今回は“ブログが更新出来なかった私の近況”を書かせていただきと同時に、現在の“日本酒の世界”に対する私が“酒販店の現役”だった昭和五十年代~平成の初めと対比した私なりの“個人的感想”を書いてみたいと思っています。
まずは短く近況を-------。
昨年は私にとって変化のあった年でした。
3月、10月の二度新潟に行かせて頂いたのですが二度とも(昨年大学を卒業し就職した)息子と一緒だったからです。
10月の新潟行きは3月に行けなかった〆張鶴・宮尾酒造を訪れることを息子が希望したからです。
この村上行きについては(いつになるかわかりませんが)鶴の友について-NO4--4で書きたいと思っていますが、私にとって感慨の深い出来事でした。
私が最初に村上を訪れたのは昭和五十年代初めで、その時点で宮尾行男会長は三十歳代初めの”若手専務”としてご活躍中でしたが現在は平成24年にご子息の宮尾佳明氏が社長になられ会長となられています。
70歳を超えられた今でも宮尾行男会長の印象は変わらず酒造りへの情熱が衰えていないことを改めて実感いたしました。
同行した息子に、麹室の大改装を中心にした二年以上に亘った工事が終了した蔵の中をご案内いただき懇切丁寧な説明をしていただいたのは本当にありがたいことでした。
(念のため書き添えますが原則として酒蔵見学は受け付けていないそうです。息子は初めてで私自身も改装後の蔵の中を見る機会がなかったので今回は特別に見学を許可していただきました)
最初に〆張鶴・宮尾酒造を訪問したときに、約四十年後に息子と一緒に〆張鶴・宮尾酒造を訪れる日が来るなどとはまったく想像が出来ず深い感慨に耐えかねたのです。
かなり以前からお邪魔させていただいた折には、おそまつで能天気な私なりに思うことを申し上げまた疑問に思うことを質問させていただきますがいつも丁寧なご返答を頂いています。
酒造業界の一部で言われているような“話ししにくい”という印象を宮尾行男会長に感じたことは私は一度もなく、初めてお話を伺った息子も“すごく親切な方”という印象が強かったそうです。
この三十年鶴の友・樋木酒造は蔵の外観も蔵の内部もあまり変わっていませんが〆張鶴・宮尾酒造は外観も一部変わり(瓶詰め施設および大型冷蔵倉庫のすぐ近所への新設)蔵の内部も変わり続けていますが、『変えてはいけないことを変えない“頑固さ”』は共通していることを今回の村上行きは改めて強く実感し、息子も鶴の友・樋木酒造と〆張鶴・宮尾酒造の両方を訪れることで『違いと同じ部分』を実感できる貴重な機会になりました。
そして子供とこんなに同じ酒蔵での時間を過ごし同じ景色を見て同じことに感想を述べ合うのは今までなかった大きな変化でありその意味でも貴重な機会になったのです----------。
昭和五十年代初めからの視点-1
ある街の全体像を大雑把に把握する方法としては、メインの道路を車で走り回るのが効率の良い選択です。
私自身も(良く行く場所は除いて)自分自身が三十年近く住む地方都市をその方法を駆使することでよく知っている--------そう誤解していました。
あるとき健康上の理由から自宅の近辺を散歩をすることになったのですが、ふだん車で走ることの無い“裏通り”にはすぐ近くであっても見たことの無い景色や「えーここにこんなもの(建物・施設他)があったのか!」-------驚きの連続で自分の住む街をいかに知らないかを思い知らされました。
しかし私は“日本酒の世界”では車で走り回るのではなく長い時間をかけ自分の足で狭い範囲を何回も何回も歩くことで“街の風景”を肌の感覚で実感しようとしてきたようです-------。
そんな“日本酒の世界の歩き方”を昭和五十年代初めから積み重ねてきた私には、近年の地方銘酒(地酒)の酒造・酒販の方向には“違和感”を感じ続けてきました。
(私の“違和感”については(この記事の中の)後で具体的に記述します)
酒販店時代の私が取り扱いをさせていただいた酒蔵は、〆張鶴、八海山、千代の光、久保田(以上新潟)、国権、大七(以上福島)で取り扱いはありませんでしたが鶴の友・樋木酒造にもよくお邪魔していました。
私の店はけして地方銘酒(地酒)の専門店ではなく月桂冠や剣菱に代表される灘伏見のNB(ナショナルブランド)やその他のアルコール商品も販売している“ふつうの酒販店”でしたが、上記の日本酒をお一人お一人のエンドユーザーの消費者に熱心にお薦めしていることが変わっている点、あるいは特徴だったかも知れません。
池袋の甲州屋さん始め有力な“地酒屋さんの会”に参加していながら私自身には“地酒屋”という意識も自覚もなく、年齢が一回り以上上の諸先輩のレベルには無く「N君は〆張鶴や八海山をその数量売っていてもまだ月桂冠を売っているのか?」と言われ続けていました-------私はその言葉には逆らいませんでしたが心の中ではエンドユーザーの消費者が欲しいと思うものを提供するのも小売店として自然ではないか--------たとえその当時の月桂冠の酒質が私自身も評価できないものであっても“その考え方”に理解を求めることは出来ても押し付けることは出来ないと思っていたからです----------。
