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新潟淡麗辛口の蔵の人々と”庶民の酒飲み”の間で過ごした長い年月
(昭和五十年代~現在)を書き続けているブログです。

鶴の友について-4--番外編-2

2016-12-22 18:49:46 | 鶴の友について



またもや前回の記事から9ヶ月が過ぎてしまいました。
前回も長い記事で書き始めた時期と終了した時期に3~4ヶ月の差があり、実はアップする数日前に“古い仲間の二人”と一緒に二泊三日で新潟に行っていました。
三十年前から計画しながらいろいろな事情で実現しなかった「三人で千代の光、鶴の友、〆張鶴を仕込みの時期に一気に見学させていただく」ことが3月6~8日でようやく実行できたのです。
同行したS高元原研研究員も(もちろん私もですが)現役を離れた“再雇用組”ですし、鮨店・東屋店主のテルさんも息子のみっちゃん夫婦のサポート役に回ったため時間の余裕が以前より増したため可能になったのです。
本来仕込みの時期の蔵の見学は基本的には関係者以外は不可で本当に難しいのですが、“四十年に近い交流の歴史”に免じていただき許可していただけたのです。
テルさんもS高さんも昭和五十年代後半に〆張鶴や八海山の仕込みを見た経験もあり、毎年のように南会津の国権に仕込みの時期にお邪魔していたのですが、千代の光も鶴の友も見たことがありませんでした。
今回本当にうまい具合に蔵元との日程も合ったため(各蔵元のご好意のおかげで)ようやく実現出来たのです。






上記の写真は池田哲郎社長にご案内いただいた千代の光酒造の蔵の様子の一部です。
千代の光は鶴の友よりは少し醸造量は多いですが(約1.5倍前後)越乃寒梅・八海山・久保田に比べれば比較にならないほど小さな蔵です。
しかし昭和五十年代から出来る範囲での設備の新規導入に池田哲郎社長は熱心に取り組んできました。
蔵の必要な空間での空調や麹室の温度・湿度管理の設備、獺祭 のものとは違う土台までオールステンレスの遠心分離機まで導入していますが、昭和五十年代と同じように協会10号酵母には必須だった高泡用の囲いや泡消しを使う造りも守り続けています。
お邪魔した日には、四合びんで600本しか詰められなかった“数量限定のふなくち”を瓶詰めしていたのですが、試飲させて頂いて驚きました。
絞ったばかりとは思えないやわらかささと丸みがあったからです。
池田哲郎社長のご好意で1本お土産に頂いたのですが、帰宅した後であまりの美味さに「何本でも良いのでお譲り頂けないか」とお願いしたのですがその時点で地元の酒販店だけで“完売”で蔵にも1本も無いとのことでした--------それでも諦め切れず来年はぜひ売って下さい(もちろん新潟の酒販店さん経由ですが)とお願いしました。
越淡麗の開発と普及に熱心に努め、自社で(五百万石も含めて)栽培もされている点も含めて原料から造りにまで“手を抜かない姿勢”が、綺麗なやわらかさと切れの良さを両立させた酒質を支えていることを改めて実感させられました。
また27BYで造られたご子息の池田剣一郎常務のKから名付けられた“Kシリーズ”が数量限定ですが発売される予定と伺いました------数年後の“引退”を見据えての池田哲郎社長の“布石”という面もあると思われますが、昭和五十年代半ばの池田哲郎社長(当時は常務)のように剣一郎常務が若い感性で走られる“Kシリーズ”の千代の光は本当に楽しみです。



昨年大学を卒業し社会人になった私の息子が生まれたとき、私の周囲の方々に頂いたお祝いのお返しに千代の光の吟醸造りをと思い池田哲郎社長にお願いしたところ「名前は?」と聞かれました。
後日送られたきた四合びんと一升びんの吟醸造りには、貴重な古い大福帳の和紙に子供の名前が書かれた手書きのレッテルが貼ってありました。
子供の生まれたときの私は業界を離れ会社員になっていました-------それから四半世紀が経とうとしていますが、そのときの吟醸造りはいまだに数本感謝の気持ちと共に私は保管しています。







