日本酒エリアN(庶民の酒飲みのブログ)gooブログ版  *生酛が生�瞼と表示されます

新潟淡麗辛口の蔵の人々と”庶民の酒飲み”の間で過ごした長い年月
(昭和五十年代~現在)を書き続けているブログです。

鶴の友について-2--NO8

2007-12-21 23:19:25 | 鶴の友について

20071026_018 ここまで、この長いブログ(こんなに長くなるとは本人も思っていませんでした)を、もし読んで くれた人がいるとすれば、なぜ私がネット上の日本酒関係のHPやブログを見て ”独り言”を言うのか少し分かっていただけたとおもいます。 私がその存在を許され、私自身が自分の目で見て体験してきた ”日本酒の世界”は、ネット上で語られるものとは違っていました。もちろん、自分の ”日本酒エリアN”での ”事実”であり自分の中での ”正しさ”ですから、絶対的に自分が正しいとは思っていません。 ただ、私が接する ”庶民の酒飲み”が私にとって ”普通”のことに驚き喜ぶ姿を見て、このような ”世界”がまったくと言って知られていないと感じていました。

「日本酒ルネッサンス」のときよりも現在のほうが、”庶民の酒飲み”にとって日本酒が ”遠い存在”になっていることに、私は強い危機感と寂しさを感じています。 このままでは、先人の努力を ”食いつぶし” 「博物館入り」してしまう-----自分が現在一人の消費者の立場にいるだけに、肌の感覚でそう痛感せざるを得ないのです。 ”業界”全体がエンドユ-ザ-の消費者にあまり顔を、耳を向けていないせいかこの点についてはきわめて ”鈍感”に感じられます。 ネット上で飛び交う ”日本酒の話”がまるで能や狂言の”家元、宗家”の話のように、”庶民の酒飲み”に受け止められ日本酒からより遠ざけていることに、一部の蔵や地酒専門店は気付いていないようです。

日本酒は身近で日常的な ”面白くて楽しい” 冷蔵庫の中に入る ”伝統芸”だし ”文化”です。 日本酒は、”庶民”の傍らにあってはじめて”価値”があるものなのだと私自身は思っています。

「第2次日本酒ルネッサンス」の必要が、残念ながらでてきています。 嶋・早福ラインの ”哲学”は今だに古びてはいませんが、その ”設計図”を元に建てられた ”建物”は古びて障害が出てきています。 嶋・早福ラインの ”哲学”に、「酒は誰のためのものか」という問いと答えを加え最初から消費者に参加してもらい、”建物”が崩れてくる前に ”新しい建物”を建てる必要があると私自身は痛感しています。

そのために今の私ができることは、「日本酒エリアN」の拡大しかないのですが、”サラリ-マンのボランティア活動”では直接的な拡大はもう限界に達しています。 できるとすれば、間接的拡大しかありません。ゆえに、ネット上にある話とは ”対極”にある「日本酒エリアN」を書き始めたのです。 このブログには、”業界”の人がもし見たら ”批判”もあるでしょうが、良い悪い、正しい正しくないは私達が決めるのではなく、エンドユ-ザ-の消費者が決めるのでしょう。 その判断の一つの ”材料”として私はこれを書いたのです。

私は、一人でも多くの ”日本酒は面白くて楽しい”と感じてくれる エンドユ-ザ-の消費者が増えてくれることを切望しております。 自然環境と同じように ”日本酒の世界”も失ったら元に戻すことは出来ません。 残念ながら、美味い酒が飲みたければ、環境保護同様にエンドユ-ザ-がそのコストを払い支えていかなければ飲めなくなる時代になっているのです。

http://sakefan.blog.ocn.ne.jp/sake/2005/08/index.html

上記は2005年8月に書いた「長いブログのスタートです」の最後の部分です。 鶴の友について-2も ”長く”なりましたので、そろそろ終りにして本来の「怠け者」に戻り ”冬眠”しようかと考えております。 ”冬眠”から覚めたとき、勤勉な気持でいたらまた書きたいと思っていますが、鶴の友について-3になるのか、〆張鶴についてになるのか、國権についてなのか、それとも震災の痛手をきっかけに新たな道を歩む大黒正宗についてになるのか分かりませんが-------。

