國権についてNO3の続き
細井専務の言われることは私も十分承知していましたが、私の”考え方”が私自身の体験に基づく”帰納法的なもの”だということは、細井専務にも理解していだだけていると思われます。
蔵、それも600石前後の販売石数の小さな造りでは、経営的にはけして楽ではありません。
小さくても”日本酒の製造”は、他のアルコール商品に比べ、手間ひまがかかるうえに他のアルコール商品と同じように”装置産業”という側面も持っています。
設備の投入は多少の労力の軽減と酒質の向上をもたらしますが、杜氏を始め蔵人の手間ひまを惜しまない造りの”根本的解決”にはつながりません。
そのうえ設備の更新や新規投入による酒質向上が、必ずしも販売総金額の向上につながらないのです。
日本酒業界にとって大幅な設備の投入が可能な場合は、同じ労力で投入した設備投資を賄えるほどの販売金額が増大する数量を造り出すことが可能なとき--------知名度の向上によって数量の大幅な拡大が見込めるときだけなのです。
しかし酒蔵も”企業”である以上、大幅な拡大に一旦舵を切ると”企業”として効率と売上高、利益の向上が最優先され酒質の維持向上の優先順位が下がっていくのが、残念ながら現実で、そのスパイラルに入った酒蔵が「地酒のイメージを纏ったナショナルブランド」になっていってしまう確率が高いのも、また現実なのです。
地酒が地酒であり続けるのは、大きな成功を収めても難しく、成功しなければもっと難しいものなのです。
地酒の蔵であり続けようとしている、細井専務の直面している”困難さ”は、おそまつで能天気な私にも、残念ながらよく理解できるのです。
設備の投入に限らず、細井専務が國権の酒質向上のためにしたいことが数多くあると思われますが、その多くを「損益計算書」が阻んでいます。
細井専務は、「損益計算書」の許す範囲の中で最善の努力を積み重ねようとされていますが、その努力にも限界があることを一番良くご存知なのは細井専務ご自身です。
私個人は、地酒の蔵であり続けようとしている蔵は、”形のうえ”では鶴の友と〆張鶴の間にそのすべてが入っているような気がしています。
”企業”としての自然で当然の利益を毀損してまでも”地酒の蔵”であることを優先する鶴の友、”形のうえ”では酒蔵の中でも最も成功した”企業”のひとつでありながら状況が許す範囲で”拡大のスパイラル”に抵抗し、地酒の蔵であることの部分をできるだけ残そうとしている〆張鶴-------対極にあると思えるこの鶴の友と〆張鶴の間には、当然ながら”差異”もありますが似ていると言うか”共通”の部分もあるのです。
有名銘柄を含む新潟淡麗辛口は昭和五十年代前半と現在では、残念ながらその姿を変えています。蔵の大きさ、知名度だけではなくその酒質が昭和五十年代とまるで”別物”になってしまった蔵が少なくない中で、鶴の友と〆張鶴(千代の光もそうですが)はそのころの酒質を維持して30年以上に渡って変わらぬ酒質をエンドユーザーの消費者に提供し続けてくれています。
30年以上前の半分強にまで販売数量を落としながら、強い”信念”で地酒の蔵としてその酒質を守り続けた鶴の友は本当に稀有の蔵で、そのご苦労のごく一部しか知らない私ですら造り続けていだだいているのは、やや大袈裟に言うと”奇跡”だとしか思えないのです。
一方、30年前に比べ3倍前後の販売数量があり、”企業”としても成功を収めた〆張鶴が僅かに醸造石数の増大の影響を受けながらも、変わらぬ酒質を維持し提供し続けてくれていることも通常では”ありえない”ことだと私個人は感じてきました。
そしてそれが、他の超有名な新潟淡麗辛口の複数の銘醸蔵と〆張鶴との”違い”だとも感じてきたのです。
一万石級の製造石数とその抜群の知名度、ひとつの都道府県あたりの正規取扱店の数がきわめて少ないにせよほとんど全国をカバーしている販売網--------これらを知る業界関係者や日本酒のファンにとって、「〆張鶴は、村上市あるいは新潟県下越地方の地酒の蔵として存在している」と言われたら抵抗を感じたり異論を持つ方は少なくないと思われます。
しかし宮尾行男社長始め宮尾酒造の皆様の意識の中では、そのように感じておられるのではないかと私は長年に亘って想像してきました。
