だいぶブログの更新をサボってしまいました。
この間にいろいろなことがあったのですが、“身辺雑記的”に短く書いていきたいと思っています。
一年半開かれることが無かった「吟醸会」が夏場に開催されました。
闘病中のG来会長も、京都から来られたK原先生も久しぶりの“出席”で
会が大いに盛り上がりました。
私は少し遅れて到着したのですが、座るスペースを探すのに苦労するほど
出足も早く盛況でした。
やはり「吟醸会」は、G来会長が正面にでんと座ってないと“形”にならないことを改めて実感しました。
S高研究員ともずいぶん久しぶりでいろいろな話をしたのですが、お互いが若かった昭和五十年代後半~平成の初めにかけての「日本酒をめぐる“楽しい出来事”」がその話題の中心にありました。
私達は、確かに、面白くて楽しい「日本酒の“黄金時代”」をその最先端に接し続けながら、ともに過ごしてきたと言えると思えます。
一つ一つの出来事がつい先日のように思え、私自身の“日本酒との出会い”が三十数年以上も前であることが、自分のことながら、信じられない思いがします。
テルさんやS高さんとも以前から相談してきたことですが、三十年前の“あるひとつの始まり”をその“始まり”に参加した人間+αで、来年1月に、“明るく賑やかに区切り”をつけようと計画しています。
9月11日~23日の日程で新潟市が文化財として保存している旧齋藤家別邸で、大堀相馬焼展が開催されました。
鶴の友・樋木尚一郎社長は、かつて旧齋藤家別邸の保存運動にも深く関わり、大堀相馬焼にも深く関わっているのです。
大震災前にあった21の窯元は、浪江町内が警戒区域と計画的避難区域に設定されており、現在同じ福島県内の二本松市に製作と販売の仮設拠点として設けられた仮設工房で今は作られています。
大堀相馬焼展に展示された相馬焼のかなりの部分は、実は鶴の友・樋木尚一郎社長がかなり以前からこつこつと集めてきた樋木社長のコレクションなのです。
もちろん特別に高価なものではありませんし特別な意図を持って集められた訳ではありませんが、浪江町で焼かれた古い相馬焼がまとまって存在することは、原発事故後の現在ではきわめて大切な存在であると私には思えますし、浪江町民にとっても貴重な存在ではないかと思えるのです。
三十年以上前は誰もほとんど注目しなかった鶴の友・樋木尚一郎社長の“ボランティア活動”が、ここ十年、“形を造り上げる”大きな原動力となっている“姿”を私は見せてもらってきました。
旧齋藤家別邸で開催された大堀相馬焼展も、鶴の友・樋木尚一郎社長という原動力が働かなければ実現することが無かった-------私にはそのように思えてならないのですが、樋木尚一郎社長にとって“最大のボランティア活動”が実は「鶴の友を造り続けている」ことだという、エンドユーザーの消費者にとって本当にありがたい“事実”を知っている私には、“その事実”を知る人がもっと多くなって欲しいという気持も強くあるため「複雑な心境」なのです。
11月4日(日)、私と妻は息子の通う大学の学園祭を見るため常磐線、中央線を経由して東京郊外のK市に向かいました。
妻と一緒の県外への外出は、一年前の学園祭以来のことです。
行きの常磐線は、鉄道ファンの息子のアドバイスのとうり、新型特急E657系10両編成中の3両しかないアクティブサスペンション付の1号車の指定席を取ったため、揺れをほとんど感じない快適さのまま上野駅地平ホームに到着しました。
運良く神田で乗れた中央線特快の窓から、快晴のため美しい富士山がはっきり見え、得をした心境になりました。
上記の写真のレトロな雰囲気の時計台のある建物は、大学の図書館で外観は古びていますが、息子の話では本の貸し出しも入退館もICチップの入った学生証が無いと不可能という「近代的システム」になっているので、学生以外は入れないそうです。
上記の写真の建物は息子の通う大学のシンボルと言われている講堂です。
1927年に完成した、大学の建物としては珍しいロマネスク様式の講堂で、
同窓会を中心に寄付を募り2004年に大規模修繕・補修で創建時の姿に戻ると同時に、音響や空調設備、トイレなどの諸機能が改善されて利便性が向上して、2006年に第15回BELCA賞のベストリフォーム賞を受賞したそうです----------なお2000年に国の登録有形文化財に指定されていると聞いています。
息子は本来は混声合唱団(女子大と合同です)の所属ですが、この日だけ現役の学生と“定年退職された大先輩のOB”が合同でこの講堂のステージで男性合唱を披露するとのことでしたので、今年はこの日に来ることにしたのです。
この講堂の中で息子の参加する合唱を聞くのは初めてだったのですが、この講堂の優れた音響効果のせいなのか、あるいは親バカのせいかなかなかのレベルのように思えたのですが、それ以上に現役の学生よりも元気な年配のOBのパワーと意欲の強さに驚かされました。
息子の通う大学の学園祭は3日間で20万人の来訪者があるそうですが、
最終日の日曜日はK市のお祭りとも重なり、大学通りも左右の歩道だけではなく車道も通行止めとなり人であふれます。
上の写真はまだイベントが少なかった午前中ですが、人ごみで疲れ予定より早めに帰ろうと大学からK駅に向った15時ごろには歩道も車道も人であふれなかなか駅にたどり着かない状況になっていました。
学園祭で賑わう学内でも少しメインの通路を離れると、落ち着いた“緑豊かな景色”を見ることが出来ます。
西キャンパスの端にあるグランドのそばには、学園祭のスピーカーを使用した“音声”も微かにしか聞こえてこない「武蔵野の面影を残す“林”」も存在しているのです。
キャンパスの中に“林を残す努力”をすると同時に、上記の写真のような比較的新しい建物も、ロマネスク様式の“古い建物群”にバランスした外観に統一しているところに、K市に移転してきた昭和の初めからの“環境をも含めた伝統”を守っていこうとしている強い意思が感じられます。
息子が歌わせてもらった講堂も1年以上の工期をかけ同窓会を中心に募った寄付で7億5千万円の費用を負担してリフォームされたと聞いていますが、その事実が、大学当局だけではなく在校生、OBが一体となって強い意志で守り抜かなければ、“伝統や文化”は簡単に失われてしまうことを“逆説的に証明”している--------私にはそう思えてならないのです。
私は30年以上鶴の友・樋木尚一郎社長の“伝統と文化を守るボランティア活動”を見させていただいてきました。
最初のころは注目してくれる人がまったくと言って良いほどいませんでした。
しかし一人の人間の“強い意思の継続”がいかに多くのものを生み出すのか--------それを見せていただいたのは、私にとっても貴重できわめて大きな体験でした。
たとえ長く続いてきた伝統や文化であっても、一度失われてしまうと復活させるのは不可能に等しい至難の業がゆえに、たとえ困難があっても守り抜くべきものは守り抜き残す必要がある---------それが鶴の友・樋木尚一郎社長の“伝統と文化を守るボランティア活動”の根幹にあると私には感じられてならないのです。
そして鶴の友・樋木酒造の存在そのものが、もし失われてしまったらエンドユーザーの消費者がもう二度と出会えない貴重な“伝統であり文化である”ことを一人でも多くの人に分かって欲しい--------それがこの「鶴の友についてのシリーズ」を私が書き続けている最大の理由なのです-----------。
念のために書き添えますが、鶴の友・樋木酒造は酒蔵も住居も国の登録有形文化財に指定されています。
それもあって(それだけが理由ではありませんが)、残念ながら、
鶴の友は「減ることは有っても増えることは有り得ない酒」なのです------------。