない“大事件”」だとしか思えないのです。

 


このブログでもくどいほど書いてきましたが、酒販店の役割は酒蔵とエンドユーザーの消費者との間を繋ぐインターフェイスだと私は思い私なりに実践してきたつもりです。
酒蔵の考えや大事にしていることをエンドユーザーの消費者の分る言葉に“翻訳して伝え”、エンドユーザーの消費の要望や率直な感想を酒蔵の人達の分る言葉に“翻訳して伝える”のがインターフェイスとしての酒販店の役割だと新潟淡麗辛口と共に昭和五十年代を過ごしてきた私は思っているのですが、思い上がりかも知れませんが、現在の地酒専門の酒販店はインターフェイスの役割を果たしているのかという“疑問”が私の中にはあります。
もし地方銘酒蔵(地酒の蔵)がサイレントマジョリティの庶民の酒飲み酒質や価格の要望を聞こうともせず吟醸や純米吟醸に力を入れ、サイレントマジョリティの庶民の酒飲みの要望などまるで考えない“プロダクトアウトの酒造り”をしていて、酒蔵に翻訳して伝えるエンドユーザーの消費者の要望がサイレントマジョリティの庶民の酒飲みの数パーセント以下の“日本酒通、日本酒マニア”のみの要望や希望だとしたら、本来の意味での日本酒を売る酒販店の役割を果たしていると言えないのではないかと私には思われます----------もしそうであれば地方銘酒(地酒)と地方銘酒専門店は、残念ながら、サイレントマジョリティの庶民の酒飲みから“遠ざかる風景”にならざるを得ないのではないかとの“強い危惧”が私にはあります。


このブログを読んでいる方で〆張鶴(村上市)千代の光(妙高市)、そして新潟市に行く機会があったらぜひ飲んでもらいたいお酒があります。
〆張鶴と千代の光は二百数十円のワンカップ(地元でしか販売していません)、鶴の友(ワンカップはありません)は一番価格の安い上白です。
飲んでもらえれば価格は安いが酒質のレベルは極めて高い、サイレントマジョリティの庶民の酒飲みにとって本当にありがたい酒蔵であることを“肌の感覚”で理解できると思えるからです、そして自分達の子供に“その幸福感”を味わってもらうためにも『将来に亘って残さなければならない貴重な酒蔵』であることを実感できると思えるからです-------------。




鶴の友について-5--NO4

2019-01-09 18:23:53 | 鶴の友について
 



昨年はあまり記事を投稿しないうちに慌ただしく過ぎ去ってしまいました。
短い記事であっても今年は出来るだけ投稿の数を増やそうと思っています。
私自身も昨年は一応会社員を卒業し、次の“仕事”を探している最中でもあるので今年は“投稿の間隔”を詰めていきたいとは思っているのですが、今までが今までなので“お約束”は出来ません。
また日本酒の業界を離れて四半世紀以上経つのですが、おかげさまで有りがたいことに今でも、私自身が関心のある“業界の情報”は入ってきます。
過去や現在を含め私自身が知っていることを『あからさまには書かない』という姿勢で“行間”を読んでもらうことに努めてきた方針は変えませんが、今年はもう少しだけ“踏み込んで”書いてみようかという気持ちもあります----------より“行間”を読み易くするために。

さて今回は酒販店について書いてみたいと思いますが、いつもとは違い、どのような酒販店なら今後も生き残れるのか、エンドユーザーの消費者にとって残って欲しい酒販店とは----------そうゆう視点で書いていきたいとと思います。


 


ビールメーカーや他のアルコール飲料のメーカーが激しく戦いを行なう主戦場は、コンビニ(CVS)、総合スーパー(GMS)、スーパー(SM)の“商品部”です。
目の前の商品部バイヤーと自社の商品を1アイテムでも多くCVS、GMS、SMの棚に送り込むため、商品部バイヤーだけではなくライバルメーカーとも厳しく激しい戦いを繰り返しています---------なぜなら自社の業績を左右しかねない販売量(全体の70%以上)をこの業態が占めているからです。
残念ながらごく一般的な酒販店は30%以下の需要を担っているのに過ぎないのです。
その30%も“町の酒屋”がすべてを占めているのではなく、居酒屋などの料飲店を主な得意先にする“業務用酒販店”が少なくない需要を占めておりここもアルコール飲料メーカーが直接営業の最前線にまで姿を見せ“戦っている戦場のひとつ”になっています。
つまり伝統的な一般の酒販店が生き残るための“生存可能空間”が今はきわめて狭く小さくなっている-------これが“町の酒屋”の現在の姿なのです。
さらに後継者難もあり“街の酒屋”は消えるスピードが加速しているのです。

では地酒専門店はどうでしょうか?
ビールを始め多くのアルコール飲料でCVS、GMS、SMに圧倒されている一般な酒販店が対抗するのが無理である以上、日本酒、焼酎、ワインのいずれかかあるいはすべてに活路を見出したい気持ちも姿勢も十分に理解出来るのですがそれは簡単なことでは無いと思われます。
日本酒を中心に焼酎を取り扱うタイプの地酒専門店が多いと思われそれなりに“健闘”していますが、たぶんアルコール飲料の需要層の1%以下にしか対応してないことと後述する“理由”のため、このタイプの酒販店も10~15年後という意味での将来は必ずしも明るいものでは無いと私個人には思われます。