そう感じる私なりの理由は、
- 昭和五十年代前半より宮尾行男専務(現社長)、故宮尾隆吉社長の”考え方”を直接伺える機会に恵まれただけはなく、現在ほど有名ではなかった時期に正規取扱店の一人として、その”考え方”がどのように醸造の現場や販売方針に反映していたかを私自身の実体験の中で知る機会があったこと。
- 私が業界を離れた平成3年以降、〆張鶴も日本酒ブームの中で拡大し続けていきましたが、エンドユーザーの消費者の一人として現在まで(ありがたいことに)お付き合いさせていただいている私には、”企業”として自然で当然な成長を拒んではいないが同時に出来得る限り醸造方針も販売方針も変えないという”意志”も感じられたこと。
- そして何より私の周囲にいる30年以上〆張鶴 純 を飲み続けている「吟醸会」の仲間達が、「〆張鶴は変わっていないし飲み飽きもしない」と言っていることです。
- 上記の3の事実は簡単のように思えて実はきわめて難しく稀なことであることを、私や「吟醸会」の仲間達は30年の時間の経過のおかげで実感しているからです。
かつて”業界”の人間だった私にとって、初めて出会った日本酒であり”本籍地”とも言える新潟淡麗辛口も30年もの時間が経過すると、その姿も認識も変わるほうが自然と言えます。
むしろ変わらないほうが”不自然”なのです。
変わらないためには”不自然さ”、言い換えれば”強い意志”が必要なのです。
3500石が一万石級に増えても僅かの変化はあるにしても”変わらない”ことは、鶴の友が”変わらない”ことと質や形は違うものの、実は稀で困難なことなのです。
〆張鶴の数量拡大は、4~5年ではなく、30年に亘って少しずつ慎重に計画され着実に実行されたものだ------私はそういう印象を持っています。
基本的に地元、県外を問わず〆張鶴の営業方針は「酒販小売店との直接取引」に限定されます。
新規取引には、私が取引をさせていただいた昭和五十年代前半からきわめて慎重で、
「取引する以上ただ扱っているということではなく、小売店にも蔵にもメリットのある数量でなければ取り扱いの意味がないのではないか」-------という”考え方”がその背景にあると私は感じてきました。
〆張鶴が”店の飾り”で良い場合以外は、酒販店側も、売れば売るほど数量の拡大が必要になってきます。
しかし急激な醸造数量の拡大は、酒質の向上とは”相性が悪い”ため、酒質の維持が可能な範囲での(設備の改善や設備の新規投入をして)数量拡大しかできず、その結果私が取引させていただいた最初の年から需要期(10月~3月)は割り当て、昭和五十年代後半には
「全体の醸造数量が昨年の110%になりますので、今年のNさんのお店の年間割り当て数量は同じく110%になります。月別に数を記入してありますが、月別の数量の変更はできるだけご要望にそえるようにします」-------という状況になっていました。
(事実、私の店の販売状況に合わせた頑なではない対応を、〆張鶴・宮尾酒造の皆様は可能な範囲でして下さいました)
しかし昭和六十年代に入ると、最初からこの状況を予測し「売る本数より投げる本数のほうが多くても実績を積み上げてきた」、エンドユーザーの消費者に”普通に販売していたため”店の規模の割にはかなり多いと言えた”実績”を持つ私の店でも、〆張鶴は”逼迫”するようになっていて、残念ながら新規のお客様に買っていただく1本を捻出するのに苦労する状態になっていました。
この時期私も他の酒販店の方々と同じように、〆張鶴や八海山の”需要と供給のギャップ”を埋めるため久保田の積極的販売に出ざるを得なかったのですが、この”状況”は私だけではなく、昭和五十年代初めから新潟淡麗辛口の販売を始めて先行していた酒販店のほとんどもこの”状況”に置かれていたことが、久保田の異例とも言える”大成功”の原因のひとつだと私は実感しています。
そしてこの久保田の”大成功”が、新潟淡麗辛口の先行した有名銘柄に大きな影響を与え大幅な数量拡大へと舵を切らせるのですが、〆張鶴・宮尾酒造はその方向には向かわず自分の”ペース”を守ったのです--------そしてそれが現在の新潟淡麗辛口の他の有名銘柄と、〆張鶴・宮尾酒造との「決定的な違い」となったのです。
