今まで過ごしてきた人生を振り返ったとき、誰にでも「なぜあのときそうなったのか」とやや不思議な気持になる、通過地点の”ポイント”があると思われます。
その”ポイント”は、ほとんどの場合そのときの本人の意思には関係なく、自動的と言っていいほど自然な流れで切り替わり、その時点ではどこに向かっているのかもその”ポイント”の意味も価値もまるで分からないのですが、不意を付くように突然”出現”する-------私にとってのそんな”ポイント”は、皮肉なことに、ほとんど”縁”が無く取引はおろか一度も蔵を訪ねたことのない越乃寒梅が関わっている、あるいは越乃寒梅に私が一番近づいた通過地点だったのです。
その”ポイント”の出来事は、私にとっては重大な出来事だとは当初思ってはいなかったのですが、二十数年を過ごしてきた今は、実は大きな”分水嶺”だったことを実感しているのです。
昭和五十年代初めから後半にかけて新潟淡麗辛口の有名銘柄の中で、越乃寒梅は私にとって(能動的にも受動的にも)まったくと言って良いほど接触の無かった蔵でした。
人間関係がもたらしてくれた”人の縁”という「商売以外の理由」先行で、八海山を皮切りに〆張鶴、千代の光を取り扱わせて頂き、取引関係は無かったものの鶴の友・樋木尚一郎社長のお話を伺う機会も少なくなかった当時の私は、単におそまつで能天気だっただけではなく、若かっただけに「小さい自分の限界まで肩肘を張り気負っていた」せいか、あえて越乃寒梅に近づかず距離を置こうとしていたのかも知れません。
昭和五十年代終盤から六十年代の初めにかけての私の置かれた立場は、(鶴の友について・鶴の友について-2のシリーズに詳述したとうり)、ある意味で非常に皮肉で微妙なものでした。
酒販店の三代目という自分の立場を子供のころから好きになれず、かといってその立場を捨てて一人で生きていこうとする気概も持てなかった私にとって、〆張鶴、八海山、千代の光そして鶴の友・樋木尚一郎社長との交流は、嫌々ながらも酒販店として生きていく上で絶対に必要な”仕事の中に存在できる道楽”だったのです。
しかしこの時期には”道楽”としては大きくなり過ぎ、そのコストを負担することが私個人も店も難しくなり始めていた反面、”商売上の柱”にするにはまだ小さく拡大しようにも八海山は銘柄全体で、〆張鶴は実績の三分の一以上を占めていた純(純米酒)を筆頭に”逼迫状況”に入り始め、例外的と言えた順調な滑り出しをしていた久保田も将来の数字は相当期待できても、この時点では〆張鶴や八海山よりはるかに数字が小さく”商売上の柱”とはお世辞にも言えない状態だったのです。
現時点から振り返ると、たぶんこの時期の私が一番”迷い”が多く周囲の状況の変化に一喜一憂するあまりに自分自身の”原点”を見失いがちだったと思われます。
「越乃寒梅を正規取扱店として売るチャンスが来れば、この状況を変えられるかも知れない」---------この時期の私は本音ではそう考えていたのにも関わらず、実際にそのチャンスが来たときチャンスとの認識と自覚が無いまま、不思議なことに、本音とはまるで逆の反応を”反射的”にとってしまうという”失敗”を犯してしまい、さらに不思議なことにその”失敗”が「迷いの中で見失いがちだった”原点”」に立ち戻る”きっかけ”となり、日本酒と日本酒の世界に対する「シンプルで単純な考え方・感じ方だが外的要因では変化しない」現在の私の”考え方やスタンス”の方向に向かって通過するポイントになったのです。
もしあのとき、越乃寒梅に向かう方向に”ポイント”が切り替わっていたらどのようになっていただろうか-------今でもそう思うことがあります。
たぶん酒販店としては、もう少しマシな商売上の結果は最低でも出せただろうし、もしかしたら想像以上の商売上の成功を収めていたかも知れないと思ったりもします。