地酒屋でないため取り扱い銘柄は上記のように少なく逆にそれゆえ各蔵元とは接触する機会も時間も多くとれたのですが、販売面では(特に最初のころは)苦戦の連続でしたが少しずつ“私自身の気持ち”を買ってくれるエンドユーザーの消費者が増えていきました。
私は日本酒という存在について自分が面白い、楽しいと思える部分をエンドユーザーの消費者に伝えることがだんだん好きになっていきました-------好きになればなるほど何故か不思議なことに来店されるエンドユーザーの消費者が増えてゆき気がつくと販売数量も売り始めたころには想像できなかった“数字”になっていたのです。
現役の酒販店を離れて四半世紀以上になるのですが、今でも樋木酒造、宮尾酒造、千代の光酒造、国権酒造の皆様には大変お世話になっておりますし昔のお客さんの一部の方とはお付き合いが現在もあります。
私がよく書くお粗末で能天気という“表現”は謙遜でも卑下でもなく少なくても現役の酒販店時代には“厳然たる事実”だったのですが、同時に存在した私なりの“日本酒に対する愛情と情熱”をかろうじて皆様に認めて頂けたことが二十六年前に酒販店を離れて会社員になっても変わらぬお付き合いをさせて頂いてる“理由”だと思われるのです。
現在の酒販店の多くは現役のときの私とは比べ物にならない優秀な方が多いのですが、残念ながら“日本酒に対する愛情と情熱”と言う点では首を傾げるざるを得ない場合も少なくないのです-------そしてそれが私が感じる“違和感”の大きなひとつなのです----------。
昭和五十年代初めからの視点-2
振り返って見ると昭和五十年代初めから平成の初めにかけて“新潟淡麗辛口の最先端の蔵”に接点を得られたことは、私にとって、幸運以外の何物でもありませんでした。
さらに恵まれていたのは、「〆張鶴と八海山という二つの蔵」と「早福酒食品店と甲州屋酒店という二つの酒販店」の“生き方”を同時並行で見させて頂ける幸運を最初の段階で得れたことです。
何も分からない私にとって同時並行で比べて見れることと、何も知らないからどんなに初歩的なことでも質問できることはむしろ“武器”と言えました。
酒販店の3代目という自分の立場をあまり好ましく思えずに育ってきた私は(限りなく下戸に近いこともあり)アルコール飲料には無関心で、「日本酒なんてものは21世紀には無くなる」と“公言”して憚りませんでした。
そんな私でしたが〆張鶴の酒質と故宮尾隆吉前会長(当時は社長)、宮尾行男会長(当時は専務)との出会いのおかげで日本酒に対する感じ方は180度方向を転換したのです。
この時代は今から振り返ると、人間対人間の信頼関係をゆっくりと造っていけるゆるやかな時間の流れに恵まれていた時代だったかも知れません。
その後早福酒食品店早福岩男会長、千代の光・池田哲郎社長、鶴の友・樋木尚一郎社長そして嶋悌司先生へとありがたいご縁がつながり、日本酒あるいはそれ以上に日本酒に関わる方々が私は大好きになっていき酒や酒蔵に接することは楽しくてしかたがないことになり、お粗末で能天気な私であっても、蔵に行けば行くほど“自分の中で消化できる知識”が増えていき、エンドユーザーの消費者に「自分の言葉で自分自身が感じる日本酒の面白さと楽しさ」を話すことが本当に楽しいこととなっていったのです。
今でも「Nさんと話していると日本酒を飲みたくなりますね----」と言われるのですが、昭和五十年代に〆張鶴や八海山、千代の光、大七生もとの私の店の主力銘柄を応援していただいたエンドユーザーの消費者の皆さんは「日本酒とその世界が好きで好きでたまらない私自身の気持ち」を“買って”いただいていたような気がします---------。
しかし現在の現役の酒販店には私が直接知る後輩も含めて、上記の気持ちをエンドユーザーの消費者の皆さんが感じることが出来る店主がきわめて少ないように私には感じられてならないのです。
昭和五十年代初めに大学を卒業した私達の世代も若いころは日本酒に親しみを持っていない方が大多数を占めていましたが、昭和五十年代後半から現在に至るまでこの世代が一番厚い日本酒のファン層として存在しています。
もちろん日本酒ルネサンスと称された新潟淡麗辛口の隆盛とともに育ってきた世代という“有利さ”が大きく作用していますが理由はそれだけではありません。
私と同じように同世代の周囲の人間も「日本酒は父親の世代の飲み物で自分達にとっては博物館入り一歩手前の存在」と感じていて興味を持つことなど無かったのです。
しかし自分達が出会った新潟淡麗辛口はそんなイメージを覆すものだったのです。
何度も書いていますが新潟淡麗辛口は“意図的に”造り出されたものです、そしてその中心には嶋悌司先生という大きな存在がありました。
今の時点で振り返ると、嶋先生や新潟のごく一部の蔵を動かした原動力は(私が想像できる範囲ではですが)たぶん“恐怖”ではなかったのかと私自身には思えてならないのです。
その“恐怖”はふたつあったと思われます。
ひとつは灘・伏見の大手NB(ナショナルブランド)のシェアが新潟県内も拡大し、何も手を打たなければ県産酒が淘汰されかねないという“恐怖”。
