NO1~NO4までで、鶴の友について私が思っているだいたいのことは書けたと言いたいところなのですが、まだそれはほんの一部にしか過ぎません。
ネット上や活字マスコミで語られている鶴の友は、私が知る鶴の友とはまるで違う蔵かと思うほど隔絶しています。業界の人達には、鶴の友の樋木社長のお話は理解され難いのが現実ですが、エンドユーザーの消費者には樋木社長のお話はきわめて明快で分かり易いものなのです。そして、鶴の友はエンドユーザーの消費者にとってきわめてありがたい蔵なのです。
現役の酒販店時代の私は、エンドユーザーの消費者の立場に立っているほうだと思っていました。しかし所詮”免許制度”で守られた業界の中での話にしか過ぎなかったのです。”免許制度”のない他の業界に身を置いた私は、そのことを嫌と言うほど痛感させられました。
現役のとき、私は鶴の友と樋木尚一郎社長を分かっているように自分では思っていたのですが、本当のところまるで分かっていなかったのです。その姿がおぼろげながら少し見えるようになったのは、自分自身が酒に対してはエンドユーザーの消費者の立場にたったことと、”販売職”として他の業界に身を置いたからです。
エンドユーザーの消費者の立場に立つというのは、物を作る人間や売る人間にとって簡単なことではありません。だからこそどこのメーカーや流通業でも、「お客様の立場に立つ」とのスローガンが”乱立”しているのです。もちろん、どこの企業も消費者の立場を無視しているわけではありません。しかしそれには限界があります。サラリーマンなら誰でも、「個人としてはそのとうりだと思うが、会社という組織の一員としては反対せざるを得ない」という状況に遭遇したことが何度もあるはずです。事実、利益を度外視し続けたら企業は成立しません。 我々は、残念ながら、利益を度外視し続けてもその”信念”を守る”頑固な職人”ではなく、組織の一員なのです。”頑固な職人”にあこがれと尊敬の念を持ってはいても、自分には無理だと感じているのです。
私が樋木尚一郎社長のお話を最初に伺ったのは、昭和50年代後半でした。そのときの私は、周囲に聞かされた話よりも親切な人だなぁ----程度しか感じていませんでした。残念ながら、組織の中には稀有の、利益を度外視し続けてもその”信念”を守る”頑固な職人的”な蔵元の前に自分が座っていることに、私はまったく気がついていませんでした。我ながら、本当におそまつとしか言いようがありません。 その当時私は、八海山、〆張鶴、千代の光を主力にしていました(といっても売るよりも投げる本数のほうが多い、情けない状況ででしたが----)。年間4~5回は新潟に行き、各蔵元や早福さんのお話を伺う機会が最も多かった時期です。
当時は、嶋悌司先生と早福岩男さんを軸にして越乃寒梅、八海山、〆張鶴、千代の光、そして鶴の友は親しい関係にありました。しかし、鶴の友は他の蔵とは明らかに違う(私は越乃寒梅とは縁がありませんので越乃寒梅は除いてですが)雰囲気がありました。新潟県の業界で語られる鶴の友は、”尊敬される”と”煙たがられる”を足して2で割ったような感じでしたし、それに”頑固”と”恐い”が付け加えられていました。
八海山、〆張鶴、千代の光は昭和50年代前半から、他を圧倒するほど酒質を向上させた”淡麗辛口”を武器に、東京を含む関東市場に”よく練られた計画”のもとに進出していました。現在ほど有名ではありませんでしたが、”地酒を売る”人間には知られた存在になっていました。昭和50年代後半には消費者にもよく知られた銘柄となり、関東以外の全国からも蔵に酒販店が殺到するような状況にまでなっていました。 その中で、酒質は他の銘柄に劣っていないのに新潟市近辺にしかその販売店を持たない鶴の友は、異彩を放っていました。他の蔵と同様に全国の酒販店が訪れていましたが、取引を求めた人が「うちの酒は、100年以上お世話になっている地元の人に飲んでもらうために造っている。都会や他の県の人に飲んでもらうために造ってるわけではないので-----」と断られることも、”地酒を売る”酒販店の間で”有名”でした。
