3月10日私は子供と一緒に、常磐線・中央線を経由して”東京の郊外”にある大学に向かっていました。
一学年全学部で千人を下回る学生しかいない少人数のこの大学は、子供にとっては”中学生のときからの第一希望”だったのですが、高校3年の夏休み前まで部活のラグビーに打ち込んでいて、その後も”受験生としての必死さ”に欠ける息子には”敷居が高い”のではないか-------親の欲目でさえそう見えていたのですが、幸運に恵まれ合格することができたのです。
入学手続きをして、同伴の親の立場では少々厄介な”部活・サークルによる新入生勧誘活動の大波”を乗り越え、息子が入寮する予定の大学の寮の見学を終え帰りの常磐線の特急の中で、「高校の入学式は”春の大嵐”、2年生のときには”新型インフルエンザ”のため一週間の休校や恒例行事の変更とか”何かと想定外のことが多い学年”だったので、何かあると思っていたのに卒業式まで何事もなかった3年次は少し意外な気がする」-----------と話していた息子の”感想”は翌日まったく変わることになるのです。
3月11日の午後、私は職場、妻は車で外出中、息子は合格の報告に友人と高校に---------アパート3階の自宅には誰もいない状況で東日本大震災したのですが、もし在宅していたら少なくても入院を必要とする怪我を負っていたと思われます。
茨城県は東北ほどの被害がないにせよ”被災地”なのですが”被災地扱い”はされていないような気が当初も現在もしています。
三陸ほどの圧倒的な津波ではないにせよ、沿岸部の港湾と一体化した鹿島コンビナートやその他の港湾や漁港、那珂湊に代表される”市場”も少なくても一階の天井部分の高さまでは壊滅的打撃を受けていますし、岡倉天心の六角堂も津波により跡形も無く消失しています。
不幸中の幸いと言えるのは、「東京電力管内にある唯一の原子力発電所」----------日本原子力発電(株)東海第二発電所(110万キロワット)が震災直後に安全に冷温停止していることです。
ネットでも東電管内には原発がないという”発言”をよく目にしますが、”東電自身の原発が無い”という点においては正しくても、「東電管内に原発は無い」というのは初歩的で明らかに調査が不足した”誤った判断”です。
旧日本原子力研究所東海研究所(現日本原子力研究開発機構東海研究開発センター)のほぼ隣に日本原子力発電(株)東海第二発電所は昭和53年より稼動しています。
東海第二は日本の原子力研究のメッカの東海村に存在し、原子炉を製造できる世界的にも数少ない企業のひとつである日立製作所の本拠地日立市が隣りという北関東の地方都市の街中に立地する原発なのです。
私自身もこの東海第二から10キロ以内に住んでいますし、このブログで何回も紹介した”吟醸会の本拠地”テルさんの東屋は2キロ圏内にあります。
海岸からかなり離れた場所にあった私のアパートは津波の被害はまったくありませんでしたが、地震そのもので3階の自宅は足の踏み場が無いほど物が倒れ散乱しており中に入ることが困難だったのです。
海岸が近かった私の親類は”床下浸水”、テルさんの東屋は”床上浸水”で車も2台流される被害を受けています。
地震直後の二日間は私と妻は”車の中”、息子は友達と高校のそばの避難所で過ごすこととなり、三日目にようやく息子と合流したのです。
その翌日電気が復旧し妻と息子でアパートの自室の”復旧”に当たったのですが、幸いルーターもVDSも壊れていなかったため光電話も復旧したのですがその自宅の電話に最初にかかってきた電話は、鶴の友・樋木尚一郎社長の奥様からのものでした。
新潟の皆様にはご心配をお掛けしていることは私も承知しておりましたが、通話制限で携帯はかかり難く充電もままならない状況では、連絡することさえ困難な状況だったのです。
6月3,4日の2日間の予定で一年ぶりに私は新潟市に行きました。
常磐道、磐越道を経由して新潟中央インターで高速を降り、10時半ごろ上記の写真の早福酒食品店に到着しました。
毎日来店されていると伺ったS先生(久保田のレッテルの字を書かれた書家)と駐車場ですれ違い店内に入りました。