実は鶴の友の地元である新潟市でもここ5~6年古くからの取引先の酒販店の休廃業が増えています。
鶴の友は、ごく一部の例外を除いて、もともと新潟市近辺にしか取り扱い酒販店が無くその店舗数も多いとは言えません。
しかし取扱店が少なくなったからといって新潟市内であっても新規取引をするお気持ちは鶴の友・樋木尚一郎社長にはあまり無いように思えますし、県外の酒販店と取引する考えはまったくと言ってよいほど無いように思えます。
それゆえ(蔵と住居が有形文化財であることもその要因の一つですが)鶴の友・樋木酒造は造る量が減ることはあっても増えることが無いのです。
〆張鶴・宮尾酒造も地元村上の酒販店の休廃業が増えている状況は変わりませんが、〆張鶴は一つの県あたりの取り扱い酒販店がかなり少ないにせよほぼ全国に展開しているため数量・売上にはあまり影響が無いとはいえ、地元の取り扱い酒販店の減少は憂慮すべき事態には違いありません。


 


上記のように一般的な酒販店が継続してゆくのは難しい状況にありますが、経営状況の悪化のみならず後継者が居ないという解決が難しい問題がさらに酒販店の休廃業のスピードを加速させているのです。
たぶん今までも一般の酒販店はかなり減ってきましたが、私個人の杞憂であれば良いののですが、今後はさらに現在の三分の一以下にまで減ってしまうのではないかと危惧しています。
気楽に入れて気軽な言葉を交わせる“町の酒屋”が消えていくことはエンドユーザーの消費者にとってもけっこう打撃が大きいのです。

CVS、GMS、SMは基本的に対面販売を省いた業態であり、売れ筋の商品群と『その売れ筋の商品群を活かすための商品群』を豊富に取り揃えPOSシステムを利用しリアルタイムで販売数を把握し商品の改廃、棚割の改変をシステム化しています。
ゆえに現在売れているもの、話題になっているもの、新製品は常に置いて有りますが気に入って買い続けていた商品がいつの間にか消えてしまうのです。
一般の酒販店では定期的に買いに来るエンドユーザーの消費者がいる場合、その商品がそんなに売れるものではなくとも廃番商品にならない限り棚に置き続けますし、要望があるもので棚に並んでいない商品でも取り寄せできるものはすぐに取り寄せます-------CVS、GMS、SMには出来ない接客を含めたきめ細かい対応が個人商店である一般の酒販店の持ち味なのです。
基本的に“免許制度”に守られてきた一般の酒販店の努力不足を私個人も否定できないのですが、同時に肌の感覚で感じてきた“その良さ”を否定できませんし、CVS、GMS、SMの価値と便利さも十分理解していますが買い物に行く選択がそれ以外に無いとしたら、エンドユーザーの消費者の一人でもある私にとっても、絶対に来て欲しくない“未来の事態”としか言いようがありません。

私は元々一般の酒販店の家に長男として生まれ“酒販店の空気”を吸って育ってきました。
本当に幼いころの記憶の中に、酒の樽やその樽に飲み口を付けるための穴を開ける三つ目の錐などの“景色”が微かに存在しています。
幼いころから学生のころまで“家業の酒販店”が嫌いで、「日本酒なんてものは21世紀には無くなる」と公言していたのに“真逆の現在の私”に私自身も苦笑するしかないのでですが、その原因は日本酒の世界、特に酒蔵にまるでタイムカプセルであるかのように埋め込まれている『受け継がれてきた過去の景色や光景』に強く惹かれたからだと思われます。
数多くの改良や改善を積み重ねてきたとはいえ江戸時代に確立した世界にあまり例を見ない“並行複発酵”の技法を今も日本酒の蔵が受け継いでいる以上どんな酒蔵でも(ファクトリーは除く)残り香のように受けついできた“景色”が存在しているのです。
蔵も住居も有形文化財である鶴の友・樋木酒造には確かにその“景色”は強く残っていて蔵の中で流れる“時間”は明らかに蔵の外とは違いゆっくり流れていますが、創業二百年を数え設備の充実・改廃に熱心な〆張鶴・宮尾酒造にも積極的にその“景色”を残していこうという強い“意志”を感じます。
“日本酒の世界”には他の業界・他の産業が成功発展のために失ってしまった“有形無形の景色”が今も色濃く存在しています。
そしてそれこそが日本酒と取り扱う酒販店の“最大の武器”だと私には思うのですが、その“最大の武器”をエンドユーザーの消費者の立場から見て有効に使えている酒販店の数があまりに少ないことにきわめて残念な思いを抱かざるを得ないのです----------------------------。


 


ではこの現状でも生き延び継続出来る酒販店(取り扱い銘柄の多さを誇る地酒専門店を除く)はどのような店でしょうか?
結論的に言うと、エンドユーザーの消費者から「あの店が無くなったら困る」と思って貰える酒販店です。
“無くなったら困る”--------そうエンドユーザーの消費者に思ってもらえる“理由”はいろいろですが簡単なことではありません。
地酒専門店では無いがこんな店なら日本酒を店の特徴にして生き残っていけるのではないか---------私個人が感じていることを以下に書いていきます。

この私の考えは土地が高い都会ではなく地方都市の例です。

1 できるだけ設備面をCVS、GMS、SMに近いものにする。

専門知識や商品による差別化より以前に、“戦える土俵造り”があります。
現状では設備面では酒販店は大きく負けていますが、なんとか不利でも戦えるレベルの設備が必要と思われます。
道路から建物を6~7mバックさせ駐車スペース(数台分でも絶対に必要)とし、出来れば入り口のドアは自動ドアにしドアの左右はガラス面で構成し
酒に直射日光に当たらないようなブラインドを取り付ける。
店の内部はなるべく明るく清潔にし、なるべく大きな冷蔵能力(リーチインではなくウォークインが望ましい)を持ち、倉庫にも2~3坪のプレハブ冷蔵  庫を持つ。