商売上成功していたらしがらみがさらに多くなり、離れたくても店を離れることは出来なかったかわりに経済的には今よりは恵まれていたかも知れない---------いろいろと想像するのですが、自分の中の日本酒と日本酒に関わる部分に限って言えば、現在の私よりは「楽しくもなければ幸せな気持」でもないような気がします。
対内的な摩擦を抱えた上に新潟淡麗辛口の世界でも「政治的配慮や対外的摩擦や業界の事案」に追いまくられて消耗し、エンドユーザーの消費者の視点から見る、エンドユーザーの消費者の立場を優先する”気持”など持ち得ずに、酒販店にとって致命的に大事なエンドユーザーの消費者から遊離した存在になっていたかも知れないと思えるからです。
誤解されると困るのであえて書きますが、もちろん越乃寒梅という銘柄にその原因があるわけではなく、おそまつで能天気な私個人がその時点で越乃寒梅という超有名な銘柄を正規取扱店として取り扱ったら、上記のような”間違い”を犯す可能性が私個人に限ってはあったということを言いたいだけなのです。
越乃寒梅を取り扱うチャンスを、私自身がチャンスとして認識できないまま”自らの反応”で、結果として自ら逃した”事実”をかなり後になって知った私は、後悔を感じなかったわけではないのですが、不思議なことに”落胆”することはあまりありませんでした。
なぜなら前述したとうり、新潟淡麗辛口に接することになった”原点”が「商売以外の理由」の”人の縁”であったことに改めて思い当たったからです。
必ず”人の縁”が先行して現われ、その結果として銘柄を取り扱うことになる-------〆張鶴、八海山や千代の光だけではなく、南会津の國権も伊藤勝次杜氏の生酛も同じ”流れ”でした。
久保田においても、その発売の半年前に嶋悌司先生と朝日酒造東京主張所(当時)のA所長に”人の縁”が太いとまで言えないにせよ確実につながっていて、少しづつですが時間が経てば経つほど強くなり始めていたのです。
改めて、私自身には越乃寒梅に”人の縁”と呼べるものがまったくと言って良いほど無いことを実感したため、残念と思う気持があったにせよ、”人の縁”というガソリンでかろうじて動いているエンジンのような私には、仮にチャンスを生かせたとしてもうまく車を走らせることは難しかったのではないか------と感じたこともあって”落胆”することもなく何故か素直に”失敗”を受け止められたのです。
1回限りだがかなり取り扱いの成功の確率の高いチャンスはあったが、まったくと言って良いほど”人の縁”が無かった越乃寒梅、
確率100%で取り扱いなど絶対に無理でしたが、”人の縁”という人間対人間の関係を強く感じさせてくれた鶴の友。
たぶん私は”失敗”の以前にも、無意識のうちに、取引不可能という点ではまったく同じと言えた越乃寒梅と鶴の友を比べていたのかも知れませんが、”失敗”以後は(取引出来る、出来ないは別にして)直接的接触の多かった鶴の友・樋木酒造そして樋木尚一郎社長に、私自身の気持が強く傾斜していくのはある意味で自然なことでした。
冒頭に述べたとうり、それは私にとってきわめて大きな分水嶺だったのですが、自然過ぎるほど自然な”流れ”だったためその重大さに気づくことなく長い年月を過ごしてしまい、現在の私の日本酒や日本酒に関わる部分だけではなくその他の大部分をも含む私自身の”考え方やスタンス”を決定付けた”出来事”だったと私自身が納得し自覚できたのは実は4~5年前なのです。
鶴の友という蔵は、他の新潟淡麗辛口の有名蔵に比べれば知られているとは言えませんでしたが、私が初めて訪れた昭和五十年代半ばにはすでに独特の強い”存在感”があり”異彩”を放っていました。
八海山や越乃寒梅が拡大を指向する以前のこの時期でも、鶴の友の販売石数はその三分の一以下でしかなく、しかも販売されている地域は新潟市とその近辺に限定されていました。
