日本酒エリアN(庶民の酒飲みのブログ)gooブログ版  *生酛が生�瞼と表示されます

新潟淡麗辛口の蔵の人々と”庶民の酒飲み”の間で過ごした長い年月
(昭和五十年代~現在)を書き続けているブログです。

日本酒雑感--NO10

2009-06-27 15:26:59 | 日本酒雑感

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とんでもなく長い記事を書いた後なので、しばらく何も書く気が起きないだろうと思っていたのですが、どうもそうではなかったようで、自分のことながら呆れてしまいます。

何回も書いていると思うのですが、私自身は”日本酒そのものの将来”には楽観しています。
和食と同様に、若いときにその価値に気がついてなくても、いつか気が付くときが多くの人に訪れると思っているからです。
私が懸念しているのは、エンドユーザーの消費者が日本酒の「面白さと楽しさ」に気づいたとき、和食の世界とは違い、鶴の友のような「日本酒の面白さと楽しさ」を実感させてくれるきわめて貴重で大切な日本酒や蔵が、はたしてどれだけ残っているのか-------ということなのです。

誤解を恐れずに言うと、鶴の友のようなエンドユーザーの消費者にとって大切な蔵も、現在は続くか続かないかの”綱渡り”の状況にあります。

庶民の酒飲みが晩酌で毎日飲むとしたら、美味い酒を飲みたい気持が強くあったとしても、二千円を大きく超える価格では厳しいものがあります。
たまに飲むのなら五千円以上の大吟醸でも大丈夫でしょうが、毎日飲むとしたら二千円前後の価格がひとつの限界になります。
二千円の酒には、価値に比べて、きわめて安い二千円の酒もきわめて高い二千円の酒もあります------まさに”玉石混交”なのです。
”玉”と”石”が同じ価格なのですから、当然ながら”玉”のほうがかなり少なく、そして採算という点でも”玉”は”石”に比べ厳しいものがあります。
”石”だけを飲んでいると実感できないのですが、同じ二千円でも”石”と”玉”には実に大きな”差”が存在しているのです。
この”主観的事実”については、鶴の友について-2--NO2(http://blog.goo.ne.jp/sakefan2005/d/20071006)に引用させて頂いた、鶴の友の地元の内野育ちの”羊さん”の、短いが的確にしかも柔らかく「その本質」を指摘した達意の文章を見ていただいたほうが、私の”作文”よりはるかに分かりやすいと思われます。

”玉”の二千円の酒が、”ふつうのレベルの大吟醸”を超える美味さを持っていることは、実際にあることで特に珍しいことではありません。
現実に私や「吟醸会」の仲間達にとっては、自分達が三十年に亘って感じてきた”主観的事実”なのです。
おそらくは8,000~12,000円ぐらいはするだろうと思える大吟醸や純米大吟醸より、自分達がごくふつうに飲んできた〆張鶴 純 や千代の光吟醸造り、そして鶴の友特撰・別撰のほうが美味いのではないか-------それが、90回を超える「吟醸会」の中で、少なくはない数の大吟醸も飲ませて頂いた私達が感じてきた”実感”なのです。
それゆえ私や「吟醸会」の仲間達にとっては、「銘柄の名前が有名か、特定の名称であるか」ではなく、その酒や蔵が「”玉”なのか”石”なのか」が一番の”重大事”なのです。 

私は昭和五十年代初めより、私なりにその蔵の酒を見させて頂くときに、その蔵で一番価格の安い”ローエンド”の酒と一番価格の高い”トップエンド”の酒を同時に飲ませていただくようにしてきました---------単におそまつで能天気なだけではなく、「酒の”さの字”も分からなかった」私にとっては一番良い”方法”だと思えたからです。
”ローエンド”はそれ以下にならない酒質の”水準”を示し、”トップエンド”は到達している酒質の”高み”を私に教えてくれたのですが、時間の経過の中でわたしは複数の蔵の酒を”ローエンド”どうし、”トップエンド”どうしで比べるようになっていったのです。

〆張鶴、八海山、千代の光を取り扱っていたためその三つの蔵の酒を”フルライン”で知っていた私でも、鶴の友の”酒質”を知ったときには「衝撃」を感じざるを得なかったのです。

鶴の友の大吟醸である上々の諸白、(昭和五十年代前半のそのときもそして現在もたぶん飲んだことがある人が極めて少ない)非売品の大吟醸の到達している”高み”にも驚いたのですが、”ローエンド”の上白(当時は2級酒)には驚きを超えた「凄さ」を感じたのです。
何回も書いてますので詳しくは述べませんが、しっかりとした味の厚みやふくらみがありながら〆張鶴や八海山に勝るとも劣らない”切れ”があり、しかも私が知る”ローエンド”の酒の中でもその価格が一番安かったのです。

おそまつで能天気な私は、鶴の友に最初に出会っていたらおそらくは、鶴の友の”凄さ”をまるで分からなかったと思われます。
〆張鶴、八海山、千代の光の酒質を知っていたがために、「矛盾が矛盾ではなくひとつの酒の中にごくふつうに存在している」鶴の友の”凄さ”を感じることができたと思われるのです。

”新潟の酒の神様”のような存在だった、嶋悌司先生(元新潟県醸造試験場長)の唎酒の”凄さ”を、垣間見せていただく機会が私にはありました。
当然のことながら、酒の研究者でもあり技術者でもあった嶋悌司先生の唎酒のレベルは、
酒の素人の私には理解不能なレベルであり、私が一生かかっても足元にも近寄れないと痛感させられました。
自分の酒に対する”知識と能力”のおそまつさに自分自身で呆れながらも、私は「酒を造るプロ」ではなく、駆け出しとはいえ「酒を売るプロの立場」の人間だから、(もちろん得ようと思ってもとうてい無理でしたが)酒造りのプロの水準の”知識と能力”は必要無く、「酒を売るプロの立場」に必要な”知識と能力”を身に着けることに努めるべきだ------とも痛感させられたのです。

「酒を売る立場の人間に必要な”知識と能力”」とは、おそまつで能天気な私がたどり着いた私なりの結論は、「その酒が価格に対して高いか安いか、価値があるのかないのかを判断できる”知識と能力”」ではないのかというものでした。
言い換えると、(当時の私はその難しさもまるで分かっていなかったのですが)その酒や蔵が”玉”なのか”石”なのかを判断できる”知識と能力”があればいい-------というものでした。
しかし、「そうだ、そうすべきだ」と思うのは簡単でも、それを実現するのはおそまつで能天気な私にとっては想像以上の”困難な大事業”だったのです。

現在の私個人は、その酒が「玉か石か判断する方法」はふたつあると感じています。

  1. そのひとつは、酒を直接比べてみて判断することです。
  2. ”プロ中のプロ”の嶋悌司先生のような唎酒能力があればその酒単体で判断できますが、残念ながら”造りの素人”の我々にはとうてい無理なことですが、”素人”でもAという酒とBという酒を直接同時に比べることで”ある程度の判断”が可能になるのです。
  3. 例えばAが軽トラックでBがスバルのレガシーとすると、AもBもそれしか運転しなければ「別に何とも」思いませんが、Aに乗った直後Bに乗ったら”その違い”は感じざるを得ないはずです。
    ましてやAとBの”価格”が同じか、むしろAのほうが高かったら”考え込んで”しまうはずです。
  4. その際、Aが芸術品のような、インタークーラー付きの水平対向4気筒ツインターボ(ブースト圧可変)+スーパーチャージャーの660CCエンジンを搭載しているため(実際には存在しないエンジンですが)、Bより価格が高くても軽トラックは軽トラックなのです。
  5. ゆえに直接同時に比べることは「きわめて大事」なことだと、私個人は感じ続けてきたのです。

ふたつめは、

  1. 自分自身の判断、あるいは人のアドバイスで”玉”だと思える酒を飲み続けることです。
  2. 毎日でなくとも定期的にある程度の長期間飲み続けることで、自分の中に”基準”ができます。
  3. ”基準”ができると、目の前の酒と自分の身体が覚えこんでいる”基準の酒”と無意識に比べている自分に気が付くようになります。
  4. そうなると、「”玉”の中にもレベルの差があり、”石”の中にもレベルの差がある」ことにだんだん気が付いてきます。
  5. そしてそのうちに、”玉石混交”の場合は必ず”玉”を、”石”しかない場合でも一番レベルの高い”石”を自然に選べるようになっていく------私自身は私自身の体験でそう思えるのです。

言葉で書くと”難しい”ようにおもえますが、以上のふたつの”実行”は実は簡単でありしかも
「面白くて楽しい」ことであり、越えなければならない”ハードル”も低いのです。

上記のように、”玉石混交”の中で”玉”を見つけて選んでいくのはさほど”難しい作業”ではありませんが、その酒や蔵がなぜ”玉”であるのかの”理由を探る”のは私自身の体験では”難しい作業”だと痛感しています。
「その理由を”論理的”に探る」ためには、嶋悌司先生のような幅広い知識と能力と奥行きの深い”実体験”が必須であり、おそまつで能天気な私にはとうてい無理だからです。
しかしその点においても、私は「運が良かった、入り方が良かった」と思えるのです。

「日本酒の”にの字”も知らず」に人間関係先行の”流れ”で、新潟淡麗辛口に”接する”ことになってしまった私は、「その理由を”論理的”に探る」能力が皆無であったため「違う方法」をとらざるを得なかったのです。
「違う方法」といっても”意図的”にそうしたのではなく”結果として”そうなっただけなのですが、私自身が”玉”だと思っていた〆張鶴、千代の光、そして鶴の友-------その蔵や蔵元に接する機会をできるだけ多くし(蔵に行くことが単に楽しかっただけなのかもしれませんが)、その共通項を帰納法的に探ることで”玉である理由”を見つけようとしたのかも知れません。
そしてその「違う方法」が、とてつもなく長い時間がかかったにせよ「なぜ”玉”であるのか」の私なりの理解と、ありがたいことに今も続く新潟淡麗辛口の世界の皆様との「比較的濃密な人間関係」を造ってくれたように思えるのです。

現在の私個人は、あくまで私個人の考えに過ぎませんが、「”玉”であるかどうか」の判断の一番大きな部分は、人にあると感じています。
もちろん、酒の造りの技術的部分を担う杜氏や蔵人の皆さんの”お人柄や考え方”も大事ですが、致命的に重要なのは蔵元の「お人柄と考え方、そして何を一番優先するのか」なのではないかと感じてきました。

私が新潟淡麗辛口に出会った昭和五十年代前半とは違い現在は、残念ながら、「”玉”であり続けることと企業としての”存続”」は、ある意味で「正解の無い”矛盾”」だと私には思えてならないのです。
〆張鶴・宮尾酒造のような企業として成功した酒蔵も、企業としての当然の利益を毀損しても蔵元が優先すべきことを優先してきた鶴の友・樋木酒造のような酒蔵も、この「正解の無い”矛盾”」に対峙し続けてそのバランスを失わないようにご苦労をされてきた-------言い換えれば、”玉が玉であり続けた”のはきわどいバランスを蔵元個人の”ご苦心”で支え続けてきたからだと私には思えてならないのです。
そして蔵元個人の”ご苦心”にも限界があると私には思えてならないのです。

