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新潟淡麗辛口の蔵の人々と”庶民の酒飲み”の間で過ごした長い年月
(昭和五十年代~現在)を書き続けているブログです。

鶴の友について--NO5

2006-07-09 23:44:29 | 鶴の友について

20057_032 NO1~NO4までで、鶴の友について私が思っているだいたいのことは書けたと言いたいところなのですが、まだそれはほんの一部にしか過ぎません。

ネット上や活字マスコミで語られている鶴の友は、私が知る鶴の友とはまるで違う蔵かと思うほど隔絶しています。業界の人達には、鶴の友の樋木社長のお話は理解され難いのが現実ですが、エンドユーザーの消費者には樋木社長のお話はきわめて明快で分かり易いものなのです。そして、鶴の友はエンドユーザーの消費者にとってきわめてありがたい蔵なのです。

現役の酒販店時代の私は、エンドユーザーの消費者の立場に立っているほうだと思っていました。しかし所詮”免許制度”で守られた業界の中での話にしか過ぎなかったのです。”免許制度”のない他の業界に身を置いた私は、そのことを嫌と言うほど痛感させられました。

現役のとき、私は鶴の友と樋木尚一郎社長を分かっているように自分では思っていたのですが、本当のところまるで分かっていなかったのです。その姿がおぼろげながら少し見えるようになったのは、自分自身が酒に対してはエンドユーザーの消費者の立場にたったことと、”販売職”として他の業界に身を置いたからです。

エンドユーザーの消費者の立場に立つというのは、物を作る人間や売る人間にとって簡単なことではありません。だからこそどこのメーカーや流通業でも、「お客様の立場に立つ」とのスローガンが”乱立”しているのです。もちろん、どこの企業も消費者の立場を無視しているわけではありません。しかしそれには限界があります。サラリーマンなら誰でも、「個人としてはそのとうりだと思うが、会社という組織の一員としては反対せざるを得ない」という状況に遭遇したことが何度もあるはずです。事実、利益を度外視し続けたら企業は成立しません。 我々は、残念ながら、利益を度外視し続けてもその”信念”を守る”頑固な職人”ではなく、組織の一員なのです。”頑固な職人”にあこがれと尊敬の念を持ってはいても、自分には無理だと感じているのです。

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私が樋木尚一郎社長のお話を最初に伺ったのは、昭和50年代後半でした。そのときの私は、周囲に聞かされた話よりも親切な人だなぁ----程度しか感じていませんでした。残念ながら、組織の中には稀有の、利益を度外視し続けてもその”信念”を守る”頑固な職人的”な蔵元の前に自分が座っていることに、私はまったく気がついていませんでした。我ながら、本当におそまつとしか言いようがありません。 その当時私は、八海山、〆張鶴、千代の光を主力にしていました(といっても売るよりも投げる本数のほうが多い、情けない状況ででしたが----)。年間4~5回は新潟に行き、各蔵元や早福さんのお話を伺う機会が最も多かった時期です。

当時は、嶋悌司先生と早福岩男さんを軸にして越乃寒梅、八海山、〆張鶴、千代の光、そして鶴の友は親しい関係にありました。しかし、鶴の友は他の蔵とは明らかに違う(私は越乃寒梅とは縁がありませんので越乃寒梅は除いてですが)雰囲気がありました。新潟県の業界で語られる鶴の友は、”尊敬される”と”煙たがられる”を足して2で割ったような感じでしたし、それに”頑固”と”恐い”が付け加えられていました。