風間杜氏から鶴の友を引き継いだ、若い樋口杜氏が同じく若い”仲間”と鶴の友を造って数年が過ぎました。 樋口杜氏と廃業された伊藤酒造から移られた若い方が年間を通じて蔵に常駐され、仕込みの時期には”尾瀬”から樋口杜氏のお仲間が3人が”蔵人”として合流します。平均年齢三十代前半、5人中4人が何らかの形で”尾瀬の自然保護”関わる人達によって、現在の鶴の友は造られています。 伊藤酒造から移られた若い方も”尾瀬から来た蔵人”も、酒造りにはきわめて熱心です。樋口杜氏も含め5人中2人が1級酒造技能士であり、尾瀬からの3人中2人が2級酒造技能士で、残りの1人の最若手も2級酒造技能士をめざしています。 数十年チームを組み老練な職人の技に支えられて造られてきた鶴の友は、1年交代で酒造りの各パートを全員が受け持ち、酒造りの全体像を知ったうえで担当したパートを深く掘り下げようとする-----新しい時代のチームワークで今は支えられ鶴の友は造られています。

尾瀬の自然と同じように、消えてしまったらもう二度と現れることの無い鶴の友が、尾瀬の自然の保護に関わる人達によって大切に造られていることに、深い”縁”を私は感じています。

4年前、風間杜氏も含む”超高齢蔵人集団”が引退されたとき、樋木尚一郎蔵元も一緒に”引退”されるつもりだったことは、私にも感じ取れていました。鶴の友を造り続けることの、”物心両面での負担の大きさ”を知る人間の一人として私は、樋木社長のお気持ちを「理解せざるを得ない」心境にありました。「いつかはその日が来ることを、頭では分かっていた」つもりだったのですが、実際にその事態に直面したときに私にできたのは、”呆然”と立ち尽くすだけでした。鶴の友を失うという”事実”に直面したとき感じた”喪失感”は、とても想像できないほど大きかったからです。 私にできたことは、忸怩たる思いを抱えながら、その存続を樋木社長にお願いすることだけでした。「単に、新潟市の”地酒のひとつ”が失われるに止まらない」影響の大きさを、全身で痛いほど感じていたことが、かろうじて私を後退させずに支えていました。

結果として、樋木尚一郎蔵元の引退が”先に延びた”ことを知ったとき、私は生き返ったような気持になると同時に申し訳ない気持で一杯にもなりました。 もちろん私がお願いしたから”存続”がきまったわけではありませんが、何もお役にたてない、何の貢献もできない私が、”物心両面での負担の大きさ”をさらに強いるお願いをしたのは、事実として私の中に残っていたからです。 「私自身も、できる限り踏み込まなければならない」----そのときからそのような気持が私の中ではっきり現れてきたように思われます。

私の周囲には、前述したとうり「吟醸会」を中心にした庶民の酒のファンが存在しています。彼らは、30年前から〆張鶴や八海山を知る、能書きや理屈は知りませんが酒は知っている”集団”です。鶴の友のファンの中心もこの集団だったのです。 彼らは、酒と料理の楽しみ方のある意味での”プロ”であり、鶴の友についてもよくその価値を知っているので、私が”語る”必要はあまりなく”代弁者”には事欠かないという、私にとって”自然体”で対応できるありがたい人達です。しかし、そういう集団だけに大幅な拡大は考えられません-----なぜなら「吟醸会」も、”去るもの追わず来る者拒まず”だからです。 私は、この”居心地の良い”「吟醸会」の範囲を超えて、鶴の友のファンを拡大することに踏み切りました。