一人でも多くのエンドユーザーの消費者の庶民の酒飲みの皆さんに、「玉か石か判断する方法」を身近な酒で試して頂きたいと、私は切望しております。
〆張鶴や千代の光、そして鶴の友に限らず「”玉”の蔵や”玉”の蔵を目指して」いる蔵が、たとえ数が少なくても必ず存在しているはずだと思うからです。
今まで蔵元個人のご苦心で”玉”であることが支えられきた蔵であっても、「玉であることを守りながらの存続」が、現在は難しい時代になっています。
「”玉”であることを守ってきた蔵」ほど、「”玉”であることを守れなくなった」とき酒蔵の存続を選択しない時代になっているのです。

そんな時代だからこそ、”玉”の酒を、”玉”の蔵を正当に判断して頂けるエンドユーザーの消費者の庶民の酒飲みが、私は一人でも多く増えて欲しいのです。
それが実現できなければ、日本酒そのものは存続していても、私自身が「面白くて楽しい」と強い魅力を感じ大きな影響を受けた、失ったら二度と現われることの無い「”玉”の酒や酒蔵」に、(現在高校生の)私の息子の世代は出会うことが不可能になり日本人が受け継いできた良き伝統のひとつが失われることになる------との強い危惧を今私は感じています。
そして”失うこと”をほんの少しでも避けるために、思い上がりかも知れませんが、自分自身ができる範囲を”拡大”せざるを得ないことも、強く実感しているのです--------。


日本酒雑感--NO9

2009-01-24 12:49:06 | 日本酒雑感

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さて今シーズンは、久しぶりに、仕込みの時期の國権(南会津)を訪ねることになりそうです。
その目的のひとつは、私達の”吟醸会”のベース基地の東屋のテルさんのご長男の光っちゃんと國権の仕込みを一緒に見せてもらうことにあります。

私にも経験があり分かる部分が多いのですが、親の仕事、特に自営業は、息子にとっては子供のころから見ているため”好ましい”ものではないのですが、同時に理屈ではなく肌の感覚で分かってきた面もあり、いつの間にか”跡継ぎ”になってしまっていることに、微妙に”不本意な部分”も残ってしまうのです。

たぶん”酒を語るコミニュティ”としては「吟醸会」は、手前味噌ですが、けっこう優れているのではないかと思われますが、光っちゃんにはやや”抵抗”があり入り込みにくかった面もあったようにも思われます。
京都の料理学校、そして店での修行を終えて帰ってきてからの数年間は、父親の”鮨職人”としての部分には共感を覚えても”酒”の部分には、なかなか親しみを感じられなかったのかも知れません。
しかし最近は、光っちゃんと酒の話をする機会が増えています。
テルさん始め「吟醸会」のメンバーと國権酒造とは”半分親戚のような”長いお付き合いがあり、仕込みのシーズンに蔵を訪ね絞ったばかりの”ふなぐち”を”馬鹿話”を肴にして飲むという「恒例行事」があり、それに運転手として「参加させられて」から、酒に対する親しみと興味が幾分沸いてきたようです。

私自身ももちろんそうですが、光っちゃんは「鮨店の跡継ぎ」であって酒造りの職人ではありませんから、自分の立場で必要な知識があればいいのではないかと思われますが、”能書きや理屈”だけではなく自分の肌で感じたものがなければ(自分自身が面白くて楽しいと感じていなければ)、酒の面白さも楽しさも光っちゃんを通じては相手に伝わらないのも”事実”だとも思われるのです。
自分が面白くて楽しいと感じているから、酒と酒にまつわることをより知りたくなり、それを人にも伝えたくなる--------それを”拡大再生産”し続けているうちにふと気がつくと、「自分には縁が無いし敷居も高い」と思い込んでいた”日本の文化や伝統”が身近なところにある自然なものに見え始めている------それが日本酒の最大の”魅力”であり”最大の”価値”だと私は思っています。
そのことに比べれば、幻しだからとか希少品だからとか造り方が”特殊”だからということは、
私個人の中では優先順位はあまり高くありません。
〆張鶴や鶴の友のように、その酒を飲むことが面白くて楽しいと感じる人が古くから数多く存在した結果としての”逼迫状況”もありますが、逼迫して入手困難な酒だからそれを飲むことが面白くて楽しいかは”別問題”だからです。
若いころは、造り方や酵母、原料米などの”データ”は私自身にとっても重大なものでしたが
今は造る人の”気持”がどれだけその酒に入っているのかが一番大事なもののように思えます。

神戸に大黒正宗という酒を造っている蔵があります。
大震災以前に約二万石の製造石数があった蔵が、多くの施設を失いご家族の中にも震災の犠牲者がおられた状況の中で、震災前の100分の1の石数であっても造り続けることを”選ばれた”尋常ではないと思われる蔵です。
酒に関しては、新潟淡麗辛口が”本籍地”の私にとって灘はまったくの空白地帯でしたが、新潟淡麗辛口でできた”人の縁”で、くわしいことは何も分かりませんでしたが名前は知っていました。
〆張鶴や千代の光、國権そして鶴の友とは違い蔵元を直接には知りませんが、人の縁が数年前に尼崎の山本酒店山本正和さん(山本さんにも直接お会いしたことはないのですが----)につながったことで、大黒正宗という酒と蔵をより知ることができるようになったのです。
大黒正宗がどんな酒であるかは、山本さん始め大黒正宗の特約店や熱狂的ファンの皆様のブログを見ていただければ-------と思っています。

山本酒店ブログ  「街の酒屋のつぶやき」
           (http://www.geocities.jp/sake_yamamoto/

私は、その達意の文章を引用させていただいている新潟市の”羊さん”以外のブログには
あまりコメントをさせていただいたことはないのですが、昨年の12月末に開設された蔵の公式ブログの大黒正宗ブログ(http://blog.livedoor.jp/daikokumasamune/)にコメントをさせていただきました。
私が直接知ることのなかった安福啓子専務の、「通院」、「震災から14年」というふたつの
”率直な気持”が入った記事を読み流すことができずに、私の立場では失礼にあたるのではないのかとは思ったのですが、コメントを書かせていただいたのです。

このふたつの記事は、北関東に住む”部外者”の私にも大黒正宗という酒に込められた蔵元の”気持”を十分に知らしめています。
エンドユーザーの消費者、特に神戸や兵庫県の庶民の酒飲みにとって大黒正宗は”ありがたい酒”ですが、新潟市の鶴の友と同じように、蔵元が「込めた気持を守り続けながら酒を造る」ために払う”犠牲”が大きくなり続ければ、残念ながら飲めなくなる日がいつか来てしまいます。
このような”気持”を造る酒に込めている蔵はきわめて”貴重”だと思っていますが、自然保護と同様に「恩恵を受ける側が恩恵を与えてくれる側が存在し続けるためのコスト」を負担しなければ”残らない時代”になっているのです。
北関東の住民で、ときおり大黒正宗を飲ませていただいているだけの”部外者”の私にとっては、”自分の分”をわきまえていないとは思うのですが、「込めた気持を守り続けながら酒を造る」ことの大変さは、30年お付き合いさせていただいている鶴の友(樋木酒造)を見てきて、
自分がお世話になるばかりで何も貢献できていないことも含めて、”痛感”せざるを得ないのです。
ありがたいという感謝の気持と一年でも長く酒を造り続けて欲しいという希望を私が感じさせていただいている鶴の友は、いつも大変さと背中合わせの小さな蔵ですが約800石(一升瓶換算で8万本)の販売石数があります。
しかしそれでも職業としての”貸借対照表”を見れば、止めてしまったほうがよっぽど楽なのです。
その鶴の友以下の販売石数でしかない現在の大黒正宗が、今後20年、30年と造り続けていくためには、今の熱狂的な蔵にとってありがたいファン層を大切にしながらも、今のファン層以外の地元神戸、兵庫県を中心にしたエンドユーザーの消費者に、大黒正宗を知ってもらう試みが必要になってきているのではないか-------”部外者”の私個人にはそう感じられてならないのです。

原酒が大黒正宗の”根幹”であるという”こだわり”を守りながら、加水しても大黒正宗らしさを失わない15~16度(個人的には15.5~15.8度くらいかと”根拠”はありませんがそう感じています)の、味の幅とふくらみを残しながらも冷やで”切れ”の良い本醸造、純米の「慎重で計画的な開発」がその試みの”核”になるのではないか-------個人的にはそう感じています。

大黒正宗について勝手なことを書かせていただきましたが、”部外者”の私であっても20年後、30年後に飲ませていただけるように、神戸、兵庫県のエンドユーザーの消費者の中に大黒正宗を支える人が一人でも多く増えて欲しい------それをお願いしたいだけなのです。

さて、光っちゃんとの國権行きですが、私にとっても仕込みを見るのは5~6年ぶりになりますので楽しみにしています。
私の経験でもそうでしたが、初めて仕込みを見ても「何が何だか分からない」はずです。
何も分からなくても、特に若いときに、見ていたことは後々の”財産”になります。
見ていたからこそ、「なるほどそういうことだったのか」とあとで分かることが多いのです。
そして蔵との”キャッチボール”の回数が増えれば増えるほど、分かることが多くなりさらに面白くて楽しくなってくるのですから-----。
そしてテルさんが、國権酒造の細井泠一社長とも30年近いお付き合いの”歴史”があり昭和50年代半ばの八海山や〆張鶴そして伊藤勝次杜氏の純米生酛が、造られるのを実際に見てきた”得がたいキャリア”を持つ、相手に自然に素直に「酒の面白さと楽しさ」が伝わる貴重な”酒飲みの先達”であることに、光っちゃんが気がつく”きっかけ”になるような気もしていますがそれも私にとって楽しみなのです-----------。

                               國権について--NO3に続く


日本酒雑感--NO8

2009-01-02 23:16:31 | 日本酒雑感

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誤解のないように最初に書いておきますが、
私は”生酛”に対して「否定的見解」を持っている訳ではありません。
”生酛”により造られた酒が「過去形」になりかけていた昭和50年代半ばより、未来に向かって現在を生きていくという意味での「現在進行形」に、自ら造る”生酛”をもっていこうと”普通ではない努力”を亡くなられた平成8年まで続けてこられた伊藤勝次杜氏を身近に感じて見てきた私が、「否定的見解」を持つはずもありません。
伊藤勝次杜氏(平成元年より醸造部長)と頭の金田一政吉氏(平成元年より杜氏)が15年をかけて「現在進行形」にしてきた”生酛”と同じように、生酛であろうとなかろうと”庶民の酒飲み”の傍らに自然に存在し自然に飲まれているのか-------もし「現在進行形」であることよりも「伝統の生酛造りという形」を継承していることを重視しているとしたら、20年後、30年後はたして生酛はそのときも「庶民の酒飲みの傍らで自然に”生きて”いられるのか」-------そのことに私は弱くはない”危惧”を感じ、現在の”生酛の世界”に弱くはない”違和感”を感じてはいますが、それは「否定的見解」とは違うものではないのではないか-------私はそう思っているのです。