鶴の友は千代の光(ほとんど長野県境)から〆張鶴(ほとんど山形県境)の移動の途中の新潟市にあり、残念ながら仕込みの時間帯には到着できません。
しかし鶴の友を飲んでいる人間には蔵の中に入らせて貰うと肌の感覚で納得が出来ます。
有形文化財の蔵の中でふつうの酒蔵ではあり得ない光景が繰りひろげられているからです。
壜詰めも人が1本1本行いレッテルも人が1本1本手貼りしています-------昭和五十年代半ばからお邪魔させていただいておりますが、鶴の友・樋木酒造にはスピードとか効率とか生産性という言葉の片鱗すら私は感じたことはありません。
“外の世界”とは流れる時間がゆるやかな蔵の中は外の世界の人間の忙しく走り回る気持ちをふと立ち止まさせる“何か”が存在し、その蔵で造られた鶴の友が「なぜあの不思議な酒質なのか」が肌の感覚で納得出来るのです--------。

有形文化財の蔵の天井裏の一部には、今となっては新潟市民の宝と言える新潟漆器や、昭和以前の成島焼、相馬の登り窯で焼かれた大堀相馬焼-------結果として“貴重なもの”(価格が高いという意味ではない)になってしまったものが数多く保管されています。
蔵そのものが文化財であり蔵の中にも貴重な文化財が数多く存在する鶴の友・樋木酒造ですが、造りの面では、伝統を受け継ぎながらも伝統そのものを“コレクションしている”訳ではありません。
天井の下の蔵では、杜氏歴13年のベテランだが年齢が43歳と若い(それでも蔵の中では最年長)樋口宗由杜氏を中心に若手の蔵人が、伝統を受け継ぎ現在も未来にも鶴の友を造り続けるための従来の徒弟制度的組織ではあり得ない“創造的破壊”を実践し続けているのです-------いかに古いものを大事に保存する有形文化財の蔵であっても、酒造りまで先人のデットコピーでは酒蔵として存在し続けることは出来ないからです。
鶴の友・樋木酒造は古いが失ってはいけない大切なものに包まれた蔵ですが、その古くて大切なものを失わないための“変革を恐れない新しさへの挑戦”も内在している蔵なのです---------テルさんもS高元研究員も、仕込み自体を見なくても、蔵の中を樋口杜氏や樋木尚一郎社長に案内して頂いたときにそのことを十分に感じ取れたと私には思えるのです。

蔵の中をご案内していただいた後に、ご近所の雪月花という割烹のお店で昼食を(貴重な鶴の友の大吟醸の)上々の諸白ともにご馳走して頂きました。
樋木尚一郎社長のお話を伺いながら、醸造数量が少ない鶴の友の中でも一番本数がない上々の諸白を味わいながらいただく昼食は本当に貴重な体験でテルさんもS高元研究員も後々まで喜んでいました----------。




上記の画像は三面川の支流の門前川の反対側から〆張鶴・宮尾酒造を写したものです。
40年近く前から村上を時折訪れてきましたが、基本的には、村上の佇まいも〆張鶴・宮尾酒造の外観もあまり変わってはいません。
伝統や昔からの建造物や慣わしを大切にし続けてきた“意思”は宮尾酒造の外観にも反映していますが蔵の中は、やや大袈裟に言うと、私が行かせていた度に“いつも変化”していました。
〆張鶴・純は昭和五十年代前半には発売されていましたが、精米歩合ひとつとっても60%から50%に進歩しています。
現在は純米吟醸と表示されていますが60%でも表示の規格は満たしていますが、40年をかけて純の数量を大きく拡大しながら精米歩合のみならず他の面でも大きく向上し続けていることに、〆張鶴・宮尾酒造の価値と凄みがあると私自身は改めて実感しています。



鶴の友・樋木酒造から午後遅く村上に移動し瀬波温泉の宿に夕方到着しました。
私は業界を離れて四半世紀が経過しているのですが、久しぶりに村上に泊まるため昔からのご縁に甘えて、宿の紹介も宮尾行男会長にお願いいたしました。
余計なこともお願いしたのにも関わらず懇切丁寧に対応して頂きました。
翌日8時半に蔵にお邪魔し11時頃まで宮尾行男会長に蔵の内部をご案内頂きました。