八海山、〆張鶴、千代の光は昭和50年代前半から、他を圧倒するほど酒質を向上させた”淡麗辛口”を武器に、東京を含む関東市場に”よく練られた計画”のもとに進出していました。現在ほど有名ではありませんでしたが、”地酒を売る”人間には知られた存在になっていました。昭和50年代後半には消費者にもよく知られた銘柄となり、関東以外の全国からも蔵に酒販店が殺到するような状況にまでなっていました。 その中で、酒質は他の銘柄に劣っていないのに新潟市近辺にしかその販売店を持たない鶴の友は、異彩を放っていました。他の蔵と同様に全国の酒販店が訪れていましたが、取引を求めた人が「うちの酒は、100年以上お世話になっている地元の人に飲んでもらうために造っている。都会や他の県の人に飲んでもらうために造ってるわけではないので-----」と断られることも、”地酒を売る”酒販店の間で”有名”でした。

商売にあまり関係ない”偶然”が私を、樋木酒造と樋木尚一郎社長の前に運んでくれたのですが、鶴の友の酒質への”驚き”が私を行動に踏み切らせました。たぶん、八海山、〆張鶴、千代の光を知っていたからこそ”驚く”ことができ、その”違い”の原因を知りたいという強い欲求を持つことができたのだと思います。

越乃寒梅に始まり久保田で終わる、私自身もその流れの中にいた拡大局面での”新潟淡麗辛口”は酒質の向上と売り方の変革がその”哲学”でした。鶴の友は、酒質の向上は果たしても売り方の変革は拒否し続けていましたが、当時も現在もそれは”酒の業界”では異端に近い常識外のことでした。たぶん、樋木尚一郎社長の信念の理解者は、”業界”の中にはほとんどいなかったはずです。業界の人間だった当時の私も理解はできていたとはいえません。理解はできてなかったのですが、本当に酒が分かる人ほど魅了される鶴の友の酒質は、樋木尚一郎社長の”戦い”があってはじめて成立していることは痛感しました。

業界の人間だった当時の私は、理解することが”恐く”てできなかったと言ったほうが正直なのかもしれません。樋木尚一郎社長の信念を理解してそれを自分の信念とすることは、今までの自分の行動や考え方のある部分を否定せざるを得なくなり、拡大局面での”新潟淡麗辛口”を取り扱ってきた”業界の人間”である私の、”政治的立場”を危うくするものだったからです。しかし同時に、エンドユーザーの消費者の立場から見ると、樋木尚一郎社長の”戦い”はきわめてありがたく、”庶民の酒飲み”を幸せにしているという事実は否定するにはあまりに重たいものでした。

拡大局面での”新潟淡麗辛口”の初期の主力の蔵は、関東を足がかりに全国の市場を目指していました。地元での需要を賄う数量しかなかった蔵が、関東に売る数量を生み出すにはふたつの方法しかありません。 ひとつは、造る数量を増やすこと。もうひとつは、地元の取引先を見直し県外に売る数量をひねり出す-----私の知る蔵は、拡大局面の初期には、ふたつを同時におこなっていました。

県外への”仕掛け”は、時間が経つほど成功していったのですが、皮肉なことにそれが逆に県内での”消費実態の無い需要”をも生み出し、数量の拡大が数量の拡大を生む展開が普通となり、ついにはエンドユーザーの消費者からナショナルブランドと同じような存在と見られるほど、拡大し切ってしまったのです。

企業としては業績の拡大は良いことである以上、その拡大のペースを自ら落とすことはまず不可能ですが、拡大には常に”危険”が伴っていました。 酒の品質と増産はきわめて相性が悪く、反比例する場合のほうが多いのです。残念ながら、いくつかの蔵の酒は28年前より手に入り易くなったかわりに、「これが同じ酒?」と思うほど酒質が変わっています-----そして、「言われているほど美味くはないなぁ」と感じる消費者が増えてしまうのです。

鶴の友は、初期からの”新潟淡麗辛口”の蔵でありながら増産も取引先の見直しも拒否してきました。30年以上前からの”新潟の業界”の拡大の流れの中では、”異端”でもあり”目障り”でもありました。