短く浅い接触でしたが、忘れられない大木幹夫杜氏の言葉が私にはあります。

「伊藤勝次杜氏ですか? 私らとは比較にならない”神様”みたいな存在ですよ。
あれだけの生酛をあれだけの量造れるのは物凄いことで、とうてい私らにできることじゃありませんよ」------もともと伊藤勝次杜氏のいた蔵とは取引があったのですが、この一言が私の興味と関心が生酛と伊藤勝次杜氏の方向に強く向かうきっかけになったからです。
                         (國権について--NO2より抜粋)

昭和50年代前半に3年連続で全国新酒鑑評会で金賞を受賞した國権の杜氏であり、
その直後”ヘッドハンティング”で月桂冠に引き抜かれ、近年まで月桂冠昭和蔵の杜氏として
活躍された大木幹夫杜氏の言葉を改めて思い返し、國権について--NO2を書いていくうちに
ふと浮かんでくることがありました。
杜氏の大集団である南部杜氏の中でも、若手実力派として評価の高かった大木幹夫杜氏の言葉は、キャリア的にも年齢的にも”南部杜氏の長老格”だった伊藤勝次杜氏に対する”社交辞令”の部分もあったと思われますが、その口調からそれだけではないことを誰でも十分に感じ取れるものでした。
”同業者”だけに大木幹夫杜氏は伊藤勝次杜氏の”もの凄さ”を実感されており、すべてを含めても600石(一升瓶換算6万本)しか造っていないご自身に比べ、生酛だけでも3000石(一升瓶換算30万本)を造っていた「伊藤勝次杜氏の仕事」に気が遠くなるような気持を感じておられたと思われます。
速醸酛に比べられないほど手間と時間を費やし、より”自然の摂理”に向き合わなければならない生酛で3000石造るなんてことは自分には出来ない-------その時の大木幹夫杜氏の言葉は”本音”だったと私には思われます。

「伊藤勝次杜氏は昭和50年代前半まで、(少なくても販売する酒としては)生酛の純米も吟醸酒も造っていなかったが、それは技術的に”造れなかった”のではなく、技術的には造れても”造らなかった”のではないか」--------大木幹夫杜氏の言葉を思い出しているとき、何故だかは分からないのですが、ふとそんな”仮定”が私自身の中から浮かんできました。
もしこの”仮定”がある程度の”正しさ”を持つとすると、私が感じていた”疑問”に私なりに納得できる”解答”を導き出せる--------という”考え”もこの”仮定”と一緒に浮かんできたのです。

いかに生酛一筋の杜氏だとしても、直前の酒造年度に本醸造生酛を造りだし発売した経験があったにせよ、一年であれほど見事な「生酛らしさと淡麗化をバランスさせた」純米吟醸レベルの純米生酛を造れるものだろうか?
もしこの”仮定”がある程度の正しさを持つとすれば、それは”高い確率で可能”という結論になります。

浮かんできた私なりの”仮定の過程”を以下に列挙します。

  1. 南部杜氏の長老格のベテラン杜氏が、ご自身が造っていなかったとしても、
    吟醸造りの手法を”知らない”とは考えにくい。
  2. 南部杜氏自醸酒鑑会等で、南部杜氏の造り出す大吟醸は”見続けて”いたはずで
    その造り方を含めて吟醸造りを知っていた-------と考えるほうが自然だと思われる。
  3. 全国に広がる杜氏の大集団である南部杜氏の横のつながりを介して、
    伊藤勝次杜氏は、昭和40年代後半から50年代前半にかけて大きく変化していく
    ”日本酒の流れ”を、蔵の上層部や営業部よりつかんでいたのではないか。
  4. その”日本酒の流れ”とは、エンドユーザーの消費者の「食生活のスタイルの変化」が、
    糖類の添加を必要とするほどの量の醸造用アルコールを投入されて造られていた
    日本酒に「親しみもなければ関心もない」消費者を若い世代を中心に生み出しており
    灘、伏見のナショナルブランド(NB)を中核として地方の蔵もそれに追従してきた、従来の日本酒の需要層が高齢化し(まだかなりのボリュームがあったにせよ)減少し始じめた”流れ”でした。
  5. しかしその”流れ”と同時に、ナショナルブランド(NB)に代表される従来の日本酒が、
    ”にせもの扱い”される中でそのアンチテーゼとして純米や本醸造、吟醸酒に力点を
    置いた地方の蔵が、新潟をその大きな”核”として評価され始めていたことも、
    伊藤勝次杜氏は感じていたと思われます。
  6. ご自分が造りだし速醸酛とブレンドされた”形”でしか市販されていない生酛の需要層が”高齢化している”事実”を認識されていた伊藤勝次杜氏は、ご自分の生酛が
    「現在進行形」ではなく「過去形」になっていまう可能性があることを感じ取っていた。

それゆえ”アンチテーゼの側の蔵”と認識してもらう必要性を伊藤勝次杜氏は
強く感じておられ、遅くても昭和50年代の初めには(少なくてもご自分の”醸造部”の権限の範囲内で)、そのための”試み”を始めていた-------そう”仮定”すると納得がいくのです。
そして”試み”は次のような”形”をとったのではないかと思われるのです。

  1. その当時はたとえ蔵だけではなく酒造業界全体に功績のあった杜氏であったとしても、
    その”身分”は季節雇用の「酒造技能者」でしかなかったのです。
  2. どのような”形”で酒をどれだけ造り、どれだけ売っていくか-------は蔵の”上層部”が決定する”事項”であり、その”決定事項”にそって酒を実際に造っていくのが「酒造技能者」である酒造りの”職人の立場”だったのです。
  3. 蔵の方針として純米生酛や吟醸生酛はおろか”単体の生酛”の発売もしていない以上
    伊藤勝次杜氏の”試みの選択肢”は限定されていたと思われます。
  4. 3000石の生酛を造りながらただの1本も生酛単体で発売されていないことは、
    造る立場の”酒造りの職人”にとっては残念なことだったと思われますが、その反面”試み”には有利な”環境”と言えました。
  5. 将来の可能性のために、”発売を前提としない”純米を生酛で実験的に数本造ってみたい。そしてその純米も他の生酛と同様に、速醸酛で造った酒とブレンドして販売する------その”お伺い”は蔵の”上層部”にとっても拒否する必要性のないものだったと思われます。
  6. 本醸造や吟醸ではなく純米を伊藤勝次杜氏が選んだのは、技術的な理由だけではなくご自身が蔵人として最初に出会った酒がすべて生酛で造られた純米であったことも、影響を及ぼしていたと思われます。

昭和40年代後半から50年代前半にかけての時期は、純米酒は現在に比べてきわめて少ない量しか存在していませんでした。
その少ない量の中でも、「飲んで美味い純米酒」はさらに少なく、ややおおげさに言うと
”砂漠の中でダイヤモンドを探す”ようなものだったのです。
当時のほとんどの蔵にとって、純米酒そのものを造ることは難しいことではありませんでした。
ただし普通に純米酒を造ると、重くて、くどくて、しつこい-------「純米三悪」と言われたくらい
”酒の柄”が悪くなり、糖類の添加を必要とするレベルの大量のアルコールを投入された酒のほうが「まだしも飲みやすくて旨い」--------今振り返ると、”笑い話”のような状況が現実にあったのです。
速醸酛に比べ桁違いの醗酵力を持つ酵母を育ててしまう生酛で、重くて、くどくて、しつこい-----の「純米三悪」にならない”柄の良い純米”を造ることは、簡単な”作業”ではありません。
伊藤勝次杜氏、頭の金田一政吉氏をその中心にした、3000石の生酛を造ってきた、
この蔵の”南部の蔵人集団”にとっても、簡単には越えられない”高いハードル”が純米生酛だったのです。
その”高いハードル”を越えるため、私個人の”想像”ではですが、伊藤勝次杜氏は以下の手順を踏んだのではないかと思われます。

  1. 酛も醪も従来どうりだが、(当然ながら)アルコール添加をせずに醗酵を進め、日本酒度をプラスに入る前後まで”切って”上槽した純米生酛実際に造って、麹、酛、醪、
    貯蔵、熟成の”経過”を見る。
  2. そして翌年、前酒造年度の純米生酛の酒質の”不満足な点”を改善するため、麹、酛、醪のどれかかあるいは全部に”変更”を加えその”経過”を見る。
  3. さらにその翌年も2.を繰り返し、そして年を経るごとに”実験”のための純米生酛の本数が増えていったとも思われます。
  4. 4~5年の”実験”の結果、伊藤勝次杜氏は強い醗酵力を持つ生酛で”酒の柄”が良く綺麗な純米を造るためには、吟醸酒の手法を取り入れ純米吟醸を造るようなつもりで酵母の醗酵力を押さえ込むのがいいのではないか。
  5. そしてその吟醸酒の手法も、南部杜氏の華やかで香り高い吟醸酒の手法よりもより徹底して低温で酵母を押さえ込む、嶋悌司先生(元新潟県醸造試験場長)が強いリーダーシップを発揮され評価の高まっていた新潟淡麗辛口の吟醸造りの手法のほうが純米生酛には”相性が良い”-------伊藤勝次杜氏はそう感じられていたのではないか------私にはそう思えてならないのです。
  6. 1~5の”想像”が仮に正しいとすると、”発売されていない”生酛単体の酛米、麹米が五百万石で麹が突き破精(つきはぜ)タイプであったことと、私が”違和感”を感じなかったことの”説明”がつくのです。

以前に何回も書いていますが、新潟淡麗辛口は低温での醗酵に適し良い意味で「醗酵力があまり強くない」協会10号酵母をできる限り低温の環境下で醗酵させ、意図的に醪日数が長くなるような造りをして、「酒を造っているより”酒粕を造っている”」と言われるくらい粕歩合の高い白米からの酒化率が低い(原料の白米からできる酒の量が少なくコストが高くなることを意味しています)、出品大吟醸の造りから”得られたもの”を惜しみなく投入されて意図的に造られた、吟醸酒にきわめて近い市販酒--------それが新潟淡麗辛口の”本質”だと私個人は思っています。

低温で長期の醪日数により吟醸酒レベルの”淡麗化”を果たしながらも、”切れ”にバランスしたふくらみをもつ〆張鶴、燗をしても崩れないやわらかできめ細かいしっかりとした”味わい”を持ちながらも新潟でもトップレベルの”切れ”をも持つ鶴の友--------他県の市販酒を”淡麗化”で圧倒しながらも”淡麗化の負の側面”がまるで無いのは、新潟県産の酒造好適米の
五百万石の”おかげ”だということは、そのころにはいくらおそまつで能天気な私でも少しは”実感”できていました。

「軽くて切れが良い酒は蔵が一生懸命に造ろうすれば造れるし、しっかりとした味があってふくらみのある酒も造れる。しかしだN君、軽くて切れのある酒は素っ気なくて薄っぺらになりがちだし、味があってふくらみのある酒はややもすると重くてくどくなりがちだ。
軽くて切れが良いということと味があってふくらみがあるということは、N君、残念ながらふつうの場合”二律背反”で、ひとつの酒の中に矛盾無く”実現”することはきわめて難しい。
俺は嶋先生とは違い酒の技術的なことは何も分からないが、新潟淡麗辛口は君がよく行っている〆張鶴ひとつとってみても、軽くて切れが良いがやわらかなふくらみがありけして素っ気なくもなかれば薄っぺらでもない。 それはもちろん嶋先生や蔵元、杜氏の努力の成果だと思うが、新潟県産の五百万石という酒造好適米のおかげという面もあるとも感じている」