鶴の友という酒と樋木酒造という蔵の存在を、私が知ることができたのは早福岩男早福酒食品店社長(現会長)のおかげでしたが、私の地元にも鶴の友・樋木酒造につながる”人の縁”が存在していたのです。
今思い返すと不思議と言えば不思議なのですが、私が生まれ育った昭和五十年代の北関東のH市には、私を新潟淡麗辛口の世界へ運んでくれた”人の縁”が存在していました。
当たり前と言えば当たり前なのかも知れないのですが、県外から来る人も多かったH製作所の本拠地だったためか新潟生まれの方や新潟に縁のある方も少なくなく、”縁の近い、遠い”を別にすれば私が直接接触したH市におられた「人の縁の”関係者”」は、鶴の友・樋木尚一郎社長のみならず、〆張鶴・宮尾行男社長、千代の光・池田哲郎社長、そして嶋悌司先生にまで及んでいました。
訪れる前に聞かされた鶴の友の”評判”はけして悪いものではなく、特にその酒質に対して高い評価はあっても”否定的見解”はまったく無かったのですが、
「蔵に行ったとしても取引できる可能性は0%だと思うし------」
蔵の中も見せてもらえないかも知れないし、蔵元が頑固で偏屈だという話もよく聞くし------など”蔵を訪ねる”ということには、行くのを止めようかなぁと半分本気で思うほど、”否定的見解”のオンパレードだったのです。
否定的ではない”見解”を聞かせていただいたのは、早福岩男さんただお一人でした。
早福岩男さんに見せてもらった鶴の友は、〆張鶴や八海山、千代の光とも違うタイプの新潟淡麗辛口であり、おそまつで能天気な私でも”驚き”を感じる酒質だったため諦めることがどうしても出来ずに、やや(本音を言うとかなり)”恐れながら”も、鶴の友・樋木酒造を訪ねたのです。
鶴の友への最初の訪問がどうだったかは、「鶴の友について・鶴の友について-2」に書いてありますので、ここでは詳しくは述べませんが、訪問する以前に感じていた”恐ろしさ”はまったく無かったのですが、ある種の”衝撃”があったことは事実でした。
私はそれまで新潟淡麗辛口を、〆張鶴、八海山、千代の光、そして早福岩男さんという「窓」をとうして見せてもらってきました。
〆張鶴、八海山、千代の光、早福岩男さんという「窓から見える景色」は、見る角度の違いによって見える景色に多少の”違い”があったにせよ、基本的には同じ景色が同じように見えていました。
鶴の友も含めた、越乃寒梅、八海山、〆張鶴、千代の光の五つの蔵が早福岩男さんを”接点”として一番まとまっていたと私にすら思える時期だったのですが、「鶴の友・樋木尚一郎社長という”窓”」から見えた景色は、見慣れていたはずの景色が「まったく違った景色」のように見えたのです。
正直に言うと、そのときの私はかなり”混乱”していましたし、”ショック”も受けていました。
今でもおそまつで能天気な私ですが、その当時の私は数年後に嶋悌司先生に”極楽トンボ”と評されたような”とんでもないお粗末さ”だったので、鶴の友・樋木尚一郎社長に相手にされず”門前払い”されてもやもを得ないレベルだったのです。
「まったく違った景色」を私に見せてくれた鶴の友・樋木尚一郎社長の”ご好意とご親切”は、私にとって想像外のものでした。
”人の縁”もあり、私の酒販店としてのあまりのレベルの低さに「怒りを覚えるよりむしろ心配になって」のご好意とご親切だったと思われます。
それまでの私は新潟淡麗辛口を、建物からの視点に例えると、私は”一階の窓”から見ていたと思われるのです。
蔵によりあるいは人により、その”窓の位地”に多少の違いはもちろんあるのですが、基本的には「一階の窓から見える景色」なのです。
しかし鶴の友・樋木尚一郎社長という”窓”をとうして見える新潟淡麗辛口という景色は、”二階の窓”から見た景色だったのです。
”二階の窓”は庭や外柵に遮られずに、見えなかった外の景色を見ることができます。
