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新潟淡麗辛口の蔵の人々と”庶民の酒飲み”の間で過ごした長い年月
(昭和五十年代~現在)を書き続けているブログです。

鶴の友について-5--NO5

2019-10-06 19:07:08 | 鶴の友について
 


いつの間にやらかなりの時間が過ぎてしまいました。
今年の四月から、“まったく畑違いの職場”にフルタイム(当然前職より収入は低いですが)で再就職したこともあり、更新する余裕がありませんでした。
また平日の休みから土日の休みにかわったこともあって、通院とか各種の用事で意外と休みが忙しく時間が有るようで無かったのです。
落ち着いたら新潟の蔵に報告に行こうと思っていたのですが、いまだに、鶴の友にも〆張鶴にもお邪魔していません。
それでもようやく記事を書こうという気持ちが少しですが表面に浮上してきたので、私にとってはですが、短めに書いてみようと思います。



 



思えば不思議なもので、酒販店を離れてからほぼ三十年が経っているのですが当時取引があった(八海山、久保田を除く)〆張鶴、千代の光、鶴の友の蔵元、早福岩男早福酒食品店会長との人間関係がありがたいことに“当たり前のように”続き、盆暮れの挨拶とともに自分が中元・歳暮用使う本数プラスαを送って頂いています。
昭和五十年代初め私が最初に訪れた酒蔵は八海山でしたがそこから〆張鶴→→早福岩男会長(当時社長)→→鶴の友・千代の光と縁が繋がり拡大していったのは“運が良かった”としか言い様がありません----------なぜならそれは“日本酒のルネサンス”と後世から言われるであろう“新潟淡麗辛口の最前線”に意図することなく無自覚に足を踏み入れてしまったことを“証明”しているからです。
昭和五十年代初め~平成三年まで、県外の酒販店としては、取引先の新潟淡麗の酒蔵を訪れた回数が多い方の人間の一人だと思われます。
この時期この期間に、自分の目で、自分の耳で、自分の鼻で、自分の舌で見たり聞いたり利いたり味わった“経験と縁の蓄積”は自分にとって“一生の宝物”になっていると思われます--------なぜなら今の自分が自分自身だと思っている大部分がこの時期に形作られたからです。

さて最近、獺祭が原酒に加水(水を加えてアルコール度数を調整する工程)の際に攪拌を怠ったため12度~17度のバラバラな状態で瓶詰されてしまったとのニュースがありましたが、本当に呆れました。
年産200石(一升瓶換算20000本)の極めて小さな蔵であってもナショナルブランド(NB)の月桂冠のような量産メーカーでも『考えられない想定外のミス』だからです。
いかに大量に製造してようとも吟醸酒以上の酒しか造っていない酒蔵としては普通の酒蔵より厳しい管理が必要とされているのに、これでは普通の蔵以下の管理しかされていない、ごく普通の蔵が持つ酒造りに対する丁寧さと愛情が少ないのではないか、と疑われてもやむを得えません。
酒蔵の販売量が拡大して“ファクトリー化”すること自体にも個人的には疑義がありますが、“ファクトリー化”を選択した場合管理のレベルが数段階上がらなければならないのが当然であるべき流れです。
もともとは造る人の神経が隅々にまで届く量しか造っていなかった酒蔵が杜氏や蔵人の目が届かないほどの製造量の大規模拡大になった場合、温度管理、湿度管理を始め蔵内部、タンクなどの数値管理の出来る設備を導入し『ある程度の範囲内に酒質の低下を抑える』しかその酒の評価を守る方法がないのです。
その管理体制に穴があれば、たとえヒューマンエラーが原因だとしても、あるいはヒューマンエラーが原因のためゆえ、その銘柄の酒質への信頼は低下せざるを得ないのです。
このブログでは4~5年前から獺祭への“疑義”を書いてきましたが、残念ながら、今回のニュースは“その疑義”が間違いではないことの補強になっているのではないかと思われます---------。