これは私が新潟に行き始めて1年ほど経ったころに、早福岩男早福酒食品店社長(現会長)に伺ったお話です。
新潟県の酒蔵107場のすべてを訪れ、嶋悌司先生と”親しい関係”になるほど新潟県醸造試験場に通った”実績”があった、この時期の早福さんが「酒の技術的なことが何も分からない」としたら、現在の私は「酒の”さの字”すら分からない」ということに自動的になってしまいますが、昭和50年代前半のこの時期に(たとえ私がほとんど分かっていなかったとしても)、
このお話を早福さんから伺えたことは、大きな”幸運”でした。
そして早福さんは、さらに私にとって重要で大きなことにつながるお話もしてくれたのです。

「ここから近い内野という所に鶴の友という銘柄の酒を造っている樋木酒造という蔵がある。
本当に”頑固”な蔵で、取引先の酒販店も新潟市とその近辺しかないし新規の取引はすべて断っていて本来の意味での”新潟市の地酒”に徹している。
鶴の友は、五百万石にこだわり一番価格の安い2級酒にも使っているのだが、その五百万石の数量が少ないため必然的に販売石数も少なくなってしまっている。
この鶴の友の酒質は”不思議”としか言い様がないもので、新潟淡麗辛口の中でもトップレベルの”切れの良さ”を持ちながら米の旨みとしか言えないしっかりとした味があり、しかもその味が燗をしても崩れない”強さ”に支えられている-------蔵元の樋木家や風間杜氏の姿勢を五百万石という”米の力”が手助けしているとしか思えない酒質なんだ」

このような話を聞けば、当然ながら、”万難を排しても”鶴の友という蔵に行きたくなります、
ましてや早福さんの近所なのですから--------。
「断られるとは思うが、行ってみたくなるだろうな-----」、と微苦笑を浮かべながらも早福さんは樋木酒造への道順を教えてくれたのですが、それは今振り返ると、現在の私に至る大きな
”道しるべ”のひとつでした。
”鶴の友への道”のその後の展開は、「鶴の友についてシリーズ」に書いてありますがそれはともかく、私は新潟に行き始めた早い段階で、五百万石を麹米に使うと”軽くて切れの良い”淡麗な酒になりやすく、酒のあらゆる工程で”手抜き”をしない時間をかけた丁寧な”造り”をすると、その五百万石が”素っ気なくて薄っぺら”になることをも防ぎ-------淡麗化にバランスしたやわらかさやふくらみをも与えてくれるという”事実を知る機会”に巡り合っていたのです。

昭和50年代半ばの私は、現在の私ほど”その事実”を明確には意識していませんでしたが、”その事実”から強い影響を受けていて、それが”〆張鶴というものさし”を私の中に造り上げていたと思われるのです。

伊藤勝次杜氏の本醸造生酛は、新潟淡麗辛口ほど”淡麗化”はされていませんでしたが、
”その事実”を巧みに駆使して生酛らしさを保持しながら、”生酛の負の側面”を押さえ込み綺麗で切れがあり冷やでも熱めの燗でも美味い酒質を、1600円前後の価格で実現した素晴らしい市販酒でしたが、吟醸酒的要素を十分に感じるものでしたが吟醸酒と言うには少し”淡麗化”が足りなく、私自身も吟醸酒レベルとは言い切れませんでした。
しかし本醸造生酛は、エンドユーザーの消費者、その中の若い需要層にも受け入れられる”資格”を持ちながらも、伊藤勝次杜氏が受け継いできた生酛の”本質”を失ってはいない、ありがたくて”凄い酒”だったのです。
何事もなければこの蔵と私の”交渉”は終了して、私は「大勢の取引先の酒販店の一人」という本来の立場に戻るはずでした。
幸か不幸か、”事件”がこの蔵との”交渉”に私を引き戻すことになったのです。

好意で手助けしてくれた先輩に、結果として、その好意に泥を塗ってしまった私は”追い込まれて”いました。 しかし今でも、幸か不幸かよく分からないのですが、本醸造生酛の市場での評価とその評価の高さが引き起こしたとも言える”事件”のおかげで、”交渉”は前回と比べて”やり易く”なっていました-------”追い込まれて”いたことと”やり易く”なっていたというふたつが私をして、伊藤勝次杜氏に純米生酛発売への”お願い”をさせたのです。

「純米というハンデ付きでお願いするのは本当に申し訳ないのですが、淡麗辛口には出せない生酛らしい味の厚みを持ちながら淡麗辛口のように ”切れ”の良い純米を生酛で造って欲しい」という ”無茶な”なお願いでした。
この純米の生酛が無いと状況が改善出来ないと続ける私に、”IK杜氏”はしばらく無言でした。 「やはり無理なお願いだったなぁ」と落胆し始めた私に、「Nさんの言う酒は大変に難しい。難しいが、それが飲む人の要望ならやってみるしかない。酛の段階から一から見直しやってみましょう」と答えを返してくれました。

                        (長いブログのスタートですより抜粋)

私はかなり難しいかもしれないが、伊藤勝次杜氏ならできるはずだという”直感と確信”を感じていました。 その”直感と確信”は、本醸造生酛で伊藤勝次杜氏が駆使されたと私が感じていた”その事実”に支えられていました。
このときの伊藤勝次杜氏の”長い沈黙”は、何を意味していたのか?
現在の私は以下のように仮定というか想像しています。

  1. 例年どうりの造りに本醸造生酛の本数も増える状況で、純米生酛の製品化は蔵人、特に頭(かしら)、麹師(こうじし)、酛師(もとや)、釜屋(かまや)に過大な負担を与えることにならないか
  2. 何とかなるとしても、醪の本数を調整して負担の軽減は考えなければいけない
  3. 本醸造生酛と純米生酛は別な酒と考えなければならないが、今までの”実験”の成果で対応できるか?
  4. ”蔵の方針”として純米生酛を発売するのであれば、ぜひ造ってみたいし造る以上は飲む人に喜んで飲んでもらえる酒を造りたい

1~4のことに思いをはせながら伊藤勝次杜氏は”長い沈黙”をされていた-------今の私はそう感じていますし、伊藤勝次杜氏ご自身は「純米吟醸レベルに淡麗化された純米生酛は造れる」と思っておられたとも私は感じています。 結果から言うと私の”直感と確信”は、間違ってはいなかったのかも知れませんが、どのように純米生酛を造り上げたのかは、やはり残された”手がかり”をもとに想像するしか方法がないのです。 そして最大の”手がかり”は私自身が飲んだ、昭和57年に発売された純米生酛の、私自身の”記憶”だったのです。

私個人が”手がかり”をとうして推測できたことは、

  1. 4~5年の”実験”の結果、生酛らしさと淡麗化がバランスするポイントが”ある範囲”にあることは伊藤勝次杜氏は掴んでおられた
  2. 本醸造生酛の発売は”実験の範囲”の拡大のチャンスだったが、発売自体が微妙なバランスにより支えられたもので、本醸造生酛の市場の評価しだいでは今後の”生酛単体の発売”も危うくなる危険もあったため、”安全性”を重視した造りになった
  3. その”安全性”とは、従来の生酛らしさをあまり押さえ込まず綺麗さと切れの向上に重点を置く------というリファインの観点の造りではなかったかと私は思うのです。
  4. それに対して純米生酛は、蔵全体が”行ける”との好感触を得ている状況下で蔵全体のサポートが期待できていたし、コストよりも”酒質”を実現できるかの方が”優先順位”が高かったと思われます。
  5. そこで伊藤勝次杜氏は、本醸造生酛のときにも脳裏に浮かんでいた「冒険だが成功する確率が高い冒険」に踏み切ったと思われるのです。
  6. その”冒険”とは、「純米吟醸レベルに淡麗化された純米生酛にバランスするポイントまで、生酛らしさを押さえ込む」という、本醸造生酛のときとは”逆の発想”の造りではなかったのか。
  7. そして”成功する確率の高さ”とは、”ある範囲”にあるポイントを実際に見つけ出すためにその”ある範囲”を埋め尽くせば確率は100%に近くなる------ということだったのないかと想像できるのです。
  8. 具体的には、吟醸酒にとって一番大事な麹を微妙に変えて(もちろんそれによって酛も醪も変わってきます)発売予定本数(タンクの本数)の数倍を仕込み、ポイントに当たったと伊藤勝次杜氏が判断した醪だけが実際に純米生酛として”発売”されたのではないか-----現在の私はそう思っているのです。

初めて市販される純米生酛が実際に造られている時期、私がこの蔵を訪れたときの話ですが、伊藤勝次杜氏直々に麹室、酒母室を案内していただき醪の醗酵タンクにたどり着いたとき、伊藤勝次杜氏が珍しく冗談を含んだ口調で、
「この醪はNさんに”注文された”純米生酛だけど、これはうまくいった醪。隣も純米生酛だけどこれはちょっと駄目でNさんには買ってもらえそうもないかなぁ」と気持ち良さそうに笑顔を浮かべられた後で、なぜその醪が駄目そうなのか説明して下さったことがありました。
26~27年も前のことですがよく覚えていたのは、伊藤勝次杜氏のそんな愉快そうな表情を見るのが初めてで珍しかったからです。

今振り返るとこのときの私は、単におそまつで能天気なだけではなく、救いようのないほど”間抜け”で穴があったら入りたい心境になります。

通常なら、蔵の部外者でも感じざるを得ない緊迫した”空気”に包まれている仕込みの最盛期の時期に、仕込みの責任者である伊藤勝次杜氏が微かに”悪戯心”を感じさせるような上機嫌な様子で私に、”目の前”の純米生酛の醪ではなく”隣り”の純米生酛の醪が駄目そうなのか説明してくれていることを、なぜ私は「不思議なこと」と思わなかったのか-------本当にこのときの私は”間抜けの王様”でした。
「淡麗化にバランスするポイントまで押さえ込まれた生酛らしさ」-------きわめて幅の狭い、きわめて小さいポイントを、伊藤勝次杜氏が見事に捉えた純米生酛の醪を目の前にしながら、まるで私にはそれが”見えてなかった”のですから-------。

伊藤勝次杜氏は”意地悪”でそうされたわけではなく、秋には分かってもらえるだろうことをあえて自慢げに言う必要なないだろうというお気持だったと思われますが、「ちょっと”抜けて”いるところがNさんらしくて面白い」と絵に描いた”コメディの主人公”のような私の姿に、笑いをこらえられなかった”状況”をも楽しんでおられたのだと思われます。

この話は私の”間抜けさ”の証明であると同時に私の”仮定の根拠”のひとつでもあるのですが、さらに伊藤勝次杜氏のいた蔵と私と関係をも”象徴”しているようにも今の私には感じられるのです。