もうひとつは、若い世代の食生活の変化(洋風化、ライト&ドライ化)によって大手NBに追従した酒質では若い層に見放されかねないという”恐怖”。
このふたつの“恐怖”が昭和四十年代後半から、「協会10号酵母、県産五百万石、低温長期もろみ」の三つのキーワードで語られる新潟淡麗辛口へと突き進む原動力となったと思われるのです。
事実、“軽くて切れの良い新潟淡麗辛口”は日本酒に否定的であった私達の世代の意識を変え、大手NBの日本酒との酒質の差を誰でもが判るざるを得ない“強いインパクトとパワー”を伴って“登場”してきたのです。
その中心に嶋悌司先生と早福岩男・早福酒食品店社長(現会長)の存在があったことは誰もが否定出来ない“歴史的事実”ですがそのお二人ですら昭和五十年代前半は四十歳代後半~五十歳前後であり、実際に蔵の中で淡麗辛口化を担った〆張鶴・宮尾行男専務(現会長)は三十歳代前半、千代の光・池田哲郎常務(現社長)にいたっては二十歳代後半という若さ--------新潟淡麗辛口は伝統を受け継ぎながらも「博物館に入ってしまう」ことを阻止すべく指導する側も指導される側も“若い世代の新たな感覚”によって意図され実現されたものだったのです。
(ちなみにこの時期初めて新潟に行った私は二十歳代前半で、新潟に通っていた酒販店としては最若手でもあり一番“未熟”でもありました-------)
今では当たり前でその“仕事の凄さ”がたぶん実感できないと思われますが、早福岩男会長の登場以前には絶対にあり得ないことがありました。
蔵と酒販店という立場の違う人間が「共通のひとつの目標に向って力を合わせそれぞれの立場で努力を継続する」--------人間対人間の信頼関係を軸に異なる立場を越え一体となって目的の実現のために突き進むことなど早福岩男会長以前には想像すら出来ないことだったのです。
新潟淡麗辛口を造り出したチームは、人間対人間の信頼関係をベースにした“博物館入りを阻止する革新的な考え方”を醸造した酒やその売り方に反映させたのです。
私は、ありがたいことに、このような方々に学ばさせていただき育てていただいたのです--------。
昭和五十年代前半は新潟淡麗辛口にとって、“将来の展望”が開けた時期ですがまだ「その考え方も含め“少数派”」から脱してはいない初期段階にありました。
それゆえエンドユーザーの消費者とも「同好の士に近いある種の“連帯感”」があり、私個人も商売上は苦戦し続けたのですが私にとっては“黄金の日々”だったように思えます--------。
昭和五十年代初めからの視点-3
昭和四十年代後半~五十年代初めに、日本酒の世界全体が“博物館入りしかねない状況”を造り出してしまった“責任”は灘・伏見のNBのエンドユーザーの消費者の意識の変化を知ろうとせずプロダクトアウトの発想のみで“酒質を軽視”した点にあると私には思えるのですが、地方銘酒(地酒)側にも責任が無い訳ではないとも思えます。
“造る側が思う良い日本酒”を出来るだけ“低コスト”で造る-------戦中・戦後の酒が貴重だった時代の意識が抜け切っておらず(ブレンド用でそれ単体では販売してないにせよ)三増酒をNBも地方銘酒(地酒)側も熱心と言えるほど造っていたのは否定できない“歴史的事実”です。
日本酒の世界での“常識や通常業務”が昭和四十年代後半にはエンドユーザーの消費者の“常識や志向しているもの”から大きくずれ、日本酒自体や日本酒の業界が若い層のエンドユーザーの消費者にとって身近なものではなくなり---------たとえ日本の伝統的なアルコール飲料であっても自分達若い世代には興味も無ければ関心も無い、親が飲んでいるが自分達には日本酒には良いイメージは無いので自らの意志で選んで飲むことは無い---------何も起こらなければ自分達の親の世代が飲まなくなる二十年後日本酒は間違いなく“博物館入り”してしまう危機にあったのですが危機感を持つ人が日本酒業界にはきわめて少数しか存在しなかったのです。
昭和四十年年代後半に日本酒業界が迎えた“博物館入りの危機”は日本酒業界が若い世代(二十~三十歳代)の“常識や志向しているものがもたらす嗜好の変化”についていけないことが原因だったと思われます。
新潟淡麗辛口に批判的な人であっても、「博物館に入ってしまう」ことを阻止すべく指導する側も指導される側も“若い世代の新たな感覚”によって伝統を受け継ぎながらも意図的に造り出された新潟淡麗辛口が若い需要層を獲得しこの時点での“博物館入りの危機”を防ぎ日本酒に新たな魅力を獲得させた“功績”を否定することは出来ないはずです--------遠い昔に日本酒に否定的な若者だった私自身が昭和五十年代初めからの“新潟淡麗辛口とともに過ごした日々”のおかげで、今でも日本酒に強く魅かれ続けていることがその“功績”を一番雄弁に語っていると思われるのです----------。
サイレントマジョリティたるエンドユーザーの消費者(庶民の酒飲み)の変化を見落とし能動的に変わることが出来なかったことがこの時期の“博物館入りの危機”の原因になったのですが、現在の地方銘酒(地酒)は違う理由・意味で“博物館入りの危機”を迎えているように私には思えてならないのです----------。