2 日本酒の品揃えについては地方銘酒は地元のものを含め5~10銘柄(ただし一番安いものから大吟醸まで扱う“縦のフルライン”)
  ナショナルブランド(NB)の日本酒は紙パックやパウチパックも含めある程度は取り揃える。
  ビールや他のアルコール飲料はウォークインクラーに入れることを前提に必要最低限+αを品揃えする。

基本的に地元を含む地方銘酒は自分がほれ込むあるいは自信の持てる酒質でなければなりません。
私がほれ込む基準は一番価格の安い酒(昔で言えば2級酒)の酒質のレベルの高さです、なぜならそれが美味ければ本醸造から大吟醸まで美味いに決まっ  ているからです。
“逆のパターン”は多いのですが、残念ながら、上記のような酒蔵は極めて希少なのです。
その希少な蔵の酒はどの酒を飲んでも美味くレベルが高いため全種類を取り扱う“縦のフルライン”を構成でき、エンドユーザーの消費者にとっても魅力的なバリエーションと感じてもらえます。
“縦のフルライン”を構成するためには、大前提として、酒蔵と友好的で日常的な“交流”が必須になります--------それゆえ数多い蔵には対処出来ないため5銘柄前後が取り扱う限界になるのではと私個人には思えます。

NBについては今まで記事でも何回も書いていますが、昭和五十年代とは別物と思えるほど酒質は向上しています。
月桂冠のきちんと造った本醸造などはレベルが高く、地方銘酒サイドも酒質的には安泰とも言い切れない状況です。
またNBは本醸造、純米、吟醸、大吟醸、山廃酛、生酛など“手造り方向”にも“資源”を投入し続けており、八海山、久保田、越乃寒梅の新潟ナショナルブランドや獺祭が“ファクトリー化”に投資してきたという“真逆の動き”には、私個人はため息をつかざるを得ません------------。
便利性、使用目的に沿った商品群、コストパフォーマンスの高さなどNBの“有用性”は否定できませんし、ビールや他のアルコール商品も酒販店として
必要最小限のアイテム数、数量で良いので取り扱うべきです---------日本酒を買いにきたついでに買っていくというエンドユーザーの消費者の利便性を
無視してはいけないと私個人は強く思っています。

3 エンドユーザーの消費者に日本酒の説明をするとき“酒造りの技法・専門用語の羅列”や『希少性、手に入り難さ』を語るのではなく、誰にでも分る『自分の言葉でその酒の価値、自分がその酒に注いでいる熱い気持ち』を話すべきだと私は強く感じています。

エンドユーザーの消費者が分るような言葉に“翻訳”して酒蔵がしていることを伝え、酒蔵の人々に分るような言葉に“翻訳”してエンドユーザーの消費者の要望を伝える『インターフェイスの役割』をするのが日本酒を主力にしている酒販店がすべきことだと私は感じてきましたし、現役の酒販店時代にはかろうじての最低合格点であったとしても、そのことを実行してきたという自負もあります。
本来は酒販店はエンドユーザーの消費者の“視点”を大切にすべきなので、“翻訳”するためにはエンドユーザーの消費者の“立ち位置”をよく認識すると同時に酒蔵や日本酒や酒蔵の人達の“置かれている状況”を理解し学ばなければなりません。
  
酒販店は酒を売る立場で造る立場ではないので酒の造りを杜氏や蔵人なみに知る必要はありません。
しかしその酒が価格の割りに酒質が高くエンドユーザーの消費者にとってきわめて得なものであると判断出来るレベルの知識の“現場での勉強”と利き酒の“訓練”は必要で、それがないと蔵の人に分かるような“言葉”でエンドユーザーの消費者の“要望”が伝えることは不可能です。
  
今でも「Nさんと話していると日本酒を飲みたくなりますねー」とよく言われます。
たぶん私がほとんど専門用語を使わず相手が分りやすい例えや比喩を駆使して「酒蔵の人達がどんな思いでどんな苦労を重ねて造っているか。美味い酒に  はどのような“要素”が必要か」日本酒と日本酒の世界が好きで好きでたまらない気持ち全開で話してしまうからかも知れませんがたいがいは「日本酒って面白くて楽しいものなんですねー」と言ってもらえます---------「一人の人間がそこまで好きになるのだから“今まで知らなかった魅力”がもしかしたら日本酒にはあるのではないか」そう感じてもらえるエンドユーザーの消費者を一人づつ時間がかかっても増やしていくことが酒販店にとっては致命的に重要なのではと“自分のキャリアと経験”ではそう思えてならないのです。 

*ちなみに私がよく使う“例えや比喩”をそのままパクッて説明に使っている酒販店の後輩が数人いますが「お客さんに分りやすいと好評」だそうで苦笑する するしかありません-----------。

 


さて上記の1、2、3ですがたぶんそれが実現できたらその酒販店をエンドユーザーの消費者は絶対に休廃業させないと思われます。
なぜなら休廃業されてしまったら自分達が困るからです。
思わず笑いがでるほど儲かるとは考え難いですがエンドユーザーの消費者から、普通に暮らし酒販店を継続できる売上は頂けるのではないかと思われます。
完全に1、2、3を実現しているとは言えなくてもその方向に向いてる酒販店の後輩は数人います。
楽でもなく苦労もありますが、“有名銘柄”を持っていないにも関わらず、彼らの店に足を運ぶエンドユーザーの消費者が少しずつですが時間の経過とともに増え続けています。
まだまだ足らない部分や修行不足の面があったとしても、彼らにとっては時間の経過が味方となっています。
彼らとは逆に数百種類を扱う地酒専門店にとっては時間の経過は敵になりつつあると思われます---------後でその理由を述べます。


