日本酒エリアN(庶民の酒飲みのブログ)gooブログ版  *生酛が生�瞼と表示されます

新潟淡麗辛口の蔵の人々と”庶民の酒飲み”の間で過ごした長い年月
(昭和五十年代~現在)を書き続けているブログです。

鶴の友について-3--NO7

2011-12-02 20:22:37 | 鶴の友について

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上記の写真は鶴の友・樋木酒造の裏側の黒塀に書かれている鶴の絵です。

裏側といえ敷地内の奥まった所にある黒塀に書かれているので、たぶんご近所の方しか 見る機会の無い”作者不詳の鶴の絵” だと思われます。

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6月に続き10月14~15日と新潟市にお邪魔しました。
常磐道、磐越道を経由し新潟中央インターで降り関屋本村にある早福酒食品店にお邪魔し早福岩男さんのお話を伺い、その後内野の鶴の友・樋木酒造に伺う--------今回も(高速が未整備だった)三十年以上前からの私にとっての”定番のコース”どうりの新潟市行です。

以前にも何回も書きましたが、早福岩男さんは私にとって”鏡”のような存在です。
若いころ頻繁に新潟を訪れていた私の目には、お会いするたびに早福岩男さんの”姿”が毎回違って見えたのです。

もちろんそれは早福さんが”違った”のではありません。
おそまつで能天気な”何も分かっていない私“も2~3ヶ月に一回”四泊五日コース”で、八海山の南雲浩さん(現六日町けやき苑店主)、〆張鶴の宮尾行男専務(現社長)、千代の光の池田哲郎常務(現社長)、早福岩男社長(現会長)、鶴の友・樋木尚一郎社長のお話をじっくり直接伺う機会に恵まれたおかげで、さすがにほんの少しずつであっても”見えてくる”ものがあったのです。

“ほんの少し違った目”で見ると、次の機会にお会いした早福岩男さんの姿は「私にとってはまるで違って」見えるのです。
そして最初の出会いからそれが三十数年も続いているのです。
初めてお会いしたときには、私に限りませんが、早福岩男さんの”姿”は親しみやすく身近に感じられ「いつか自分が追いつけそうな”距離”しか離れていない」と思えるのです--------しかしそれは”逃げ水に似た幻”を見ているようなもので、いつまでたっても”追いつけない”のが現実なのです。

自分の中に“1mという基準”ができてないと、とんでもないことに、10mも100mも100kmも「自分より”何となく大きい”と感じるという点でまるで一緒で、まったく差が無い」と思い込む状態になり、自分と相手の間に存在する”距離の大きさ”を理解することができないないのです。
幸か不幸か、”商売以外の人間関係先行”で新潟淡麗辛口の世界に入り込んでしまった私は”自分自身の無知とおそまつさ”を自覚せざるを得ない”場所”が複数あったため、10cm程度の自分と100km先にある”逃げ水に似た幻”との距離に比較的早くに気がつき始めていたような気がするのですが、早福さんを訪れた酒販店関係者の中で”単一の視点”にこだわった人は、”逃げ水に似た幻”との間に現実に存在しているきわめて大きな距離の差をつかめていなかった人がかなり多かったような気もするのです---------。

私にとって昭和五十年代初めから続いている“恒例行事”ですが、まだまだお聞きしたいことが多いし、また年齢経験を重ねても成長が乏しい自分の未熟さを痛感させられる貴重な機会ですので、またお邪魔したいという気持が強く生じてしまうのです-------------。

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上記の写真は鶴の友・樋木酒造の正面の入り口の中の様子です。

今年は子供が東京郊外の大学に入学したため、18年ぶりに子供が家に帰ってもいないという生活を送っています。
「子供が自分の道を見つけて進んでいくときまで“預かって”いるだけだ」と強い自覚を持って時を過ごしてきたつもりだったのですが、子供が家にいない“寂しさ”は想像以上のものでした。
そしてその“寂しさ”は、父親としての“ある範囲で最低限の責任”を果たせたかという“安堵感”と背中合わせもののような気もするのです。

はたして私が良い父親であるのかは私自身にも疑問がありますが、子供が小学校高学年から高校2年になる時間の間は、電話ではよくお話を伺いましたが新潟市に出かけ直接早福さんや樋木社長のお話をお聞きする機会には恵まれなかったのです。
子供が高校3年になって元々明確だった子供自身の行くべき方向がさらに明確に親の目にも見えるようになった昨年、私は本当に久しぶりに新潟市と村上市を訪れました。
そして子供が“離陸に成功”した今年、私も元々行きたい、あるいは行くべき方向に離陸を図るべきか--------と実感し早福岩男会長、樋木尚一郎社長だけではなく出来る限り長年お付き合いさせて頂いている、〆張鶴・宮尾行男社長、千代の光・池田哲郎社長、國権・細井信浩専務のお話を伺う機会をできるだけ多くしたいと思っているのです。