現在のNBは昭和四十年代後半~平成の初めに、エンドユーザーの消費者(庶民酒飲み)の意識の変化を知ろうしなかった“姿勢の反映”の酒質を徹底的に批判され新潟淡麗辛口に代表される地方銘酒(地酒)の台頭を許してしまった反省から、飲む人のニーズ・要望には敏感に対応し紙パックやパウチパックのように価格と利便性に対応した商品からワンカップにまで純米・吟醸・大吟醸を提供しかつて造ったことのない生もとまで発売(松竹梅)している状況は、低価格帯から高価格帯に至るまでNBの酒が物心両面で昭和四十年代後半~五十年代後半とはまるで違う酒う酒になっていることを証明していると思われます。
地方銘酒(地酒)側には残念なことなのですが、全体として見れば、NBのほうがサイレントマジョリティたるエンドユーザーの消費者(庶民の酒飲み)を大事に大切に対応しているような気がしてならないのです。
鶴の友や〆張鶴、千代の光のように昭和五十年代初めから現在に至るまで酒質を向上させながらエンドユーザーの消費者(庶民の酒飲み)にきちんと対応してきた蔵もあることは自分自身の体験と経験で十分に承知していますが、それでもNBが地方銘酒(地酒)を全体的に比べた平均の酒質では上回っていることは否定できませんし昔とは違い現在の地方銘酒(地酒)側は有名で売れている蔵ほどごく一部の需要層に意図的に傾斜しエンドユーザーの消費者(庶民の酒飲み)から離れる方向に動いていることも否定できません--------私自身がそう感じていることを獺祭と大七というふたつの蔵を例に“昭和五十年代初めからの視点”で次に書いていきたいとと思います。
昭和五十年代初めからの視点-4
かつて吟醸酒は鑑評会で他の蔵の吟醸酒と戦うためだけに造り続けられた市販することもコストも一切考慮しない“特殊な酒”でした。
昭和五十年代前半においても市販される吟醸酒はきわめて少ない希少な存在でしたが同時に魔力ににも似た強い魅力を持っていました。
本当に凄い吟醸酒は、正直に言うと、売るの惜しく取っておきたい-------そんな気持ちがどこかに存在してしまうのです。
一昨年に100回を迎え終了した吟醸会(三十数年続き毎回二十~三十人の参加がありました)も私自身が勉強のため集めた非売品を含めた吟醸酒を一人だけで飲むのがもったいなくて数人で飲んだことがきっかけとなり始まることになったのです。
最初の時期は吟醸酒そのものを揃えるのが簡単ではなく“吟醸酒抜きの吟醸会”も珍しくありませんでしたが少なくても年間2~3回は〆張鶴大吟醸、千代の光大吟醸、非売品時代の八海山大吟醸、(今も昔も非売品の)鶴の友大吟醸を参加された皆さんに飲んで楽しんでもらっていましたし、最初の講談社の日本の名酒辞典の全国の酒の会のページにも取り上げていただきました。
時が流れほとんどの蔵が大吟醸を発売している時代になると、会長や会員の皆さんが旅先で購入されたりどなたから頂いた大吟醸を持ってきてくれるようになり“吟醸酒抜きの吟醸会”は無くなったのですが、この時期は吟醸酒・大吟醸という“言葉”がスポーツカーという“言葉”と同様に“その言葉の意味する範囲”が拡大したように思えるのです。
吟醸会はある時期から会員の皆さんから頂いた大吟醸を開けることが多くなったのですが7~8本の酒を飲み干してしまうため、もともと吟醸会の会場の鮨店・東屋さんが扱っていた〆張鶴・純や千代の光・吟醸造りも“補助的に”置いておいたことが多かったのですが、おそらくは8000円から10000円以上はすると思われる頂いた大吟醸が残っていて〆張鶴や千代の光が空になっていることが珍しくなかったのです-------“好みの差”を考慮したとしても、大吟醸と言う“名称”や値段の“高さ”が必ずしも美味さをいつも“担保している”とは限らないのです。
前置きが長くなりましたが、獺祭について私個人の視点(昭和五十年代初めからの視点)で少し書いてみたいと思います-------まずはマスコミなどで公表されていることを書きその後で私個人の感想を書いていきます。
1.獺祭は吟醸酒以上しか造らない蔵として知られており一番高い大吟醸酒は720MLで32400円します。
2014年(26BY)の生産量は15000石(一升瓶換算150万本)で売上金額は約50億円と公表されており新たに完成した本蔵は12階建ての建物で“生産能力自体は50000石まで拡大された”そうです。(27BYは20000~25000石あるいはそれ以上の生産量ではないかと日本酒業界では言われているそうですが--------)
2.使用する酒造好適米は山田錦(精米歩合23%の大吟醸もあるそうです)のみで杜氏を置いておらず社員が温度管理された蔵でICTで管理したデータを活用して一年中酒を造る四季醸造を行っているそうです。
1.についての感想
32400円は特殊だとしても吟醸酒・大吟醸がほとんどのため、残念ながら、獺祭はエンドユーザーの消費者(庶民の酒飲み)が普通に晩酌で気楽に飲める価格帯の酒ではありません。
15000石という数量は、“新潟ナショナルブランド(新潟NB)”と一部の口の悪い人に言われる、越乃寒梅・久保田(朝日酒造)・八海山よりは少ない販売量ですがこの三つの蔵は吟醸酒や大吟醸を大量に造ってはいません-------特定名称酒の基準上での吟醸酒・純米吟醸酒はこの三つの蔵は他の蔵よりは多いですが100%にはさすがに届きません。