商売にあまり関係ない”偶然”が私を、樋木酒造と樋木尚一郎社長の前に運んでくれたのですが、鶴の友の酒質への”驚き”が私を行動に踏み切らせました。たぶん、八海山、〆張鶴、千代の光を知っていたからこそ”驚く”ことができ、その”違い”の原因を知りたいという強い欲求を持つことができたのだと思います。
越乃寒梅に始まり久保田で終わる、私自身もその流れの中にいた拡大局面での”新潟淡麗辛口”は酒質の向上と売り方の変革がその”哲学”でした。鶴の友は、酒質の向上は果たしても売り方の変革は拒否し続けていましたが、当時も現在もそれは”酒の業界”では異端に近い常識外のことでした。たぶん、樋木尚一郎社長の信念の理解者は、”業界”の中にはほとんどいなかったはずです。業界の人間だった当時の私も理解はできていたとはいえません。理解はできてなかったのですが、本当に酒が分かる人ほど魅了される鶴の友の酒質は、樋木尚一郎社長の”戦い”があってはじめて成立していることは痛感しました。
業界の人間だった当時の私は、理解することが”恐く”てできなかったと言ったほうが正直なのかもしれません。樋木尚一郎社長の信念を理解してそれを自分の信念とすることは、今までの自分の行動や考え方のある部分を否定せざるを得なくなり、拡大局面での”新潟淡麗辛口”を取り扱ってきた”業界の人間”である私の、”政治的立場”を危うくするものだったからです。しかし同時に、エンドユーザーの消費者の立場から見ると、樋木尚一郎社長の”戦い”はきわめてありがたく、”庶民の酒飲み”を幸せにしているという事実は否定するにはあまりに重たいものでした。
拡大局面での”新潟淡麗辛口”の初期の主力の蔵は、関東を足がかりに全国の市場を目指していました。地元での需要を賄う数量しかなかった蔵が、関東に売る数量を生み出すにはふたつの方法しかありません。 ひとつは、造る数量を増やすこと。もうひとつは、地元の取引先を見直し県外に売る数量をひねり出す-----私の知る蔵は、拡大局面の初期には、ふたつを同時におこなっていました。
県外への”仕掛け”は、時間が経つほど成功していったのですが、皮肉なことにそれが逆に県内での”消費実態の無い需要”をも生み出し、数量の拡大が数量の拡大を生む展開が普通となり、ついにはエンドユーザーの消費者からナショナルブランドと同じような存在と見られるほど、拡大し切ってしまったのです。
企業としては業績の拡大は良いことである以上、その拡大のペースを自ら落とすことはまず不可能ですが、拡大には常に”危険”が伴っていました。 酒の品質と増産はきわめて相性が悪く、反比例する場合のほうが多いのです。残念ながら、いくつかの蔵の酒は28年前より手に入り易くなったかわりに、「これが同じ酒?」と思うほど酒質が変わっています-----そして、「言われているほど美味くはないなぁ」と感じる消費者が増えてしまうのです。
鶴の友は、初期からの”新潟淡麗辛口”の蔵でありながら増産も取引先の見直しも拒否してきました。30年以上前からの”新潟の業界”の拡大の流れの中では、”異端”でもあり”目障り”でもありました。
樋木尚一郎社長の”戦い”の理由を、ほんの少しだけでも理解できるようになれたのは、私が”業界”を離れエンドユーザーの消費者の立場になったからです。今の私は、樋木尚一郎社長の”戦い”のありがたさとその価値を享受している、嫌味なくらい恵まれた数少ない消費者の一人です。それゆえ、樋木尚一郎社長の”戦い”の貴重さを痛感し、鶴の友を絶対に無くしてはいけないと強く思う責任が私にはあります-----そのことをNO6で書くつもりです。