宮尾酒造は足掛け3年をかけて麹室の拡大・新設を軸にした改装が昨年終了したばかりで特に麹室はまったく“別物”になっていました。
醸造量の拡大を狙った改装ではなく、作業性と製麹環境の向上と将来の変化にも耐え得る“意図的な余裕”がポイントの改装と私には見えました。
あまり大型の仕込みタンクを使用してない〆張鶴・宮尾酒造は麹造りの回数が多くならざるを得ないため、ある意味で、製麹環境の向上と製麹の作業性の向上は必然だったのかも知れません。
越乃寒梅や八海山、久保田のように30年前の10倍近くに醸造量が拡大した蔵に比べ、〆張鶴・宮尾酒造は40年近くかかって約3倍弱にしかなっていません。
そして川を挟んだ斜め向かいに瓶詰めの施設と大型冷蔵貯蔵倉庫を設置した以外には、前記三つの蔵のように“大型の工場”を新設しておらず創業の地である上片町5-15を動かずに〆張鶴を造り続けている以上、スペースの拡大が不可能であればたゆまぬ醸造設備の改善と作業性の向上が〆張鶴の酒質の維持向上にどうしても必要になるからです---------。 

何回も書いていますが昭和五十年代前半にすでに醪(もろみ)のあるスペースは空調設備が完備されていました。
「ジャケット式タンクや冷却ジャケットで1本1本状態を見ながら0.5度単位で醪の温度を管理してしているのに、醪タンクのある空間が1日で5度6度も温度が変化したら“正確に管理”出来ないためため空調をかけて一定の温度環境にしています---------それが、なぜ北関東の私の県より冬の温度が低い新潟県で空調をしなければいけないのかという能天気でお粗末な私の“質問”に対する宮尾行男専務(当時)の説明でした。
協会10号酵母、五百万石(酒造好適米)、低温長期の醪--------私自身はこの三つの要素が新潟淡麗辛口のDNAと強く感じているのですが、〆張鶴・宮尾酒造は現在もこのDNAを色濃く受け継いでいるように思われます。
ある意味で〆張鶴・純は、その酒質に“新潟淡麗辛口の歴史を体現”させた過去も現在も“新潟淡麗辛口の本流”なのではないか-------私個人は改めてそれを痛感させられた旅になりました。 

 


今回の旅は東屋のテルさんやS高さんだけではなく私自身にとっても貴重な機会でした。
私はこの三つの蔵には若い頃から足を運んでおりますが、仕込みの時期に一気にこの三つの蔵を訪れるのは本当に久しぶりだったこともそのひとつです。
しかし私以外の二人にとっては今まで無かった体験だというだけではなく、お忙しい時期にも関わらず、池田哲郎社長、樋木尚一郎社長、宮尾行男会長ご夫妻に懇切丁寧な対応をして頂けたことが“予想出来なかった驚き”だったようです--------今回の旅は蔵の皆様のご好意のおかげで本当に贅沢な旅になりました、感謝の言葉しかございません。


(なお私達がお土産に頂いてきた“数量限定のふなぐち”は千代の光・真 生原酒として、12月と来年の2月のみの限定販売とのお知らせがあり当然ながら送って頂きました。今回もきわめて美味いというのが私の周囲の人達の大多数の共通した感想です--------)


本来なら大七・生酛のことや残念ながらお亡くなりになった吟醸会・五来会長のこと(思い出)もこの記事で書く予定だったのですが、このままでは年内には終わらないため次回に書かせていただきます。
この記事も本来ならもっと早くアップしなければならなかったのですが、諸般の事情のためここまで遅れてしまいました。
9ヶ月も更新しないとんでもないブログなのに、見てくれている人も少なくはなく申し訳ない気持ちも感じておりますので、来年はもう少し“勤勉にアップに取り組み”たいと思っております-----------。