それは、それなりに”時間と労力”を要する”仕事”でしたが、自分が予想した以上に”歓迎”されたように思われます。しかし、本業があるための私自身の「物理的限界」が、鶴の友のファンの拡大を制約しています。直接的な「日本酒エリアN」拡大の限界が見えてしまったのです。もしこれ以上拡大するとしたら、フルタイムでやれる酒販店に”現役復帰”するしか、もう方法が残されていないのです。しかしそれは、樋木尚一郎蔵元から強く止められていることでもあり、また簡単にできることでもありません。

私は自分の”前進”を計りながらも、内野の蔵で行われている「挑戦」が気になり続けていました。 樋口杜氏は、20年以上前に嶋悌司先生が提唱し初代校長を務められた、「新潟清酒学校」が生んだ新しいタイプの若い杜氏でした。風間前杜氏と数年一緒に鶴の友を造った経験があるとはいえ、まだ30歳の杜氏が80歳の超ベテラン杜氏の跡を継ぐのです。しかも、樋口杜氏が若いころ一緒に尾瀬の山小屋で働いた仲間3人を、酒を造った経験のない素人の尾瀬で働く3人を”蔵人”として招き、鶴の友を造ろうとしたのですから-------。

もちろん樋口杜氏には自信もあったと思われますが、置かれた状況と先のことも考えた上での”決断”かと私は感じていました。 たぶん樋木尚一郎蔵元にとっても、樋口杜氏以上の決断だったと思われるのですが、残念ながらこの時期も電話でお話を伺うだけだったのですが、気負いも不安もまったく感じられない淡々としたいつもの樋木社長のように私は感じていました。

いつの間にか時間が流れ、樋口杜氏と”尾瀬の蔵人”が造った鶴の友を実際に口にする日が来ました。 予想していたように多少の影響はありました。鶴の友特撰に特に出ていたように私は感じました。 しかし、別撰、上白を含めて、鶴の友は確実に受け継がれたと言える”造り”だったと私個人は感じました-----安心したと言うほうが正直な気持だったかも知れません。樋口杜氏と尾瀬の蔵人は、先人のデットコピーをすることなく伝統に挑戦し、その挑戦によって伝統を受け継ぎ、変えるべきは変えて伝統が「博物館入り」することを防ぐ、本当に”良い仕事”をしていただいたと感謝の気持も私は感じていました。

翌年以降の鶴の友はさらに安定を見せ、受け継いだ鶴の友の骨格に自分達らしさを付け加える兆しも感じさせる仕上がりになっていました。”造りの面”は20年でも30年でも揺らぐことがないことを、私は確信しました。しかしそれは鶴の友が20年、30年にわたって造り続けられることと、残念ながらイコールではないのです。 樋木尚一郎蔵元がもしご自分と鶴の友という酒の”美学”だけにこだわっていたなら、樋口杜氏と尾瀬の蔵人の”挑戦”は有りえなかったのではないか------個人的見解ですが、私はそう強く感じています。 「鶴の友という酒の名前がたとえ消えても、伝統を受け継ぎながらも今後の新しい時代に対応できる、若い”酒造りのチーム”が誕生すればいい」------樋木尚一郎蔵元はそう考えれて、淡々と静かに若いチームの”挑戦”を見守られていたのではないのか、私にはそう思えてならないのです。

若い”酒造りのチーム”による鶴の友の酒質に確信を得た2005年、私の「日本酒エリアN」の直接的な拡大は限界を超えていました。 世の中の流れに疎い私もこのころ”ブログ”が自分でも簡単に書けるような仕組みが、自分のプロバイダーであるOCNにもあることを初めて知りました。”ブログ”というツールを使って、「日本酒エリアN」の間接的拡大を図れるかも知れない------何も知らずパソコンにも弱いのに、”大胆”にも「とりあえず書いてみよう」と思い書いたのが”長いブログのスタートです”でした。 吟醸会の仲間に書いたものを見せると、友人のG力研究所のS高研究員を筆頭に、「ボロクソの評価の嵐」が襲ってきました。 「これはブログではない、”小論文”としか思えない。内容はともかく、”小論文”としても長すぎて見る人間がいるとは思えない」-----今思うともっともな真に正しい”批評”なのですが、人間が小さい私は”ふてくされ”ブログを書くのを中止しました。しかし書いたことで、私が一番書きたいこと、一人でも多くの庶民の酒飲みに分かってもらいたいことが、鶴の友と樋木尚一郎蔵元のことだと改めて痛感したのです。

