日本酒エリアN(庶民の酒飲みのブログ)gooブログ版  *生酛が生�瞼と表示されます

新潟淡麗辛口の蔵の人々と”庶民の酒飲み”の間で過ごした長い年月
(昭和五十年代~現在)を書き続けているブログです。

〆張鶴について--NO1(分割再掲版3)

2014-10-22 17:27:32 | 〆張鶴について

OCNブログ人終了(11月30日まで)のためGOOブログに移行する準備
のため文字数の制限でカットされる記事を分割して再掲します。



私は何回も書いてるとうり、新潟淡麗辛口の「ブームのピーク以前」の平成三年に”日本酒の業界”を離れたため、日本酒バブルと言えた時期もそのバブルがはじけ焼酎ブームに押され続け、全アルコール飲料のシェアで焼酎の11.4%を大きく下回る7.6%にまで落ち込んだ現在に至るまで”日本酒の現場”を離れていたせいか、
「生きているタイムカプセルのように、久保田以前の昭和五十年代の”感覚”」が今も強く私には残っていて、それがかつて酒販店だった人間としても私を「ある意味で特殊な経歴を持つ、毛色の変わった人間」にしているのかも知れません。


昭和五十年代は、少なくても新潟淡麗辛口をその中心とした”地酒の蔵”と、エンドユーザーの消費者との”距離”が今よりも近く、私自身と同世代の若い層の日本酒のファンも少なくはなかったのです。
蔵と酒販店の関係も、人によりあるいは状況により”違い”があったにせよ、商売上だけのお付き合いだけではない人間対人間の”交流”があり、現在よりお互いの”距離”があまり離れていなかったように思えます。
時代が違う以上当たり前なのかも知れませんが、その昭和五十年代の視点で見ると現在の酒造・酒販の日本酒業界には、私個人は”違和感”を感じることが少なくありません。
その大きなひとつが「純米酒と生酛に対する考え方と評価」なのです。

私は昭和五十年代初めに〆張鶴 純 に出会ったのですが、その数年後には伊藤勝次杜氏の生酛を知り伊藤勝次杜氏の生酛単体での本醸造、純米の発売を強く蔵に要望することになります。
その当時は純米酒であることも生酛であることも「ステータスでは無い時代」で、純米酒そのものも現在よりはかなり少なくエンドユーザーの消費者にも知られておらず、強い”こだわり”を持つごく一部の蔵だけが造っていた純米酒しか、「飲んで美味いと思える純米酒」が無い時代だったのです。

純米酒を造ること自体はほとんどの蔵で可能だったと思われますが(実際にある程度の数量は造られていました)、酒化率が悪く高コストのため価格が高くなってしまうだけではなく、重くて、くどくて、しつこい-------ふつうに造ると”純米三悪”と言われたような”飲みにくい酒質”になりがちで、「糖類が添加されたNBの2級酒のほうがまだしも飲みやすくて美味い」と言われてしまうような状況だったのです。
その中の数少ない飲んで美味いと感じることが可能な純米も、瓶詰後の”美味さの保全”が簡単ではなく、”瓶詰め後の管理”に苦労があったのです。

〆張鶴 純 の”革新的新しさ”は、皮肉な言い方になるかも知れませんが、「純米という足を引っ張る”ハンデ”があるのに、あれだけ淡麗で綺麗な切れの良い酒を造れるのは凄い」という言葉で説明することが出来るのかも知れません。
しかも瓶詰め後の”管理”に苦労しなくてすむ”芯の強さ”も、〆張鶴 純 は併せ持っていたのです。


昭和五十年代半ばの頃と記憶しているのですが、宮尾行男専務(現社長)が珍しく苦笑を交えて、
「新規取引を希望されて蔵に来られる酒販店の方に、〆張鶴 純 は本当に純米で造っているのですか。
あの綺麗さと切れの良さは本醸造でなければ出ないと思うのですがと”質問”されたのですが、”もちろん純米です”とお答えしたのですが、私には思いがけない”質問”だったので----------」
と話してくれたことがあります。

この酒販店の方は、取引を求めて〆張鶴・宮尾酒造を訪れるくらいですから、他の蔵や他の純米酒をよくご存知だったからこその”質問”だったと、私には思えますし私にもその気持は少し分かるような気がします。
「軽快で、切れが良く、そっけないとは感じないまるみとやわらかさがあり、食べ物の味を邪魔もしないし、人間の体にも優しく酔いがさめるのも早い」-------これが新潟淡麗辛口に私が感じていたイメージなのですが、新潟の酒蔵といえどもごく一部の蔵でしか本醸造で実現していなかったイメージどうりの淡麗辛口を、その当時の一般的な”純米酒の造り”で実現させることには大きな困難があったからです。

「従来の日本酒のイメージを大きく破った淡麗辛口の、純米酒に有りがちな重さ、くどさや切れの悪さが無い純米酒らしくない純米酒」---------だからこそこの酒販店の方は、受け止めようによっては蔵元に対して失礼ではないかとも感じられる、無遠慮で素朴な”質問”をしてしまったと私には思えるのです。

誤解されると困るのであえて書いておきますが、私はこの当時も(現在もですが)新潟淡麗辛口だけが良いと思っていた訳ではありません。
もしそう思っていたなら、昭和五十年代半ばに南会津の國権や伊藤勝次杜氏の生酛の本醸造や純米酒を、苦戦しながらも売ろうと努力するはずもありません。
私が言いたいのは、昭和五十年代の新潟淡麗辛口は、エポックメーキング的存在であり酒造技術的側面においてもたとえごく一部の蔵だけであっても”最先端”を求め続けていた---------ということだけなのです。

昭和度五十年代前半に完成していた〆張鶴 純 の存在は、現在では当たり前と思える
純米酒のひとつの”基準”を造ったと、私は思っています。
その”基準”とは、平均精米歩合は60%かそれ以下の58%前後まで削り、清酒鑑評会用の出品吟醸酒の造りに準じた造りをしない限り、(淡麗辛口タイプだけではなくその他のタイプをも含めて)飲んで美味いと思える純米酒にはならない------という”基準”です。
その”基準に適合”した純米酒が、昭和五十年代後半から徐々に増え始め平成に入るとかなり多くなったのですが、残念ながら庶民の酒飲みの”晩酌で飲む酒”ではなくなり、”純米吟醸という形”で存在するようになったのです。
現在の〆張鶴 純 も純米吟醸となっています--------”純米吟醸という形”の中でもその高い酒質に比べ三千円強という価格は「きわめて安い」と思われますが、現在でも「毎日晩酌で飲めるほどの本数を確保」することのほうに大きな困難が存在しています。


昭和五十年代に比べると、現在の純米酒の”環境”は大きく変わっています。
灘、伏見のNBのみならず地方の地酒の蔵でも、「ワンカップの純米酒や紙パックの純米酒」を販売しているのは、現在は、さして珍しいことではなく普通の状況となっています。
エンドユーザーの消費者の間にも”認知度”が高くなり、日本酒(清酒)というカテゴリーの中で、今は、「半分とまではいかないが、三分の一くらいは独立した”分野”」として”純米酒という分野”が存在しているかのような印象を持つ人達が増えている---------そんな感じを私自身は持っています。

純米酒の数量が増えフィールドが拡大している事実は、純米酒という”分野の中”に酒質的にも価格的にも販売可能数量的にも、”ぴんきりの差”が拡大し”玉石混交の度合い”が拡大していることを意味していると思われるのですが、その中でどんなレベルの、どんなタイプの、どんな銘柄の純米酒を選ぶかで、「ご自分の個性や”酒に対する考え方”を表現”できる」ことがある程度可能になるほどには、”純米酒の世界”は拡大し成長してきたのではないか------とも私には思われるのです。
そうでなければ、南会津の細井信浩専務の國権のように約600石の販売石数の50%以上が純米吟醸、純米酒で占められている蔵が存在するはずもないのです。
かつてより純米酒を”愛飲”する人達が増えていることは、私自身にとっても喜ばしいことなのですが---------。

私自身が直接見聞きしたり、ネット上に公開されたブログで拝見させてもらった「純米優先主義、純米至上主義」の方々のご意見は、私自身が完全に同意することは難しくても、ひとつの「好み、あるいは考え方」としてあることは、私も十分理解できます。
しかし、純米酒を愛飲する層のごく一部には、「純米酒以外は本物の日本酒(清酒)とは言えない」--------あたかも「純米原理主義のような極端な意見」と私には思える、「好み、考え方」を持つ方もいらっしゃるようですが、この方々の意見には私自身は弱くない”違和感”を感じます。

昭和五十年代前半に比べ現在は、純米酒の販売石数が飛躍的に伸びているだけではなく、純米酒の酒質が全体としてかなり向上していることは、おそまつで能天気な私でも十分に理解できます。
しかし、「純粋、自然、本物、本来の、混ぜ物の無い------」などのあたかも”健康飲料”をイメージするような言葉で語られる”純米酒”と、「昔からの、日本酒本来の伝統を受け継ぐ、本物の酒」という表現で語られる”純米酒”には、私自身は少し”違和感と抵抗”を感じているのです。



以下の私個人の”考え”は、”屁理屈”に近いのではと私自身も感じる面があるのですが、昭和五十年代初めから純米酒を見せてもらってきた私自身の、正直な”感想”でもあるのです。


日本酒(他のアルコール飲料も同じですが)は、飲み方を誤れば身体を悪くし命を危うくする可能性もある、アルコール依存症の危険性もある、「健康食品や健康飲料そのもの」ではないと私は考えてきました。
正しい飲み方・楽しみ方をすれば、「面白くて楽しいだけではなく、『酒は百薬の長』と言われるように健康増進や健康の維持の役に立つ日本人の身体に優しい日本伝統のアルコール飲料」-------それが私が感じてきた”日本酒の姿”なのです。

「昔からの、日本酒本来の伝統を受け継ぐ」------この”昔から”の昔がどの時代までを含めているのかはよく分からないのですが、もし明治四十年以前の時代をも含むとしたら、「現在の純米酒のほとんどは『日本酒本来の伝統を”完全に”受け継いでいる』」とは言い難い面が私はあると感じています。

ごくごく一部の生酛の純米酒以外の現在の純米酒のほとんどは、速醸酛かあるいは山廃酛で造られていると思われます。
醸造試験場において、山廃酛が開発されたのが明治42年、速醸酛の開発は明治43年だったと私は記憶しています。
酛(酵母の培養液)という造りの根幹をなす部分に大きな変更が加えられている以上、明治四十年以前の生酛で造られていた純米酒と現在の純米酒がまったく同じものとは、私には思えないのです。
もし「昔の造り方を寸分違えずに受け継ぐことが”伝統の継承”」だとしたら、現在の日本酒は”伝統を継承”していないことになり、純米酒もその例外ではない-------ということになると私には思われるのです。

では、ごくごく一部の生酛の純米酒はどうでしょうか。
確かに生酛純米は、現在の日本酒の中では一番”伝統を継承”していると言えるのかも知れません。
しかし、私は酒販店を離れて以来”業界の情報”に疎くなっているためか、”家付き酵母と言われる野生酵母”で現在も造られている生酛の純米酒を私は見たことがありません。
私が昭和五十年代半ばに、酒販店としてその発売に関わった伊藤勝次杜氏の生酛の純米酒も、純粋な培養酵母である協会7号酵母を使っていたと私は記憶しています。

明治40年から市販が始まり昭和三十年代に一般的になった、野生酵母とはまったく違う純粋に培養された協会酵母の”目的”は、「酒であるが、造りに失敗し酒とは言えない状態」--------腐造の可能性の低減と、酒質の”再現性”の追及にあったと私は伺っていました。
協会酵母は”酒質の再現性と酒質の向上”に大きく寄与したと思われますが、明治40年以前には存在していないため、協会酵母を使用したとするなら、生酛の純米酒も「完全には”伝統を継承”している」とは、私には思えないのです。

私個人の個人的考えに過ぎませんが、現在の日本酒は”速醸酛、山廃酛、協会酵母”のいずれかの”恩恵”を受けている以上、純米酒であろうとなかろうと生酛であろうとなかろうと、濃淡の差が大きくあろう少なかろうと、「明治40年以前の造りを寸分違えずに受け継ぐという意味での”伝統の継承”」は行なわれていないと------屁理屈に近いと自分自身でも感じるのですが-------私にはそう思えるのです。

「伝統を受け継ぐということは、先人の ”デットコピ-”をすることではない。これでもか、これでもかと ”ぶち壊そう”としても ”ぶち壊せない”ものが伝統なんだ。伝統を受け継ぐには ”熱い気持ち”が必要なんだ。酒としていくら立派でも、博物館に入ってしまったら意味が無いんだ」-----嶋先生に伺った ”全文”はこのようなものでした。

これは、私が2005年8月に書いた「長いブログのスタートです」の博物館の項目からの引用です。
http://blog.goo.ne.jp/sakefan2005/d/20050831