前面の景色だけではなく、反対側の窓に視点を向ければ、前面に”連続している”後ろ側の景色もはっきりと見ることが出来ます。
そして同じ物を見ているはずなのに、それがまったく違ったものに見え、”一階の窓”から見たときに大切に思えたものがそうでもないように見えたり、その存在の意味が分からなかったものの重要さが、後ろの景色も含めて、”二階の窓”から見ると分かるのです。
視野が広がる”二階の窓の視点”は、本来なら私にとって大きなプラスであるはずなのですが、この時点では弱くはない”衝撃”と小さくはない”混乱”を私に与え、さらに”ショック”をももたらしたのです。
おそまつで能天気な私であっても、八海山に始まり鶴の友にたどり着く”新潟行脚”の最初のこの数年間は、今までの私の人生のなかでも一番忙しく動き回った時期でもあり一番”勤勉”な時期でもありました。
「軽い気持で始めたのに、そんな気持ではなかったのに、何でこうなってしまうのだろう。こうなると分かっていたら始めるじゃなかった」--------と何度思ったか分からないほど、まるでジェットコースターに乗ってしまったかのような”急展開”の連続に追いまくられ、息つく暇も無いほど走り回り、ふと気がつくと予想もしていなかったフィールドの中に私はいたのです。
たぶんこの数年間が無ければ新潟淡麗辛口の蔵との人間関係のみならず、地元の「吟醸会」の人達とも知り合うこともありえなかったと思えるのですが、拡大したフィールドで私が得たものはそれだけではありませんでした。
まだ酒販店としてやっていけるほどではありませんが、それでも私はこの数年間で、ささやかであっても「有形、無形の実績」を積み上げており、「今は、”仕事の中に存在できる道楽”だがそれを拡大していけば、それで飯が食えるようになるかも知れない。もしそうなれたら、自分が嫌ってきたものとは違う、納得ができ誇りも持てる酒販店として生きていけるかも知れない、そのためには販売数量を増やすのが必須になる」--------という”欲”も持ち始めていたのです。
鶴の友・樋木尚一郎社長に直接お会いする機会のある方々が、ブログに異口同音に書かれているように私も最初の訪問のときから今に至るまで、”酒質や酒造技術”についてのお話はまったくと言って良いほど伺ったことはありません。
蔵の中を”系統だって”見せていただいたのも、現在高校二年の私の息子が小学三年生のとき、一緒に新潟に来たその息子のために樋木尚一郎社長自ら蔵の中を案内して下さったときだけだったのです。
私が”よく知る鶴の友”は、正面から入ってすぐ右側にある質素な事務室と左側にある囲炉裏のある(かつては天井が張ってなく”歴史”を感じさせる梁が黒光りしていました)応接間と、蔵と道を挟んだ裏側にある弓道場兼将棋道場なのです。
それまでの私が、忙しく動き回り体験し見てきたことを”枝や葉”に例えると、鶴の友・樋木尚一郎社長が私に見せようとしてくれたものは”根や幹”に例えられます。
たぶんそのときの私は、忙しく動き回った”新潟行脚”の結果、新潟淡麗辛口という”木”をそれなりであってもしっかりと見ているという自負を感じていたと思われるのですが、その自負は鶴の友・樋木尚一郎社長の”存在”によって「あっと言う間に消えて無くなり」、私が”根や幹”をまったく見ていなかったことを思い知らされたのです。
実は、鶴の友を訪れる前に聞いた、「教えてもらった話や情報」を”知識”としてある程度私は持っていました。
誤解を恐れずに言うと、私が実際に見た鶴の友はその”知識”を大きく逸脱してはいなかったのです。
しかし、話、情報で構成された”知識”としてとして知っているのと、実際に見て体験することにはきわめて大きな”差”が存在していたのです。