さらにもし生産能力一杯の50000石の製造をしたとすれば新潟NBどころの話っではなく月桂冠に代表されるNBの10位前後の規模になります。
私個人は昭和五十年代初めから新潟淡麗辛口の大吟醸(特に関東信越国税局の春秋の鑑評会のために造られた大吟醸)に強く魅かれてきました。
私の記憶ではこの関信局の鑑評会で春秋連続で首席第一位に輝いたのは〆張鶴と千代の光しかなかったはずですがこの二つ大吟醸は『淡麗辛口の極致』と言える素晴らしいものでした。
また一昨年5度以下の温度で管理されていた平成元年BYの〆張鶴大吟醸を飲んだのですが、24年間も冷蔵庫の中にあったとは思えない(わずかに香りに影響はありましたが)素晴らしい美味さに本当に驚きました--------きわめて強い気持ちを込められながらも臆病と言えるほど慎重・丁寧に造られた大吟醸の、きれいでバランスの取れた美味さの根底にはそれを支える“強固な部分”が存在していることを改めて本当に強く実感出来たからです。
そして「酒を自分達が造っていると思うのは少し違うような気がする。私達は酒自身が酒になることを手伝っているというのが本当のところのような気がします。特に大吟醸は瀕死の重病人を必死になって看護するようなものでその気持ちが強ければ強いほど大吟醸が応えてくれるように感じられます------」-------故宮尾隆吉前会長に伺ったお話ですがお粗末で能天気な私も平成三年に酒販店を離れるまでそう感じて大吟醸に接してきましたし今もその気持ちは変わっていません。
上のような体験や経験から昭和五十年代の関東信越国税局の春秋の鑑評会のために造られた大吟醸が私個人にとっては今でも一番飲みたい大吟醸であり、そのような大吟醸は量産とは相性が悪いあるいは大吟醸の酒質を落とさずに量産するのは“至難の業”と感じてきましたので、15000石(吟醸及び大吟醸の合計であっても)という大量生産には私個人はある種の“違和感”を排除することが出来ないのです-----------。
そして約50億円という売上にも、鶴の友や〆張鶴や千代の光のような新潟淡麗辛口の酒蔵と接し続けてきた私個人は、やはりある種の“違和感”を感じざるを得ないのです--------。
2.についての感想
2.の“前半部分と後半部分”は、私個人が受ける印象では、ある意味で“正反対の方向”のよう思えます。
誤解して欲しくはないのですが私自身は、現在のNBトップの白鶴に代表される『近代的で設備の整ったファクトリーでの日本酒造り』に否定的な見解は持っていません。
昭和五十年代とはまるで違う、全体として酒質の向上したあらゆる種類の日本酒をリーズナブルな価格で安定的に安定した酒質で、サイレントマジョリティたるエンドユーザーの消費者(庶民の酒飲み)に供給し続けていることは否定出来ない“事実”です。
数量・設備とも現在の白鶴はNBトップの蔵で、もちろんICTを駆使して収集したデータも活用していますが、きわめて優れた“日本酒の製造工場”の白鶴といえどもそれだけでは酒を造ることはできません。
蔵全体や個々の温度管理や麹室の温度・湿度管理、もろみの温度管理などICTで収集したデータを活用し最新の設備に任せたほうが良いものはどんどん任せるべきだと私自身も思っていますが醸造や発酵の知識を学び続け実際の酒造の体験を積み重ねてきた“万能センサー”とも言うべき杜氏や蔵人の存在が、酒自身が美味い酒になるために最大の貢献をしているという事実はNBトップの白鶴といえども変わらないのです。
現在の〆張鶴・宮尾酒造も“従来の意味での杜氏制度”は採ってはいませんが、醸造に関わる社員の多くは昭和の終わりから新潟清酒学校に学び藤井正継前杜氏と一緒に〆張鶴の造りを積み重ねてきた1級、2級の酒造技能士で占められています---------〆張鶴の場合は従来の制度による将来の杜氏・蔵人の不足を見越し、早い時期からその対策として自社の杜氏・蔵人を意図的に“養成”していたというのが正しい受け止め方だと私個人には思われます。
事実、藤井正継前杜氏が引退されたことを私自身は〆張鶴の酒質から感じることは出来なかったのです----------。
私自身はどんなに各種の設備が向上しICTがさらに進歩しより多くのデータを集めるようになったとしても(旧来の伝統的な杜氏制度ではないにせよ)杜氏や蔵人の存在は現在も将来も必要不可欠と確信しています-------。
昭和五十年代初めから日本酒業界に接点を持たせて頂いた私は“痛感”していることがあります。
それは、『日本酒の酒質と量産は“相性が悪い”』ということです。
昭和五十年代にはさほど有名では無かったため、丁寧に細心の注意を払って素晴らしく美味い酒を造っていたのに人気が出て需要が拡大し増産すればするほど、残念ながら酒質の向上と“反比例”するケースを見てきました----------レッテルに書いてある銘柄の名前は同じでも三十年前に比べると“まったく違う酒”になっている例が残念ながら珍しくないのです。