私は若いころ、この嶋悌司先生(元新潟県醸造試験場長、元朝日酒造専務)の”伝統の受け継ぎ方”のお考えを直接伺って以来、この”伝統の受け継ぎ方”の信奉者でそれは今も変わっていません。
その”考え方”を、〆張鶴 純 に代表される新潟淡麗辛口、伊藤勝次杜氏の生酛、南会津の國権を昭和五十年代から平成の初めにかけて販売してゆく中で、”消化し受け止められる点”だけでもおそまつで能天気なりに”実践”していこうとしてきた私にとって、”デットコピーの伝統の継承”の考え方は”屁理屈”に近いものなのです。
その”屁理屈”に近い考え方をあえて述べたのは、現在の純米酒に対する”風潮”への批判や攻撃のためではありません。

この記事の前半に長々と書いた、知名度も低く売れない時代からの”〆張鶴 純”に対する私自身の取り組み方で、純米酒に”私なりの強い思い”があることをご理解いただけたと思います。
私は純米酒だけにしかない”面白さや楽しさ”を、私なりに承知しているつもりですが、それでも”純米酒だけにこだわる”のは『もったいないのではないか』--------そういう気持で述べさせてもらったのです。

「純米酒が好きだ」、「自分が飲みたい日本酒のNO1は純米酒だ」、「自分は、純米酒が日本酒の”本流”だと思うので純米酒をなるべく飲みたい」--------こういうご意見には、私は”違和感も抵抗”もまったく感じることはありません。
しかし、「自分は、純米酒以外は本物の日本酒(清酒)とは言えないと思うので、純米酒以外の日本酒は飲まない」---------まるで「純米原理主義」のように私には思える意見には、”違和感と抵抗”を少し感じますが、それ以上に「本当にもったいないことだ」と思ってしまうのです。

もし「純米酒以外の日本酒を飲まないとしたら」、〆張鶴ひとつをとってみても、昭和五十年代から評価の高い〆張鶴大吟醸も、(再発売は難しいと思えますが)かつて飲んだことある人間の記憶の中に今もその印象が強く残る”幻の〆張鶴”である活性生も、フレッシュな新酒段階のしぼりたて生原酒も、価格と酒質のコストパフォーマンスがきわめて高い〆張鶴・吟撰も飲めないことになり--------美味い酒に出会ったときの酒飲みの「喜びと楽しさ、そして幸せな気持」を、結果として自ら狭い範囲に”限定”することになるからです。

日本酒エリアNの中で何回も書かせていただいている、早福岩男会長と早福豊社長のお店である早福酒食品店は、新潟淡麗辛口のファンにとっては”楽園”のような酒販店ですが、同時に量がきわめて少ないため新潟清酒の中でも購入することが、一番難しいと思われる鶴の友がふつうに買える数少ない酒販店のひとつです。
私が早福さんのお店に行って、鶴の友の唯一市販されている大吟醸の上々の諸白が棚に並んでいるのを”発見”したら、財布の中身が寂しくても、買えるだけの本数を買います。
そして、「その日の大幸運を神様に感謝」します。
たとえ早福酒食品店といえども、棚に並んでいる日がほとんどない上々の諸白に次いで数量の少ない、鶴の友の特撰、純米を”発見”したら「その日の幸運を神様に感謝しながら」、たぶん私は特撰を買えるだけ買うと思われます。

鶴の友・純米は、純米吟醸に格上げされた昭和五十年代の”基準”を超えていながらも、二千円台の半ばの価格の純米酒として販売されているありがたい日本酒です。
鶴の友全体に共通する、量が少ないために手に入れ難いという”欠点”があるものの、この価格帯の純米酒としては全国でも稀有のレベルにある純米酒だと、私個人は感じています。
しかしそれでも私は、純米ではなく特撰を選ぶと思われるのです。
なぜなら上々の諸白と酒質的な差のあまり大きくない鶴の友の特撰は、8000円~10000円の標準的な市販の大吟醸と比べても、その酒質で引けを取っているとは思えない”超お買い得商品”であるだけなく、鶴の友の稀有とも言える特性が純米酒より強く本醸造の特撰(別撰も上白も本醸造です)に感じられると私には思えるからです。

電話でお話させていただく機会は少なくないのですが、早福岩男会長にも早福酒食品店にもごぶさたしている年月が長くなっているのですが、12月の早福酒食品店に行けたら私は何を買うかという”幸せな迷いの中”に浸ると思われます。

財布の中に2~3万円のお金があれば、
鶴の友は、まず上々の諸白を1本、そして特撰を1~2本、別撰1本、
〆張鶴は、純を1~2本、しぼりたて生原酒を1本、さらに吟撰を1本、
千代の光は、吟醸造り1本、しぼりたて生原酒(ふなぐち)を1本、特別本醸造を1本、
たぶん私はこの組み合わせの中から”選ぶ”と思われるのですが、想像するだけで「わくわくするような幸せな気持」になります。

この銘柄の純米酒、あの銘柄の純米吟醸、次はあっちの銘柄の純米大吟醸-------そうゆう” 横の楽しみ方”もあると思うのですが、たとえば、「いつも飲むのは上白か別撰、純米があるときには純米も飲むし、お中元、お歳暮の時期には特撰、12月には上々の諸白を絶対に飲む」--------鶴の友の市販酒のすべてを飲む”縦の楽しみ方”もあると思うのです。
私は、鶴の友、〆張鶴、千代の光の三つの蔵の市販酒の”縦のフルライン”を出来る範囲で飲んで30年以上楽しませていただいていますが、その”面白さと楽しさ”はむしろ時間が経てば経つほど深まってきたような気がします。

また時おりですが、かつて私が取り扱っていた八海山も飲ませていただき、30年前の”自分の舌が覚えている八海山”と比べて楽しませてもらったり、現在も(池田哲郎社長にはお叱りを受けると思うのですが)千代の光のしぼりたて生原酒を5~6本”0度Cという低温”で3~6年貯蔵保管しており、新酒のフレッシュさと比較して「低温で酵母が押さえ込まれ熟成のスピードが極端に遅くなったことで実現する丸みとやわらかさ」も楽しんでいます。

日本酒の”楽しみ方”は、純米酒に限りませんが飲んだ銘柄の数を追う”横の楽しみ方”だけなく”縦のフルライン”の楽しみ方もあれば、”時間を遡る”楽しみ方もあれば”時間の経過を楽しむ”楽しみ方もある--------いろいろな楽しみ方があり”間口も広ければ奥行も深い”と私個人は感じているのです。
それゆえ、まるで”純米原理主義”のように私には思える意見をお持ちの方々が、せっかく広い間口と深い奥行を持つ”日本酒の楽しみ方”を、狭い”領域”に限定していることが『もったいない』と思う気持が、私個人には強くあるのかも知れません。



この記事の冒頭に書いたとうり、私は、純米酒至上主義者でも純米酒否定論者でもありませんが、ここまで書いてきて改めて実感していることがあります。
昭和五十年代初めに〆張鶴 純 と出会い、昭和五十年代半ばに伊藤勝次杜氏の生酛の純米の誕生に酒販店の人間として立ち会えたことが、私にとってきわめて大きな幸運であり、大きな出来事であったことを改めて痛感しているのです。

ある意味で”対極”にあると言え、またある意味では”共通の部分”をも持つとも言える
〆張鶴 純 と伊藤勝次杜氏の生酛の純米の存在は、単に若いだけではなくとんでもなく”おそまつで能天気”だった私の、現在の純米酒そして日本酒についての”感じ方、考え方”への方向を示したくれた”大きな道しるべ”だったと思えるからです。
そして出会った”時期”、出会った”順番”をも考えたとき、長い時間が経過した今でも感謝せざるを得ない心境になるのです。
もし”時期そして順番”が違っていたら、純米酒、そして日本酒についての今の私自身の”感じ方、考え方”とは大きく違ったものになっていたと、現在の私はそうはっきりと”自覚”しているからです。
そして、「想像できる大きく違った”感じ方、考え方”」より、現在の私の純米酒そして日本酒についての”感じ方、考え方”のほうが私自身が”好ましい”と思えるからです-----------------。
そして、それゆえ現在も私は、〆張鶴・宮尾酒造と〆張鶴 純 に感謝の気持を持ち続けているのです------------。




〆張鶴について--NO2に続く(ただしいつになるかは私にも分かりませんが---------)

 

 


〆張鶴について--NO1(分割再掲版2)

2014-10-22 17:17:44 | 〆張鶴について

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白いレッテルが貼られ白い化粧箱に入れられていた〆張鶴 純 の”外側”は、その”中身”と高い次元でバランスしていた-------そんな思いが今でも私には強く残っています。
白い箱と白いレッテルに目立つように印刷されていた”純の字”は、故宮尾隆吉前社長がご趣味だった水彩画用の絵筆を使って書かれた-------私にはそう伺った記憶が残っています。
中身の酒質と外装が高い次元でバランスし”渾然一体”となっていた〆張鶴 純 に、私が感じたものは伝統を受け継ぎながらの「新しさ、それも革新的な新しさ」だったのです。
三十年以上の時間が経過した現在も、その中身と外装の”コンセプト”が変わっていない〆張鶴 純 がまったく”古びていない”事実が、出会った最初に感じた「革新的な新しさ」が間違いでなかったことを証明している-------私にはそう思えるのです。

”時代の風”が〆張鶴 純 にとって追い風になる------私はそう確信していたのです。
大苦戦をしていることが、北関東の地方都市のH市まではその”追い風”がまだ十分に届いていないことを証明していましたが、時間の経過が”味方”になることを私は強く意識していたのです。
また、〆張鶴・宮尾酒造の製造石数、特に全体の10%以下でしかなかった純米酒の増石には限界があることを”認識”せざるを得なかったため、”追い風”を誰もが認識できるようになる時間との”競争”で、〆張鶴 純 の”割り当て実績”を現時点の地元H市の〆張鶴 純 のファンだけではなく”将来のファンのため”にも、一本でも多く獲得しなければならないことも、私は強く意識していたのです。

全体の量が10%しか増えないとき、あるいは”悪平等”なのかも知れませんがいくら増量の要望があろうとも、昨年の実績に対して一律10%のアップしか”現実的な方法”はありません。
年間300本の実績の10%アップは30本で合計で330本、年間1000本の実績の10%アップは100本で合計1100本になります---------蔵自体が動きが取れない完全な逼迫状況になったときの年間割り当ての330本はどうしようもない本数ですが、1100本なら少ないなりに(来店されるお客様のご希望どうりには対応できないまでも)何とかすることができます。
それゆえに、なるべく早く年間1000本の”壁”を破る必要性を、私は強く感じていたのです。

私が〆張鶴・宮尾酒造と取引をさせていただいた最初の年から、下半期は月30本の割り当てになりました。
「このままの状況だと12月までで酒が1本も無くなってしまいますので---------。」というやもを得ない理由だったのですが、”追い風”が私の店に届くより前に〆張鶴 純 の逼迫が迫っていたのです。

取引を始めさせてもらってからの半年の間に、私は〆張鶴・宮尾酒造を3回訪れていました。
おそまつで能天気な私は「自分が何も知らないこと」を自覚していましたので、今思うと大変なご迷惑をおかけしたのではと反省しているのですが、初歩の初歩のようなことも含め「自分が知りたいことを」宮尾行男専務(現社長)、宮尾隆吉社長(故人)に質問し教えていだだいていました。
そして村上の帰りには必ず新潟市に回り、早福岩男早福酒食品店社長(現会長)に新潟淡麗辛口の銘柄のことだけではなく、その新潟淡麗辛口を「どのように売っていくか」-------その当時の酒販店の常識では逆立ちしても考えられなかった「町の酒屋としての生き方」も教えてもらっていたのです。

”大苦戦”の中での”下期割り当て”の知らせを聞いたとき、自分の”確信”を現実に近づけるため、(今思うと大袈裟で穴があったら入りたい心境になりますが)やれるだけやってみようと覚悟をしたのです。


以前に何回も書いていますが、私の”実家”であったN酒店は”ごく普通の酒屋”で、ご多分に漏れずビールや月桂冠に代表されるNBの日本酒を中心にそれなりに売っていました。
規模も大きくもなく小さくもない”ごく普通の酒屋”だったのですが、私で三代目という”歴史”もあり、それなりに評価されていたと思われます。
その”ごく普通の酒屋”であるN酒店の店頭の「一番良い場所」に、〆張鶴や八海山を持ち込んで並べたのは、私の反抗でもあり”私の居場所”を造るためであり、将来を見越した「酒販店として差別化」がその理由ではなかったのです。
そして〆張鶴や八海山、早福酒食品店を訪れるためによく新潟県に行ったのも、”仕事上の出張”と言うよりも「期間、場所限定の家出」と言ったほうが実態に即していました。
この「期間、場所限定の家出」は短い場合でも4~5日で長いと一週間になったのですが、
それだけ私が店に居なくても、N酒店の営業に支障がでなかった”事実”が、この時期の私の”存在の軽さ”を証明しています。