私は神戸の大震災のことは”知識”としては良く知っているし、震災を直接経験した方から話を伺う機会もありましたが、実際に震災に遭われた方々の痛切な体験をどこまで自分自身の肌の感覚の痛みとして感じているのか、理解できているのかには、まったく自信がありません。
震災の体験は”知識”として知っているだけでは、何も分かってないのとそう変わらないのではないか-------私はそう感じてしまうのです。
鶴の友という蔵も樋木尚一郎社長もそれと同じように、おそまつで能天気な私にとっては、実際に見て体験しない限り”知識”として知っていたことなど、何も知らないことと同じだったのです。
「酒は面白くて楽しいもの」、「酒は庶民の楽しみ」、「酒が庶民の楽しみである以上、酒を造る人間も酒を売る人間も庶民の立場に立たなければいけない」、「鶴の友は長い間お世話になっている地元の人に飲んでもらうために造っているのであって、都会や県外の人のために造っているつもりはない」---------鶴の友・樋木尚一郎社長の考え方を、”知識あるいは理屈”として理解することは難しいことではないのかも知れません。
たぶんほとんどの人は、積極的な否定はしないと思われます。
しかしそれを”知識や理屈”では無く、日常的でごく当たり前の”肌の感覚”として捉えることはきわめて難しく、鶴の友・樋木尚一郎社長の「ごく当たり前の日常」を見せていただいた私はまるで「何の準備も心構えも無く軽い気持で来てみたら、目の前にアイガー北壁があった」ような”心境”で、最小限の消極的肯定ですらおそまつで能天気な私には大変な”困難”に思えたのです。
もちろん鶴の友・樋木尚一郎社長が、「検事のように被告を追及する態度」だったわけではありません。
”人の縁”があったにせよ私は、新規取引はしないという”立場を表明”しているにも関わらず取引を求めて蔵を訪問する酒販店の一人という、鶴の友にとって”やや迷惑”な人間だったはずなのに、迷惑そうな様子は一切されず親切で暖かい対応をして下さったのですが、長い時間お邪魔しその分だけ多く見させていただいた”鶴の友のごく当たり前の日常”が、
私を鋭く批判し私を”被告席”に立たせていたのです。
長いブログのスタートです、鶴の友についてシリーズに書いたことの繰り返しになりますが、最初に訪れたとき見せていただいた鶴の友の日常は、以下のようなものでした。
越後線の内野駅のすぐ近くに鶴の友・樋木酒造はあるのですが、内野駅のそばにある広い”空き地”は樋木酒造の所有地にも関わらず無料駐車場として開放されていて、駅を利用する人達が当然のごとく”勝手に”車を止めていました。
後日のことですが、早福岩男さんが、
「少し前のことだが、樋木さんが内野駅のそばにある無料駐車場として開放している土地に用事があって車でそこに行ったら、後ろから入ってきた車にクラクションを鳴らされたらしいんだ。
何かと思ってその車に近づいたら、そこは自分がいつも車を止めている場所だから車をどかしてくれと言われたらしいんだ。
俺だったら”ふざけるなぁ”と怒り出すと思うんだけど、樋木さんは、そうですかと言って車を移動したそうだ。
俺みたいな凡人には、とても樋木さんの真似は出来ないなぁ----」------と苦笑しながら話してくれたことがありました。
その話を樋木尚一郎蔵元にお尋したのですが、
「ああ、そんなこともありましたかね。
いずれにせよ、長年お世話になっている内野の人のお役に立っているようだから、それで良いんじゃないでしょうか。
閉鎖しておいても雑草が生えるだけですから-------」
といつものように、ごくふつうの言葉が、ごくふつうに返ってくるだけでした。
最初の訪問で、私は当初の予定からは”大脱線”し、弓道場兼将棋道場に泊めていただくことになり、そこで深夜まで樋木尚一郎蔵元のお話を伺うことになったのです。