私の子供は大学を出て就職して4年目ですが、友人や知り合いのほとんどは新聞も見なければテレビもあまり見ないそうです。
私が居た職場でも、休憩スペースには新聞も置いてありテレビも点いていますが、若手は休憩時間にはスマホやタブレットを見るのに忙しく新聞やテレビを見ることはありませんでした。
彼らにとってスマホやタブレットを見るのに忙しく新聞やテレビに割く時間がないそうです-------彼らにとって“必要で価値ある情報”は、新聞やテレビというネットの無い時代に隆盛を誇った『情報が一方通行のオールドメディア』の中には無く、あらゆるネットの空間にしかないのです。
私自身は新聞やテレビを見るのが当たり前の時代に育ってきたため今でも見てはいますが、2002年からPCでネットを見てきたので私自身も自分が必要としている“情報やファクト”が新聞やテレビの中にあるとは残念ながら言えません。
この日本酒エリアNというブログを2005年に書き始めたのも、新聞やテレビや雑誌で報じられる“日本酒の姿”に強い違和感があったからです。
何が言いたいかというと、現在の20~30歳代及びそれ以下の世代に“支持されていない”新聞やテレビのオールドメディアは10年、20年と年月を重ねるほど縮小均衡をしていかざるを得ないのではないかということです。

私の息子は小学生のときから新潟の蔵に行っており、大学生のときも社会人になってからも〆張鶴・宮尾酒造や鶴の友・樋木酒造に行かせて頂いておりまた幼児のころから盆暮れに届く酒や冬に送られてくる酒粕に慣れ親しんできました。
「ちゃんと飲んだら日本酒が一番美味いと思うんだけど--------」息子は本心からそう思っているのですが、学生時代のサークルの仲間にも社会人になってからもそう思える“同志的な仲間”はなかなか見つからないそうです。
NBの日本酒は学生が行ける価格の居酒屋に置いてあるので飲む人はそれなりに居るそうですが他のアルコール飲料を頼む人よりはるかに少なく、地方銘醸蔵の価格の高い吟醸、大吟醸、純米吟醸、純米大吟醸中心に据えている料飲店は敷居が高く、学生や若手サラリーマンが気楽に行ける料金ではありません。
昭和五十年代後半のどうしようもなかった逼迫状態よりは供給も十分に増えているはずなのに、今だに、知人から「〆張鶴・純を1合1200円で飲みました」といような話が聞こえてきます---------それでもDのような他の超有名銘柄よりはかなり価格が低かったそうです。
10~15年後この敷居が高く感じた世代がアルコール飲料の消費の中心世代になります。
そのとき地方銘醸蔵その吟醸や大吟醸を中心に販売する料飲店は現在の隆盛をはたして維持できていられるのでしょうか---------。

地方銘醸蔵の日本酒を主力に据える料飲店の主な仕入先は地酒専門店です。
今酒販店の中では“健闘”しており中には”隆盛を極めている”地酒専門店もあるやに聞いています。
「超有名な希少銘柄は、他の商品を買ってポイントを貯めその酒が買えるだけのポイントになったらようやく“購入する権利”が生じる」という店もあるそうで料飲店の方が殺到していると聞かされたこともありますが、私に出来るのは“ため息”をつくだけです。
上記の1、2、3のうち地酒専門店は1は出来ている場合が多いですが2は無く、3もあまり無いのではと私個人は感じています。

200銘柄(酒蔵の数)と取引があるとすると、1銘柄当たり5アイテムあるとすると約1000アイテムの日本酒を取り扱っていることになります。
1000アイテムの日本酒を、“酒造りの技法・専門用語の羅列”や『希少性、手に入り難さ』を語るのではなく、誰にでも分る『自分の言葉でその酒の価値、自分がその酒に注いでいる熱い気持ち』を話すことなど“能力の乏しい私”では不可能ですし、〆張鶴、千代の光、鶴の友の今でもお付き合いのある蔵そして過去に取り扱っていた八海山、久保田の5つの酒蔵の酒を約40年前から現在に至るまで、あたかも定点観測のように“定期的な利き酒”を頻繁に繰り返すことぐらいしか出来ません。
その5つの蔵の酒ですら造りの技法的側面(本醸造、純米、吟醸、大吟醸、山廃酛、生酛など)の違いだけでは説明できない要素がかなり有り、約40年前から数多く蔵を訪ね造る人たちの話を聞き続け会社員になっても利き酒を継続してきたため、「そう間違ったことは言っていないと思いますが、どこまで相手に伝わっているかは自信はない」のです。
むしろエンドユーザーの消費者には、「その蔵がどんな雰囲気の蔵で、蔵の人達が何を大切にし何を目指し、自分達が造る酒に何を込めようとして大変な努力をしているのか」をメインに話したほうがその酒の価値を十分に理解しファンになってもらえる----------それが私にとって酒販店時代、会社員時代を通して得た確信でもあり実感でもあるのです。

 