ここまで書いてくると、書く必要もないのかも知れませんが、
「伊藤勝次杜氏はなぜあの時、私のとんでもないお願いを聞いてくださったのか?」
この”疑問”に対する私個人が私なりに納得できた”解答”は、
「伊藤勝次杜氏はそのレベルの純米生酛を造れたから」というシンプルなものです。
私の”お願い”が、伊藤勝次杜氏の純米生酛に影響を及ぼした点があるとすれば、
その純米生酛を昭和56酒造年度(56BY)に製造し昭和57年に発売するという”時期”の決定だけだったのです。
しかしこの”時期の決定”が、結果として、伊藤勝次杜氏の生酛にとって「小さくはない影響」を与えたことも”事実”と言えました。
久保田の発売に代表される新潟淡麗辛口の”大攻勢”が全国を席巻する直前に、新潟淡麗辛口の得意とする”軽みと切れの良さ”に”対応できる切れ”を獲得し、新潟淡麗辛口がやや苦手とする”味の幅や丸み”に強みを持った上で熱めの燗でも崩れないという”個性”を持つ伊藤勝次杜氏の純米生酛が存在したことは、この蔵にとっても生酛全体にとってもきわめて大きな幸運であった------私個人はそう感じられてならないのです。

まるで、「淡麗辛口にあらずんば酒にあらず」と言われてるかのような、昭和50年代後半から平成6年ごろまで続いた、「他の地方蔵をブルドーザーのように圧倒した」新潟淡麗辛口の大攻勢の中でも、鶴の友の”きめ細かくしなやかで骨太の淡麗化”(申し訳ありませんが、鶴の友を実際に飲んだ人しか分からない”表現”かも知れません)に似た”淡麗さ”を持つ伊藤勝次杜氏の生酛は、「生酛であることがプラスではない生酛にとって”冬の時代”」であっても”違和感”を感じさせることなくエンドユーザーの消費者に飲まれ、その本来の特性である
”味の幅や丸み”に強みを持った上で熱めの燗でも崩れないことを”個性”として受け止め認知してくれる人達を、エンドユーザーの消費者の中に少しづつですが増やし続けていたのです。
そして伊藤勝次杜氏がお亡くなりなる平成8年前後に、「行過ぎた淡麗化に対する反動が顕在化し」、新潟淡麗辛口のアンチテーゼとしてその対極にあった生酛に”スポットライトが当り始め”、生酛の認知度と評価が高まることになったのです。
この大事な時期の、平成8年11月から9年の1月の二ヶ月間に、伊藤勝次杜氏(平成元年より醸造部長)、金田一政吉杜氏(平成元年より杜氏)のお二人を続けて失ったことがきわめて大きな”痛手”であったことは想像に難くありません。
残されたこの蔵の”南部の蔵人集団”が、その痛手を乗り越え生酛を造り続けてきたことは賞賛に値すると私も思いますが、「冬の時代の生酛を支え春に向かって進んできた」お二人の生酛とは違った面が出てくるのはある意味で自然でやもを得ないことでした。

生酛であることが大きくプラスに働く現在のこの蔵は、日本酒全体の地位が低下しシェアを落し続けている中で、”冬の時代”に比べ大きく拡大した生酛という日本酒のひとつの”カテゴリー”の中のトップブランドであり、”生酛の世界”のナショナルブランド(NB)とも言うべき地位にあります。
そのためではないと思われますが、伊藤勝次杜氏の生酛に存在していた、私個人にとって一番重要な”淡麗さ”-------ごく普通の庶民の酒飲みに”違和感”を感じさせない”淡麗さ”の印象がかなり弱くなっている-----そう現在の私個人が感じているので、生酛に関心のある人なら誰でも想像できる伊藤勝次杜氏がいた蔵の名前と銘柄を、あえて私は書かないのです。

今振り返ると、ごくふつうのおじいさんにしか見えなかった伊藤勝次杜氏は凄い杜氏でした。
自らの受け継いだ生酛の、客観的に見て”滅びかけていた冬の時代”にも生酛一筋に造り続け、ご自分の生酛を平成の時代へ向けて”現在進行形”であり続けられる酒にするためならば、おそまつで能天気で”間抜け”な私の言葉でも、ほんの少しでもプラスあると思われれば真摯に受け止めご自分の生酛に反映させようとされていました。
昭和50年代半ばから平成の初めにかけての、この伊藤勝次杜氏の「普通ではない努力の集積」が、現在のこの蔵の地位も生酛全体の認知度と評価をもたらしたと私は思っています。 その”功績”の大きさは、伊藤勝次杜氏の生前も正当に評価されているとは思えませんでしたが、亡くなられて十数年がたった今ではその事実自体を知る人がいなくなりつつあります。
昭和50年代半ばの生酛にとって”冬の時代”から昭和が終わりを告げた平成元年まで、
私は蔵の外部の人間としては、一番近くで伊藤勝次杜氏の”仕事”を見せてもらった一人だと思います。
「否定的見解」がほとんどだった時期も、それに影響されることなく生酛一筋に造ってこられたのは、酒造りの職人としての”誇りと自覚”からだったと思われますが、私はそれだけではなかったように感じていました。
なぜなら伊藤勝次杜氏との”キャチボール”の中で、「飲む人の要望がそうであるならば」、
「飲む人の立場から見てそうであるならば」という言葉がいつも出ていましたし、直接エンドユーザーの消費者の感想を聞く機会がきわめて少なかった”冬の時代”であっても「飲んでくれる人のために手は抜けない」という伊藤勝次杜氏の言葉をいつも私は聞いていたからです。

私は生酛は日本が世界に誇るべき”文化でもあり伝統”だとも思っていますが、”文化や伝統”は庶民の傍らに自然に”存在”していなければ、受け継がれたとは言えないのではないかとも思っています。
昭和50年代に入る前に生酛を止めた灘、伏見のナショナルブランド(NB)が生酛を復活させたり、かつて生酛に「否定的見解」を持っていた蔵まで生酛に”新規参入”している現在の状況は、伊藤勝次杜氏のいた蔵の現在の”上層部”や昭和の時代から生酛を造ってきた”老舗の生酛の蔵”にとっては「春か初夏の季節」に見えていると思われますが、
生酛の”冬の時代”を知っている私には、少しづつですが確実に冬に向かっている「秋の気配」を感じる”景色”に見えてならないのです。
はたして現在の生酛と”生酛の世界”は庶民の酒飲みに支えられ、庶民の酒飲みに身近で日常的なものとして存在しているのか--------伊藤勝次杜氏の時代よりエンドユーザーの消費者との距離ができ、庶民の酒飲みに”敷居の高い存在”になっているのではないかという
”危惧と違和感”が、たぶん私に「秋の気配」を感じさせているのかも知れません。


平成3年に業界を離れ、平成8年に伊藤勝次の訃報を聞いたとき、私にとっての生酛は”終わって”いたと私は感じてきましたし、その後この蔵を訪ねたことはありませんでした。
しかし業界を離れても私は、〆張鶴、千代の光そして鶴の友との”人間関係”はありがたいことに切れずに続き現在に至っています。
その新潟淡麗辛口の蔵を中心にこの日本酒エリアNを書くことで昭和50年代前半から平成3年までを”再体験”した-----と以前書きましたが、伊藤勝次杜氏の生酛もその例外ではありませんが詳しく書くことはあまりありませんでした-------その私が今回なぜここまで詳しく書いているのかにようやく気が付きました。
この日本酒雑感のNO3~NO8はおそまつで能天気でしかも”間抜け”でもあったその当時の私が知りえたことに現在の私が知りえたことを加えて書いた、平成8年の11月22日雪の降る寒い日におこなわれたと聞いた伊藤勝次杜氏の告別式に参列できなかった私の、十数年遅れの”長い長い弔辞”のようなもので、今が書くべきタイミングなのだということに--------。
そして、たぶん”空耳”だとは思いますが、「Nさんはちょっと抜けているところが面白くていい」という故伊藤勝次杜氏の懐かしい声も聞こえたような気もしたのです--------。

                    日本酒雑感--NO9または國権について--NO3に続く


日本酒雑感--NO7

2008-12-03 17:03:18 | 日本酒雑感

20071026_010 

生酛や山廃の、生酛系の絞ったばかりの”ふなぐち”を、飲んだことがある人はあまりいないと思われます。
たぶん、その”ふなぐち”を飲まれたら、舌がしびれるような”ビリビリしたごつい味”に、「かんべんしてよ----」と弱音を吐くか、二度と飲もうと思わなくなるのかの、どちらかなのではないでしょうか。
しかしその”同じ酒”が、熟成期間を経て秋になると、不思議なことにきわめて丸くやわらかくなります。
その”丸みややわらかさ”は、新潟淡麗辛口と対照的なものです。
ごつくて硬い長い岩を、やすりとサンドペーパーで長い時間をかけて削って磨いて造った”柱”が感じさせるような、滑らかで存在感のある”丸みとやわらかさ”なのです。
味の幅もあり、厚みもありますが、”切れが良い”ので重さやくどさはまるで感じず、ましてや荒さやごつさもまったく残っておらず、”丸くてやわらかい”としか言いようのない酒-------もちろんひやでも美味く、冷やしても美味く、熱めの燗にすると”丸みややわらかさ”に包まれていた”強いもの”が現れ、”丸みややわらかさ”を強固に支え崩さない-------それが私を強く引き付けた、伊藤勝次杜氏の”生酛”なのです。

(日本酒雑感--NO4より抜粋)

上記は、昭和56酒造年度(56BY)に伊藤勝次杜氏が造り出した昭和57年に発売された純米生酛に対する私の感想そのものです。
「生酛で造った淡麗タイプの純米吟醸」-------純米生酛は一言で言えばそう表現できます。

生酛で造る酒が私が感じていたように、”博物館入り”している酒ではないこと、若い需要層にも十分に受け入れられる酒であることを”証明”するために、どうしても”この酒質”が必要だったのです。
そして私は、伊藤勝次杜氏のブレンド用に造られていた”生酛”を、最初に飲ませていただいたいた時から”この酒質”をある程度”想定”できていました。
なぜなら、〆張鶴という”ものさし”を持っていた私があまり”違和感”を持たず、肌の感覚はむしろ共通の部分を感じていたからです。
造りかたもその成り立ちもまったく違う、伊藤勝次杜氏の”生酛”と新潟淡麗辛口のトップレベルの〆張鶴のある部分がよく似ていることを、意識することなく自然に感じていたからなのかも知れません。

この ”状況”をリカバ-するため、私は ”IK杜氏”に、今思っても ”とんでもない”お願いをすることになります。

それは、「純米で生酛を造って欲しい。ス-パ-ドライを見て分かるように、残念ながら酒としていくら凄くても、”切れ”が悪ければ評価されず飲んでもらえない。純米というハンデ付きでお願いするのは本当に申し訳ないのですが、淡麗辛口には出せない生酛らしい味の厚みを持ちながら淡麗辛口のように ”切れ”の良い純米を生酛で造って欲しい」という ”無茶な”なお願いでした。
この純米の生酛が無いと状況が改善出来ないと続ける私に、”IK杜氏”はしばらく無言でした。 「やはり無理なお願いだったなぁ」と落胆し始めた私に、「Nさんの言う酒は大変に難しい。難しいが、それが飲む人の要望ならやってみるしかない。酛の段階から一から見直しやってみましょう」と答えを返してくれました。