月桂冠や剣菱を買いに来て、〆張鶴や八海山の話を長い時間聞かされたお客様も”閉口された”と思われますが、ごく少数の〆張鶴や八海山を知っていてN酒店に来店されたお客様も大量の灘、伏見のNBの中に”同列に置かれている”のを見て”面食らった”と思われます。
このときの私にあったのは、たぶん、熱意とその熱意を良いほうに”誤解”してくれるきわめて少数の理解者だけだったのです。

”追い風”がまだ私の住む北関東のH市までは届いていないという”事実”は、裏を返せば、月桂冠に代表される灘、伏見のNBがブランドとしての戦闘力を保持していて、まだ売れることを意味していました。
しかし〆張鶴・宮尾酒造や早福岩男さんとの「言葉のキャッチボール」の中で、そう遠くない将来に灘、伏見のNBがブランドとしての戦闘力を失い価格競争に巻き込まれていくことを、おそまつで能天気な私でも予想できていました。

まだビールやNBの日本酒が、”普通の価格”で売れているという状況が続いているうちに、〆張鶴 純 を将来の柱にするための”最初の関門”の年間1000本の実績を全力で取りに出なければならないことを、〆張鶴・宮尾酒造の「下期割り当てのお知らせ」が、私に教えてくれたのです。


売れる本数を売っているだけでは、数年で1000本の壁を越えることは到底出来ません。
「下期割り当て」が終了した翌年の4月~9月に昨年の実績を大幅に上回る数字を、私は発注したのです。
当時は新潟淡麗辛口といえども需要の中心は冬場であり、春先から夏は不需要期になり〆張鶴・宮尾酒造の取引酒販店といえども需要が落ちるため、蔵には僅かですが余裕が生じることもあってオーダーどうりの数字ではないにせよ、出来る限り実績を超えた本数を蔵は送ってくれました。
私はその〆張鶴 純 を来店するお客様だけではなく、親戚・縁者・友人・知人を問わず事情の許す限り「試飲してもらう人の拡大」に使わせてもらったのです。

そしてまた”下期割り当て”がやってくるのですが、その冬にはまだ”実績割当”になっていなかった〆張鶴活性生、〆張鶴しぼりたて生原酒をできるだけ発注し「試飲してもらう人の拡大」に使ったのですが、季節限定ということもありまた生原酒は売れ残っても冷蔵保存(0~2度C)すればその”魅力が向上”することも手伝って、配ることは配ったのですが予想以上に反応が良く”冷蔵能力の不足”に襲われる結果となってしまったのです。

かなり以前に発売中止になり現在飲むことの出来ない〆張鶴活性生は、飲んだ人の記憶の中だけに存在する、「幻の〆張鶴」と言えるのかも知れません。
ざっくり言うと、〆張鶴活性生は、「絞る直前の醪を瓶詰め」したものです。
ほとんど、仕込み中の蔵に行かなければ飲めない醪と同じもので、発生し続ける炭酸ガスを抜くために瓶の栓の王冠に”穴”を開けて出荷されていた”要冷蔵必須品”だったのです。
高い温度に置いておくと、たとえ栓に穴が開いてようと”増大する炭酸ガスの圧力”で栓が天井にまで”吹っ飛ぶ”管理が楽ではない日本酒なのですが、その爽やかな風味には今でも忘れられない魅力がありました。
いろいろな事情があり、再発売は難しいことは私自身も承知しておりますが、私の周囲からは仕込みの時期になると必ず、「昔のように〆張の活性生を飲みたいなぁ----」との声が聞こえてきます。
「直接お会いする機会があれば超限定で、輸送もクール便で着くと同時に冷蔵庫に保管という条件で再発売していただけないかと宮尾行男社長にお願いしてみようと考えてはいるけど、その実現は難しいかも--------」と答えることしか私には出来ないのです。

その後私は、冷蔵能力増強のため、0~2度Cの温度を保持する2坪のプレハブ冷蔵庫を設置し、上半期は〆張鶴 純 を冬場は活性生やしぼりたて生原酒を蔵から送って頂けるだけ冷蔵庫に入れ続けることになるのです。
しかしそれも長くは続かなかったのです。

昭和五十年代終盤になると、〆張鶴は取り扱い全アイテムが完全な”年間割り当て”にならざるを得ないほどの”逼迫状況”に蔵は追い込まれていました。
私の店でも、大吟醸、特級、1級、2級の本醸造、純のみならず、活性生、しぼりてて生原酒をも含めた「完全な年間月別数量割り当て」の状況下にありました。
しかし昭和五十年代前半からの「売れても売れなくても実績を拡大するという”方針”」のおかげで、〆張鶴の販売数量自体は関東の他の正規取扱店と比べて極端に多くなくても、純と活性生、しぼりたて生原酒の割り当て数量が他の正規取扱店に比べてかなり多いという状況にありました。
料飲店との取引ももちろんゼロでありませんでしたが、エンドユーザーの消費者の庶民の酒飲みを中心に販売しようとしていたため、元々取引がありかつ最初の頃から取り扱っていただいた少数の料飲店以外は〆張鶴を販売していなかったたため、以前からのお客様には迷惑をかけずに済んでいましたが、きわめて強く吹き始めていた〆張鶴への”追い風”が運んでくれた「〆張鶴 純 を求めて来店される”新規のお客様”」への対応には苦慮することとなったのです。

〆張鶴 純 は高くなったその知名度と”希少な美味い純米酒であること”と、需要に対する供給量の少なさも手伝って、エンドユーザーの消費者とっては、正規取扱店段階で実感している”逼迫状況”よりもかなりひどい”逼迫状況下”」にあったと思われます。
「〆張鶴 純 は、たとえ正規取扱店であっても酒販店で”買える酒”ではなく、料飲店で”お一人様二合まで”という限定条件で飲む酒」-------残念ながら、多くの庶民の酒飲みの”実感”はこのようなものであったと思われます。
私の店に来店された”新規のお客様”も、〆張鶴 純 の名前や”その中身の美味さ”を知っていても、白いレッテルが貼られ白い箱にはいった”その外装”を見たことのない人がほとんどだったのです。

この時期、夏であっても〆張鶴は純だけでも月100本以上入荷し本醸造も含めると200本以上入荷するようになっていましたが、7~8月の夏場でも本醸造には若干の余裕はありましたが、純は苦しい状況になっていました。
夏場の入荷本数は、11月~1月の最大需要期のための”ストック”の意味合いで全量2坪の冷蔵庫で”冷蔵保管”するのが、”本来の目的”でした。
その酒造年度により違いはありましたが、毎年5%から10%の間くらいの昨年度実績に対する”プラスされた本数”はあったのですが、もともと11月~1月の実績本数は「需要に対応出来るほど多くなかった」ため夏場の実績を”冷蔵保管によってスライドさせて”補っていたのです。

しかし新潟淡麗辛口は、八海山や千代の光も含めて”冷やして飲む需要”も多く、
「冷やして飲むなら冬場も美味いが夏場もより美味い」------という声が多くなり、冷蔵保管の0~2度Cの温度が家に持ち帰っても家庭用冷蔵庫で冷やすのと同じくらい”冷えている”ことも手伝い、”ストック”が難しくなるほど売れるようになってしまったのです。
その状況下に、「〆張鶴 純 を求めて来店される”新規のお客様”」が増え始め、私はさらに苦しい局面に立たされたのです。

「酒は面白くて楽しいもの」、「酒は庶民の楽しみ」、「酒が庶民の楽しみである以上、酒を造る人間も酒を売る人間も庶民の立場に立たなければいけない」、「鶴の友は長い間お世話になっている地元の人に飲んでもらうために造っているのであって、都会や県外の人のために造っているつもりはない」---------鶴の友・樋木尚一郎社長の考え方を、”知識あるいは理屈”として理解することは難しいことではないのかも知れません。
たぶんほとんどの人は、積極的な否定はしないと思われます。
しかしそれを”知識や理屈”では無く、日常的でごく当たり前の”肌の感覚”として捉えることはきわめて難しく、鶴の友・樋木尚一郎社長の「ごく当たり前の日常」を見せていただいた私はまるで「何の準備も心構えも無く軽い気持で来てみたら、目の前にアイガー北壁があった」ような”心境”で、最小限の消極的肯定ですらおそまつで能天気な私には大変な”困難”に思えたのです。

上記は、鶴の友について-3--NO1(http://blog.goo.ne.jp/sakefan2005/d/20090902)の引用です。


この苦しい局面に立たされたとき、私は鶴の友・樋木尚一郎社長が私に教え続けてくれていた考え方を、ほんの僅かですが”肌の感覚”で捉えることが可能になり始めたのかも知れません。

「〆張鶴 純 を求めて来店される”新規のお客様”」のお住まいが”都会であればあるほど”、酒販店で普通の価格で買うことが難しい状態にある事実は、残念ながら私も十分承知しており(日本酒のファンの一人として)お気の毒だとも思っていました。
〆張鶴の看板を掲げた酒販店である以上、何とか対応したい気持も弱くはなかったのですが「売る本数より投げる本数のほうがはるかに多い」ときから支持してくれ、その支持を年を経るごとに拡大再生産してくれた、私にとって大切な地元のエンドユーザーの消費者である庶民の酒飲みのための本数を削ってまで対応することは、私にはとうてい出来ないことだったのです。

私の店の”地元のお客さん”は、昭和五十年代初めより〆張鶴 純 の販売を支えてくれたのですが、それは〆張鶴 純 が有名だったからでもなく純米酒だったからでもありません。
その時点では私の地元H市では無名に近かった、〆張鶴 純 の伝統を受け継ぎながらの”革新的な新しさ”を認め支持してくれたごく少数の同世代の人達と、私の熱意そのものを「応援し育ててやろう」と手助けをしてくれた私の周囲の兄や叔父さんにあたる世代の人達の好意的な応援があって始めて「売れても売れなくても実績を拡大する”方針”」を私は取ることができ、その私にとって本当にありがたい人達の地元における”好意的応援の拡大再生産”が私の店の「〆張鶴の逼迫状態」を造りだしてくれたのです。

この時期から〆張鶴、八海山もその酒質よりも手に入り難い希少性、言い換えれば”幻しの酒的部分”に評価の対象が移り始め、新潟淡麗辛口も、
「地に足の着いた需要から、ブームあるいはバブルと言るかも知れない、急拡大していくと予想できた”足場の弱い不安定な需要”」にその照準を合わせ始めたように、今の私には感じられます。
その象徴的な出来事が、朝日酒造の”久保田の発売”だったように私には思えます。

良いとか悪いとかではありませんが、私自身が体験してきた昭和五十年代初めからの”時代”と久保田が発売された昭和六十年以降の”時代”では、日本酒の世界の片隅にいた自分自身の”実感”では大きな違いがあるように思えます。
久保田以前(の世代)、久保田以後(の世代)という言葉を私はブログの中で何回も使わせてもらっていますが、私が新潟淡麗辛口を知ることになって僅か十年で新潟淡麗辛口は大きくその姿を変え酒造・酒販の日本酒の世界全体も大きく変化したと、私には思えてならないからです。

自分の好きなもの(あるいは商品)は時間が経っても変わることはあまりありませんが、売れるもの(商品)は時間の経過とともに変わっていきます。
昭和五十年代自分の好きなものであった新潟淡麗辛口も、昭和六十年以降は売れる商品になっていましたが、私自身もその流れに逆らわずにそれなりに”適応”していましたが、”人の縁”が原点だった私は新潟淡麗辛口を”売れる商品”としての存在だけではなく、やや大袈裟に言うと、私自身のある種の「考え方、スタンスを表現することが出来る存在」としても捉えていたように思われるのです。


〆張鶴について--NO1(分割再掲版1)

2014-10-22 17:12:17 | 〆張鶴について

OCNブログ人終了(11月30日まで)のためGOOブログに移行する準備
のため文字数の制限でカットされる記事を分割して再掲します。



20057_011_2

おそまつで能天気な私ですが、一人の日本酒のファンとして感じ続けていることがあります。
あくまで私個人の個人的な意見に過ぎませんので、大したことがない「毛色の変わった人間の、毛色の変わった”感想”」と思っていただき、気軽に見ていただければ助かります。
ただ、相変わらず”長い作文”ですので、”お急ぎの方”はパスしていただいたほうが良いのかも知れませんが-----------。


純米酒雑感(昭和五十年代前半の〆張鶴 純 からの視点)