新潟市に来るといつも最初に早福酒食品店に伺いその後内野の鶴の友・樋木酒造に向かうのが昔からの”私の定番のコース”でした。
そのせいか早福岩男会長ご夫妻にお会いすると、「長い距離を走ってようやく新潟市についた」--------そう実感し安心できるのです。
昔は高速が未整備で深夜に走っても6時間以上(昼間だと8時間)かかっていましたが、現在は高速で3時間半前後で着きます--------しかし昔も今も”走る距離そのもの”は変わらず、年齢を重ねた分だけ”距離が遠く”感じるようになっているのです。
いつも思うことで何回か書いてもいることですが、早福岩男さんは「新潟淡麗辛口の”呼吸する歴史そのもの”」だと私は感じてきました。
自分自身がまったく体験していない昭和五十年代前半以前のこと、体験した以後のことでも”公式見解”の裏側や私自身がその場にいても”理解はおろか想像すらできない出来事”をご存知なのです。
そして「酒販店の人間としての早福さんの”巨大さと底知れない奥の深さ”」は、新潟淡麗辛口と酒販店の”歴史”に詳しければ詳しいほど痛感させられるのです。
今回はその”巨大さと底知れない奥の深さ”を痛感されている新潟県内の早福さんと親しい酒販店さんと一緒になりました。
「早福会長がやられてきたことをほんの少しでいいから学び取り入れたいという気持で月に一度はお邪魔させてもらっている」--------そうこの酒販店さんは言っておられましたが、その言葉の中に早福会長と新潟淡麗辛口の”歴史”に深い理解と洞察があるのを私は実感していました。
私自身も新潟淡麗辛口に出会ってから三十数年ですが、私が直接知ることができた新潟淡麗辛口は”その実像のごく一部”でしかなく、その大部分を酒販店の立場で埋められるのは早福岩男会長しかないことを痛感していたからです-----------。
北関東に住む私には一ヶ月に一度は無理ですが、出来るだけ多くお邪魔し”実像の欠けた部分”を埋めたいと思っております。
上記の写真は樋木酒造の表側と蔵の裏手の大木を写したものです。
この2枚の景色は私が初めてお邪魔した三十数年前とほとんど変わってはいません。
3月11日の大震災を茨城県で体験した私には何回も見た景色なのに、今回はその変わらぬ蔵のたたずまいに心が強く惹きつけられていることを自覚しました。
たぶんそれは鶴の友・樋木酒造の物心両面での”変わらないこと”の貴重さを改めて実感したからだと思われます。
蔵の正面から入ると右側に質素な事務室があり、鶴の友の暖簾のすぐ先の左側には囲炉裏もある天井の高い さりげなく年代を感じさせる和室の座敷が続いていますが、こちらも私の感じる鶴の友・樋木酒造の物心両面での”変わらぬ蔵の姿”なのです。
三十年以上変わっていない樋木尚一郎社長の”言動”と同じように、上記の写真の光景も三十年前とほとんど変わっていないのです。
新潟市で再確認させてもらった”変わらないこと”が、今回の新潟行きの”最大の成果”だったと思われます。
夕方西堀のホテルイタリア軒の向かい側にある、「天婦羅 田さき」さんに鶴の友・樋木尚一郎社長と一緒に行かせてもらうのも、ホテル寺尾に泊まるのと同様に、新潟市にお邪魔したときの”変わらぬ定番”になっています。
東北電力も原発が停止しているため節電仕様の”街の明かり”になっている以外は何も変わってはいません。
以前にも鶴の友の上白から大吟醸の上々の諸白まで揃っている、鶴の友のファンにとって新潟市でも”貴重なお店”と書きましたが、今回もその印象は変わっていません。
カウンターと三つの座敷で構成された店内は広いとは言えませんが狭くもなく来店されるお客様には心地良いスペースになっていると思われます。
私が行かせてもらったときは、ほとんどいつも地元の方で満員になっていて鶴の友にこだわる店主ご夫妻の造り出す”天婦羅と雰囲気”が高い評価を受けているのは容易に想像できます。
鶴の友のファンの方は新潟市を訪れる機会に恵まれたら、ぜひ一度「天婦羅 田さき」さんの暖簾をくぐるべきだ--------と私は思っています。
翌日、内野のすぐそばに新潟大学があることは三十年以上前から知っていたのですが訪れたことはなく、「どこか行きたい所はありますか?」という樋木尚一郎社長のお言葉に甘えて案内していただきました。