樋木尚一郎社長の”戦い”の理由を、ほんの少しだけでも理解できるようになれたのは、私が”業界”を離れエンドユーザーの消費者の立場になったからです。今の私は、樋木尚一郎社長の”戦い”のありがたさとその価値を享受している、嫌味なくらい恵まれた数少ない消費者の一人です。それゆえ、樋木尚一郎社長の”戦い”の貴重さを痛感し、鶴の友を絶対に無くしてはいけないと強く思う責任が私にはあります-----そのことをNO6で書くつもりです。


鶴の友について--NO4

2006-07-03 00:45:03 | 鶴の友について

NO1~NO3で、鶴の友のおおまかな実像が少しは分かっていただけたでしょうか。

新潟市に、鶴の友とJリーグの新潟アルビレックスの熱狂的なファンの”ビジネスホテルの親父さん”がいます。ジーコがいたチームのある県の県民である私は新潟アルビレックスの件にはまったく関わりはありませんが、鶴の友の件については多少の”責任”があります。

昭和50年代半ばより酒販店として、新潟の酒に関わってきた私は、平成3年に”家庭の事情”で実家を出て今の会社に入ることになりました。入社直前のその年の3月に、お付き合いのあった八海山、〆張鶴、千代の光、久保田(朝日酒造)の各蔵元に、今までのお礼を申し上げるのと、”業界”を去る報告をするために新潟を回りました。

 取引は無かったものの、新潟市に行くたびに蔵におじゃましお話を伺っていた鶴の友の樋木尚一郎社長にも、ご迷惑にならない程度に最後に一言だけご挨拶をしてその足で、帰路に着くつもりでした。しかし、新潟県最終のその日お忙しい〆張鶴 宮尾行男専務(現社長)に午前中に少しお時間をいただき午後には新潟市へ移動する予定だったのですが、私の後にも来客のご予定のあった宮尾専務に代わって宮尾隆吉社長(故人)が別れを惜しんでくださり(大変にありがたいことで、今でも昨日のことのように覚えています)、新潟市に着いたときにはすでに夕方になっていました。

内野の樋木酒造にたどり着いたときには、もう6時を回っていました。遅くなったお詫びと今までのお礼を申し上げてすぐに帰るつもりだった私に、「Nさん、このすぐ先の寺尾にうちの酒のファンでビジネスホテルをやっている人がいる。お世話になっているのだが、私が泊まるわけにもいかない。ちょうどいい機会だから、Nさん、あなた私の代わりに泊ってくれませんか」と樋木社長が言われ、そうゆうことになってしまいました。

ホテルに行くまでの3~4時間食事を間に挟んでいろいろな話を伺い、私も自分でも驚くほど率直な本音を申し上げました。その最後に樋木社長はきわめてさりげなく、「Nさん、人の生き方にはいろいろあると思いますが、私は二つのことがあればいいと思っている。ひとつは、一生懸命に仕事をして女房子供を養う。もうひとつは、その仕事が人様に迷惑をかけないもので、ほんの少しでもいいから周囲の人のお役に立てる仕事であること。この二つがあれば私は生きていけると思っているんです」と、私が今でも忘れられない言葉を私に向けて言ってくださいました。

ホテルに着いたのは11時ごろだったと思います。このホテルの親父さんは元新聞記者(この時点ではまだ現役で二足のわらじを履いていました)で、大変面白くまたある種の”凄さ”のある興味深い人でした。朝から動き回り、宮尾専務、宮尾社長、樋木社長とお会いし話し続けてかなり疲れていたのに、なんと朝の3時までこの親父さんと話続けることになってしまいます。もともと鶴の友のファンだったこの親父さんに結果的に”新潟以外での評価”という視野と、その酒質の凄さの”客観的”評価を意図せずに与えてしまい、”火に油を注ぐ”結果となってしまったのです。 樋木社長も苦笑いせざるを得ないこの親父さんの”熱狂のステップアップ”を私が助けてしまったのです。