前回、鶴の友におじゃましたとき、樋木社長より、こんなお話を伺いました。 吟醸酒にこだわる ”マニア、あるいは酒通”の方が ”運良く”新潟市の料飲店で鶴の友の吟醸の「上々の諸白」を偶然に飲まれて(実際これは本当に運が良い)、蔵に電話してきたそうです。 「おたくの吟醸酒は本当に美味いが、私には納得できないことがある。あれほど美味いのになんで純米吟醸じゃないのですか」-----樋木さんは、丁寧な説明もしたのですがご本人は最後まで納得されなかったそうです。 私に言わせていただくとそれは、”大馬力の高価格のスポ-ツカ-”のスピ-ド違反車を捕まえるためにイギリスやイタリア、フランスが高速道路に配備しているスバル インプレッサWRX、WRX STI を普通車やミニバンの価格で出しているメーカーの世界ラリ-選手権を実際に戦うWRカーを、「なぜ、クラウンやシーマじゃないのか?」と言ってるようなものです。 ご本人も ”お気に入り”の純米吟醸と直接比較して飲めば一瞬で分かることなのですが-----。  

これは私が2005年8月に書いた「長いブログのスタートです」の一部です。
http://blog.goo.ne.jp/sakefan2005/d/20050831

かなりの冗談と笑いを含んだ様子で細井専務は、「Nさんにお叱りを受けるかもしれないが、私は純米酒が日本酒のベースだと考えていますので、私のところでは純米、純米吟醸の合計が全体の50%以上になっています」と、あからさまではないが”自負”も感じさせる口調で話してくれました。
私は苦笑しながら、「私は”純米至上主義者”ではありませんが、”純米否定論者”でもありません。純米酒を否定しているのなら30年も〆張鶴 純 を飲んでいる訳がない。
ただエンドユーザーの消費者のサイドから見て、いろいろな理由で本醸造がベースなのではないかと思っているだけです」と返答しました。

30年前と変わらない600石という数字の中で酒を造り続けていくためには、単価を上げていくのがひとつの方法であり自然な流れです。
その中で何種類かの純米、何種類かの純米吟醸、何種類かの大吟醸などを少量多品種で売り切って1本あたりの単価を上げると同時に売れ残りのリスクを低減する-------地酒として生きていこうとする小さな蔵にとって、國権に限らず多くの蔵にとって、確かに有効で効率の良い方法です。
しかしその方法は、従来からの酒のファンや酒のマニアには有効だと私も同感しますが、他のアルコール商品と”戦い”若い需要層を増やしていく”反攻”には、必ずしも有効とは言えず、総需要の拡大には繋がらないのではないのか-------という危惧も私自身は感じざるを得ないのです。

鶴の友の上々の諸白(大吟醸)、特選、純米には酒のファン・マニアからも高い評価があり、数量の少なさもあり新潟市以外の県内・県外で最も手に入りにくい新潟淡麗辛口の酒になっていますが、鶴の友の最大の価値は、二千円以下の価格であり鶴の友の中では一番下の販売価格の酒で一番数量のある上白(本醸造)が、特に日本酒のファンでもないごく普通のエンドユーザーの消費者に、飲む機会さえあれば、その美味さとコストパフォーマンスに”驚きに近い”高い評価を受けている点にあると私は思っています。
〆張鶴は鶴の友に比べやや価格が高いが、(鶴の友と比べれば販売数量が圧倒的に多いため飲める機会を得る人も桁違いに多く)鶴の友への評価と似たような評価をするエンドユーザーの人数が鶴の友より圧倒的に多いように思われます。

鶴の友・樋木酒造も、〆張鶴・宮尾酒造も”少量多品種”とは縁が無い、30年前とほとんど変わっていないシンプルな”商品構成”を守り続けています。
鶴の友も〆張鶴も、「鶴の友の何々が美味い、〆張鶴の何々が良い」ではなく、
「鶴の友だから美味い、〆張鶴だから良い」という銘柄全体への評価をエンドユーザーの消費者から受けている、と私は感じています。
そしてそれは昭和四十年代後半の、「地酒としての鶴の友はこうあるべき」という鶴の友・樋木尚一郎社長の”頑固なまでの信念”が鶴の友の酒質に反映し、「どんな状況でもこれを失ったら〆張鶴ではなくなる」------”企業”としての成長と”酒蔵であり続ける”ことのバランスを、〆張鶴・宮尾行男社長が苦心しながら常に取ってきたことが〆張鶴の酒質に反映しているからだ、と私には思えてならないのです。

これは國権について--NO4の一部です。
http://blog.goo.ne.jp/sakefan2005/d/20090404



上記のふたつの引用のとうり、私は純米酒至上主義者でもなければ純米酒否定論者でもありません。
飲んで美味いかどうかが私にとっては一番”大切”で、その美味い日本酒が純米か本醸造なのかという”区別”はあまり気にしていない-------と言ったほうが”正確”かも知れません。
私のような財布の中身に”余裕”のない庶民の酒飲みにとっては、「その酒の美味さとその酒の価格のバランス」が一番重要だからです。

現在に比べると、はるかに純米酒が少なかった昭和五十年代前半から”純米酒の状況”を見てきたせいか、単に酒化率が悪いためその価格が高くなってしまうだけではなく、造りも造った後の”酒質保全”にも気を使わなければならず、なおかつエンドユーザーの消費者に届いた段階で「保全された美味さと価格のバランス」が取れている純米酒があまり多くないという印象が、まるで”後遺症”のように私には今も少なからず残っています。
特に新潟淡麗辛口においては、この時期、本醸造で”実現できている酒質”を本醸造と大きくは変わらない価格で”実現”できている純米酒は、本当に”希少”だったのです。

この時期、酒販店としてもおそまつで能天気な私が、”発見”できたこのレベルの純米酒は、「〆張鶴 純 」だけでした。
当時の〆張鶴 純 は八海山や〆張鶴の本醸造との価格差も小さく、ナショナルブランド(NB)の月桂冠の一級酒との価格差もあまり大きなものではありませんでした。
確か2200円~2300円くらいだったように記憶しているのですが、現在とは違い当時は〆張鶴といえどもその知名度も高くなく、北関東の地方都市のH市ではその名前を知っているエンドユーザーの消費者はきわめて少なく、最初の数年は「売る本数より投げる本数のほうがはるかに多い」大苦戦の状況だったのです。

それでも私が、〆張鶴 純 の実績を拡大し続け、売ることを諦めなかったのには理由があったのです。

現在も高い評価と高い知名度を誇る〆張鶴 純 は、この昭和五十年代前半にはその酒質の根幹が完成していたと、私個人は、そう感じています。
新潟県産の酒造好適米の五百万石を中心にした米を精米歩合60%にまで削り、粕歩合が40%以上になってしまうほどの低温長期の醪で造りだされたこの純米酒は、当時の関東信越国税局や国税庁醸造試験場の清酒鑑評会用の大吟醸の造りの手法が惜しみなく投入された、純米吟醸と言うべきレベルにあった------今の時点から振り返っても私個人はそう思えるからです。

昭和五十年代前半の「完成していた〆張鶴 純 」は、現在の3500~5000円の一線級の純米吟醸や、精米歩合が50%になり「名実ともに純米吟醸になった」現在の〆張鶴 純 とも十分に戦える”水準”にあったと、今でも私個人は感じています。
まるで”綱渡り”をしているような、軽さと切れの良さがあったこの時期の八海山と同等の切れを持ちながらも、八海山には少なかったまるみと舌触りの良さそして「どこも出ていない、どこも引っ込んでいないバランスの良さ」があり、料理の邪魔もしなければ飲み飽きもしない-----------庶民の酒飲みにとってはその酒質の水準の高さに比べ価格が極めて安い、本当に有り難い日本酒だったのです。

「二十一世紀には日本酒なんてものは無くなる」------この時期の数年前の学生のころの私は本気でそう思っていました。
酒販店の三代目として育ってきた私は、他の人より子供のころから日本酒を知る機会に”恵まれて”いたため上記の”感想”を持つようになったと思われるのですが、その”感想”は主として月桂冠に代表される大手ナショナルブランド(NB)の日本酒によって”造り出された”ものでした。
何回も書いていますが、当時のNBの日本酒は今思っても「清酒風アルコール飲料」と言われかねない”かなりひどい”ものでした。
二十歳を超えてようやく酒が飲めるようになった私の同級生達は、悪いイメージしか日本酒に持っておらず、たぶん、飲みたくないアルコール飲料の”アンケート”をとったら「間違いなくトップを争える立場」にあったはずです。

これも何回も書いていますがNBの名誉のためにあえて言うと、現在のNBはその当時のNBとは”別物”と言えるほどの酒質向上を実現しています。
逆に地酒側の方が、残念ながら銘柄によっては、かつてとは”別物”になりつつあるのかと思わざるを得ないほどの酒質低下を感じる機会が少なくないのです。

酒販店に生まれ「アルコールに囲まれて」育ったにも関わらず、不埒にも〆張鶴と八海山に出会う前の私は、日本酒は”中高年の飲み物”と思い一顧だにしなかったのです。
そんな不埒なイメージを日本酒に持っていた私でしたが、〆張鶴 純 に出会ったとき、八海山の南雲浩さん(現六日町けやき苑店主)の紹介で宮尾酒造を訪れ、故宮尾隆吉前社長の紹介で早福岩男早福酒食品店社長(現会長)を訪ねることになる”流れ”の中で、「この酒なら自分の同級生に胸を張って勧められるし、彼らにも支持されるはずだ」というそれまでとは”180度違う”確信を感じたのです。



〆張鶴について--NO3

2010-11-06 00:10:21 | 〆張鶴について

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9月15日の朝5時半に出発した私は、常磐道、磐越道、日本海東北道を経由し10時ごろ村上市にある〆張鶴・宮尾酒造に到着しました。

十数年前に比べ新潟市から村上へ向かう”道路の状況”は良くなっていましたが、新潟市と比べると”違いがある”ことを改めて感じました。
現在日本海東北道が社会実験のため無料で走行台数が多かったわりには、新潟中央JCTから入り神林岩舟ICで降りるまでは順調に走れましたが、”ふつうの国道の高架のバイパス”である新潟バイパスや新潟西バイパスよりも走りにくいと私には思えます。
しかし以前のあちこちの道を細切れに駆使して渋滞を避けて走っていたのと比べると、遅ればせながら、かなり便利になっているとも私には感じられます。
新潟市から〆張鶴・宮尾酒造に1時間以内に到着することなど、私が現役の酒販店だったころには、とうてい考えられなかったことだったからです。

新潟市の”道路の環境の良さ”は、私個人の感想では「北関東では逆立ちしても勝てない」ほど優れたものに思えます。
それに比べると村上市の道路の環境は、けして不便ではありませんが、地方都市として「ごく普通でけして進んでいるとは言えない状況」だと私には感じられます。

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私が現役の酒販店のころには無かった(瓶詰めのための施設と大きな冷蔵保管庫で構成された)宮尾酒造第二工場の駐車スペースに車を置かせてもらい、歩いてすぐの昭和五十年代からその外観が変わっていない〆張鶴・宮尾酒造に向かいました。

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上記の写真は川の反対側から見た宮尾酒造ですが、私にとって三十数年前に見た”懐かしい景色”とほとんど同じ光景なのです。
〆張鶴・宮尾酒造が存在する村上市は全体として「歴史や伝統を守る環境に恵まれている」------私の”個人的体験”でもそのような印象を強く感じます。

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蔵の道路に面した入り口も、私の”記憶のまま”の〆張鶴・宮尾酒造でした。

〆張鶴について----という記事はふたつしかありませんが、鶴の友についてシリーズの中でも日本酒雑感シリーズの中でも、私は何回も〆張鶴と宮尾行男社長・宮尾隆吉前社長(故人)について書かせていただいています。
ひょんなきっかけでほぼ同時に八海山、〆張鶴・宮尾酒造そして早福岩男早福酒食品店社長(現会長)に出会ったことが、「ここまで日本酒の世界に魅せられる」ことになるきわめて大きく決定的な出来事だったことは当時の私にはまったく想像できなかったのです。
現在から振り返ってみると、このとき既に今の私の「日本酒に対する感じ方と考え方の立場」はもう造られ始めていたのかも知れません。


私の新潟県と関わりの”原点”は、八海山のある六日町の隣町である塩沢町(現在は南魚沼市)にあります。
現在も塩沢在住の学生時代の友人Nから八海山のT専務(当時)、南雲浩さん(六日町けやき苑店主)に人の縁がつながり、その縁からさらに〆張鶴・宮尾酒造、早福岩男さんにまで本当に短い時間で六日町から村上市、新潟市へと縁がつながっていったのです。

もし南雲浩さんが〆張鶴・宮尾行男専務(当時)にすぐに会うことができるように”紹介”していただけなかったら、私は、早福岩男さんとの出会いもかなり遅れ千代の光の池田哲郎常務(現社長)とも”すれ違い”になったかも知れないと思えるのです。
そして〆張鶴という酒と宮尾酒造という酒蔵を昭和五十年代初めに知ることがなかったら、たぶん私は、伊藤勝次杜氏の生酛に関わることも鶴の友・樋木酒造の”価値の本質”を自分なりに知り自分なりに理解することなど不可能だったと思えるのです。

