去年の初夏に、自分勝手な実態のない”使命感”に突き動かされて、このブログを書いたのですが、書き終えてしまうとまた私本来の”怠け者”に戻ってしまい、そのまま”フリーズ状態”を続けてきました。
酒、それも鶴の友という蔵に絞った”マイナーな話”ですので、誰も読んでくれないのが当たり前と、そのまま一年以上放置してまいりましたが、先日グーグルで”鶴の友”を検索して驚いてしまいました、検索結果ページの2ページめに「日本酒エリアN」があったからです。
”鶴の友”で検索する鶴の友に興味のある人が、たとえ少数であったとしても存在しており、その少数のある程度の人が鶴の友についてNO1~NO6見ていただき、その中でも必ず別撰や上白(運が良ければ特撰や上々の諸白)が、ごく普通の価格でごく普通に買える新潟市の三軒の酒販店を紹介したNO3が一番多く読まれている------この事実が私が思っていた以上に、鶴の友を飲んでみたいエンドユーザーの消費者がいることを、私に教えてくれています。
”怠け者”ですので、ゆっくりのんびりですが鶴の友について-2--NO1を(何回かの修正を加えると思われますが)書いていこうと考えています。
残念ながら、ご主人の藤村さんがお亡くなりになってしまい閉店された、酒のファンに知られた”たまははき”という居酒屋が東京の幡ヶ谷にありました。私はお会いしたこともなく”たまははき”に行ったこともありませんが、藤村さんと”たまははき”の存在は承知しておりました。
”たまははき”は取り扱う日本酒は鶴の友だけ、それも上白から上々の諸白までのフルラインで飲める東京の唯一の店として知られていました。もしかしたらある意味で私のほうが、”たまははき”に集う人達よりそのことがいかに”稀有”で”幸運”であったか、承知していたと言えるのかもしれません。
年末の12月30日に樋木さんと、翌日の31日に早福さんと杯を傾けるのが藤村さんの恒例行事だった、と樋木さんに伺っていました。 何度も書くようですが鶴の友は、「うちの酒は、100年以上お世話になっている地元の人に飲んでもらうために造っている。都会や他の県の人に飲んでもらうために造ってるわけではないので-----」と取引を断られる蔵なのです。樋木尚一郎蔵元と早福酒食品店早福岩男会長の、”ふつうではない”好意と応援がない限り東京での鶴の友だけのフルラインなど不可能なのです。
樋木さんは、閉店のお別れ会のときも含めて数回、”たまははき”を訪れたと伺っています。私が聞いているこのことだけでも、藤村さんがどのような人か想像がついていました。ここまで樋木さんが”応援”された人はそうはいません。一度も藤村さんにお会いしたことのない私ですが、樋木さんが信頼し応援しているという事実だけで、私には十分理解することができたのです。
数日前の樋木さんとの電話での話しの中で、主を失っても藤村さんの恒例行事の”山菜取り”が今年も行われたと伺いました。”たまははき”での”当たり前”がどれほど”当たり前ではなかった”かを、”たまははき”に集われた常連の方々が一番感じていられると思われますが、樋木さんの話からも”喪失感”は伝わってきました。理解し合い信頼でつながっていた人を失ったのですから-------。
電車に乗っていて車窓から、気になる景色に心引かれることは誰にでもあることでしょう。しかし、ほとんどの人が仕事や日々の雑用に分単位で追われ、実際にその景色を途中下車して見ようとする人はめったにいません。心引かれる風景をゆっくり味わえる”満足”と引き換えに時間に追われる仕事とプライベートの”日常”を失うことが分かっているからです。”日常”からの途中下車ではなく、行き先が違ってしまう”下車”になってしまうことを分かっているからです。 ”地図を作る仕事”から下車された藤村さんの”心引かれる風景”のひとつが、鶴の友と樋木尚一郎蔵元だったことは、想像に難くありません。 ”たまははき”の商売上の戦術という側面もほんの少しはあったかも知れませんが、取り扱う日本酒が鶴の友だけだったのはそれ以外の理由からだと思われます。
それまでの”日常”を失っても ”下車”しようとすることには大変な”エネルギー”を必要とします。その上、得るものより失うもののほうが多い場合のほうが”ふつう”なのです。「これさえあれば、他はなくてもしょうがない」-----という覚悟がなければ、”下車”も途中下車もできません。生意気かも知れませんが、それが、「新潟淡麗辛口を売るふつうの酒屋」を”下車”せざるを得なかった私の実感なのです。 もちろんおそまつな私と比較ならない高いレベルに藤村さんがあったことは、私自身も十分承知しております------。
”下車”して始めて見える景色もあります。 「鶴の友は建物以上に中に住んでいる人間のほうが、今の世にありえない文化財だ」------尊敬する大先輩の早福岩男さんがかつて言われたこの言葉の意味を、”下車”する以前の私は分かっているようでまるで分かっていませんでした。
「業界の人間だった当時の私は、理解することが”恐く”てできなかったと言ったほうが正直なのかもしれません。樋木尚一郎社長の信念を理解してそれを自分の信念とすることは、今までの自分の行動や考え方のある部分を否定せざるを得なくなり、拡大局面での”新潟淡麗辛口”を取り扱ってきた”業界の人間”である私の、”政治的立場”を危うくするものだったからです」-----NO5に書いたこのような状況ではわかるはずもありません。
鶴の友について-2--NO2に続く