500~600石ぐらいの規模の地方銘柄(地酒)の蔵が蔵を存続出来る高単価の売上を志向し(また売れ残りのリスクを避けるため)吟醸・純米吟醸、大吟醸・純米大吟醸を少量多品種で造り販売してゆくことは私も十分理解できます--------そのような蔵がすべての酒に山田錦を使用と謳うのならまだ分かるのですが約15000石以上(製造能力は約50000石)を販売する獺祭がオール山田錦を標榜していることに“私個人の狭い体験・経験”ではある種の“違和感”を感じざるを得ないのです---------。
かなり昔にYK35という“言葉”が日本酒業界で流行ったことがあります。
Y→山田錦・K→協会9号酵母(別名の香露酵母のK)→精米歩合35%---------この“セット”でないと全国新酒鑑評会で金賞が取れないという事を意味している言葉なのです。
この言葉の影響では無いと思われますが、鑑評会用の大吟醸やその蔵のフラグシップの大吟醸は山田錦の35%がスタンダードになっていると伺ってきました。
いくら大粒で心白の大きい特A地区の山田錦でも35%よりも削ると、大吟醸を造るという一点では得ることが出来る利点はあまり多くなくリスクのほうが増えるのではないか------私個人はそのような“感想”を少なくない業界の方々に伺ってきました---------それゆえなぜ23%の精米歩合が必要なのか私自身は獺祭の皆様に教えを請いたい心境なのです。
お粗末で能天気な私でも山田錦は、山田穂と短稈渡船を人工交配して造られた酒造好適米だというこは若いころから一応は承知していました。
「要するに山田穂と短稈渡船の“ハーフ”ですね----」と単純な理解の仕方をしていましたが、新潟淡麗辛口全盛時の新潟でも高精白の大吟醸には山田錦を使用していた事実は承知していました。
兵庫県産の山田錦は、兵庫県立農林水産技術総合センター 酒米試験地の存在のおかげで毎年“狙いどうりのハーフの特性を持った山田錦”になっており、種籾を手に入れ翌年生産→一部を種籾→翌々年生産→一部を種籾というよなだんだん“ハーフの特性がなくなりつつある他県の山田錦”とは違うと特A地区の栽培農家さんは思われているようです。
獺祭は拡大し続ける生産量(27BYは20000~25000石あるいはそれ以上と言われているそうですが)を賄う山田錦を確保するために富士通が開発した農家用支援システムをも投入して兵庫県以外の農家に山田錦の栽培をお願いしているそうですが成果が上がりつつあるとマスコミの記事には書いてありました。
平成26BYには兵庫県産の山田錦はけっこうタイトで新潟の蔵でも確保に苦労する面があったそうですが今回の仕込みでは(27BY)は兵庫県産の山田錦は希望どうりスムーズに入荷しているそうです-------この“事実”が指し示すことに、個人的には、大変に興味深いものがあります---------。
私は“酒質の差”にはふたつの種類があると思っています。
ひとつは“好みの差”です。
好みの差を客観的に計る“ツール”はありません--------「自分は細くて背が高いほうが良いと思う」、「私は体ががっちりしてるほうが良い」------これは“同じ基準”で良し悪しを判断することはとうていできません。
もうひとつは“レベルの差”です------これははっきりと“比べる”ことが出来ます。
淡麗辛口で育ってきた私は濃厚芳醇タイプは好みではありませんがレベルの高い酒には敬意を払います。
一本の酒のレベルをその酒だけで判断するのは難しいことですが、他の酒と比べることで誰でも簡単に“レベルの差”を計ることが出来ます。
AとBという酒があるとします。
車のスピードに例えると、Aが180km、Bが300km出ていると仮定します。
まずAを飲み続いてBを飲みます。
180km→300kmの場合は、Aも速いしBも速いとなりどちらも速いということは分かっても“その具体的な差”は分かりません。
しかし続いてさらにAを飲むと、今度は300km→180kmとなりAという酒自体が変わっていないのにBという酒の300kmのスピードに合った感覚で180kmのAを見るため「何だこの遅さは----」ということになり“レベルの差”が実感出来ます-------それは高速のICから降りるとき60kmが物凄く遅く思える感覚に似ています。
B→Aの場合は一発でAの遅さを感じます。
ある酒のレベルを判断するときには、できれば自分が美味いと思っている酒と比べることをお勧めします。
A→B→A--------このパターンで比較すると“レベルの差と本当の自分の好み”を捉えることが出来ると私個人は感じてきましたので興味のある方はこの方法をお試し下さい。
昭和五十年代初めからの視点-4の前置きで書いた吟醸会での私の役目は、その回の酒の中で乾杯の酒=最初に飲む酒を選ぶことです。
私は常に乾杯の酒は大吟醸や純米大吟醸、全国新酒鑑評会金賞受賞など“レッテルに書いてある字”に関係なくその回の酒の中で一番レベルの高いと思えるものを選んできました。
まだ舌の感覚が新鮮な最初に一番良いものを投入すれば、その後飲む酒の“自動的にレベルの差を計る”結果になるからです------ましてや吟醸会の会員は鮨店・東屋の常連が多く、〆張鶴・純や千代の光・吟醸造り、鶴の友・別撰をごくふつうに飲んでいるため“能書きや知識”に関係なく“レベルの差”を判断し易いのです。