毎年5%づつ製造する数量を増やすとすると、22年で約3倍の数量になります。
そう考えると、30年以上かかって3倍前後の石数になった〆張鶴・宮尾酒造は、拡大を自ら強い意欲を持って意図した”企業”とは、私自身は、とうてい思えません。
〆張鶴・宮尾酒造が”成功した企業”であり、地酒の蔵と言うには桁が違う販売数量を持っていることは私も十分に承知していますが、しかしその事実が必ずしも〆張鶴・宮尾酒造が「地酒であり続けることに強いこだわりを持つ蔵であること」を否定する証拠にはならない--------私はそう感じています。
〆張鶴・宮尾酒造に、批判的な見解を持つ人達の批評のすべてが間違っているとは私も思っていませんが、口の悪い人達に”新潟ナショナルブランド”と言われる他の新潟淡麗辛口の有名銘柄に対するのと”同じ観点での批評”は少し的外れのような気が私はしています。
社員の生活に責任を持つ”企業”である以上は、数量拡大による利益の拡大の追求は自然なことです-------しかしそれを最優先したとするなら、不可思議と言うか整合性に欠けると言うかそれとも矛盾とでも言うべき”非合理性、非効率”が〆張鶴・宮尾酒造に存在していると私は感じているからです。
その”非合理性、非効率”は〆張鶴の数量が増えれば増えるほど、まるでバランスを取るかのように印象が強くなってきたように思うのです。
言い換えれば”非合理性、非効率”は、宮尾行男社長始め宮尾酒造の方々が「〆張鶴がそれを失ったら自分達の〆張鶴ではなくなる」と思われている部分--------〆張鶴はファクトリーではなく”酒蔵である”ことへの強いこだわりだと私は思うのです。
〆張鶴・宮尾酒造はこの30年、その酒質の特徴と同じように、”企業”としての成功と酒蔵であり続けることのバランスを取ることに”苦心”し続けてきたように私には感じられます。
その”バランスを取ること”を支えた方法は特に珍しいものでも目新しいものではありませんでした。
- 〆張鶴の酒質向上、酒質維持を最優先する。
- そのためには酒質を毀損しない範囲での慎重で計画的な増石しかできない。
- そうすると必然的に販売も計画的販売方針を採らざるを得なくなる。
- 計画的販売方針を採るためには、〆張鶴の”考え方”を理解してくれる酒販店(小売店)との直接取引が必須になる。
- 具体的には、村上市を中心にした地元の従来の需要を大事にしながらも、昭和五十年代前半にすでに〆張鶴の”代名詞”になっていた〆張鶴 純 や特定名称酒を増石の中心にして、その時点でも〆張鶴 純 や特定名称酒に強い需要のあった関東を軸にした新潟県外の酒販店(100%直接取引で増石の範囲内で対応できる限られた軒数ですが)販売していくが、増石そのものに限界があるため「年間割り当て」にならざるを得なかった。
〆張鶴・宮尾酒造の採った方法は、上記のように、他の新潟淡麗辛口の有名銘柄とさして変わったものではありませんでした。
しかし〆張鶴・宮尾酒造はどんな局面でもこの”方法”から逸脱することなく、きわめて強い増産圧力にさらされた時期も守り続けてきたのです。
鶴の友・樋木酒造の”頑固さ”とは質的にもタイプ的にもその”違い”は大きいのですが、
〆張鶴の梃子でも動かない”頑固さ”も私は感じ続けてきたのです。
鶴の友らしさを守るため30年前の約半分強まで醸造石数を減らした、鶴の友・樋木酒造は「有り得ない”企業”」ですが、〆張鶴・宮尾酒造も酒造業界の中では「きわめて稀な”企業”」だと私個人は痛感しているのです。
そして日本酒業界にとって、ある意味で必然的と思える危機の中で「地酒らしい地酒」として生き残っていく酒蔵は、対極にあるように見えるが共通の部分をも持つ鶴の友・樋木酒造的な部分か、〆張鶴・宮尾酒造的部分を持つ必要がある--------鶴の友と〆張鶴の”考え方”の間に”考え方のベース”を置かないと生き残れないのではないか、と私個人には思われてならないのです。
以下は細井専務との会話の続きです。