当時の〆張鶴は、(本醸造、純米、大吟醸も含めて)現在よりも淡麗で綺麗でありながらそれに一体化した絶妙の丸みとふくらみもあるバランスの美しさが特徴でしたが、「欠点が無いのが欠点、すべての部分で90点で平均90点の素晴らしい酒質だが、ある意味で”真面目が背広を着ているような”面白味の無い酒」との”感想”も一部にはありました。
その時代の八海山は〆張鶴とはまるで逆で、軽さと切れの良さとかろうじてそっけなくないと言えた”最小限のやわらかさ”を持つ、良い意味で”バランスの崩れた”、「ある部分が120点、ある部分60点で平均90点の分かりやすい酒質」の酒でした。

その時代の〆張鶴と八海山は、新潟淡麗辛口という言葉でひとくくりされた中でも、上記のような違いがあったのですが”その違い”は酒質だけではありませんでした。
どちらかと言うと八海山は分かりやすく〆張鶴はやや分かりにくい-------たぶん飲む側にはそんな評価があったと思うのですが、むしろ当時の私は〆張鶴・宮尾酒造の”姿勢”のほうが八海山・八海醸造より分かりやすく、軽さと切れを強調した”淡麗大辛口”とでも言うべき八海山の本醸造(それはそれで当時は素晴らしいものだったのですが)よりも、淡麗で切れの良さを持ちながらもやわらかな丸みとふくらみを持ち食べ物をも包み込んで一体となったバランス美が感じられた〆張鶴に強い魅力を覚えていたのです。
普通に造れば「重くて、くどくて、しつこいの純米三悪」になりがちの純米酒なのにそれをまったく感じさせない〆張鶴・純に、特に強く心引かれていたのです。

バランスの取れた酒質と言う言葉は、「すべてのパートが高レベルで”突出した部分”が見当たらないため、一見すると面白味に欠けるように思えるが、自然で無理がないため食べ物の邪魔もしないし長く飲み続けても飲み飽きしない」と言い換えられると私自身は感じてきました。
〆張鶴はその”バランスの取れた酒質”のため、最初の出会いから長い間私にとって、”高性能の試験紙”のような存在でもあったのです。

他の蔵の酒の自分なりの判断に”迷った”とき、私は必ず〆張鶴と飲み比べていました。
〆張鶴と比べると、その酒の長所、欠点、特徴が私自身は判断しやすかったのです-------その酒単体では分からなかった部分が、まるで”あぶり出し”のように浮かんでくるように感じられたからです。
ある意味で、この”〆張鶴と比べる”ことがおそまつで能天気な私の”進むべき方向”を決定した-------今はそのことが強く実感できるのです。

”〆張鶴と比べる”のはむろん酒質なのですが、おそまつで能天気な私も時間が経てば経つほど、「結果である酒質を理解するためには、結果の原因や結果に至る過程が分からないと理解できるはずが無い」と感じ始めたのです。
〆張鶴の酒質を生む設備、杜氏の技術、原料米へのこだわりとその精白--------自分の目で見て自分の耳で聞き少しでも理解しようと努めたのですが、当然ながらそう簡単に分かるはずもないのです。
しかし分からないなりに、〆張鶴・宮尾酒造では”当たり前”のことが北関東の私の県の蔵だけではなく新潟県の蔵であってもけして”当たり前ではない”ことに思い当たったのです。

”当たり前でない”ことを”当たり前”にやっていることが「〆張鶴の酒質の”理由”」であるなら、”その理由の原因”はいったい何なのか------おそまつで能天気だった私にも、少しずつですが、思い当たることが出てきたのです。

原料米の五百万石やその磨きへのこだわり、ジャケット式タンクや冷却ジャケットだけではなく全体の空調にまで及ぶ”低温発酵”へのこだわり------〆張鶴・宮尾酒造で私がごくふつうに目にしごくふつうに耳にした光景や言葉は、実は宮尾行男専務(現社長)・宮尾隆吉社長(故人)の酒に対する”考え方”、生真面目な酒造りに取り組む”姿勢”の反映であり、「〆張鶴の酒質を生んだ最大の”理由”」ではないのかと思い始めたのです。
言い換えると、最初に出会った蔵のひとつである〆張鶴・宮尾酒造が、「”酒質”というハードだけではなくそのハードを産み生かすソフトも含めて」私自身が今後出会う蔵を判断する”基準”になっていたように思えるのです。

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私が〆張鶴以降に出会い取り扱いをさせていただくか、取り扱いをしたいと要望した銘柄にはひとつの共通点がありました。
「〆張鶴を実際に飲んでいる人にも”飲んでもらえる魅力”がある」という共通点です。

千代の光には、〆張鶴と同じような淡麗さと切れの良さをもちながらも綺麗なやわらかい甘さ と魅力的な香りがありましたし、大木幹夫杜氏の造り出す國権は〆張鶴の持つバランスの美しさはありませんでしたが、大木杜氏の得意とした(〆張鶴とは違ったタイプの)華やかで強い香りとその香りにバランスした厚みはあってもけしてくどくない味のふくらみがありました。
生酛一筋の南部杜氏の長老格の伊藤勝次杜氏の造り出した生酛の本醸造も純米も、〆張鶴に比べやや幅と厚みがあっても切れが良かったため重いともくどいとも感じない酒質でしたが、生酛本来の「熱燗になっても崩れない”頑固とさえ言える芯の強さ”」をそのやわらかなふくらみの奥に内在させていました。

言い換えると私は、〆張鶴と同じ水準の酒かあるいは〆張鶴に近い水準で”〆張鶴とは違うタイプの魅力”を持つ酒しか”取り扱えなかった”のですが、今考えてみると、「酒質は蔵元の(生酛の場合は伊藤勝次杜氏の)酒造りの”考え方や姿勢”を反映したもの」という”〆張鶴で感じたこと”に私自身が強い影響を受けたからなのかも知れません。
そして、”〆張鶴で感じたこと”があって始めて私は、鶴の友という酒と鶴の友・樋木酒造という酒蔵の”価値の本質”を私なりに理解することが出来たと実感し感謝しているのです---------。

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十数年ぶりに〆張鶴・宮尾酒造の正面の入り口から蔵の中に入りました。
小さな小売のスペースのすぐ裏が事務所でその左側が応接室なのは三十数年前と変わってはいないのです。
本当に久しぶりにお会いした宮尾行男社長は、髪の毛が少し白くなったと思える以外は、十数年前とほとんど印象が変わらなかったため”時間のギャップ”を感じることなく以前と同様にお話を伺うことができました。
そして瀬波温泉の温泉街を海側から遠望できる”お食事処”で昼食をご馳走になりながら、宮尾行男社長に色々な”質問”をさせていただき率直な”ご解答”もいただきました。
お忙しい宮尾行男社長の貴重なお時間を午後2時ごろまで割いて頂き、お話もゆっくりと十分に伺い蔵の中も久しぶりに見せて頂きました。
昭和五十年代から若手杜氏として宮尾行男専務(当時)、宮尾隆吉社長(故人)と一緒に〆張鶴を造り上げ支えてきた”藤井正継杜氏の〆張鶴”が十数年造りを共にした若手・中堅の社員の方々にしっかり受け継がれている”光景”も目にすることもできました。

時の流れは遅いようで早く昭和五十年代に若手杜氏だった藤井正継杜氏が引退されることには私自身も感慨深いものがありますが、宮尾酒造の造り出す〆張鶴の”酒質を支える根幹”は、三十数年前も十数年前もそして現在も変わっていないことを私なりに改めて実感させていただき、2時半ごろ(鶴の友について-3--NO5に書いたように)新潟市西区内野町にある鶴の友・樋木酒造に向かうため、また機会を見つけて今度は泊りがけで来たいと思いながら、(私にとっては若いころから訪れていたため)懐かしい”記憶”が少なからず残っている村上市上片町を後にしたのです-------------。


〆張鶴について--NO2

2009-11-14 00:20:35 | 〆張鶴について

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日本酒エリアNを書き始めたのは2005年の8月ですが、記事の題名としては、”〆張鶴について”はごく最近「〆張鶴について--NO1」まで書くことはありませんでしたが、今まで書いた記事(長いブログのスタートです、鶴の友についてシリーズ、日本酒雑感シリーズ、國権についてシリーズ)のほとんどで〆張鶴・宮尾酒造と宮尾行男社長のことを書かせていただいています。

私自身の”日本酒の関わりと体験の『歴史』”を振り返ったとき、鶴の友・樋木尚一郎社長と早福岩男早福酒食品店会長そして〆張鶴・宮尾行男社長を結んだ線が私の”基準線”ゆえに、鶴の友について書いても早福さんについて書いても、必然的に〆張鶴・宮尾酒造のことも書くことになってしまうのです。
そしてこの”基準線”は、現在も私の中の”基準線”として存在しています。

樋木尚一郎社長にも早福岩男さんにも、残念ながらもう7~8年お会いする機会(私が新潟に行けてないため)がないのですが、電話でお話を伺う機会は少なくないため、完全では無いのですがある程度は「自分が知りたいことの”アップデイト”はリアルタイムで出来ている」と言えるのですが、年に数回FAXや手紙を送らせて頂いてはいますが10年以上直接お会いする機会も無く、酒造業界以外のことも含めて大変にお忙しい状況を私自身も十二分に承知している宮尾行男社長の貴重なお時間を浪費し煩わさせることにも、さすがにおそまつで能天気な私にも”遠慮”があり、電話でお話を伺うこともきわめて少ないため「アップデイトがあまりされていない状況下にあり」、”〆張鶴について”という題名の記事は書きにくい状態にありました。

鶴の友について(2006年6月~8月)、鶴の友について-2(2007年9月~2008年2月)を書き終えたとき、本当にしばらくぶりになるのですが村上にお邪魔し”リアルタイムの〆張鶴・宮尾酒造”を見させて頂いた上で、”〆張鶴について”を書こうと思っていたのですが諸事情のため新潟県に行く機会が訪れずに、現在に至っています。

その私が、〆張鶴について--NO1を書いたのは、(副題の純米酒雑感が示しているように)私自身の純米酒に対する「”感じ方や考え方”という私個人の主観」を書いてみようと思ったからです。
純米酒雑感となれば私自身にとっては、〆張鶴 純 についての話が中心にならざるを得ない状況にあり、〆張鶴 純 の話が中心となればその記事の題名は”〆張鶴について--NO1”になるのが私の中では”自然”だったのです。

そういう”事情”で書くことになった〆張鶴について--NO1は、単に”長い作文”なだけではなく純米酒に焦点を絞ったためそれ以外の部分の〆張鶴についてはあまり書かれていないため、日本酒エリアNの他のシリーズを見ていない方には、少し分かりにくかったかも知れません。
(もっとも記事を全部読んでいる人は、私の直接の知り合いでもごく少数しかいませんが-----)
「アップデイトされた〆張鶴について」は、村上を実際に訪れることが出来た後に書くつもりでいますが、ここでは〆張鶴についての私のとりとめのない感想、思いつくままの感想-----「雑感」を過去に書いた記事の引用を含めて書いていきたいと考えています。



〆張鶴雑感(昭和五十年代初めより~)

書画、骨董でも”初心者”に対するアドバイスとして、
「知識や理屈に頼らず、本物を見ることから始めたほうが良い。良いものを長く見続けていると本物と違うものを見たとき、何が違うのかが分からなくても、”何か”が違うという”違和感”を感じるようになる。その”違和感”を解明しようとするときに知識や理屈が”ツール”として必要になってくるだけなのだから-------」と、教えられると聞いたことがあります。
結果として、”酒”においては私は、このアドバイスどうりの”道”を歩いてきたように思うのです。
私が最初に出会った蔵は、八海山でした。
当時の八海山は、嶋悌司先生(元新潟県醸造試験場長)の徹底した指導の下、越乃寒梅で育った高浜春男杜氏が全力投入し八海山の”酒質ピーク”へ向かって前進し続けていた時期で現在とはだいぶ”雰囲気”の違う、本物を本気で目指していた蔵でした。
前述したように、その八海山の南雲浩さん(現在は六日町けやき苑店主)の紹介で、ほとんど同時というタイミングで〆張鶴と出会っていました。
その最初から私は、〆張鶴と八海山を”同時並行”で比べられる”環境”に恵まれたのです。
知識も能力も無い20歳代前半で、今よりはるかにおそまつで能天気だった私が頼りにできたのは、新潟の蔵を隅々まで知る早福岩男さんの”客観的判断”と、自分自身が感じる”肌の感覚”だけでした。