現在の20~30歳代及びそれ以下の世代に“支持されていない”新聞やテレビのオールドメディアは10年、20年と年月を重ねるほど縮小均衡をしていかざるを得ないのではないか--------そして地方銘酒を中心に据えている、若い層にとっては価格も高く敷居も高い、料飲店の将来もそうなのではないかと上記に述べました。
であればその料飲店の主な取引先である地酒専門店はどうなのでしょうか?
現在取引銘柄の多さや希少な超有名銘柄を抱え込み雑誌やマスコミに取り上げられた銘柄は素早く取引をする---------そういった要因で地酒専門店は健闘しており中には隆盛を誇っている店もあると私も聞いています。
前述したように「地酒専門店で希少な超有名銘柄を売ってもらうためには(他の酒を買ってポイントを積み上げ)その酒を買えるまでのポイントを貯めなければならない」------というようなシステムのある地酒専門店もけっこうあると聞いていますが、若い層のエンドユーザーの消費者にはとうてい受け入れてもらえない“やり方”です。
そして酒の説明も造りの技法的側面(本醸造、純米、吟醸、大吟醸、山廃酛、生酛など)がほとんどだということが“事実”であれば、“新聞やテレビのような情報が一方通行のオールドメディア”のように、時間の経過とともに、地酒専門店もそして地酒専門店を主たる取引先とする酒蔵も縮小均衡の状況が進行せざるを得ないと私には思えてなりません。

何回も記事に書いていますが、昭和五十年代初めには日本酒は若い層の消費者にそっぽを向かれ年配者専用の酒と思われ“博物館入り”しかけていました。
私自身もこのとき20歳代前半で、新潟県醸造試験場の嶋悌司先生(後に場長、朝日酒造常務を歴任)や早福岩男・早福酒食品店社長(現会長)一部の新潟の酒蔵が昭和四十年代後半から日本酒の“博物館入り”を避けるために「どんな酒質なら若い人達に飲んでもらえるか?変化した食生活に合う日本酒とは?」を各々の立場を越えて共通の努力をし意図的に造ってきた新潟淡麗辛口を目の当たりにし、考えが180度変わったのです。
「この酒質と“蔵の目指す方向”なら同世代にも飲んでもらえる」---------そう確信して『縮小均衡という博物館入り』を避けるための“戦い”に自ら参戦したのですが、最初の頃は“苦戦の連続”でしたが(むしろこの“苦戦の時期”に蔵との繋がりが強くなったのですが)4年、5年と経つうちに少しずつでしたが自分の同世代プラスマイナス5歳の“淡麗辛口のファン”が増え続け、平成になる頃には逆に“供給不足”の状況になってしまいました。
このとき“博物館入り”を防いでくれ日本酒のファンになってくれた“世代、年齢層”が現在も日本酒の厚い支持層として存在しています。
しかしこの“世代、年齢層”は酒を飲む層としては引退する時期は遠くありません。
この“世代、年齢層”が引退するまでに新たな日本酒のファンの層を獲得出来なければ、残念ながら、日本酒の数量がかなり減らざるを得ません。
さらに「NBが主体として日本酒の伝統・良さを継承して後世に伝えてゆくという時代になってしまう」という笑えない事態になってしまう可能性もあるのです。

新潟淡麗辛口が防いだ「日本酒の博物館入り」から約40年の月日が過ぎていますが、昭和五十年代初めより現在のほうが日本酒(特に地方銘酒)の「博物館入り」の危機の度合いが高まっていると私には感じられます。
昭和五十年代初めは製販の日本酒業界(特に新潟を中心にした地方銘酒)が「博物館入り」を防ぎ日本酒はエンドユーザーの消費者の身近にあるものと認識してもらおうと努力してきました。
しかし現在はその努力はNBが担い、地酒専門店(一部の料飲店も含む)や一部の地方銘柄の蔵はエンドユーザーの消費者から遠ざかり日本酒マニア・通というごく一部の需要に“特化”して“博物館化”に突き進んでいるように私個人には思えてなりません。
たとえ仮に1%の“狭い需要層”であっても全国が相手だから十分に集客できる---------地酒専門店の皆様はそう思われているのだろうと想像できます。
確かに全国あるいは都道府県の全体から“博物館のファン”を呼べれば“博物館”は盛況だと思われます。
しかし“博物館”は新たな“博物館のファン”が獲得出来なければ、月日の経過がマイナスに働き、10~20年後に“明るい未来”が待っているとは私個人にはとうてい思えません。
一般の酒販店には厳しい“淘汰の波”が押し寄せていますが、それは等しく地酒専門店や地方銘醸蔵にも訪れており現時点でどちらが“より大きい影響を受けた事態”になっているかの“差”でしかないのです。

私は酒販店全体がかなり厳しい状況であることを認識していますが、それでも一般の酒販店(町の酒屋)は前述の1、2、3の方向で、地酒専門店には「若い層のエンドユーザーの消費者にとって納得でき理解できる“販売方針を前面に押し出す”こと」で一軒でも多く生き残ってくれることを切望しています。
一人の日本酒のファンとしても、日本酒好きのエンドユーザーの消費者全体としても、日本酒を買いに行く選択がCVS、GMS、SM(価値と便利さも十分理解していますが)しか無いとしたら“日本酒を買う楽しさのある部分”がかなり薄まってしまったと感じるか、もしくは失われてしまったと感じざるを得なくなるからです--------------。








 
  

  
  



 


 




鶴の友について-5--NO3

2018-09-28 09:26:39 | 鶴の友について
 
 


思ったより書く期間が延びてしまい反省をしております。
記事を短く(私の基準ではですが)本数を多くと考えていたのですが“成功”はしていないようです。
出来るだけ本数を多く書いていくよう努めたいと思っています。