その結果、大吟醸だろうと15000円しようが余る酒は余ってしまうのです。
“レベルの差”は上記の方法で分かりやすく判断することができます。
出来れば自分が一番美味いと思える定番の酒がありその酒と比べるのがベストだと思われますが、それ以外の場合でもA→B→Aのパターンで“レベルの差”は判断出来ますがそれ以上に日本酒は1本づつ個性も違いレベルの差もきわめて大きい楽しくて面白いアルコール飲料であることを実感出来ると思われます。
今回もかなりの時間がかかってしまいまたもや長い記事になり大七・生もとにはたどり着きませんでしたので次の記事で大七・生酛について詳しく書きたいと思います。
長々書いてきましたが、大吟醸・純米大吟醸である、山田錦100%である、正規の販売価格が15000円である、人気があり手に入り難い--------以上はある水準であることは担保していますが、飲む人にとっての美味さを必ずしも担保していないということを申し上げたいのです。
それゆえレッテルに書いてあることではなく自分の舌で比べて飲む人の方が複雑で緻密な手法で造られた日本酒を一番楽しめるということを申し上げたいのです-------現在の日本酒の業界の趨勢と違っていてもそれが日本酒の本来の楽しみ方だと私自身は確信しているからです。
そして、地方銘酒(地酒)側は獺祭に代表される有名で売れている蔵ほど(ごく一部の酒販店と手を携え)、ごく一部の需要・ごく一部の需要層に傾斜しエンドユーザーの消費者(庶民の酒飲み)から離れる方向に動いている“傾向”に拍車がかかり、エンドユーザーの消費者(庶民の酒飲み)から地方銘酒(地酒)がいっそう遠い存在になり昭和四十年代後半とは違う理由であっても“博物館入り”に近づきつつあるのではないか--------“杞憂”だと笑われるかも知れませんが、博物館入りの危機をバネにした“反攻”を昭和五十年代初めから体験してきた私個人は“違和感と危機感”を感じざるを得ないのです-------------。
*なおこの記事もまだ“未完成”の部分もあるのでアップ後も修正・加筆していきたいと思っています---------。
管理人様
藤田です。お久しぶりです。下記ニュースを見て驚いたので、
ご連絡せねばと思い書き込みをさせて頂きました。
4年連続『日本一』 全国新酒鑑評会、福島県金賞「18銘柄」
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20160519-00010000-minyu-l07
国権酒造さん、すごいですね。福島全体のレベルも相当高いと思いますが。
ところで、3/13の記事を最近になって拝見しましたが、管理人様に触れて
頂きたかった「獺祭」に対するお話を今回伺うことが出来、いろいろ
考えさせられました。
「獺祭」が依然簡単には入手できず、大阪でも、これだけ提供できたと
空き瓶を店頭に誇らしげに並べる居酒屋さんも出始めているなど異常な
人気が続いています(そういう居酒屋さんには、入手困難な酒を売りモノに
せず、まずは料理で勝負したらどう?と声を大にして言いたいですが)。
当方もわずかな経験ながら、菊姫の農口杜氏、〆張鶴の藤井杜氏など、
名杜氏がおられた最後のタイミングで名酒に巡りあったのは幸運としか
言いようがないだけに、管理人様の「獺祭」に対する“違和感”にも
納得するところがありますし、『日本酒の酒質と量産は“相性が悪い”』
とのお考えにも賛同します。
ただ、以前日経の夕刊に掲載されていた「獺祭」の蔵元ご自身による
これまでの経緯を拝見したところ、それまで勤めておられた杜氏さんが
次の造りに来ることが出来ず、やむなくご自身らで教科書を参考にしながら
造りを始め、それが想像以上に高品質のお酒に仕上がったそうです。
これは杜氏さんへの痛烈な皮肉ですね。
杜氏さんが全員名人であるとは思いませんが、「獺祭」は杜氏制度、旧態
依然の体制に対し、アンチテーゼを貫くつもりではないかと個人的には
感じます。
ただ「獺祭」にとって、吟醸造りだけではいけないと思っているのか、
等外米を使っての酒造りを始めたようです。
http://prtimes.jp/main/html/rd/p/000000062.000009215.html
いずれにしても、「獺祭」が今後どうなるか、引き続き注視したいと
思います。
ところで、最近では秋田の新政さんが意気盛んなようで、いろんな雑誌に
取り上げられていますね。若手の蔵元がご自身でお酒を造られているのに、
また新たなスタイルを感じざるを得ません。
その一方で、四国の中で昔から名門と言われた梅錦さんが、白鶴酒造さんに
よって買収されたと伺いました。経営を続けていくのが体力的に困難だった
のが要因だったようですが、寂しい限りです。
脈絡のない話になってしまいましたが、管理人様の次の記事に期待しております。
追伸
化学の力も日本酒の世界に波及しそうです。
ワイン不作なくなり、日本酒の特徴倍増させる「膜」とは?