新潟の蔵に出会った私は、最初の数年、多いときには年間6回少ないときでも4回は新潟に出かけていました。
そんな時間の中で、私は八海山より〆張鶴に強い興味と愛着を感じ始めていたような気がします。そして”酒”や蔵を自分なりに判断する際に、無意識のうちに〆張鶴と比べていたようにも思えるのです。

村上市にある〆張鶴、宮尾酒造を訪ねる回数が多くなるにつれ”酒の素人”である私も少しずつ慣れてきて、以前には見えなかったものがほんの少しずつ見えてきました。
蔵には存在していたのに私には見えていなかったものが見え始めた------という意味での”発見”が数多くあり、それが私には楽しくて堪らなかったのだと思われます。

「醪の温度をジャケット式タンクや、タンクにプレートコイルを巻いて冷却水を通して0.5度の単位で調節しようとしているのに、蔵の中の温度が4度も5度も変化したのでは正確が期せないと思うので空調をかけていますが、灘の大手のように三期醸造や造りの期間を延ばすのが目的の空調設備ではありません」

この言葉は、私の住む北関東の県より冬場の低温に”恵まれ”、朝晩の温度変化もはるかに少ないと思うのになぜ空調設備が必要なのでしょうか-----という私の”質問”に対する宮尾行男専務(現社長)の回答でした。
またこの時期〆張鶴は約3500石(一升瓶換算35万本)でその需要に対して”パンク状態”にあり、酒質に影響を及ぼさないようにゆっくりと時間をかけながら5000石前後をめどに設備や機械を更新したり導入し、増産余力の向上を計っていました。
そのせいもあり〆張鶴に行くたびに蔵の姿が微妙に変わっていて、私の興味を捉えて離さなかったのです。
しかもこの時期〆張鶴の酒質は、向上はあっても後退を感じることなどまるで無かったのです。

陸上の100mに例えて言うと、初めて見た選手が10秒00の”厚い壁”を突き抜けた9秒台のレースをする選手で、なぜ”厚い壁”を突破できるのかをその選手の日常やトレーニングの姿をできるだけ見ることで、(知識や理屈を持っていなかったので)自分自身が感じる”肌の感覚”を積み重ね”帰納法的”に探ろうとしていたのかも知れません。
そんな数年が、おそまつな私なりの、100mのレースを計る”ものさし(メジャー)”を造ってくれたのかも知れません。
〆張鶴という”ものさし”を手にした私は、基本的には共通の”基盤”を持ちながらも、10秒00の”厚い壁”を突き破る”方法と個性”に違いのある、千代の光、そして鶴の友を知ることになります。
〆張鶴という”ものさし”のおかげで、何の先入観念も予断も無く9秒台のレースをする千代の光、そして鶴の友の”凄さ”が、素直に実感できたからです。
そして私は、千代の光、鶴の友においても、「見て分からないことは、どんなに初歩的なことでも聞く」ことで”肌の感覚”を積み重ねていくことに終始したのです。
その結果、少しですが”ものさし”の精度も向上し、〆張鶴という”ものさし”への私自身の理解も進んだような気がします。

〆張鶴という”ものさし”の根幹にあるものは、派手さやけれん味とはかけ離れた「真面目さ」であり、それが〆張鶴を〆張鶴たらしめている------私はそう感じるようになっていったのです。
そしてその「真面目さ」は、状況が許す限り”変えてはいけないものは変えない”ということにつながる「真面目さ」だったのです。

これは私が2008年9月に書いた日本酒雑感--NO5の一部の引用です。
http://blog.goo.ne.jp/sakefan2005/d/20080917

私個人は、地酒の蔵であり続けようとしている蔵は、”形のうえ”では鶴の友と〆張鶴の間にそのすべてが入っているような気がしています。
”企業”としての自然で当然の利益を毀損してまでも”地酒の蔵”であることを優先する鶴の友、”形のうえ”では酒蔵の中でも最も成功した”企業”のひとつでありながら状況が許す範囲で”拡大のスパイラル”に抵抗し、地酒の蔵であることの部分をできるだけ残そうとしている〆張鶴-------対極にあると思えるこの鶴の友と〆張鶴の間には、当然ながら”差異”もありますが似ていると言うか”共通”の部分もあるのです。

有名銘柄を含む新潟淡麗辛口は昭和五十年代前半と現在では、残念ながらその姿を変えています。蔵の大きさ、知名度だけではなくその酒質が昭和五十年代とまるで”別物”になってしまった蔵が少なくない中で、鶴の友と〆張鶴(千代の光もそうですが)はそのころの酒質を維持して30年以上に渡って変わらぬ酒質をエンドユーザーの消費者に提供し続けてくれています。

30年以上前の半分強にまで販売数量を落としながら、強い”信念”で地酒の蔵としてその酒質を守り続けた鶴の友は本当に稀有の蔵で、そのご苦労のごく一部しか知らない私ですら造り続けていだだいているのは、やや大袈裟に言うと”奇跡”だとしか思えないのです。

一方、30年前に比べ3倍前後の販売数量があり、”企業”としても成功を収めた〆張鶴が僅かに醸造石数の増大の影響を受けながらも、変わらぬ酒質を維持し提供し続けてくれていることも通常では”ありえない”ことだと私個人は感じてきました。
そしてそれが、他の超有名な新潟淡麗辛口の複数の銘醸蔵と〆張鶴との”違い”だとも感じてきたのです。

一万石級の製造石数とその抜群の知名度、ひとつの都道府県あたりの正規取扱店の数がきわめて少ないにせよほとんど全国をカバーしている販売網--------これらを知る業界関係者や日本酒のファンにとって、「〆張鶴は、村上市あるいは新潟県下越地方の地酒の蔵として存在している」と言われたら抵抗を感じたり異論を持つ方は少なくないと思われます。
しかし宮尾行男社長始め宮尾酒造の皆様の意識の中では、そのように感じておられるのではないかと私は長年に亘って想像してきました。

そう感じる私なりの理由は、

  1. 昭和五十年代前半より宮尾行男専務(現社長)、故宮尾隆吉社長の”考え方”を直接伺える機会に恵まれただけはなく、現在ほど有名ではなかった時期に正規取扱店の一人として、その”考え方”がどのように醸造の現場や販売方針に反映していたかを私自身の実体験の中で知る機会があったこと。
  2. 私が業界を離れた平成3年以降、〆張鶴も日本酒ブームの中で拡大し続けていきましたが、エンドユーザーの消費者の一人として現在まで(ありがたいことに)お付き合いさせていただいている私には、”企業”として自然で当然な成長を拒んではいないが同時に出来得る限り醸造方針も販売方針も変えないという”意志”も感じられたこと。
  3. そして何より私の周囲にいる30年以上〆張鶴 純 を飲み続けている「吟醸会」の仲間達が、「〆張鶴は変わっていないし飲み飽きもしない」と言っていることです。
  4. 上記の3の事実は簡単のように思えて実はきわめて難しく稀なことであることを、私や「吟醸会」の仲間達は30年の時間の経過のおかげで実感しているからです。

かつて”業界”の人間だった私にとって、初めて出会った日本酒であり”本籍地”とも言える新潟淡麗辛口も30年もの時間が経過すると、その姿も認識も変わるほうが自然と言えます。
むしろ変わらないほうが”不自然”なのです。
変わらないためには”不自然さ”、言い換えれば”強い意志”が必要なのです。

3500石が一万石級に増えても僅かの変化はあるにしても”変わらない”ことは、鶴の友が”変わらない”ことと質や形は違うものの、実は稀で困難なことなのです。
〆張鶴の数量拡大は、4~5年ではなく、30年に亘って少しずつ慎重に計画され着実に実行されたものだ------私はそういう印象を持っています。
基本的に地元、県外を問わず〆張鶴の営業方針は「酒販小売店との直接取引」に限定されます。
新規取引には、私が取引をさせていただいた昭和五十年代前半からきわめて慎重で、
「取引する以上ただ扱っているということではなく、小売店にも蔵にもメリットのある数量でなければ取り扱いの意味がないのではないか」-------という”考え方”がその背景にあると私は感じてきました。
〆張鶴が”店の飾り”で良い場合以外は、酒販店側も、売れば売るほど数量の拡大が必要になってきます。
しかし急激な醸造数量の拡大は、酒質の向上とは”相性が悪い”ため、酒質の維持が可能な範囲での(設備の改善や設備の新規投入をして)数量拡大しかできず、その結果私が取引させていただいた最初の年から需要期(10月~3月)は割り当て、昭和五十年代後半には
「全体の醸造数量が昨年の110%になりますので、今年のNさんのお店の年間割り当て数量は同じく110%になります。月別に数を記入してありますが、月別の数量の変更はできるだけご要望にそえるようにします」-------という状況になっていました。
(事実、私の店の販売状況に合わせた頑なではない対応を、〆張鶴・宮尾酒造の皆様は可能な範囲でして下さいました)
しかし昭和六十年代に入ると、最初からこの状況を予測し「売る本数より投げる本数のほうが多くても実績を積み上げてきた」、エンドユーザーの消費者に”普通に販売していたため”店の規模の割にはかなり多いと言えた”実績”を持つ私の店でも、〆張鶴は”逼迫”するようになっていて、残念ながら新規のお客様に買っていただく1本を捻出するのに苦労する状態になっていました。

この時期私も他の酒販店の方々と同じように、〆張鶴や八海山の”需要と供給のギャップ”を埋めるため久保田の積極的販売に出ざるを得なかったのですが、この”状況”は私だけではなく、昭和五十年代初めから新潟淡麗辛口の販売を始めて先行していた酒販店のほとんどもこの”状況”に置かれていたことが、久保田の異例とも言える”大成功”の原因のひとつだと私は実感しています。
そしてこの久保田の”大成功”が、新潟淡麗辛口の先行した有名銘柄に大きな影響を与え大幅な数量拡大へと舵を切らせるのですが、〆張鶴・宮尾酒造はその方向には向かわず自分の”ペース”を守ったのです--------そしてそれが現在の新潟淡麗辛口の他の有名銘柄と、〆張鶴・宮尾酒造との「決定的な違い」となったのです。

毎年5%づつ製造する数量を増やすとすると、22年で約3倍の数量になります。
そう考えると、30年以上かかって3倍前後の石数になった〆張鶴・宮尾酒造は、拡大を自ら強い意欲を持って意図した”企業”とは、私自身は、とうてい思えません。
〆張鶴・宮尾酒造が”成功した企業”であり、地酒の蔵と言うには桁が違う販売数量を持っていることは私も十分に承知していますが、しかしその事実が必ずしも〆張鶴・宮尾酒造が「地酒であり続けることに強いこだわりを持つ蔵であること」を否定する証拠にはならない--------私はそう感じています。

〆張鶴・宮尾酒造に、批判的な見解を持つ人達の批評のすべてが間違っているとは私も思っていませんが、口の悪い人達に”新潟ナショナルブランド”と言われる他の新潟淡麗辛口の有名銘柄に対するのと”同じ観点での批評”は少し的外れのような気が私はしています。
社員の生活に責任を持つ”企業”である以上は、数量拡大による利益の拡大の追求は自然なことです-------しかしそれを最優先したとするなら、不可思議と言うか整合性に欠けると言うかそれとも矛盾とでも言うべき”非合理性、非効率”が〆張鶴・宮尾酒造に存在していると私は感じているからです。
その”非合理性、非効率”は〆張鶴の数量が増えれば増えるほど、まるでバランスを取るかのように印象が強くなってきたように思うのです。
言い換えれば”非合理性、非効率”は、宮尾行男社長始め宮尾酒造の方々が「〆張鶴がそれを失ったら自分達の〆張鶴ではなくなる」と思われている部分--------〆張鶴はファクトリーではなく”酒蔵である”ことへの強いこだわりだと私は思うのです。
〆張鶴・宮尾酒造はこの30年、その酒質の特徴と同じように、”企業”としての成功と酒蔵であり続けることのバランスを取ることに”苦心”し続けてきたように私には感じられます。

その”バランスを取ること”を支えた方法は特に珍しいものでも目新しいものではありませんでした。

  1. 〆張鶴の酒質向上、酒質維持を最優先する。
  2. そのためには酒質を毀損しない範囲での慎重で計画的な増石しかできない。
  3. そうすると必然的に販売も計画的販売方針を採らざるを得なくなる。
  4. 計画的販売方針を採るためには、〆張鶴の”考え方”を理解してくれる酒販店(小売店)との直接取引が必須になる。
  5. 具体的には、村上市を中心にした地元の従来の需要を大事にしながらも、昭和五十年代前半にすでに〆張鶴の”代名詞”になっていた〆張鶴 純 や特定名称酒を増石の中心にして、その時点でも〆張鶴 純 や特定名称酒に強い需要のあった関東を軸にした新潟県外の酒販店(100%直接取引で増石の範囲内で対応できる限られた軒数ですが)販売していくが、増石そのものに限界があるため「年間割り当て」にならざるを得なかった。