3月8~9日に新潟に行ってきました。
今回の同行者は鮨店・東屋の跡継ぎの光ちゃんとお馴染みのS高元研究員です。
1泊2日の予定なので8日の朝に出発し午前中に鶴の友・樋木酒造にお邪魔し、夕方瀬波温泉に移動し翌日朝から〆張鶴・宮尾酒造を見学させていただき午後に早福酒食品店・早福岩男会長のお話を伺った後に帰着-------というスケジュールでした。


 

午前中に蔵に到着した私達は、今回も、樋木尚一郎社長に蔵の中をご案内いただきました。
製造量の少ない鶴の友・樋木酒造は、温度が高かったため造りの入りを数週間遅らせた今シーズン(平成29BY)であってもこの時期には造りの終盤を迎えています。
杜氏歴16年樋口宗由杜氏(46歳)をトップに据えた鶴の友の酒造りチームには平成生まれのメンバーも存在し、文化庁の有形文化財に指定されている“歴史を積み重ねた重み”を感じる蔵の中で、“若々しく風通しの良さ”を感じされる“光景”を造り出しています。

 

 

有形文化財の蔵といえども私が最初に訪れた昭和五十年代から冷蔵設備は充実していました、なぜなら当時の吟醸酒のレベルを市販酒の本醸造で出来る限界まで実現させようというのが“新潟淡麗辛口のポリシー”だったからです。
最新鋭の冷蔵設備と比べると“古さ”は感じさせますが“蔵の外観”ほど古くはなく、鶴の友の酒質のレベルの高さが証明しているとうりの十分な能力を現在も発揮し続けています。
醸造量の差や蔵の規模の差による違いはありますが鶴の友や〆張鶴、千代の光のような“前進し続ける新潟淡麗辛口の蔵”にとって冷蔵設備は昭和五十年代初めから“必須”なのです。
今回も、少しでしたが、樋口杜氏にも“今シーズンの鶴の友”について伺うことが出来ました。
その後、樋木尚一郎社長の高校時代の同級生(某重工業OB)が定年後新潟に戻って開かれたお店で昼食をご馳走になり、ご近所の“名所”をご案内いただいた後の午後4時前に鶴の友・樋木酒造を後にし宿泊予定の瀬並温泉へ移動しました。

この樋木社長の同級生の方は“和服”を粋に着こなす茶人でもあり大変興味深い方でした。
現役時代は発電設備に使う大規模ボイラーなど取り扱う部署が長かったそうで、S高元研究員のかつての仕事と“かぶる部分”があり私にとっても慣れ親しんだ地元の大企業に関わる話だったので、時間を忘れるほど話が弾みました。
私の知る限りでも樋木尚一郎社長のお知り合いは魅力的な方が多いように思われますが、それも樋木尚一郎社長という存在ゆえなのかも知れません。
30数年前まるで“業界の未来が見える”ような“予言的な発言”を樋木尚一郎社長はされていますが、残念ながら、そのほとんどは現実になっています。
業界の多くの人がは否定し、私自身も否定したかったが否定できなかった業界自らにその原因がある“日本酒業界の危機”が、残念ながら間違いなく現実になっているのです-----------。

 

翌日宿泊した宿を8時過ぎに出発し8時20分ごろに〆張鶴・宮尾酒造に到着しました。
〆張鶴・宮尾酒造は、何回も書いているように、原則として関係者以外は見学は不可ですし関係者であっても蔵の内部は撮影禁止です。
上記の写真は、事務室と(醸造をするスペースという意味での)蔵の入り口の間にあった酒林ですが、宮尾行男会長の許可をいただき撮影しました。
この酒林を造るためには軽トラック1台分の材料(杉)が必要だったそうです。
2年ぶりの訪問ですが、いつもそう感じるのですが、宮尾行男会長の印象はあまり変わりませんが〆張鶴・宮尾酒造という蔵は常に変化しています。
今回も“川向う”の瓶詰め施設があるスペースに大型貯蔵用冷蔵倉庫が追加新設されていました。

1時間以上宮尾行男会長自ら蔵の中をご案内いただき懇切丁寧な説明もしていただきました。
その後事務室の反対側にある座敷で純のしぼりたて生原酒や宮尾行男会長が研究用に貯蔵しておられた“貴重な〆張鶴”を数種類試飲させていただきました。
数日前に栓を開けたという平成13BYの大吟醸も出していただいたのですが、私は本来の意味での“試飲”をしたのですが同行の二人は“試飲の解釈”が私とは大幅に違うようで、貴重な13BYの大吟醸がほとんど空になってしまいました。
4~5年前に平成元年BYの〆張鶴大吟醸を吟醸会で飲む機会があったのですが、残念ながら参加者が多かったため本当に試飲の量しか渡らなかったことがあるのですが、そのときの“敵を取とる”かのような勢いで飲み続ける二人の気持ちは分らなくはないのですが-------------。