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20160518-00010006-newswitch-ind
国権の細井泠一会長が四月にお亡くなりになりました。四十年弱のお付き合いだったため私自身も残念でなりません。
仕事で葬儀には参列出来なかったため6月にお線香を上げに会津田島に古い仲間と一緒に行く予定になっています-------。
ご子息の細井信浩社長は、中央大学のOBで東京農大のご出身ではありませんが、東広島の酒類総合研究所で2年間学ばれ蔵に戻られた後、佐藤吉宏杜氏と二人三脚で酒造りに真面目に取り組まれてきた結果が9年連続の金賞受賞となっている-----私個人はそのように感じております。
細井泠一会長は本当に面白い魅力に溢れた方でした。
私自身がつまらない人間のせいか、早福岩男さんを始め“若いころ遊んだ”洒脱な魅力を持つ諸先輩に恵まれているのですが、細井泠一会長もそのお一人でした。
五来吟醸会会長と細井泠一会長の“昔の遊び人同士”の丁々発止のやり取りはあまりに面白く聞いてる私達は笑い転げたのが一度や二度ではありませんでした。
さて「獺祭」ですが私が何を言いたいのかは“行間を読める”藤田さんは十分にお分かりのはずです。
従来の越後、南部、丹波杜氏による酒造りは後継者難などいくつかの理由で年々継続が難しくなりつつあるのが現状だと思われます。
鶴の友の樋口杜氏(新潟清酒学校11期生)はブログの記事にも何回も書いていますが新潟県にも酒蔵にもゆかりが無く純粋に酒に惚れて酒造業界に飛び込み、鶴の友で杜氏として13年の実績を重ね評価の高い方ですが年齢は43歳という“ニュータイプの杜氏”なのです。
現在の〆張鶴は、昭和の終わりから新潟清酒学校(酒造りに関わる社員は全員入校し卒業しています)で学びながら藤井杜氏と一緒に酒を造ってきた社内の酒造技能士の方々で造られています。
私個人は鶴の友と〆張鶴の造りの方向のほうが「獺祭」の方向よりも、日本酒の将来のためには望ましいと思えます。
さて記事の中にも書きましたが
A→B→A-------このパターンの試飲が一番酒質のレベルを計りやすい方法だと私は感じています。
私自身はBには、本醸造系列は鶴の友・特撰、純米系列は〆張鶴 純を想定していますが吟醸系や純米吟醸系でもこのBを越えるAは、私の周囲では、あまり見当たりません。
藤田さんも機会がありましたら、自分が美味いと思う酒をBにして「獺祭」をAにして試飲すると“獺祭の実像”がより見えるようになると思われます。
梅錦の件は私自身は情報が乏しいので少し調べてからこの記事のコメント欄でコメントしたいと思っています。
今後のコメントもお待ちしています。
「よく分からない」というのが結論です。
私自身も若い頃から名前は承知しておりましたが、接触は一切ありませんでした。
それゆえ「よく分からない」という結論になってしまうのですが、「白鶴には梅錦を買収する必然性が少なくても営業上は無い」と私自身は感じています。
もちろん何らかの営業上のプラスは存在していると思われますが、それだけが白鶴の買収の動機だとは私には思えないのです。
白鶴の、(買収ではありませんが)大黒正宗の造りの継続のための“協力・支援”の現況を見ると、梅錦を廃業させないための買収は“営業上の理由以外の理由”もあったように思えます。
私なりに調べたり聞いたりしてみたのですが、梅錦にも白鶴にも直接的な関わりがないため、上記のような“想像”しか出来ません。
中途半端で申し訳ありませんがよろしくお願いいたします。