その純米の生酛は素晴らしい酒でした。
純米で造った生酛の市販酒でこれほど ”凄い”ものは現在に至るまで見たことがありません。
”素養”に欠けた私でも、自分が受け継ぎ自分が改良を加え確立してきた ”生酛”にかなりの ”変更”を ”IK杜氏”が行ったことが感じとれました。
酛には一ヶ月以上かかるが醪は高温で短い造り方を見直し、醪を低温で長く引っ張り酒を造っていると言うより ”粕”を造っているという造りを前提に、その中で酵母がよく働くと同時に ”働き過ぎない”ように酛を変更する-----それは、蒸し、製麹の変更も含み、どうしても変えられないもの以外は ”ぶち壊した”ことを意味していました。
生酛が ”家元”でもなく、”宗家”でもなく、「博物館入り」していない、身近にある ”庶民の楽しみ”であることを ”IK杜氏”は証明してくれたのです。
「純米生酛大吟醸生酒」は、その延長上の ”究極の生酛”でした。 それゆえ、私は一人でも多くの人に味わってもらいたかったのです。(”IK杜氏”の生酛は、飲んだ人間の”記憶”の中だけにしか存在しない”本当の幻の酒”になってしまいました)活字マスコミやネット上で、その”中味”が「博物館入り」しているかどうかではなく、まるで ”絶滅危惧種”の動物のように、”造り方”にのみ関心が集まる現状を見て、どのような”感想”を持ったのか、”天国にいるIK杜氏”にぜひ聞いてみたいと私は思っています。

                      (長いブログのスタートです 2005年8月---より抜粋)

私が伊藤勝次杜氏に強く”お願い”した純米生酛は、現在の基準で見てもきわめて高い「純米吟醸」のレベルにあった〆張鶴 純 を強く意識したものでした。
〆張鶴 純 と同じようなレベルの「純米吟醸」を生酛で造り、それを純米生酛として出して欲しいという「とんでもないお願い」でした。

ある意味で、”素人同然の駆け出しの酒販店”の私だからできた「とんでもないお願い」だったのですが、なぜか私には「伊藤勝次杜氏なら造れるはずだという”確信”」がありました。

”確信の素”は、もちろん本醸造生酛の酒質でした。
日本酒雑感--NO6に書いた私の”直感”を裏切らない素晴らしい酒でした-------〆張鶴という”ものさし”との共通の部分がよりクリヤーに酒質に反映しながらも、新潟淡麗辛口にはない”厚みと丸み”を「切れの良さ」が際ださせているように、私には感じられた酒質でした。
それは私や私の周囲の”庶民の酒飲み”だけの評価だけではなく、最初で(結果として)最後になる”お願い”をして本醸造生酛の”発売”を助けてもらった、池袋甲州屋酒店児玉光久店主も同じような評価をしてくれたのです。

この時期(昭和50年代半ば)児玉さんは、地酒業界の”スター的存在”になりつつありましたが、同時に「吟醸酒」に強く惹かれ全力で「吟醸酒」に取り組んでいた時期でもあったのです。この時期の「吟醸酒」は、ワンカップの吟醸酒まである現在とは大きく違う、「吟醸酒」を手に入れ販売することはきわめて難しいことだったのです。
新潟淡麗辛口の吟醸酒も、関東信越国税局の春、秋の鑑評会や全国新酒鑑評会に出品するために造られたかそれに近い形でしか造られていず、市販している蔵のほうが”珍しい”時代だったのです。
〆張鶴の大吟醸も、1.8Lで12本と720ml(なるべく多くの人に飲んでもらえるようにあえて
720mlにしていただいて)60本の私の”割り当て実績”ですら、「えー、N君はとんでもなく多い実績があるんだ。羨ましいな-----」と言われるくらい希少だったのです。
八海山においても大吟醸は存在していましたが”非売品”で、蔵に行かせてもらったときに飲ませていただくことが”可能”で、きわめて運が良ければ500mlの瓶に詰められた大吟醸を1本お土産として頂けた--------事実上ほとんど飲めないに等しい状態だったのです。
そんな”状況”の中で、「吟醸酒」中心の販売方針をとることは大きな困難と”背中合わせにならざるを得なかったのです。

八海山におられた南雲浩さん(現六日町けやき苑店主)のご紹介で、児玉さんに最初に会わせてときも私の店よりはるかに多い蔵と取引を児玉さんは取引をされていましたが、この時期「吟醸酒」を手に入れるために取引先を拡大していました。
「本当は吟醸酒だけ売っていたいんだけど、残念ながら、そうはいかない。
蔵にしても数量が少ない吟醸酒だけ売って欲しいというのは無理な話だろうしね------」
取引先を拡大することは、ひとつの銘柄あたりの本数が少なくなることを意味していました。
〆張鶴においても当初大きな差があったのですが、私は〆張鶴、八海山、千代の光の3つしか主力銘柄がなく「月桂冠を売るように〆張鶴を売ってきた」ため、児玉さんの取り扱い本数との”差”が詰まり”逆転”が見えていました。

この時期の「吟醸酒」には、魅入られてしまう”魔力にも似た魅力”がありました。
コストも販売することも一切考えず、鑑評会で他の吟醸酒と「極限の淡麗化と吟醸香」を競うためだけにその蔵の”限界ぎりぎり”で造られたのがこの時期の「吟醸酒」だったのですから-----。
私自身もこの時期の「吟醸酒」をいまだに忘れられず、いつも脳裏に浮かんでいます。
児玉さんが「吟醸酒」に強く惹かれていった気持は、私にも良く分かります。
児玉さんほど力も無く、有名でも無く、そしてその時期にすでに私個人がおぼろげながら感じていた、〆張鶴宮尾行男専務(現社長)と早福酒食品店早福岩男社長(現会長)そして鶴の友樋木尚一郎社長を結んだ「基準線」から外れないないようにしようとしていたため、「吟醸酒」にのめり込むことができなかっただけなのですから--------。

「吟醸酒巡礼」の真っ只中にあった児玉さんが、本醸造生酛の発売を手伝ってくれたのは、
出来の悪い後輩の私への”思いやり”だったと思われますが、本醸造生酛の酒質に対する
評価は”思いやり”ではありませんでした。

児玉さんは、この時期、「吟醸酒」に接する機会もその知識も酒販店の人間としては、数少ないトップレベルの一人でした。
新潟淡麗辛口の蔵から始まった「吟醸酒巡礼」は、この時期全国の蔵にまで拡大していました。
その児玉さんが、「吟醸酒ではないのは残念だけど、これだけの酒質でこの価格(1600円前後だったと記憶してしています)だったら皆んな大歓迎だと思うよ」との感想を私に伝えてくれたのです。
この児玉さんの言葉は、吟醸酒と比べれば欠点が見えるものの吟醸酒を飲み慣れた児玉さんも、私と同じように”違和感”を伊藤勝次杜氏の本醸造生酛に感じなかったことを証明しています。

”違和感”がないということは伊藤勝次杜氏の生酛が、造り方も置かれた立場も存在理由も違う、新潟淡麗辛口が当時その先頭集団にいた淡麗化の極致の吟醸造りと同じような方向を伊藤勝次杜氏が目指してきたことを示していると私には思われてならないのです。

伊藤勝次杜氏の本醸造生酛は、伊藤勝次杜氏ご自身が太平洋戦争直前に蔵人として最初に見た生酛、昭和30年代初めに灘の大手の蔵に教えをこうた生酛とも”違ったもの”になっていたのです。

酒造好適米が手に入り難くく、きわめて低い精白で造りをせざるを得なかった戦中戦後や、
教えをこうた灘の大手の蔵ですら生酛の造りを止めていかざるを得ない大きな変化にさらされた昭和40~50年-------米の精白も高くなり技術的にも飲む側の嗜好の変化の面でも、
先人のデットコピーだけの生酛では造り続けることは困難だったのです。
生酛が生酛として”生き残る”ためには”進歩”が必須だったのですが、伊藤勝次杜氏には教えをこう相手はいない状況の中で、”自らの試行錯誤”だけが”先生”だったのかも知れません。

酛米も麹米、掛米も昭和30年代よりはるかに白く磨ける状況で、受け継いだままの生酛造りでは、”酒の柄(酒質、品質、格調)”が悪くなる”危険性”を一番感じていたのは、伊藤勝次杜氏ご自身だったと思われます。
それを避けるため、伊藤勝次杜氏は強い醗酵力を”押さえる方法”として、自分の受け継いだ”生酛造り”よりも、より”低温”での酛、醪の醗酵を指向してきた-------現在の私はそう考えています。
そしてそれが、私や児玉さんが伊藤勝次杜氏の本醸造生酛に「違和感」を感じなかった
大きな”理由”だったとも思っているのです--------。
伊藤勝次杜氏が”生酛”によって造られる酒の柄を良くし綺麗にするため、「低温でも酵母に必要な栄養を与えることができると同時に与え過ぎない状態」を指向したとき、突き破精(つきはぜ)タイプの麹や低温でも良く溶け溶け過ぎない五百万石(新潟県原産の酒造好適米)にたどり着くのは、ある意味で自然なことだったと私には思われます。
別な意図からでしたが、私が出会ったころの伊藤勝次杜氏の”生酛”は新潟淡麗辛口と同じような、低温発酵により酵母の醗酵力を”必要最低限”のぎりぎりのところまで押さえ込むという”手法”で造られていたのです。
それゆえ私は大きな”違和感”を感じず、むしろ〆張鶴という”ものさし”と共通の部分を
伊藤勝次の”生酛”に感じたのではないかと思うのです。

本醸造生酛の酒質で改めて”そのこと”を実感”したことと、”状況”をリカバーしなければならなくなった”事件”が起きたことが、私が「とんでもないお願い」を伊藤勝次杜氏にした理由でした。

生酛らしい”味の厚み”をやわらかく丸く残しながらも、より”淡麗化”した生酛を純米(それも〆張鶴 純のレベル)で造って欲しい------私の「とんでもないお願い」は本当に”とんでもない”ものでした。
そのときの私の”直感と確信”が間違っていたとは今も思ってはいませんが、なぜあのとき伊藤勝次杜氏に、私があれほど「ストレートな言葉でストレートなお願い」ができたのかは今でも不思議です-------そしてその”お願い”を伊藤勝次杜氏に、”受け止めて”いただけたのはもっと不思議なことだったと思えるのです。
言う方は”簡単”ですが、造る方は”きわめて大変”なことだったからです。
伊藤勝次杜氏らしい、やわらかく丸い味の厚みを生酛の”柄”を悪くしないための「低温発酵」から、その生酛らしさを残しながらの純米吟醸、しかも〆張鶴 純レベルの淡麗化を意図する難易度の高い「低温発酵」に変えなければならなかったのですから---------。