医学部、歯学部以外の全学部が存在する新潟大学五十嵐キャンパスは、(入学手続きに行っただけであまり見ていないのですが)文系四学部しかない息子が入学した大学と比べると、総合大学らしい圧倒的な広さがあります。
キャンパス内で、「第三学食」という看板を目にしたのですが、確かに、もし学食がひとつだけなら「徒歩での往復で昼休みのかなりの部分が終わってしまう」ほどの広さが妙なリアリティを持って感じられたのです。
鶴の友・樋木尚一郎社長のお知り合いのSさんが中心になってされている新潟古時計物語展を見るために白山公園にある新潟県政記念館(上記の写真)に行きました。
期間限定で古くて大きな古時計が設置してあったのですが、その古時計は新潟県政記念館という”大きなアンティーク”の中でこそ真価を発揮できている-------そして新潟市民は小さなアンティークだけではなく”大きなアンティーク”も大切にしていることを私は改めて実感しました。
その後歩いて新潟古時計物語展のメインの会場であるギャラリー蔵織に向かいました。
見たこともない輸入や国産の魅力的な古時計が所狭しと並んでいたのですが、その古時計の説明をしてくれたSさんの存在そのものが一番魅力的に私には思えました。
いかに魅力的な古時計がずらっと並んでいても古時計に知識がまるで無い私には、”猫に小判状態”でただ目の前に存在しているだけなのですが、古時計に対する深い愛情と情熱を”エネルギー源”にしたSさんの古時計そのもののにとどまらず「古時計にまつわる歴史、文化史側面から古時計の技術が産業にどんな影響を与えそれが何に発展したか」まで広がった説明を聞いているうちに、古時計が魅力的で面白い大切な存在に見え始めたのです。
日本酒好きの人間がそれを周囲の人に伝えたいと思うとき、Sさんの姿勢には見習うべき点が多々あると私は痛感しました。
Sさんからまず伝わってくるのは、能書きや理屈では伝えられない、古時計が大好きで古時計を眺めその魅力を話すのが楽しくならない--------そんな気持です。
Sさんご本人が楽しくてならないし面白くて面白くて-------そう思っていることが素直に伝わってくるし、仲間内や専門家にしか分からない”専門用語”を極力排し”ふつうの言葉”で話してくれるので、時計に知識も素養のない私でも興味と関心を持てるのだと思います。
日本酒のファンや日本酒を売ることが”仕事の一部”になっている方々は、もちろん私を含めてですが、Sさんのような”対応”をはたして日本酒に興味も関心も無い人達にしているのだろうか---------そう反省させられたのです。
伊藤勝次杜氏が初めて純米の生酛に挑戦した昭和五十年代半ばに、酛造りから醪タンクまで伊藤勝次杜氏ご自身に案内され説明を一緒に受けたことがある(私の友人の)S髙研究員が、出張したとき寄った酒販店で、”山廃の酒”をしつこくすすめられた話を以前に書きました。
10年以上前の話なのですが、その酒販店で酒をながめていたS髙研究員にその店の方が近づいてきて「この酒は山廃で造られた酒だから-----」絶対に買うべきと何回も言われ、やや切れ加減に「山廃って何の略だか知っている?」と言ったところ相手が絶句したというエピソードなのですが、これでは日本酒のファンを拡大できそうにもありません。
山廃は略された言葉で、生酛造りの山卸という作業を廃止した造りのため山卸廃止酛の”山と廃”をとり山廃または山廃酛と呼ばれているのですが、それを知らなかったことより大きな問題なのは「面白くて楽しい日本酒の実際の魅力をまったく提示することなく、山廃という”造られ方”だけで日本酒を語っている」ことなのです。
Sさんのように、その酒販店の方が”山廃の酒”に深い愛情と情熱を持ち聞いてる人にそれが伝わってくるような”説明”であったならば、S髙研究員であってもその山廃の酒を購入した-----------そう私には思われるのです。
自分自身が”楽しくて面白い”と思っていなければ、日本酒の魅力は、相手に伝わることはないのです--------そしてSさんのように、「知識だけではなく、”その実際の姿”を本当に良く知っている人こそ」ふつうの言葉でその魅力を伝えることが出来ることを、日本酒に関わる人や日本酒のファンはもう一度考える必要があると私には思われてならないのです。