〆張鶴の酒質は、誤解を恐れずに言うと、私は宮尾行男会長そのものだと思っています。
昭和五十年代初めから宮尾行男会長(当時は専務)の“根底”は少しも揺らいでおらず“印象”もまったく変わってはいません。
太平洋戦争時に国の政策で酒蔵が合併させられたのですが、戦後いち早く〆張鶴・宮尾酒造を分離独立させ独自の酒造りの環境を整えたのは故宮尾隆吉前会長ですが、その“土俵”で高い酒質を誇る〆張鶴の美味さを造り上げてきたのは宮尾行男会長だとしか私には思えません。
ありがたいことに私は約40年〆張鶴・宮尾酒造と宮尾行男会長に接する機会を与えられてきました。
“帰納法的”にあるいは“肌の感覚”でその年月の長さが、いくらお粗末で能天気な私であっても、理解させられざるを得ないことがあります。
宮尾行男会長は「穏やかで温厚な真面目な方」であることは日本酒業界に精通している方々にはよく知られた“事実”です。
“事実”ですが、鶴の友・樋木尚一郎社長とは形も質も違いますが、〆張鶴・宮尾行男会長の根底にも“頑固さ”が存在しています。
このブログの中でも何回も書いていますが、この“頑固さ”を見逃すと〆張鶴という蔵や酒を“本当に知る”ことが出来ない----------私の思い上がりの生意気な“感想”なのかも知れませんが、昭和五十年代初めから現在まで、そう感じてきました。
本醸造や純米の「どこも出ていないどこも引っ込んでいない、食べ物の邪魔をしないバランスの取れた美味さ」は酒の根底にある“芯の強さ”が支えているからこそ可能になるのです----------そして昭和五十年代より飲み続けているエンドユーザーの消費者に「〆張鶴・純か変わらないし飲みあきもしない」と言わせるのも“この頑固さ”があってのことなのです。

 

上記の写真は酒林のすぐ下に置いてあったもので、少し見にくいかも知れませんが向かって左から山田錦、五百万石、越淡麗が並んでいます。
各酒造好適米の特徴が分る貴重な“展示”だと思い、宮尾行男会長にお願いし撮影させていただいたものです。


数年前就職1年目の息子と一緒に〆張鶴・宮尾酒造にお邪魔したことがあります。
このときも宮尾行男会長は懇切丁寧に大改装が終わったばかりの蔵の中を案内していただき、その後座敷で貴重なお話を伺いました。
「純米酒を造るのは難しい。もっと美味くならないか、もっと良くできないかといろいろ“試験的な純米大吟醸”を造り続けてきてもこれで良いという酒にはなかなか出会えない」------------昭和五十年代初めから純米3悪(重い、くどい、しつこい)を“打破”し続けてきた〆張鶴・純を造り続けてきた宮尾行男会長の“言葉”は息子には強く深い“印象”を与えてくれたようです。

〆張鶴を代表する銘柄は昭和五十年代初めより〆張鶴・純でした。
その時代には純米3悪を打破した一線級の純米酒があまりにも少ないため、かなり早い時期より〆張鶴・純には“増産の要望”があり私も1本でも多くの割り当て増を切望した大勢の中の一人です。
この時代の吟醸酒のレベルを市販の本醸造で実現しようとしたのが新潟淡麗辛口のポリシーだったのですが、それを純米酒で実現させるのはさらに大きな困難が生じてきます。
本醸造の少量のアルコール添加はきちんと造られた淡麗辛口に“切れの良さと保管面の強さ”を与えてくれますが、アルコール添加の無い純米酒はすべての面でハードルが高くならざるを得ないのです---------もちろん「純米で造ることが主目的で美味さや飲みやすさが二の次三の次の純米酒」はそれなりにありましたが、「食べ物の味を邪魔しない切れを持つ飲みあきしない純米酒」は砂漠の中でダイヤモンドを探すような“希少な存在”だったのです。

いかに五百万石、協会10号酵母を使用しても淡麗タイプのきれいで切れの良い純米酒を造るのには困難があります。
そして純米酒には瓶詰め後の品質保持・保管の難しさもあり、“美味い純米酒”がエンドユーザーの消費者に届くのは“例外的な幸運”だったのです。
ではなぜ〆張鶴・宮尾酒造は〆張鶴・純を造りその酒質を維持し続ける(しかも少しずつであっても量を増やしながら)ことができたのでしょうか?
それはハード・ソフト両面で“造る環境”を出来るだけ向上させ続けてきたからです。
昭和五十年代初めから〆張鶴・宮尾酒造は蔵を訪れるたびに“蔵の何か”がいつも変わっていました。
宮尾酒造の道に面した入り口は今も昭和五十年代初めとその印象はほとんど変わってはいませんが、蔵の中は“別の蔵”と思うほど大きく変化しています。
私が最初行ったときと比べれば今は約3倍前後の醸造量になっていますが、平成に入って大増産をしてきた越の寒梅、八海山。久保田(朝日山も含む)と比較すると三分の一前後の数字でしかありませんが、一方で〆張鶴・純は精米歩合一つとっても60%から現在は50%に向上しています。
ふつう杜氏が引退して造りの体勢が変わった場合“何らかの影響”が酒質に現れるのですが、10年以上前の藤井正継杜氏の引退をそのときの〆張鶴・純からはまったく感じませんでした。
なぜなら昭和五十年代終わりより常に新潟清酒学校に社員を派遣し、1級、2級の酒造技能士の社員が長年藤井正継前杜氏と一緒に酒を造ってきたため前杜氏の引退の影響をあまり受けなかったからです。

鶴の友・樋木尚一郎社長は昭和五十年代前半に“現在の日本酒が置かれた状況”が見えていましたが(私自身がその当時伺ったとうりの状況になっています)、〆張鶴・宮尾行男会長も“違う角度の現在の日本酒が置かれて状況”が見えていました。
農閑期の農家の“出稼ぎ”に支えられた徒弟制度的な従来の越後杜氏が30~40年後に存在していてくれるのか----------それが社員杜氏・社員蔵人による酒造りという〆張鶴・宮尾酒造の“現在の体制”に繋がっているのです。
酒質を向上させ続けながら無理がない程度の増産----------それを可能にするために常に可能な限り“設備を新規投入・更新”をし酒造りの環境を向上させ社員杜氏・社員蔵人の能力と技術を向上し続けられる”仕組み”が絶対に必要になるのです。
以前に宮尾行男会長からこんなことを伺いました。
「蔵の中で使うバルブやポンプは普通の鉄のもの比較的安いのですが、錆びないようにとステンレスのものをオーダーすると10倍くらいの価格になってしまうので困るんですけどね---------」-----------私はその言葉が“象徴するもの”が〆張鶴・宮尾酒造の“凄さを感じさせる頑固さ”だと感じているのです。