伊藤勝次杜氏の”普通ではない努力の結果”が、この日本酒雑感--NO7の冒頭に述べた
純米生酛を昭和57年に造りだしたのです。
昭和56年に本醸造生酛、そして翌年に発売された純米生酛--------この時期に新潟淡麗辛口の本醸造、純米、吟醸酒を飲み慣れていた(さらに言えばアサヒスーパードライを飲み慣れていた)”庶民の酒飲み”が、新潟淡麗辛口と違う”個性”がありながらも「違和感」を感じずに飲める”伊藤勝次杜氏の生酛”が存在したことは、エンドユーザーの消費者の認知度はおろか造りの専門家の間ですら「否定的見解」がほとんどだった”生酛造り全体”にとって(現在の認知度と評価の確立のためには)きわめて大きなことであり幸運であったとも、私には思われるのです。
ややおおげさに言うと、伊藤勝次杜氏の生酛が存在しなければ”生酛造り”は現在の1割もエンドユーザーの消費者に”認知”されてなかったのではないか-------私はそう思っています。
生酛で造った酒が”特殊”なものではなく、”博物館入り”している滅び去った酒でもない、
”庶民の酒飲み”の傍らに存在するごくふつうの”美味い酒”であることを証明した、派手さや
栄誉とは無縁の一生を貫いた伊藤勝次杜氏に、(現在生酛で造った酒によって有形、無形の”恩恵”を与えられている人たちは)大きな借りがあるのではないかと、私には感じられてなりません。

平成元年に発売(ただし四合瓶で150本程度でしたが)された生酛純米大吟醸は、生酛純米の造り以来伊藤勝次杜氏が追求してきた「生酛らしさを残しながらの極限の淡麗化と吟醸香」を実現したものでした。
その酒質は今も忘れられないほど素晴らしいものでした。
生酛により造られたという点を除いても、〆張鶴、千代の光、鶴の友の新潟淡麗辛口のトップレベルの大吟醸に並ぶ水準に達していたと思われます。
その印象は説明し難いのですがあえて言うと、鶴の友の風間利男前杜氏の醸し出した大吟醸ほどは(醗酵力の強い生酛造りのため)きめ細かく洗練されていませんでしたが、やわらかく丸い米の旨みとしか言いようがないしっかりとした味がありながら、次の瞬間その味が「切れると言うより、まるで水を飲んだかのように消えて無くなりまったく残らない」------鶴の友の大吟醸とよく似た、”不思議”であると同時に”芸術品”とも言うべき酒質でした。

何回も書いたように、平成3年に私は実家の酒販店を出て”業界”を離れることになりました。
”酒”と縁が無い職種を選び会社員になった私は、できるだけ”酒”とは距離をとろうとしましたが、新潟の蔵については「長いブログのスタートです」や「鶴の友について」に書いたとうり
”無駄な努力”でしたが、伊藤勝次杜氏にいた蔵に行くことはありませんでした。
平成8年の冬、伊藤勝次杜氏の訃報を知り知人に香典を託したことが、生酛一筋の人生を送った杜氏と私の最後の交流となってしまったのです。

平成17年の8月に、私はこの「日本酒エリアN」を書き始めました。
パソコンにもブログにも詳しくない私が、それを承知の上で書こうと思ったのは、日本酒、特に昭和50年代前半より実際に体験してきて、”業界”を離れてからも直接的な関係がありがたいことに保たれている〆張鶴、千代の光そして鶴の友、現在直接の関係は存在しないが平成3年まで自分の目で見てきた八海山、久保田--------この新潟淡麗辛口の蔵についてネット上のサイトやブログに書かれているものの中に私自身が「違和感」を感じるものが少なくなかったからです。
私個人の狭い体験であっても、明らかに”誤解”や”正しくない情報”と感じるものもあり、
自分自身が経験し感じてきたことを書いておくのも多少の意味はあるかも知れない-------人に読んでもらうと言うより、自分のための”覚書”という色彩のほうが強かったと思います。

「長いブログのスタートです」の次に、「鶴の友について」をNO1~NO6まで書いた後で、
ごく少数ですがしかし私の”想定”をかなり上回る人に見ていただいていることに気が付き、
「鶴の友について-2」を書き始めたのですが、自分自身の”記憶違い”を避けるため直接
〆張鶴の宮尾行男社長、千代の光の池田哲郎社長、そして特に頻繁に鶴の友の樋木尚一郎社長にお尋ねできるありがたい”環境”を使わせていただき、NO1~番外編まで10本の記事を書き終わりました。
それは私にとって、昭和50年代前半から平成3年までの年月を”再体験”するに等しいことでした。
”業界”を離れてからの月日が十数年になり、年齢も重ねた私は”再体験”の中で当時の私には「見てはいたが見えてはなかった」ことや「疑問とは思っていなかった疑問」をも感じることになったのです。

「伊藤勝次杜氏はなぜあの時、私のとんでもないお願いを聞いてくださったのか?」-------
-----そのとき感じた疑問の大きなひとつがこれでした。

私は現在でもあのときの”お願い”は間違っていなかったと感じていますし、伊藤勝次杜氏の生酛へのその後の”評価”もそのことの間接的証明になっているとも思っています。
純米生酛を造っている最中に伊藤勝次杜氏を蔵に訪ねたとき、私だけではなくテルさんやS髙、O川の研究員の、”雑菌の塊り”である部外者の私達を麹室や酒母室に入れていただき
ずらっと並んだ生酛の壷代の味を時系列に沿って”味見”させていただく---------造りの最中の酒蔵では”異例”と思える伊藤勝次杜氏の”ご好意”も、杜氏ご自身が”お願い”を歓迎してくれたことを”証明”しているとも思っていますが、それでも”疑問”は去ってくれなかったのです。

私にとって”生酛”は、平成8年に伊藤勝次杜氏がお亡くなりになったときに”終わって”いました。
たぶん”生酛”に関わることは二度とない-------そう感じていました。
しかし「鶴の友について-2」を書き続けるなかで、”疑問”は大きくなり続けました。
直接伊藤勝次杜氏に聞くことが出来ない状況のなかで、”疑問との格闘”が続いていたのですが、〆張鶴や鶴の友のことを書き連ねていき南会津の國権までたどり着いたとき、
ふと浮かんでくることがありました。
そのことをきっかけに”疑問”に対する、(自分自身だけかもしれませが)納得できるような”解答”らしきものを感じるようになりました。
その”解答”が正しいのか間違っているのかは、今となっては確かめるすべは私にはありませんが、私自身は”腑に落ちた心境”になることができたようです。

この”解答”がどのようなものであるのかと、能動的には”生酛”には関わる気持のない私にとって現在の”生酛の世界”がどのように見えているのか、そして故伊藤勝次杜氏のいた蔵の名前をなぜ書かないのかは、日本酒雑感--NO8に書きたいと思っています。


日本酒雑感--NO6

2008-10-04 15:22:05 | 日本酒雑感

20057_006 今考えても不思議なのですが、あれほど伊藤勝次杜氏の”生酛”に対する「見方、考え方」に”大きな差”があったため激しい対立のあった、私と蔵の”上層部”がなぜ”決裂”せず本醸造、純米の”生酛”を結果として世に出すことが出来たのか-------それもそれ以前では早過ぎ、それ以後では遅いという昭和50年代半ばという唯一のタイミングで--------。

その後の日本酒業界の状況と、昭和57年に大病で入院手術され平成8年に亡くなられた
伊藤勝次杜氏、昭和34年蔵に入られ昭和45年からは頭(かしら)として、平成元年からは伊藤勝次醸造部長の後任の杜氏として伊藤勝次杜氏の”生酛”を支え続けて、伊藤勝次杜氏のあとを追うように2ヶ月後に亡くなられた金田一政吉杜氏-------このお二人を軸にしたこの蔵の南部杜氏の集団のその後をも振り返っても、昭和50年代半ばというタイミングしかなかった-------私はそう痛感しているのです。

昭和63酒造年度に”生酛”で造られた出品酒レベルの純米大吟醸酒は、伊藤勝次杜氏にしか造れない”生酛の完成”を告げるものでしたが、その”原点”は昭和57年に発売された純米生酛にあったと私自身は思っています。

陸上の100mのレースに例えると、
本醸造生酛で10秒00の”厚く高い壁”の内側に入れる可能性を示した伊藤勝次杜氏が、
実際に9秒98のタイムを出したレース------それが純米生酛だったのです。
伊藤勝次杜氏をしても6~7年の”研鑽の日々”を必要としましたが、どんなレベルでも9秒台のレースができ、確実に0.01秒づつ前進していることをその純米大吟醸酒は証明したのです。
車に例えて言うと、
WRC(世界ラリー選手権)を戦うWRカーのベース車両として、スバルインプレサWRX STI(純米生酛)を自ら造り出した伊藤勝次杜氏が、6~7年の長い時間をかけて基本は変えずに細かいリファインと大胆なセッティングの変更を積み重ねて投入した、実際にWRCでチャンピオンカーをねらえる”マシン(純米生酛大吟醸)”を造り出したのです。
(ただし、残念ながら四合びん150本程度の発売で飲める人はごく少数でしたが-------)
そして、本醸造や純米の”完成した生酛の市販酒”を飲み、その価値を認知してくれるエンドユーザーの消費者が少しずつ増えていき”ある程度の広がり”が確立するのには、平成7酒造年度までという伊藤勝次杜氏の”持ち時間”はぎりぎりと言えました。
その意味でも、昭和50年代半ばは唯一のタイミングだったと思えるのです。

発売への闘い

生酛単体での発売という私の”要望”の交渉相手は、S課長からT営業部長(後にK総務部長も合流することになりますが---)にステップアップしました。
しかしその”姿勢”は硬く、取り付く島が無いような感じでした。
今振り返ると、とんでもないミスマッチの組み合わせなのですから、噛み合うはずがないのがないのが当たり前だったのです。

T部長は、生酛とレッテルに書いてある酒を1本も発売していないにも関わらず、生酛と生酛をブレンドした自社の酒に強い誇りをお持ちでしたし、ご自分の蔵が”東北有数の蔵”との認識を強くお持ちでした。
それに対して私は、そのときの数年前まで「日本酒なんてものは21世紀には無くなる」と思っていた、普通であれば日本酒が日常的なものでも親しみを感じるものではない「最初の世代」に属していました。
そして昭和50年代半ばというこの時期は”生酛”で造っていることは、日本酒業界ですら「古くさくて博物館入りしている手法」との声がほとんどでプラスのイメージはなく、ましてやエンドユーザーの消費者にはまったく認知されていなかったのです。
「東北有数の蔵」と言われても、業界最大規模の月桂冠でさえマイナスのイメージしか持っていない、日本酒に関心の無い同世代の消費者に何とか日本酒を飲んでもらおうと”悪戦苦闘”していた私にはあまり”助け”にはなりません。
「同世代の消費者に飲んでもらえる酒質かどうか」が私にとって大事なことであり、過去の実績ではなく、過去の実績が通用しない変化をするであろう将来の日本酒の世界で”戦える武器”になるかどうかに重大な関心があったのです。

このようなミスマッチの組み合わせの”交渉”は、どう考えても、うまくいく訳がありません。
”交渉”が長引けば長引くほどお互いにストレスがたまっていき、蔵が取引先の小売店に、
小売店が取引先の蔵に”言ってはならない言葉”の応酬になり、言葉の闘いから”身体的な闘い”の寸前までいったことがありました。