実はこの記事は4月の初めに書き始めたのですが6月下旬になってもまだ書き終わっていません。
書き終わらないうちに新潟市に行くことになり、短く書くつもりの記事が予定よりはるかに長くなっています。
震災後初めて訪れた新潟市で、もともと感じていた”変わらないことの価値”を改めて強く感じているから書き終わらない--------そう思われるのです。
鶴の友・樋木酒造は、やや大げさですが「変わらないことの”原理主義者”」とも言えますし、早福岩男さんも言われることは三十数年前と変わってはいません。
世の中の変化の中で鶴の友・樋木酒造が変わらないこととは、守旧や墨守とはまるで違う強い意志とエネルギーが必要だと思われます。
変わらないということは、”先人のデットコピー”を守り墨守することではないのでは---------私個人はそう思っていまます。
”先人が守り大事にした核心”を時の流れという”変化”から守るため、逆説的言い方をすると、変えるべきものは変え捨てざるを得ないものはすべて捨てなければならない、きわめて大変で多大の犠牲を払う大変な作業に私個人には思えてならないのです。
私自身が日本酒、特に酒蔵や蔵の方々に強い魅力を感じ引かれたのは、”日本酒の世界”が江戸時代に遡る「変わらない部分」を多く残していたからではないのか----------今はそう思えるのです。
鶴の友・樋木酒造の表側も裏側の”景色”は、三十数年前とまるで変わってはいません。
正面から入り右側の事務室にお邪魔していても左側の囲炉裏のある座敷にいさせてもらっていても、鶴の友・樋木酒造の”中で流れる時間”は外の世界とは違い穏やかにしかし変わることなくゆっくり流れています。
鶴の友・樋木酒造は江戸時代に遡る「変わらない部分」を、私が知る限り、一番多く残している蔵だと私には思われます。
鶴の友・樋木酒造を訪れたときの私は、時間に追われる日常から逃れられる”結界”に入っているようなものだったのではないか---------そして地震という”最大の変化”に遭遇した私は、意図的に「変わらない部分」を強い意思で守り、”結界を守り抜いて”きた鶴の友・樋木酒造の貴重さを痛感させられたのです。
「人は人の間でしか”磨かれない”」------私が若いころ誰かに言われた言葉なのですが、今思うと当たっていたように感じています。
「磨いてくれる砥石やヤスリの差が原石の”運命”を左右する」と言い換えても過言ではないとも思われるのです。
振り返って見ると、おそまつで能天気な”質の悪い原石”の私も磨いてくれる人に恵まれたおかげで、ありがたいことに現在の自分があります。
八海山の南雲浩さん、富所さん、宮尾行男社長、故宮尾隆吉前社長、早福岩男会長、嶋悌司先生、池田哲郎社長、樋木尚一郎社長、そして新潟淡麗辛口と故伊藤勝次杜氏の生酛------素晴らしく”高性能の砥石やヤスリ”のおかげで、おそまつで能天気な私も何とか格好のつく水準に磨いていただいたことには感謝の気持しかありません。
子供のころから家業である酒販店を継ぐことを嫌ってきた私ですが、今私がそれを無くしたら私ではなくなると思う部分のほとんどは、(地元の人も含みます)日本酒に関わる人のおかげで造られたものです。
三十歳代半ばでその実家の酒販店を出た私は、そのときまだ生まれてなかった息子が大学生になった今、童話の”青い鳥”ではないですが皮肉なことに、目指すべき納得できるものが”家業の酒販店の中”に存在していたと痛感しているのです。
そしてブランクをも含めた”私の日本酒の世界でのキャリア”が日本酒には関心の無い、縁が無いエンドユーザーの消費者が日本酒のファンになってもらうことにほんの少しは貢献できるのでは--------早福岩男会長や鶴の友・樋木尚一郎社長が強い意思で造り上げた”結界”と比べると、かなりレベルも低くスケールも桁違いに小さいですが、私なりの「変わらない部分」を大切にした”結界”を造れるのではないかとも今は感じているのです--------------------。