それから1年が過ぎたころ、鶴の友についてできるだけ”短くした”ものを書いてみようとの”意欲”が湧いてくるような「出来事」があり、鶴の友についてという短めの記事をNO1~NO6まで書き終えて「冬眠」にまた入りました。 「たぶん誰も見てはくれないだろう。それでも自分が書いておきたかっただけだ」と妙に”達観”し、自分のブログを見ることもなくさらに1年が過ぎました。 今年の9月になって自分のブログにトラックバックが入っているのに気がつき、検索をかけてみると鶴の友に興味を持つごく小数の人達に、うれしいことに、それなりに見ていただいていることが分かりました。であるならば続きを書いてみようとのことで、鶴の友について-2を書き始めたのです。 なるべく”短く、ふつうのブログ”のように書こうと思っていたのですが、書いているうちにその気持が変わってきました。

鶴の友を上白であれ別撰であれ現在ごく”ふつうに飲んでいる”人以外では、鶴の友が最大限の増産をしたとしても、あと1000人くらいしか日常的にふつうに飲めないのです。 自分自身の体験でもそうなのですが、残念ながら失ってみないと失ったものの”本当の価値”が分からないのです。 思い上がりかも知れませんが、私は「失わなくても鶴の友の貴重さと大切さを知る機会を与えられた」数少ない人間の一人です。 新潟淡麗辛口とともに歩んできた中で知りえたことをこの1000人に向けて、たとえ長くなっても書こうという気持になってきたのです。その中でひとりでもふたりでも鶴の友の本当の価値が分かってくれる人が増えてくれればと思い、ここまで書き続けてきました。

鶴の友と樋木尚一郎蔵元に対して、私達エンドユーザーの消費者は、「大きな負債」を抱えています。本来利用する側がコストを負担しなければならない「貴重な自然環境の保護」を、利用される側の「貴重な自然環境」が自らの身を削って大きな犠牲を払い”守り続け”てきたのですが、それももう限界に達しています。利用する側が「残す努力」をしない限り、「貴重な自然環境」は消えていくだけです。

大変申し訳ないのですが、「大きな負債」のかなりの部分は新潟市の庶民の酒飲みに負ってもらわなければならないと、私の個人的見解ですが、私自身はそう感じています。鶴の友 副題 羊の基準酒の”羊さん”やコメントを頂いたナトリウムさんのように、「十分に分かっている」人達がいることも承知しておりますが、その数はアルビレックス新潟のサポーターの数に比べるとはるかに少ないのが現実です。新潟市の庶民の酒飲みは、思ったらすぐ「鶴の友のサポーター」になれるという”特権”を持っています。新潟市民しか持ち得ない、他の地域の庶民の酒飲みが望んでも得れないこの”特権”を、もっと使う人が増えて欲しいとの思いがこのブログを書かせている”原動力”なのかも知れません。

新潟市民が鶴の友の「ホーム」のサポーターなら、私達関東の人間は鶴の友の「アウェー」のサポーターです。増えて欲しい1000人中の大部分は、ホームのサポーターが占めるべきとは思うのですが、それが順調に進まないならアウェーのサポーターが中心になるしかないとも私は思うのです。新潟市の”地酒”に徹する樋木尚一郎蔵元の”意向”に逆らはなくても、関東の人間には鶴の友のサポーターになれる”道”があるのです。