 


〆張鶴・宮尾酒造のある村上市を昼前に出発し13時半に新潟市にある早福酒食品店に到着しました。
このブログを読んでくれて人には改めて説明する必要は無いと思われますが早福岩男会長の“本拠地”です。
私個人は昭和五十年代初めから何十回も訪れていますが、同行者と一緒に行くのは今回が初めてです。
早福岩男以前・以後---------という括りで語られるべき“酒販店の歴史のある部分”を変えた大きな存在だと私は思っています。
八十歳代半ばを迎えてもお元気な早福会長ですが“その成し遂げた仕事の凄さ”を正当には“評価”されていない-------私にはそう思えてならないのです。
そして早福会長の仕事の“成功”はよく知られていても、その“成功”のために払った“苦労と犠牲”はあまり知られてません。
私を含む早福会長に気にかけてもらった人間は、特に現役の酒販店関係者は、早福会長が何のためにあれほどの苦労をし犠牲を払って何を貫こうとしたかを“原点”に返ってもう一度真剣に考えることが、あるべき“将来の酒販店への姿”への遠回りのように見えても一番の近道だと私には思えるのです--------。

新潟淡麗辛口は昭和四十年代後半に『博物館に入りかけていた日本酒』を、昭和五十年代初めに当時の若い世代にとって身近な魅力あるに換えました。
現在の日本酒は現在の20~30歳代の若い層にはたして“身近で魅力的な存在”と思ってもらえているのでしょうか?
もし思ってもらえていないならば、私の世代前後のような昭和五十年代に日本酒のファンになった現在でも分厚い層が消える10~20年後に『博物館入りの危機』を再び迎えざるを得ないと思われます。
小手先の芸ではなく“真摯に若い層”に向き合わなければ製販の日本酒業界の将来は、きわめて個人的には残念なのですが、必ずしも明るいとは言えないのでは--------そう私には思われます。
鶴の友や〆張鶴、千代の光ののような小手先の芸ではなく“酒の本質”で勝負する酒蔵が一つでも多く増えて欲しい--------そう痛切に思う今日この頃なのです----------。
なぜならこのままでは甲東会に代表されるNBが、かつての新潟淡麗辛口のように、10~20年後『日本酒の博物館入りを防ぐ存在』になってしまうという“笑えない事態”が起きてしまう可能性があるからです------------。
昭和五十年代の地酒(地方銘酒)はNBのアンチテーゼであることがエンドユーザーの消費者に“価値”として評価され支持されました。
近い将来、エンドユーザーの消費者に身近でなく“自ら遠ざかる存在の地酒(地方銘酒)”のアンチテーゼとしてNBが“評価され支持される日”が訪れてしまうのではないかと危惧しているのですが、残念ながら、それは私一人の“杞憂”だとは思えないのです------------。




この記事も、いつものことながら、書き始めてかなり月日が経過しています。
その間に今回は予想もしなかったことが起きてしまい、なかなか記事に集中できませんでした(単に怠けていたとも言えますが)----------。
鶴の友の樋口宗由杜氏が違う蔵に移籍したり、自分の息子が入院したり、自分自身が体調を崩したりで思うようにいきませんでした----------。
そんな生活の中で先日郡山のH酒店H店主より残念な知らせが届きました-------尼崎の山本酒店・山本正和店主が亡くなられたとの知らせです。

私は山本さんとはH酒店H店主を通して知り合いました。
あることからよく電話させていただくようになりました、そして山本さんを通して大黒正宗という酒を知ることになったのです。
大黒正宗について--NO1という記事を書けたのも電話を通して山本さんに教えて頂いたことがいっぱい有ったからです。
あるいはかなりご迷惑だったのかもと今頃反省しているのですが、電話で長い時間いろいろなことを話し合いました。
早福会長も含め共通の知り合いのことや、山本さんが興味があっても直接知ることのなかった鶴の友や〆張鶴や千代の光、嶋悌司先生のことを中心にした久保田のことを私が話し、山本さんには大黒正宗や米百俵や関西の酒蔵や酒販店のことを主に伺いました。

北関東の田舎にいると、新潟に行くことと比べ、日程的にも費用的にも関西に行くのは負担が大きいため退職してからゆっくり行こうと思い山本さんとは一度もお会いすることが出来なかったのですが、今は“その判断”を後悔しています。
5年前に一度だけ山本さんと新潟ですれ違いました。
早福さんから山本さんが来ると伺い“時間が余っていた”私はお会いしたいと希望したのですが、早福さんが「山本は忙しいらしくおれの所にも着くのは夜になるらしい」と言われ断念したのですが(なぜさほどに忙しかったかは後日判明したのですが)残念なことでした。

早福さんの“哲学と実像”を良く知り、早福さんと同様に地元の酒蔵を大事に守りエンドユーザーの消費者に丁寧かつ親切にお酒の説明をし、豊富な体験がベースにあるワインの知識を駆使して消費者のお役に立っていた山本さんのような酒販店の店主はきわめて希少で一番求められていた存在だったので本当に残念です。
山本さん本当にありがとうございました、心よりご冥福をお祈り申し上げます。