たぶんT部長は、駆け出しの若造の私に生酛の何が分かるのかという気持はあったろうと思われます。
事実、T部長のほうが当然ながら生酛も酒全体についても私より詳しい”その道のプロ”でしたし、その当時の私が”生酛造り”をどこまで理解できていたのかは自信が持てません。
しかし、実際に見させていただいた伊藤勝次杜氏の”生酛”に、私は強い”違和感”を感じなかったのです。
酒販店としての”本籍地”が新潟淡麗辛口にあり、〆張鶴という”ものさし”で判断してきた私が、新潟淡麗辛口とは正反対の手法で造られている伊藤勝次杜氏の”生酛”にあまり”違和感”を感じず、肌の感覚はむしろ〆張鶴という”ものさし”と共通の部分を見つけていたのです。

私が見させてもらった伊藤勝次杜氏の”生酛”は、陸上の100mに例えると、
現在はあまり見ない、昔ながらの古いスタイルで現れた選手の格好にどきもを抜かれたが、
そのレースの走りは、”最新のトレーニング理論に基づいた走り”にきわめて近い走りで、
驚いたことに、10秒00の”高く厚い壁”を突き抜ける可能性を感じさせる走りだったのです。

当時自分が感じていた肌の感覚は、実際に飲ませてもらった「発売していない熟成した生酛の酒質」と以下の疑問の自分なりの”解明”から、”帰納法的”に導き出されたもののように思えます。

  1. 新潟淡麗辛口がその根幹を成すひとつとして多用していた五百万石を、早い時期から生酛の酛米、麹米に使用していたのは何故か
  2. 強い醗酵力を持つ生酛が投入された醪のタンクに、他の県の蔵にはあまり見られない、新潟淡麗辛口の蔵に近い冷却能力を何故持たせていたのか
  3. 吟醸酒も純米酒も本醸造も市販していない蔵にも関わらず、生酛用の麹が何故総破精(そうはぜ)タイプでは無く、新潟淡麗辛口の蔵のような突き破精(つきはぜ)タイプだったのか

そのすべてが私が親しんできた新潟淡麗辛口の、最大の特徴のひとつである低温醗酵を指し示しているように私には感じられ、飲ませていただいた”未発売の生酛単体”も、やや重く僅かにくどいと思いましたが味の厚みも丸いやわらかさに包まれていて、〆張鶴や千代の光、鶴の友を飲み慣れていた私に、あまり”違和感”を感じさせなかったのです。
それゆえ、〆張鶴や千代の光、そして鶴の友の”酒質”を突破口にして、日本酒に親しみも関心も持っていない同世代の”若い庶民の酒飲み”の中に、苦戦しながらも少しずつ日本酒のファンを増やしていた最中の私は、伊藤勝次杜氏の”生酛”は認知され受け入れられる-----------そう確信したのです。

(伊藤杜氏の”生酛”に私が感じていた”肌の感覚”の私に分かる範囲での技術的な理由は後述します)

私は”単体の生酛”は、若い需要層にも受け入れてもらえこの蔵の将来の”支え”になると感じましたが、生酛と速醸酛で造った酒をブレンドしたこの蔵の市販酒は、私の店の高齢の方がほとんどのこの酒のファン層から見ても、10年後かなり厳しいとも感じていました。
しかしT営業部長は、「生酛はうちの蔵の根幹であるが単体での発売は考えていない」
との基本的な姿勢を頑なに守ろうとしていたのです。
”酒の販売のプロ”であったT部長は、当然ながら自分の蔵の市販酒に自信があったと思われますし、それゆえあえて”リスク”を犯す必要がない-----と強く感じておられたと思われます。
”酒の販売のプロ”のT部長と”素人同然の駆け出しの酒販店”の私の間で、これほど伊藤勝次杜氏の”生酛”に対する見方が違っていては、”交渉”になる訳がなかったのです。

今の私は、T部長の”単体の生酛”の発売へ否定の理由の”別な部分”も、多少想像できます。
この蔵の”生酛”は、七代目の蔵元の急逝により15歳で蔵を継ぎ、平成5年に92歳で亡くなられた八代目蔵元の強い意志によって造り続けられてきました。
八代目蔵元の強い意志がなければ、この蔵の”生酛”の存在が有り得なかったことは、たとえこの蔵に批判的な人でも、等しく認める事実です。
しかし自分の理想とする酒への”追求の仕方”は、新潟淡麗辛口の蔵とは違っていたと私個人は感じています。

直接お会いしたことはありませんが、よく知る方々に伺った、越乃寒梅を越乃寒梅たらしめた故石本省吾蔵元の理想とする酒への”追求の仕方”は、将棋に例えると、守りの金はおろか玉頭の歩まで”攻め”に参加させる徹底したものだったと聞いています。
私が直接知る新潟の蔵も、”追求の仕方”は過去の自らの実績を否定することも厭わない
アクティブで積極的でものでした。
そして先行した越乃寒梅を追う〆張鶴、八海山、千代の光、鶴の友のアクティブで積極的な”動き”が、日本酒業界全体に影響を与え始めていたのがこの時期(昭和50年代半ば)だったのです。

伊藤勝次杜氏のいた蔵の八代目蔵元の自分の理想とする酒への”追求の仕方”は
将棋に例えると、攻めの大駒である飛車ですら守りに使う”受け”中心の、慎重でパッシブなものであったと私個人は思っています。
わずか15歳で、危機の状態とも言える蔵を継いだ八代目蔵元が、”守り”を中心にせざるを得なかったことは、今の私なら理解することができます。
八代目蔵元の”生酛”に賭ける気持は強いものがあったと私も感じています。
しかし、蔵の営業に影響をほとんど与えないリスクの範囲内で、業界の動きを慎重に見極めながらの”動き”だけに、外からは分かり難い”追求の仕方”とも言えました。
さらに蔵の内部には”生酛”は八代目蔵元の”専管事項”のため、”生酛”に関わる件にはあまり触れたくない雰囲気と、通常ならリスクと言えないリスクまでリスクにカウントして”避ける”傾向もあったのではないか------現在の私はそうも思えるのです。
それゆえT部長も、〆張鶴という”ものさし”で計った私の伊藤勝次杜氏の”生酛”の見方とその将来性への判断に”幾分かの正しさ”をたとえ感じていたとしても、触れないようにしておられたのではないか-----現在の私は、そう思えてならないのです。

いずれにせよT部長が、”単体の生酛”の発売を、チャンスではなくリスクと考えていることが
長い”交渉”の間にはっきりしてきました。
私にとっても、”要望の実現”への努力は「アホらしい気持と背中合わせの”無駄な仕事”」
になりかけていました。
”交渉”は決裂するのが自然な状況になってきたのです。

結果として決裂しなかった、私のサイドの原因は、

  1. 単体での発売を前提とするため本醸造で造り、〆張鶴のバランスの良さに似たバランスを志向するために不必要な部分の重さやくどさをできるだけ少なくし(綺麗にする方向)、切れをさらに良くする方向に振り
  2. 速醸酛で造った酒に”厚みと安定感”を与えるための部分を少なくすると、”厚みと丸み”自体は縮小するが、酒質全体が綺麗になり切れが良くなることで、むしろ”厚みと丸み”が強調される酒になり、熱めの燗でも崩れない”生酛”らしさを残しながらも、冷で飲んでもきわめて美味い酒になるのではないか

私の”直感”が確信させていた、伊藤勝次杜氏の”生酛”なら造れるそんな酒質の酒を、実際に飲んでみたい------その気持が最大の理由だったのかも知れません。

一方、T部長サイドの原因としては、 

  1. 伊藤勝次杜氏が私の”要望”に好意的で、”要望”に対応した”生酛”を造り、世に問うてみたいというお気持があったこと
  2. 新潟淡麗辛口の台頭に対して、自社の営業基盤を守る”武器”は伊藤勝次杜氏の”生酛”しかないことを、私ほど強くではなかったが、T部長も感じていたこと
  3. ”社内的リスク”が低減でき、T部長の”権限の範囲”までリスクが低下したら------というお気持がT部長にもあったこと

私個人の想像ですが、この3つではなかったかと思われます。

長い”交渉”の結果、その成否はリスクの低減が握る、最終局面まできていました。

T部長が考えるリスクとは、

  1. もし”単体の生酛”を発売した場合、売る側の酒販店が”生酛”の価値を本当に理解できるのか
  2. 発売するとすれば、1500本が最低のロットになるがそれを取り扱い酒販店が売り切れるのか

もっともと思うか、首を傾げるかは立場によって違いますが、T部長はその2つを大きなリスクとして受け止めていました。
私個人で1500本すべてを売り切ると言ったとしても、T部長が納得しないことは分かっていましたので、その2つに対する新たな”対策”をとる必要に迫られたのです。

あまり使いたくはなかったのですが、”対策”はありました。
それは当時私が入っていた”M会”の中心メンバーで、このころ地酒を取り扱う酒販店の
”スター的存在”になりつつあった、池袋の甲州屋酒店児玉光久さんに”生酛”を取り扱ってもらい、児玉さんを介して児玉さんが親しい首都圏の”M会”のメンバーにも取り扱ってもらうことでした。
そしてこの”対策”が、この蔵を「福島県の量産メーカー」としか思っていなかった地元福島県の酒販店のイメージを大きく変える”効果”があることも、私は認識していたのです。

人知れず ”IK杜氏”は、速醸酛で造った酒に ”厚みと安定感”を与えるブレンド用として生酛を造り続け、伝統を受け継いできました。
その生酛があまりに惜しく、「生酛を単体の本醸造として出して欲しい」と蔵のT営業部長と ”激しい交渉”を2年越しで行いました。
ようやく1500本の生酛が出ることになったとき、そのスム-ズなデビュ-を促すため、最初で最後の1回限りの ”お願い”を池袋のK店主にしました。
「吟醸じゃないけどあれだけ美味くて、価格も安いから皆大歓迎だよ」と心良く引き受けてくれたK店主のおかげで、生酛は「M会」の主力メンバ-の店頭に並ぶことになったのですが、K店主達の好意を ”逆なで”するような ”状況”が生じ、私は困り果てました。 この ”状況”をリカバ-するため、私は ”IK杜氏”に、今思っても ”とんでもない”お願いをすることになります。
(長いブログのスタートです 2005年8月---より抜粋)

上記の”IK杜氏”はもちろん伊藤勝次杜氏で、池袋のK店主は甲州屋酒店故児玉光久店主です。
私の”対策”が決め手になり、ようやく1500本の本醸造生酛の発売が決定しました。
”対策”が予想どうりの”効果”を発揮し、本醸造生酛は順調なスタートを切りました。
しかし私とT部長との”ものさし”の大きな違いによる、ミスマッチの”基本的構造”は変わってはいなかったのです。
そしてそれが、好意で”本醸造生酛”のスタートを手助けしてくれた児玉光久店主の気持を逆なでするような”販売方針”につながり、皮肉なことに、その”事件”が伊藤勝次杜氏の”生酛の凄さ”を知らしめる、10秒00の”厚く高い壁”を突き破り9秒98のタイムをたたき出した”純米生酛”の発売の直接の”原因”となったのです。
そしてその”純米生酛”は伊藤勝次杜氏ご自身の”生酛”にとっても、昭和63酒造年度(63BY)の純米大吟醸につながる、大きな分水嶺になったのです--------。

日本酒雑感--NO7に続く