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上記の写真は、正面の黒塀の内側の景色です。
できるだけ”あるがままの自然”に近い状態を楽しみ、手を入れ過ぎないという樋木尚一郎社長の考え方が感じ取れる“庭の景色”です。

いつもはバイパスを使って早福酒食品店のある関屋本村町から内野にある鶴の友・樋木酒造に移動していたのですが、今回は海沿いの国道402号を利用したのですがバイパスを使うよりも短い時間で到着することができました。

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10月の半ばですが蔵の中は“静寂に包まれ”活躍の時を待っていました。

正面を入って右側にある事務室でしばらくお話を伺って気がつくと夕方になっていたのですが、今回は田さきさんでご一緒させていただくYさんの運転でホテル寺尾経由そして前回新潟古時計展でお話を伺ったSさん宅経由で、天婦羅の田さきさんに到着したのです。

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三十代半ばのYさんと年季の入った“趣味人”であるSさんとご一緒させていただいた今回は、樋木さんと二人あるいは酒販店の方と3人の今までとは違ったものになりました。

樋木尚一郎社長は鶴の友の蔵元として知られていますが、30年以上前からの新潟市の“街おこしの先駆者”としても知られています。
YさんもSさんも“街おこし”で樋木尚一郎社長と関わりがある方なので、今回はむしろ私が“部外者”と言えたのです。

三十年くらい前から“街おこし”のお話はよく伺っていました。
見方によっては“街おこし”のお話しがメインで、「酒の話は“街おこしの話”への導入部」程度の“地位”しか占めていなかったのかも知れません。


鶴の友・樋木尚一郎社長の言動は、私の知る昭和五十年代半ばから現在までまったく同じでまったくぶれていません。
終始一貫して言動が変わらないのです。
「久保田はいつか巨大な八海山になる」--------以前にも書きましたが、この言葉は昭和六十年代初めに私が親しい酒販店の仲間にした“予言”です。
嶋悌司先生に大変お世話になり、“久保田販売の尖兵”として最前線で強力な物心両面の支援を受け着実に成果を出していた私であっても(本当に親しいごく一部の仲間には)そう言わざるを得ないほど樋木尚一郎社長の“正論”は「私自身のそうであって欲しくない」という私自身の都合を一撃で薙ぎ倒す“正しさ”があり、否定も無視することも私にはできなかったのです-----------------。

“酒の世界”と同様に“街おこし”で「一見厳しく思える“正論”」のおかげで、樋木尚一郎社長は周囲に理解者や味方が少ない“孤高の戦い”が長い間続いてきたのですが、その考え方の根幹はまったく変わることなく続きようやくここ5~6年で樋木尚一郎社長の「考え方の根幹とその継続の価値」を知りその存在を大事に思う方達が少しづつ増えてきているのは、私にとってもうれしいことです。
その中の代表的人物であるSさんとYさんと同席させてもらい、一部激論も含む“街おこし”の話を伺えたのは、三十年前からのおそまつで能天気な自分が自分なりに”樋木さんの正論”を逃げずに見据えようとした時間が思い出された、私にとっても楽しいひとときでした。

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上記の写真は樋木酒造の敷地内にあるけやきです。

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内野駅のすぐそばにありながら樋木酒造(写真は弓道場兼将棋道場の敷地内)は自然に近い緑に囲まれているのです。

鶴の友の酒質と同じように樋木尚一郎社長によって“守られて”きたものがあります。
どちらも極端に高価なものではなくかつ庶民にとって身近なものであったが時代の流れの中で消えていったものを、高額のお金を投入するのではなく、膨大で長い時間と“強い気持”を惜しげもなく投入して“守って”きたもので、現在ではどちらも貴重なコレクションとなっています。

そのひとつは米沢の上杉鷹山公により奨励され大正年間にはその姿を消したと言われる成島焼き(現在は復興)です。
高価なものではなくメジャーな焼き物でもありませんが、陶芸の雑誌が成島焼きを特集するとき、樋木尚一郎社長のまとまったコレクションは欠かせない-------と言われているそうです。

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そしてもうひとつは、それ自体が登録有形文化財の蔵の屋根裏にたくさん保管されている新潟漆器です。
まるで竹にしか見えない手の込んだ漆器とか、何も分からない素人の私にすら貴重に思えるものでさえ廃棄されかかった(料亭の廃業時などに)そうで、それらを樋木尚一郎社長“強い気持”で拾い集めてきた長い時間の結晶が“この屋根裏の光景”なのです-----------。

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思い上がりかも知れませんが、(私は北関東の人間でありますが)私は鶴の友・樋木尚一郎社長の“強い気持”が新潟淡麗辛口全体にとっていかに貴重で大切かをふつうの新潟県人より強く感じてきたのかも知れません。
そして、新潟市の“文化を中心にした街おこし”にとって鶴の友・樋木尚一郎社長の“強い気持”がいかに貴重で大切であるかをも、ふつうの新潟市民より強く感じ新潟市民を羨ましく思ってきたのかも知れません----------------------。