〆張鶴・宮尾酒造の採った方法は、上記のように、他の新潟淡麗辛口の有名銘柄とさして変わったものではありませんでした。
しかし〆張鶴・宮尾酒造はどんな局面でもこの”方法”から逸脱することなく、きわめて強い増産圧力にさらされた時期も守り続けてきたのです。
鶴の友・樋木酒造の”頑固さ”とは質的にもタイプ的にもその”違い”は大きいのですが、
〆張鶴の梃子でも動かない”頑固さ”も私は感じ続けてきたのです。

鶴の友らしさを守るため30年前の約半分強まで醸造石数を減らした、鶴の友・樋木酒造は「有り得ない”企業”」ですが、〆張鶴・宮尾酒造も酒造業界の中では「きわめて稀な”企業”」だと私個人は痛感しているのです。
そして日本酒業界にとって、ある意味で必然的と思える危機の中で「地酒らしい地酒」として生き残っていく酒蔵は、対極にあるように見えるが共通の部分をも持つ鶴の友・樋木酒造的な部分か、〆張鶴・宮尾酒造的部分を持つ必要がある--------鶴の友と〆張鶴の”考え方”の間に”考え方のベース”を置かないと生き残れないのではないか、と私個人には思われてならないのです。

かなり長い引用になってしまいましたが、これは私が」2009年4月に書いた國権について--NO4の一部です。
http://blog.goo.ne.jp/sakefan2005/d/20090404


〆張鶴は、「21世紀には日本酒なんてものは無くなる」------30数年前のまだ学生であった私の”不埒な感想”を衝撃を伴って覆してくれた、私にとっての『最初の基準点であり、現在も変わらぬ”ものさし”』です。

現在から振り返ると、八海山と同時に私が最初に出会った日本酒の蔵が〆張鶴だったことに、きわめて大きかった”運の良さ”を感じてそのことに大きな感謝をするしかないという心境になります。
もし私が初めて訪れた蔵である、八海山の南雲浩さん(現在は六日町けやき苑店主)が「私が電話しておくからNさん、明日村上に行って〆張鶴・宮尾酒造の宮尾行男専務(現社長)の話を聞いてきなさい」------と言ってくれなかったら私は現在とはかなり違う、日本酒に対する”感じ方、考え方”を持っていただろうことを確信できるからです---------。

現在の私の”感じ方、考え方”が、鶴の友・樋木尚一郎社長の強い影響を受けていることを私自身も否定しませんが、〆張鶴という”ものさし”が無ければ鶴の友の『稀有の凄さ』に私自身が気付くことなど、ほんの少しさえ有りえないことだったのです。
〆張鶴という私にとって原点でもあり最初の基準点の存在が、千代の光、鶴の友、そして新潟淡麗辛口以外の南会津の國権、伊藤勝次杜氏の生酛に向かう方向を決定づけたのではないか-------今振り返ると私はそう思えてならないのです。

〆張鶴と出会うと同時に私は、早福岩男早福酒食品店社長(現会長)というもうひとつ基準点にも出会っていました。
”町の酒屋”としてどう日本酒を売っていくのか-------おそまつで能天気な私には”もったいないような教え”を昭和五十年代初めより直接伺う機会に恵まれていたのにも関わらず、
長い間「馬の耳に念仏」のような状態でしたが、たぶん”牛の歩み”よりさらに遅いスピードだったと思われるのですが、早福岩男さんという基準点としての”大きさと重さ”を私は少しづつではあっても分かるようになっていったのです。
そして昭和五十年代半ばに、鶴の友・樋木尚一郎社長という最後の基準点に出会い、
その後の私がその”線”から極力ぶれないように努めることになる「基準線」が完成することになったのです。

もし〆張鶴・宮尾酒造という”最初の基準点”に出会わなかったら、おそらく私は、早福岩男さんにも鶴の友・樋木尚一郎社長にも「基準点になるような出会い方」をすることは無かったと思われます。
そして〆張鶴・宮尾酒造に出会うのがもし数年遅れたら、「基準線」が完成することは無かったとも思われるのです---------その意味でも〆張鶴・宮尾酒造は私にとっては原点であり、ありがたい”最初の基準点”の日本酒の蔵なのです。

昭和50年代前半、新潟に行き始めた頃と記憶しているのですが、今でも忘れられないことがあります。
仕込みの時期に村上市上片町にある〆張鶴を”見学”させていただいたときのことです。
私は、故宮尾隆吉前社長自らのご案内で蔵の中を見せていただいておりました。
時期的に、出品吟醸酒の造りがピークに差し掛かったころだったと覚えているのですが、
蔵の中に藤井正継杜氏を見つけられた宮尾隆吉社長は、
「まだいたのか。すぐに帰りなさい、杜氏がいない間は皆んなでカバーするから安心して帰ってきなさい」と、声を掛けられました。
藤井杜氏は、その当時の私には”ちんぷんかんぷん”の、吟醸酒造りの”ある工程”が終わったら帰らせてもらいます-------と答えられたのですが、その返答をお聞きになった宮尾隆吉社長は、本当に”困った”ような表情を見せられました。

故宮尾隆吉前社長には、八海山におられた南雲浩さん(現在は六日町けやき苑店主)に紹介していただき、最初に宮尾酒造に行かせていただいたときから、親切な”対応”をしていただいておりました。
以前にも書かせていただいたように、私の酒販店としての”素養の無さ”を心配して早福酒食品店早福岩男社長(現会長)を紹介していただいたのも、このときすでに販売可能な数量に余力が無くなっていた〆張鶴のほとんどすべてをその双肩に担っていたため、
「数量の少ない形ばかりの取引では小売店にとっても蔵にとってもプラスは少ない」とのお考えから、新規取引には慎重にならざるを得なかった宮尾行男専務(現社長)との”交渉”の最後に”助け舟”を出して下さったのも、宮尾隆吉社長でした。
そのような経緯があったため、今思うと大変申し訳なかったと反省しておりますが、
おそまつで能天気な私にとって宮尾隆吉社長は、プレッシャーをあまり感じずにお話を伺える方で、質問をしやすい方でもありました。

蔵の中から事務所に戻ってきてからも、ご多忙の宮尾行男専務(現社長)に代わって、宮尾隆吉社長はしばらく私に付き合って下さいました。
私は、自分のことながら今振り返ると「なんじゃそれは。馬鹿じゃないのか」と私自身が思うような”質問”を宮尾隆吉社長にしました。
「吟醸酒を造るというのはどうゆうことなのでしょうか」------思い出すと今でも”穴があったら入りたい”心境になる質問を私はしてしまったのです。
宮尾隆吉社長は、僅かに苦笑されましたがすぐにそれを消されて”質問”に対する答えを私に提示して下さいました。

「吟醸酒に限らず酒を造るのが杜氏や私の仕事ですが、突き詰めていくと私達が造っていると思うのはちょっと”違う”のではと感じることがあるんです。
本当に酒を造っているのは”自然の摂理”とも言えるし、”酒自身”だとも言えるかなぁ-----。
醸造技術の進歩もあり杜氏の経験の積み重ねもあり、この方針で行けば概ねこんな風な方向の酒になるのではというところまでは把握できても、それ以上のことは分からないしそれ以上のことはできないのです。
本当のところ、私達にできる仕事は”酒自身が酒になる”ための”手伝い”だけなのかも知れません。
出品吟醸は余裕の無いぎりぎりの造りのため、そんな印象をより強く感じます。
明日をも知れない重病人を、祈るような思いで必死に”看病”する------そういう気持が強ければ強いほど酒が応えてくれるような気がします」

この説明で分かりましたか、もう少し説明しますかと宮尾隆吉社長はさらにおっしゃって下さったのですが、私は思わず「よく分かりました」と言ってしまったのです。
限界ぎりぎりの”拡大解釈”をしてもこのときの私は、噛んで含めるような宮尾隆吉社長の説明の”意味”のごく僅かしか分かっていませんでした。

「藤井杜氏も至急家に帰らなければいけないことが起きたのに、出品吟醸の醪が心配で心配で堪らずなかなか帰れないようだったので、先ほど声を再度掛けたのですが帰る気になったかどうか-------」

宮尾隆吉社長とお会いした回数はけして多くはありませんでしたが、お会いするたびにに私は”何か”を得ていたような気がします。
その”何か”が何であるかをその時点では理解できなかったのですが、いつもかなり後になってからその”何か”に”助けられて”いたようです。
何回も書いていますが私は平成3年に業界を離れました。
たぶん新潟にも蔵にも行く機会はあまりないだろう------会社員になった私はそう思っていました。 そう思って3年が過ぎました。
4年目に入ったとき宮尾隆吉社長が亡くなられたことを、人を介して私は知りました。

私は新潟に行きたい”気持”が、自分で思っていた以上に強いものであることは自覚していましたが、”敵前逃亡”に近いような”離脱”をしてしまったため、実際に”新潟行き”を実行するのは”ためらい”がありました。
しかし宮尾隆吉社長の訃報が、その”ためらい”を跡形もなく吹き飛ばしてくれました。
葬儀からはかなり遅れたのですが、せめてお線香を上げさせていただくために私は”行動”を起こしたのです。
そしてその”新潟行き”では、〆張鶴の宮尾行男社長も、千代の光の池田哲郎社長も早福岩男さんも、そして鶴の友の樋木尚一郎社長も以前と変わらぬ態度で接していただけたのです----------私の”ためらい”が私の独り相撲であったことを知ることができたのは、宮尾隆吉社長の訃報のおかげだったのです。

私は宮尾隆吉社長から得ていた”何か”に、その最初から最後まで助けていただいたと思われます。
そしてそれは私が当時感じていたよりも”大きなもの”だったことを、今の私は、改めて実感しています。

上記は日本酒雑感--NO5の冒頭の部分です。
http://blog.goo.ne.jp/sakefan2005/d/20080917



上記のように、何も知らず何も分からなかったにも関わらず、”ひょんなこと”から当時の日本酒業界の先端を走っていた新潟淡麗辛口の蔵に行ってしまった私にとって、〆張鶴・宮尾酒造そして宮尾隆吉前社長、宮尾行男専務(当時)は本当にありがたい存在でした。
初めて訪ねたときには〆張鶴・宮尾酒造が、伝統を受け継ぎながら”革新的な新しさ”を目指していた新潟淡麗辛口の”最先端を走る”数少ない蔵のひとつであることも、おそまつで能天気な私は知るよしもなかったのです。
そのときの私にあったのは、「人のアドバイスをそのまま受け入れる”素直さ”と知らない”世界”に対するわくわくするような興味」だけだったのです。

〆張鶴・宮尾酒造に接する機会を得た私にとって、「何も知らず何も分からなかった」ことは
皮肉なことに、ある意味で”最大の強み”となったのです。
たぶん、〆張鶴・宮尾酒造の”立っている位置”を少しでも知っていたら、酒販店に育った人間として日本酒の知識が僅かでもあれば、あれほど自分のお粗末さをさらけ出した「知りたいことを知るための”素直な質問”」などとうてい出来なかったと思われます。

現在の〆張鶴の正規取扱店の方の中でも、直接の面識があった人が少なくなっていると思われる故宮尾隆吉前社長も、宮尾行男現社長も苦笑されたと思われるのですが、最初の訪問のときから「私のお粗末さをさらけだした”素直な質問”」を馬鹿にすることなく丁寧に生真面目に答えてくれました。
今このときのことを思い出すと、本当に穴があったら入りたい心境になります-------なぜならその質問は、「大学の理学部の数学科の教授に、小学校の算数の計算式について質問したような」ものだったからです。

昭和五十年代初めの〆張鶴・宮尾酒造は、京都の町屋のように間口は狭いがどこまで進んだら行き止まりになるのかと思うほど深い奥行きの敷地に、余裕のある配置で蔵が存在しておりその蔵の中に”酒を造るすべて”が入っていました。
奥行きの中ほどには簡易的なプレハブで造られた、宮尾隆吉前社長のご趣味だった水彩画を書くアトリエ的な小さな建物もあり、その中でお話を伺う機会もあったのです。
仕込み中の蔵にはある種の”緊張感”が存在していましたが、それは訪れた外部の人間を”排除”するようなものではなく、むしろ心地良く感じられるものでした。

そんな”環境”の〆張鶴・宮尾酒造で、現在よりはゆっくりとした時間の流れの中で、宮尾隆吉前社長、宮尾行男現社長に「お粗末さをさらけだした”素直な質問”」をし続けることが出来る”最初の数年間”を持つことが出来た私は、今振り返っても本当に幸運でありがたいことだったと実感できるのです。
そしてこの数年間の”体験”が、おそまつで能天気な私のその後の日本酒の蔵、そして日本酒そのものに対する”接し方”を決定付けたような気がするのです。