話としての”知識”ではなく実際に私の目に映った弓道場兼将棋道場の日常は、昼間は近所の弓を引く方が、”勝手に”入ってきて”勝手に”準備をして、”勝手に”弓を引いて”勝手に”片付けをして帰っていく姿でしたし、夕方から夜にかけては将棋を指す人達が”勝手に”将棋盤を出してきて”勝手に”将棋を指し、”勝手に”将棋盤をしまって帰っていく姿でした。
来られる方々も迎える方も、それはごくふつうできわめて自然で当たり前のことと思っている-----------そんな”光景”だったのです。
弓道場兼将棋道場から人の姿が消え、”夜食”を間に挟んで深夜まで本来の目的の”酒の話”になっていくのですが、その前に私は、ノックアウト寸前のボクサーのような心境になっていたことを今でもよく覚えています。
なぜならそれまでに見てきた鶴の友の日常は、私の日常では「逆立ちしても有りえない、考えられない」日常だったからです。
”損得という価値判断のバロメーター”がほとんど存在していない鶴の友の日常に、”損得というバロメーター”が価値を判断する際の重要な基準のひとつだった私は、「混乱し衝撃も感じていた」からです。
「話で聞くのと、実際に鶴の友・樋木尚一郎社長を自分の目で見て肌の感覚で感じる」ことの間には、私が受け止めなければならなかった”質量の大きさ”が、月と太陽ほど”隔絶”していたからです。
前述した、「酒は面白くて楽しいもの」を始めとする数々の言葉は、その夜に樋木尚一郎社長が話してくれたものです。
「何故そうであるのか」を、深夜に至るまで”説明”をし続けてくれたのですが、おそまつで能天気な私では、懇切丁寧にしかも私に分かるレベルまでレベルを下げて熱心に教えてくれた樋木尚一郎社長のお話を、どこまでそのときの私が”理解”できていたかを思い浮かべると今でも「穴があったら入りたい心境」になります。
私の、「新潟淡麗辛口をそれなりに見てきたという”実態の無いささやかな自負”」は当然消えて無くなり、「井の中の蛙、夜郎自大」という言葉が私の”頭の中”を走り回っていました。
このとき私は、私がその達意の文章をよく引用させてもらっている鶴の友の地元の内野育ちの”羊さん”が、「鶴の友 副題 羊の基準酒」の中で”ノブレス・オブリージ”と表現された鶴の友の姿を目の前にし、本当に恥ずかしくてたまらなかったのです。
(鶴の友について-2--NO2 http://blog.goo.ne.jp/sakefan2005/d/20071006 に引用してあります)
しかし同時に、樋木尚一郎社長が見せてくれた”二階の窓”から見た景色が、おそまつなりに私がこれまで積み重ねてきた「有形、無形の実績とその将来」を破壊することになる可能性を持つことに、”恐怖”を強く感じてもいたのです。
「見なかったことにして忘れればいい。そうしなければ危険だ」という”警告”が頭の中を駆け巡っていたのですが、”肌の感覚”がその”警告”を素直に受け入れることに「弱くはない異議を申し立て」ていました。
「二階の窓から見えた景色」を、全面的に受け入れることも出来ず全面的に否定することも出来なかった私は、ある意味で”深刻なジレンマ”に陥り、「二階の窓から見えた景色」を限定された”狭い領域”に隔離しようと努めたのですが、結果としてそれには”無理”があったのです。
”元酒販店”で、現在”ごく普通の会社員”である私の周囲には、数十人規模(私が直接知らない人も含めると100人は超えている)の酒のファンである、”庶民の酒飲み”がいます。
昨年はとうとう350kgを超えて配ってしまった、”酒粕のファン”を加えるとその人数はもっと増えます。”あいつは馬鹿だけど、馬鹿なりに面白いところがある”、”いつも大した人間ではないと思うんだけど、おまえの話を聞いてると、なぜか酒が飲みたくなるんだよなぁ”-----褒め言葉はまったく無いのですが、おかしなことに、彼らがまた”酒のファンの拡大再生産”をしてしまうのです。