ある意味で新潟淡麗辛口は、「関東の人間が支えてきた」とも言えます。新潟県から一番近い”大人口を抱える地域”でもあり、(東京が含まれるため)関東で評価されればその評価が全国に広がるのです。 新潟淡麗辛口は「ホーム」のサポーターより圧倒的に多い、「アウェー」の関東のサポーターの評価と支持があって、ここまで拡大してきたのです。 他の銘醸蔵と鶴の友が決定的に違うのは、新潟市以外にはほとんど正規取扱店がないことですが、関東の”庶民の酒飲み”には新潟市との「距離の近さ」が有利に働くのです。

鶴の友についてNO3(http://blog.goo.ne.jp/sakefan2005/d/20060629)に書いたとうり、新潟市には長年にわたって鶴の友を大切に思い、大事にしてきた正規取扱店が私が知る限りでも3店あります。早福酒食品店を始めこの3店は、鶴の友の樋木尚一郎蔵元と日常的な長い「交流の歴史」があり、鶴の友を単なる”商品”とは思っていません。また、数量限定の文字が踊るネット上のオンラインショップと違い、ふつうに晩酌に飲める数量を持つ”庶民の酒飲み”に優しいお店です。この3店を訪ねてもらえれば、私が書いてきた”鶴の友”を、店主の語る言葉から感じ取れるはずです。もちろんこの3店では売り惜しみはしません。上々の諸白でも特撰、純米、別撰、上白でも在庫していればふつうに買えます。そして数回足を運ぶうちに、あなたがアウェーのサポーターに”認定”されれば、新潟市に行かなくてもあなたが必要とする本数を送ってくれるようになるはずです。 私達関東の人間もその意志さえあれば、このように鶴の友を支え鶴の友から喜びを与えられるサポーターになれるのです。

鶴の友について-2--NO1に、東京の幡ヶ谷にあった居酒屋の”たまははき”の藤村さんのことを少し書かせていただきました。面識のない私が書くのもどうか-----自分自身ですらそう思えたのですが、藤村さんが取り扱う日本酒が鶴の友だけだったことに感じることが、私なりにあったため失礼を省みず書かせていただきました。 たぶん藤村さんは、「鶴の友しか取り扱わなかった」のではなく、「鶴の友しか取り扱いをしたくなかった」のではないか-----私にはそう思えてならないのです。

藤村さんは、私が三十年近く”経験や体験”を積み重ねてようやく見えてきた「鶴の友の有りえない本当の姿」が、私と違い人間としてレベルの高い方だったため、鶴の友に出会ってすぐに見えたのではないかと私には思えるのです。 他の日本酒からは得れない”何か”が鶴の友にだけにあることを、感じ取っていたはずだと思えるのです。 藤村さんにとって、「鶴の友の代わりは鶴の友」しかなかったのです、それゆえ鶴の友以外は「取り扱いしたくなかった」のではなかったと、私には思えてならないのです。 そんな方だからこそ、樋木尚一郎蔵元とも早福岩男さんとも深い交流があったのも当然と思えるのです。

藤村さんは、鶴の友のアウェーのサポーターとしても「有りえない人」でした。 「有りえない人」が店主だった”たまははき”は「有りえない居酒屋」でした。”たまははき”に集われた方々にとって「藤村さんの代わりは藤村さんしかいない」ことを、今も感じていられるのではないかと思われます。しかし「有りえないサポーター」の藤村さんによって”語られた鶴の友”を、直接聞けた”たまははき”の常連の方々は、極めて恵まれていたこともまた事実だと私には思われます、自然に無理なく”鶴の友の本質”を理解できるサポーターになれるチャンスにめぐり合うことができたのですから--------。

ここまで書いて忘れていたことを思い出しました。鶴の友について-2--NO4にコメントを頂いたノリアケさんに申し上げた、テルさんのお店のことをまだ書いていませんでした。短い、北関東の人に限定した鶴の友について-2--NO9を最後に、鶴の友について-2は終りにしたいと思います。読み難く長い”作文”を、最後まで見ていただいた方には心からのお礼を申し上げます。そして、鶴の友を一度実際に飲んでいだだくことを強くお勧めいたします。