自分が小学生で相手が大学教授だとしたら、教授の話を右から左にただ聞くだけでは分かったような気分になることが出来ても、「何が分かって何が分かっていないのか」が自分自身でも”ちんぷんかんぷん”のはずです。
小学生なりに自分の”許容量”の限度一杯まで分かりたいと思えば、たとえ相手が「こんなことも知らないのか、こんなとんでもない”誤解”をしているのか」と感じたとしても、”質問”というボールを投げ”答え”というボールを受ける--------”キャッチボール”を自分が納得できるまでしない限り、少なくても私自身は、「自分が何を分かっていないのか、どんな初歩的な”誤解”をしているのか」が分からなかったのです。
その”質問”も、知識や能力もないおそまつな私では「ど真ん中にストレートを投げる」しかなかったのですが、その結果”答え”も変化球でななく「ど真ん中のストレート」で返ってきたのです--------そしてそれはおそまつで能天気な私にとってはきわめて有効な”対処の仕方”であったため、その後「私の基本的スタイル」になっていくのです。

素直で率直なボールを投げるという”アクション”は、思いもしない剛速球が返ってきて負傷しかねないという”リアクション”と常に「背中合わせ」であることを、痛い思いをしながら私は”学んで”きました。
正直に言って、「聞かなければよかった、言わなければよかった」と後悔したことは10回や20回ではありません。
その中でも最大で今でも忘れられないのは、以前にも書いたことですが、昭和六十年代前半に”不用意な一言”のために、早福酒食品店の二階の部屋で早福岩男さんの”立会い”のもとに、当時朝日酒造の常務取締役工場長であった嶋悌司先生(元新潟県醸造試験場長)に夜の9時から深夜3時まで「お叱りを受け続けた」ことです。


これも以前のに何回も書いていることですが、嶋悌司先生は”怖い”のが分かっていてもつい寄っていってしまう”魅力と面白さ”が身体一杯に詰まっている先生で、その楽しさについ”油断”して分不相応な発言でもしようもなら「”フルブースト”でお怒りとお叱り」が飛んできました。
この夜(というか深夜)、嶋悌司先生がお帰りになった後の私はさすがに”参っており”かなり疲れていたことも手伝い、相当”ふて腐れて”いました。
その私の態度を見て真剣に諭してくれた早福岩男さんの”言葉”も含めて、この夜の出来事は、私にとって本当に忘れられない思い出です。

何回も書いていると思うのですが、嶋悌司先生は”怖い”と同じ分量だけ”優しい”先生でした。
現在の私は、6時間も”叱り続けて”下った嶋悌司先生と、その嶋先生のお気持を受け止めきれずに”ふて腐れて”いた私を諭して下さった早福岩男さんには、本当に感謝の気持しかありません-------その夜の嶋悌次先生や早福岩男さんの年齢に近くなった現在の私は、6時間も叱り続け立会い続けることが「どんなに大変な”作業”であったか」を実感できるからです。
たぶん私は、”怖さ”と”優しさ”の両方の”恩恵”を嶋悌司先生から受けてきたのかも知れません。


素直で率直なボールを投げ、返ってくるボールを受けるというキャッチボールの最初の数年を送った私は、ほんの僅かですが以前よりは日本酒が分かるようになっていました。
しかしそれはゼロが0.001になったようなもので、それだけでは”どうしようもない”レベルのものだったのです。
私にとってこの”キャッチボール”の数年で得た一番大きなものは、過去に書いた記事から引用した”出来事”を目撃し体験したことでした。
それは、自分の店の中で”ふて腐れて”いるだけでは絶対に見ることも知ることも無かった光景でした。
そのときまでの”つまらない”と思えた私の日常には存在してないだけではなく、想像すらできない”日常”であり想像すらできない”人達”の造り出している”世界”だったからです。
私はそれまで知ることの無かった日本酒を造る人達の姿をとうして、無意識のうちに私自身にとっての”日本酒の姿”を探ろうとし始めたのかも知れません。

妻からも息子からも、「昨日のことももう忘れている」と批判されている私ですが、20年~30年前の”出来事”は引用した記事に書いたこと以外もよく覚えています。
たぶん、新潟淡麗辛口に出会う以前の私の日常が”モノクロの画像”だとしたら、〆張鶴・宮尾酒造に出会った以降の日常が”カラーの画像”に変わったような驚きの連続だったため、今もその鮮やかさの細部まで明確に記憶の中に存在しているからかも知れません。


この記事の冒頭に引用したように、書画・骨董に例えると、私が最初に出会った日本酒であった〆張鶴は私にとって”本物”でした。
おそまつで能天気な私なりの、その”本物”〆張鶴・宮尾酒造、故宮尾隆吉前社長、宮尾行男現社長との最初の数年の”キャッチボール”の中で、私は「”本物”の持つたたずまい、空気、雰囲気、そして日本酒を造ることへの”向き合い方”」を本当にほんの少しづつでしたが感じてきたように思われるのです。
そして〆張鶴・宮尾酒造以外の酒蔵を訪れたとき、〆張鶴・宮尾酒造と比べて「違和感を感じるか感じないか」を私は一番大事な部分として”意識”し始めるようになったとも思われるのです---------この最初の数年で私は「〆張鶴という”ものさし”」を幸運にも持ち始めていたのです。

「〆張鶴という”ものさし”」をスタートした時点で持てたことが、現在の私の日本酒に対する”感じ方と考え方”の原点になっていることは、私自身も否定できない大きな”事実”です。
鶴の友について、鶴の友について-2のシリーズを書き終え、そして鶴の友について-3を書き始めている現在の私は、鶴の友・樋木尚一郎社長の影響を強く受ける「地酒本来の役割と規模を追求すべきという”考え方”」の信奉者であることも否定できない事実です。

「超有名な知名度と一万石級の規模を持つ〆張鶴も、Nさんが言う”地酒本来の役割と規模”の酒蔵なのですか?」--------批判とも質問とも区別できないような”質問”をされることがあります。
「確かに〆張鶴・宮尾酒造は、その知名度も販売石数も蔵の規模も外観も昭和五十年代と比べれば大きく変わっていることは、私も否定することはできない。
その全国的に高い知名度、一万石級の販売力だけで”判断”すれば「〆張鶴・宮尾酒造は村上市の地酒の蔵として存在している」と言うには無理があるかも知れない。
しかし私は増大した販売力、まるで変わった蔵の規模・外観ほどには、〆張鶴・宮尾酒造の”中身”が変わっているとは思えない---------」

この日本酒エリアNの中で、私が出会ったころから30年以上をかけて〆張鶴・宮尾酒造が3倍前後の販売規模に拡大してきたことは、何回も書いています。
同時に、もし〆張鶴・宮尾酒造が「自ら積極的に販売数量の拡大を目指したとしたら」不可思議と言うか整合性に欠けると言うか矛盾と言うべき”非合理性、非効率”が存在していることも何回も書いています。
その最たるものは、蔵の姿を大きく変えざるを得ない状況の中で、近所とはいえ瓶詰めラインと精米工場を蔵の外に出すという”非合理性、非効率”を甘受してまでも、創業の地である上片町で酒を造り続けていることです。
効率、合理性という点から考えれば、製造石数に見合わない窮屈なスペースのため”非効率”を強いられる現在の蔵から「新しい場所に移り、規模に見合った新しい蔵」を造ったほうが自然ですし、コスト的にも当然有利だとおそまつで能天気な私ですら分かる”簡単な事実”です。

これも何回も書いていることですが、10年ほど前に、「〆張鶴・宮尾酒造に、現在の上片町を離れ新しい場所に蔵を移すという”動き”がある」という噂が”業界の一部”に流れ、私の耳にも聞こえてきたのですが、その噂を教えてくれた知人に私は、「〆張鶴・宮尾酒造が、私個人が知る限りにおいては、とうていそうゆう”動き”をするとは信じることは出来ない」---------------と私個人の”感想”を言ったことを覚えています。
日本酒業界の”現役”だった知人が言うことですので、「ほんの少しは何らかの根拠、動きと言えるものがあったのだろうとは私も理解できますが、その知人は最後まで納得しませんでしたが、私自身にとっては「有りえないと感じること」だったのです。
そしてその数ヵ月後、私は村上に行くこととなったのです。

残念ながら、平成10年ごろに村上市に行き〆張鶴の宮尾行男社長にお話を伺ったのが、私の”一番最近の〆張鶴訪問”なのですが、そのときの”蔵の景色”は最初に行かせていだだいたときと比べ大幅に変わっていました。京都の町屋のように、間口は狭いが奥行きが驚くほど深い敷地で、村上の町中と言える上片町に〆張鶴は存在しています。正面の入り口のたたずまいも事務所の雰囲気もまったく変わっていませんでしたが、その奥の蔵のスペースは様変わりしていました。 蔵の中ほどにあった、故宮尾隆吉前社長の趣味の絵を描くためのプレハブのアトリエがあったころの”風情”はまるで無く、酒蔵としても”武骨”になっていました。

「私の寝室にエアコンを入れようとしても、その室外機の置き場所にも苦労しているんですよ」と久しぶりにお会いした宮尾行男社長が苦笑いされて話されたくらい、スペースの余裕がまったく無くなっていたのです。私は何回も書いたとうり、”能天気な極楽トンボ”ですがそれを自覚していたので「分からないことはストレートに質問する”癖”」が昔からありました。 そのころ「〆張鶴は、限界に達した上片町から移転して新工場を造ることを考えている」という噂が業界の一部で流れていて、私の耳にも聞こえてきました。私は、「自分が知りうる範囲では有りえない」と思っていましたが、道をはさんで本当にすぐの反対側であっても瓶詰めラインを蔵の外に移すことは、非常に非効率でふつうではなかったのも事実だったのでストレートに宮尾行男社長にお聞きしました、「移転して新工場を造るという噂は事実なのでしょうか。またこれ以上の増産を本当にお考えなのでしょうか」と。

「新工場の件はまったく考えていない。またこれ以上の増産も、先ほどのエアコンの話のようにできる状態でもないしするつもりもない」  宮尾行男社長らしい穏やかな口調ながら、ストレートな答えが返ってきました。

もう十年近く、蔵にお邪魔していない私は現在の〆張鶴の販売石数がどれほどかは分かりません。しかし宮尾行男社長がそう言われた以上増えてないと思っていますし、いつも見させていただいている〆張鶴 純 も増えていることを”否定”しているように、私は感じています。

鶴の友の樋木尚一郎社長とは、その形も質も現れ方も違うのですが宮尾行男社長には「梃子でも動かない何かが根底にある」と私は感じ続けてきました。たぶんその”何か”が、酒造メーカーになってしまったほうが”適正な規模”にありながら、今も”酒蔵”であり続けること要求し、「地酒としてのアイデンティティー」を忘れさせないのかもしれない、と私自身は感じています。

上記の引用は、鶴の友について-2-NO7の一部です。
http://blog.goo.ne.jp/sakefan2005/d/20071120


前述したとうり、私は酒質だけではなくその他の色々なものを含めて、昭和五十年代の〆張鶴が一番好きなのかも知れません。
30年以上前から現在に至るまで〆張鶴を飲ませていただいているのですが、特に平成の初め以降、その酒質から「昭和五十年代とは大きく違ってしまった〆張鶴の置かれている”立場、状況”と、失ってはならないと宮尾行男社長始め蔵の皆さんが強く思われている”〆張鶴・宮尾酒造のアイデンティティー”との間のバランスを取ることに”ご苦心されてきたこと”をおそまつで能天気な私なりに感じてきました。
現在の〆張鶴・宮尾酒造に存在する”非合理性、非効率”は、そのバランスを取り続けるために支払わなければならなかった”代償”だと、私個人には思えてならないのです。
そしてその”代償”を支払い続けたことが、他の有名な新潟淡麗辛口の蔵と〆張鶴・宮尾酒造との「決定的な違い」になっている-------私個人はそう思えてならないのです。


出会って30年以上になる〆張鶴を飲むとき、いろんな思い出が浮かんでは消えます。
お亡くなりになった宮尾隆吉前社長、専務時代の宮尾行男現社長から直接伺った言葉や”目撃したこと”がまるでほんの少し前のことのようにも思えます。
八海山と同時に私が最初に出会った蔵が〆張鶴だったことがいかに幸運だったかは、今振り返ると改めて痛感します。
そして「〆張鶴・宮尾酒造という”ものさし”」が、今でも日本酒と日本酒の蔵をおそまつで能天気な私なりに”判断するときのものさし”として私の中に存在していることを、改めて実感しているのです-------------。



思ったより早く〆張鶴について--NO2は書くことになったのですが、--NO3はいつになるか本当に分かりません。
できれば--NO3は、本当に久しぶりに村上に行かせてもらってから書こうと思っているのですが、その前になるかも知れません。
いずれにせよ、〆張鶴について--はもう少し書いてみようと今は思っています----------。