かなりの冗談と笑いを含んだ様子で細井専務は、「Nさんにお叱りを受けるかもしれないが、私は純米酒が日本酒のベースだと考えていますので、私のところでは純米、純米吟醸の合計が全体の50%以上になっています」と、あからさまではないが”自負”も感じさせる口調で話してくれました。
私は苦笑しながら、「私は”純米至上主義者”ではありませんが、”純米否定論者”でもありません。純米酒を否定しているのなら30年も〆張鶴 純 を飲んでいる訳がない。
ただエンドユーザーの消費者のサイドから見て、いろいろな理由で本醸造がベースなのではないかと思っているだけです」と返答しました。
30年前と変わらない600石という数字の中で酒を造り続けていくためには、単価を上げていくのがひとつの方法であり自然な流れです。
その中で何種類かの純米、何種類かの純米吟醸、何種類かの大吟醸などを少量多品種で売り切って1本あたりの単価を上げると同時に売れ残りのリスクを低減する-------地酒として生きていこうとする小さな蔵にとって、國権に限らず多くの蔵にとって、確かに有効で効率の良い方法です。
しかしその方法は、従来からの酒のファンや酒のマニアには有効だと私も同感しますが、他のアルコール商品と”戦い”若い需要層を増やしていく”反攻”には、必ずしも有効とは言えず、総需要の拡大には繋がらないのではないのか-------という危惧も私自身は感じざるを得ないのです。
鶴の友の上々の諸白(大吟醸)、特選、純米には酒のファン・マニアからも高い評価があり、数量の少なさもあり新潟市以外の県内・県外で最も手に入りにくい新潟淡麗辛口の酒になっていますが、鶴の友の最大の価値は、二千円以下の価格であり鶴の友の中では一番下の販売価格の酒で一番数量のある上白(本醸造)が、特に日本酒のファンでもないごく普通のエンドユーザーの消費者に、飲む機会さえあれば、その美味さとコストパフォーマンスに”驚きに近い”高い評価を受けている点にあると私は思っています。
〆張鶴は鶴の友に比べやや価格が高いが、(鶴の友と比べれば販売数量が圧倒的に多いため飲める機会を得る人も桁違いに多く)鶴の友への評価と似たような評価をするエンドユーザーの人数が鶴の友より圧倒的に多いように思われます。
鶴の友・樋木酒造も、〆張鶴・宮尾酒造も”少量多品種”とは縁が無い、30年前とほとんど変わっていないシンプルな”商品構成”を守り続けています。
鶴の友も〆張鶴も、「鶴の友の何々が美味い、〆張鶴の何々が良い」ではなく、
「鶴の友だから美味い、〆張鶴だから良い」という銘柄全体への評価をエンドユーザーの消費者から受けている、と私は感じています。
そしてそれは昭和四十年代後半の、「地酒としての鶴の友はこうあるべき」という鶴の友・樋木尚一郎社長の”頑固なまでの信念”が鶴の友の酒質に反映し、「どんな状況でもこれを失ったら〆張鶴ではなくなる」------”企業”としての成長と”酒蔵であり続ける”ことのバランスを、〆張鶴・宮尾行男社長が苦心しながら常に取ってきたことが〆張鶴の酒質に反映しているからだ、と私には思えてならないのです。
國権の細井専務が、酒質向上のためにやりたいことの多くが「損益計算書の壁」に阻まれていることは、前述したとうり私にも十分以上に理解できています。
しかしそれでも私は、「國権の何々が良い------」のではなく、「國権だから美味い------」と細井専務と同世代のエンドユーザーの消費者に言ってもらえる”國権”を飲んでみたいのです。
そしてそれは”日本酒業界”で評価があり、すでに日本酒のファン・マニアの一部に高い評価のある細井専務の國権だから”目指せる目標”だとも思うからです。
あるいは私自身が見させていただいてきた、細井泠一社長の”ご苦労”よりも大きなものになる可能性もありますが、細井泠一社長が築いたベースを大切にしながらも若い世代に属する細井信浩専務の國権が造られ始めている今、細井信浩専務の思う「地酒としてどうあるべきなのか」を反映した國権が、1年、3年、5年と時間が経てば経つほどその”目標”の実現に近づいて行くのではないか---------と私は思っているのです。
そしてそれを楽しみに、できれば毎年、”國権の仕込み”を見させてもらいに2月の会津田島に行きたいと考えているのです----------。