 


私個人は“獺祭への疑義”はそれ以前から有りましたが、私自身は取り扱った蔵でも無かれば訪れたことも無い蔵だったため、このブログの記事には書くことを控えてきましたが、4~5年前にこのままでは〆張鶴や鶴の友のようなエンドユーザーの消費者にとって非常にありがたい蔵の『真摯な継続し続けている努力』が“獺祭への疑義”の影響で誤解されかねないという強い“危惧”があり、書かざるを得ないと痛感したのです。
エンドユーザーの消費者の一人に過ぎない私ですが、昭和五十年代初めから現在まで“日本酒の興亡”を眺める位置を場所を変えながらも維持してきました。
「このままでは地方の日本酒は生き残れない、いや日本酒そのものが生き残れない」という強い危機感が生み出した新潟淡麗辛口の“疾風怒濤の時代”を実際に体験してきた私ですが、“あの時代”は危機感と背中合わせであったとしても遠くに光が常に見えていました----------それゆえお粗末で能天気な私でも楽ではなかった状況から逃げなかった、逃げられなかったと思われます。
現在は私自身が酒販店として“味わってきた困難”より困難が多く遠くにすら“光”があるのか分らない状況にあると私個人は感じざるを得ないのです。

私が学生であった昭和四十年代後半には、大多数のエンドユーザーの消費者にとって、日本酒は『遠ざかる風景』そのものでした。
今振り返っても、当時のナショナルブランド(NB)や地方の酒蔵の大多数の造っていた日本酒は『清酒風アルコール飲料』と言われてもしかたがない存在でした。
テーブルに毀れるとべたつくその酒質と熱燗中心の“その飲酒スタイル”は、大多数のエンドユーザーの消費者とって「年配者のためのものであって自分達には関係ないもの」と思われており私自身もその例外ではありませんでした------------。
そんな私でしたが、昭和五十年代初めに“意図できない偶然の連続”で当時あまり知られていなかった『最先端の新潟淡麗辛口の最先端の蔵』にぶち当たり続けてしまったのです。
“日本酒に否定的な感情”を持っていた私だっただけに、『最先端の新潟淡麗辛口の最先端の蔵の酒質やその姿勢や情熱』に新鮮な驚きと感激があり、蔵に行く回数が増えるば増えるほど“情熱の一端と確信”が私の中にも生じ始めたのです。


 


私の中に生じた“情熱の一端と確信”とは、「軽くて切れの良い新潟淡麗辛口の酒質と蔵の姿勢は、かつての私自身のような日本酒に否定的な大多数のエンドユーザーの消費者にも必ず受け入れてもらえる」--------そのためには売る側も一人さらに一人と地道にこつこつ分ってもらう、ファンになってもらうたゆまない努力をし続ければ“その飲酒スタイル”は新しい時代のものとして評価され定着するという確信です。
“そんな確信”を持ったため私は昭和五十年代後半まで捨てる本数(文字どうりの廃棄や試飲用のばらまき)が少なくないという“苦戦”を続けるのですが、なぜか“確信”が揺らぐことはなくほんの少しづつですが私と同世代の新潟淡麗辛口のファンが確実に増え続け、一回り以上上の世代にも広がりを持ち始め100回続くことになる『吟醸会』へ繋がり「新潟淡麗のファンが新潟淡麗のファンを“拡大再生産”してくれる」流れになっていったのです。
昭和の終わりのころには、逆に、特に〆張鶴・純を中心に新潟淡麗辛口の“需要に対する供給”に苦しむようになっていました。
売っているより投げている本数が多かった時代から飲んで頂いた“庶民の酒飲み”の皆さんの必要本数を確保しながら、「ご自分の住む地域の正規取扱店では〆張鶴も八海山も売ってもらえないため遠くから来店される“庶民の酒飲み”の皆さんに買って頂く本数の捻出が難しかったからです。
売れない時代の“1本の有りがたさ”を忘れられない私としては出来るだけ対応したのですが、売れ始めた流れの中では“個人の努力”では限界がありましたが『業界としてサイレントマジョリティの庶民の酒飲みの要望に応えられない』という実態には強い危機感がありました。