その”勝手な連中の声”に押されて、地元の小さな蔵の”県民が誇りを持って飲める酒”の開発プロジェクトに”手弁当”で関わったり、配る酒粕が350kgになってしまったり、「20年振りに、〆張の純米の樽酒がどうしても飲みたい」との”希望の実現”に走り回ったり-----どう考えてみても、もうすでに”サラリーマンのボランティア活動”の範囲を超えています。”勝手な連中の声”に振り回されてきたこの十数年ですが、彼らの”楽しそうな様子”や”嬉しそうに喜ぶ顔”を見続けてきたおかげで、”樋木社長の信念”が私なりに理解できたような気がしています。
「酒は面白くて楽しいもの」、「酒は庶民の楽しみ」、「酒を造る人間も売る人間も、飲む人の立場に立たなければならない」-----この”樋木社長の信念”を、もし酒販店に復帰したときの私は、今やっていることをそのままやれば、私なりに実践できると思っています。
変わる部分があるとすると、フルタイムでやれるので、私が交流する酒のファンが”数十人”から”数百人”になるだろうと思われることだけです。
もし、私が酒販店に復帰したら、数百人は晩酌で飲める”幸せな庶民の酒飲み”が増えると思われます。
あなたが私に、直接にも間接的にも、接触できない地域の方でも私の周囲にいる、”幸せな庶民の酒飲み”になることはできます。
NO3に書いた新潟市の3軒のお店を訪ね話を聞き、鶴の友を実際に味わってください。
そうすれば、あなたは「鶴の友の価値が本当に分かる幸せな庶民の酒飲み」にたどり着ける”切符”を、手にすることができます。
久保田が発売された直後、私は当時の親しい酒販店の仲間に、ひとつの”予言”をしました。その”予言”は、周囲のほとんどの人達から批判され否定もされましたが、10年もたたないうちに批判した人達から、「Nさんの予想のとうりになってしまった」と言われるようになりました。
この”予言”は、私自身が当たって欲しくないと思う気持を少なからず持ちながらも、周囲の人達に発した”警告”でした。しかし、”予言”は当たってしまい、”警告”は”警告”としては機能しませんでした。
周囲の人達は、”予言”の正しさを認めても、”警告”された危険を危険と思わず、むしろその状況に争うように進んで”適応”し、現在の地酒(地方銘酒)専門店へとギヤをトップに入れ続けていたからです。
私が”予言”をすることが出来たのは、樋木社長のおかげでした。
樋木社長に出会う前の私は、新潟淡麗辛口の”拡大戦略”に何の疑問も持っていませんでした。
”拡大戦略”がいいことであり、マイナスは何もない-----そう思い込んでいました。樋木社長のお話は、私にカルチャーショックをもたらしましたが、何回も伺ううちにそれまでの私の考えと行動を破壊しかねないと感じながらも、否定できないあるいは否定してはいけない”視点”を、私に与えてくれたのです。昭和50年代前半に、ひょんなことから八海山に行って以来、新潟淡麗辛口で突っ走ってきた私は、苦戦しながらも八海山、〆張鶴の知名度が上がってきたこともあって、ようやくこのころ”やれる”と感じていました。
それゆえ樋木社長の存在がなければ、私もギヤを抜くことができなかったはずです。
私は、「鶴の友の価値が本当に分かる幸せな庶民の酒飲み」が増えてほしいと切実に願っています。
そうでなければ、困難に耐えての”鶴の友の増産”はありえないし、今中2の私の息子が”幸せな庶民の酒飲み”になれる保障がないからです。私は大変勝手な人間です。
樋木酒造が、鶴の友を造り続ける負担の大きさを、他の人達よりも知りながら、それでも造り続けてもらえることを強く希望しています。
希望が強いる負担の大きさに比べ、自分ができることのあまりの小ささに情けない思いがありますが、それでも私は鶴の友に存在し続けて欲しいのです。