今でも、私が新潟市に行ったときの”定宿”はこのホテルです。だだ私ももう若くありませんので朝の3時は勘弁してもらっています(親父さんのほうがはるかに元気です)。

私はこの時、新潟には2度と来ないつもりでした。日本酒の世界から”足を洗い”完全に離れるつもりで、仕事も酒に無縁の職場を選んだのです。しかし、〆張鶴の宮尾さんや千代の光の池田さんの対応のやさしさに”揺らぐもの”が私の中にありました。その”揺らぎ”が最大になったのは鶴の友においてです。

〆張鶴や千代の光はご迷惑をお掛けするだけにせよ十数年のお取引がありました。しかし鶴の友はお取引も無く、ただ樋木社長にご迷惑をお掛けしているだけの”関係”だったのです。 樋木社長も、宮尾専務(当時)や池田常務(当時)同様に私の”悲壮な決意”を察していました。いかに曲げられない”家庭の事情”があったにせよ、十数年一緒にやらせていただいて成功を目前にしたこの時期に、”敵前逃亡”に等しい離脱をするのですから、もう二度と新潟の皆様に顔を会わせられないと私は”思い込んで”いたのです。これが最後と思って新潟に来ていたのです。

前述の樋木社長のお言葉は、その”私の気負い”を正面からは否定することなく、やんわりと包み込んで取り除くようなものでした。翌日、半分寝ている状態でチェックアウトをしようとした私は、支払いが昨日のうちに樋木社長によって済まされていることを知りました。

その足で再度蔵を訪ねました。宿代の件はまったく採りあってもらえず、そのまま本物の囲炉裏のある部屋で樋木社長のお話を伺うことになりました。 「Nさん、酒を売るのが仕事という立場から離れるのは悪いことばかりではないですよ。仕事だと、商売上の”政治的立場”やしがらみがあって、自分の本当の思いどうりには動けないことがあるでしょう。個人の趣味なら、本音だけで走れるでしょう。この十数年、Nさんは酒販店としても普通ではない経験とキャリアを積み重ねてきた。それで得たものがあなたの周囲の”庶民の酒飲み”の役に立つんじゃないですか。”ボランティア活動”としてあなたの知識を活かしたらいいんじゃないですか。そのための応援はもちろん私もするし、宮尾さんや池田さんもしてくれるんじゃないかなぁ」-----何回も何回も繰り返して、樋木社長は私に諭すように言ってくださいました。

現在の私は、”足を洗う決意”や”気負い”が本当にあったのかと自分でも疑うほど”ボランティア活動”にいそしんでおります、いつか”業界”に帰る日が来るだろうことを予感しながら-----。

樋木酒造の蔵と住居は、樋木社長といえども勝手にいじれない、文化財に指定されています。ゆえに残念ながら、鶴の友は減ることはあっても増えることの無い状況にあります。尊敬する大先輩の早福岩男さんがかつて、「鶴の友は建物以上に中に住んでいる人間のほうが、今の世にありえない文化財だ」と言われたことがあります。樋木社長にとって何の得もないマイナスでしかない私への対応ひとつとっても、早福さんの言葉は本当にそのとうりだと実感できます。矛盾が矛盾では無くひとつの酒の中に同居している、あの素晴らしく不思議な鶴の友の酒質は、酒の神様の樋木家の人達の”心の置き所”へのプレゼントだと私には感じられてなれません。

誤解を恐れずに言うと、すべての”庶民の酒飲み”に鶴の友を飲んでもらいたいと思っているわけではありません(量の限界があり事実上それは無理ですが----)。飲める人の数に限界があるがゆえに、新潟市以外の数多くいる”庶民の酒飲み”の中でも、本当に鶴の友の価値が分かる人だけに飲んでもらいたいのです。思い上がりかもしれませんが、それが私の本音です。このブログは鶴の友を飲むべき人で、まだ鶴の友に出会えていない”庶民の酒飲み”のために書いているのですから------。