需要に供給が追いつかないとき生産量の拡大、量産化を考えるのが“自然な流れ”だと私も思いますし量産化自体は好ましくないが私自身も否定ばかりするつもりはありません。
しかしこのブログの中でも何回も書いていますが『量産と酒質の高さの維持は相性が悪い』-----------私の経験では残念ながらそれが“事実”なのです。
新潟淡麗が昭和の終わりから平成の初めには強くあったエンドユーザーの消費者の支持が、残念ながら現在は縮小均衡の状況ですがその原因の大きな一つが口の悪い人に“新潟ナショナルブランド”と言われる一部の蔵の同じ時期のファクトリー化と量産化による“酒資の低下”にあると思われます。
“新潟ナショナルブランド”と言われる三銘柄は、私個人には、三十年以上前の丁寧な造りの酒質と比べればまるで違う酒質としか思えませんが、それでもファクトリー化と量産化から現在に至るまで今回の獺祭の呆れるようなとんでもないミスをする可能性は過去も今もありません--------------。

獺祭の“今回の事件”は原因がそれだけではないにせよ“ファクトリー化と急激な量産化の歪み”が大きな要因だと思われます。
獺祭と獺祭の取扱店は“今回の事件”についてあまり危機感がない------事実かどうか分りませんが私はそう聞いていますが一人のエンドユーザーの消費者の
私にとっては「獺祭の今後を左右しかねない“大事件”」だとしか思えないのです。

 


このブログでもくどいほど書いてきましたが、酒販店の役割は酒蔵とエンドユーザーの消費者との間を繋ぐインターフェイスだと私は思い私なりに実践してきたつもりです。
酒蔵の考えや大事にしていることをエンドユーザーの消費者の分る言葉に“翻訳して伝え”、エンドユーザーの消費の要望や率直な感想を酒蔵の人達の分る言葉に“翻訳して伝える”のがインターフェイスとしての酒販店の役割だと新潟淡麗辛口と共に昭和五十年代を過ごしてきた私は思っているのですが、思い上がりかも知れませんが、現在の地酒専門の酒販店はインターフェイスの役割を果たしているのかという“疑問”が私の中にはあります。
もし地方銘酒蔵(地酒の蔵)がサイレントマジョリティの庶民の酒飲み酒質や価格の要望を聞こうともせず吟醸や純米吟醸に力を入れ、サイレントマジョリティの庶民の酒飲みの要望などまるで考えない“プロダクトアウトの酒造り”をしていて、酒蔵に翻訳して伝えるエンドユーザーの消費者の要望がサイレントマジョリティの庶民の酒飲みの数パーセント以下の“日本酒通、日本酒マニア”のみの要望や希望だとしたら、本来の意味での日本酒を売る酒販店の役割を果たしていると言えないのではないかと私には思われます----------もしそうであれば地方銘酒(地酒)と地方銘酒専門店は、残念ながら、サイレントマジョリティの庶民の酒飲みから“遠ざかる風景”にならざるを得ないのではないかとの“強い危惧”が私にはあります。


このブログを読んでいる方で〆張鶴(村上市)千代の光(妙高市)、そして新潟市に行く機会があったらぜひ飲んでもらいたいお酒があります。
〆張鶴と千代の光は二百数十円のワンカップ(地元でしか販売していません)、鶴の友(ワンカップはありません)は一番価格の安い上白です。
飲んでもらえれば価格は安いが酒質のレベルは極めて高い、サイレントマジョリティの庶民の酒飲みにとって本当にありがたい酒蔵であることを“肌の感覚”で理解できると思えるからです、そして自分達の子供に“その幸福感”を味わってもらうためにも『将来に亘って残さなければならない貴重な酒蔵』であることを実感できると思えるからです-------------。





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