なぜなら、エンドユーザーの消費者のことを考え、犠牲を払ってきた樋木酒造のような得がたい蔵を無くしてしまったら、私達消費者に酒を語る資格が無くなると強く感じているからです。
ゆえに私は1000~2000人の鶴の友の本当の価値の分かる、”庶民の酒飲み”を造りたいと思いこのブログを書いているのです。
これは私が2006年の8月に書いた「鶴の友について--NO6」からの引用です。
(http://blog.goo.ne.jp/sakefan2005/d/20060805)
私が「深刻なジレンマに陥ることが”出来た”」のは、私が新潟淡麗辛口に関わった動機が
「商売上以外の理由」だったことと、私がおそまつで能天気だったからだと思われます。
鶴の友という蔵で私と同じような”体験”をしたら、酒販店としても商売人としても優れた人も、酒販店でもなく商売人でもないが一個人として人間として優れた人も、私とは違い、自分の立場において正しいと思うどちらかの”明確な判断”をして、どちらかの”方向”に突き進んだと思われます。
良くも悪くも私は「迷いに迷って」いました。
〆張鶴や八海山、千代の光をできるだけ拡販し、久保田も嶋悌司先生やA所長との”縁”を拡大しながらその販売の前線に立つ”尖兵”として順調に販売数量を伸ばしており、「新潟淡麗辛口を中心とした日本酒で飯が食えるようになりたい」という”既定の方針”どうりに進みながらも、その”対極にあり危険”とも思われる鶴の友を無理に機会を造ってでも訪れ、鶴の友・樋木尚一郎社長のお話を伺い続けたのです。
その時間のなかで、「二階の窓から見えた景色」を限定された”狭い領域”に隔離することが無理であることを感じ始め、時間が経てば経つほど、”領域”が拡大することに「ブレーキをかけることを”放棄”」するようになっていったと思われるのです。
親しい酒販店の仲間に私がした”予言”は、”領域”が拡大していることの兆候であり証明でもありました。
その”予言”は、私の置かれていた立場にとっても”危険”であり、ただちに私自身の”既定の方針”を変更できる”気概も実力”も私自身にも無かったのですが、警告として言わざるを得ない心境になるほど”領域”が拡大していたのです。
冒頭に書いた、「私が一番越乃寒梅に近づいたポイント」で私自身の”明確な意識”の無いまま結果として越乃寒梅の方向に向かわなかったのは、今の時点から見るとある意味できわめて自然でごくふつうの”流れの中での選択”だったように思えます。
”そのポイント”は、私にとって、”領域の拡大”にブレーキをかけるのを放棄するだけではなく、
ミリ単位の微かな踏み込みでしたが、結果として”領域の拡大”の方向にアクセルを踏み込む”分岐点のポイント”になったからです。
”そのポイント”の延長上に、酒販店としてはある意味で”特殊な育てられ方”をされ、かつて酒販店であった者としてある意味で”特殊な経歴”を持つ、”毛色の変わった”日本酒エリアNという日本酒のブログを書き続ける、”毛色の変わった”人間としての現在の私があるからです。
4~5年前、鶴の友・樋木尚一郎社長のお話を電話で伺っているとき、「Nさん、この件についてはあなたはどう思われますか」という”ご質問”がありました。
私は、特に意識することなく何も考えずにごくふつうの”私自身の感想”を申し上げました。
すると私にとっては意外な言葉が、樋木尚一郎社長から返ってきたのです。
「Nさん、あなたは本当に変わりましたね。 一度、酒販店を、日本酒業界を離れたのがあなたにとっては良かったのかも知れませんね-------」
その樋木尚一郎社長の言葉を伺ったとき、突然”そのポイント”のことが脳裏に甦り、それが私にとって実はきわめて重大な”分水嶺”だったことを、そのとき初めて私は深く実感することができたのです----------。
鶴の友について-3-NO2に続く(ただしいつになるか私自身にも分かりませんが-------)