2013年8月18日~25日にかけて、久しぶりに新潟県にお邪魔させて頂きました。
早福酒食品店、鶴の友・樋木酒造、〆張鶴・宮尾酒造、そして本当にしばらくぶりに千代の光酒造を訪れさせて頂きました。
それゆえ鶴の友についても新しいシリーズを書き始めますが、
“ナマケモノ”の私には珍しく〆張鶴について--NO4、千代の光について--NO2も続けて書きたいと思ってはいるのですが、いつになるのかは私自身にも分かりません--------。
今回は“私の定宿”のホテル寺尾に5泊いたしました。
家庭的な雰囲気で人気のあるホテル寺尾は私がいた5日間はほぼ満室で、80歳になった社長の勝島の親父さんは相変わらず、私が煽られるほど、お元気でした。
三十数年前には〆張鶴に行くときには村上に泊まり、千代の光に行く際にも新井(現在は妙高市新井)に泊まりましたが、日本海東北道、上信越道が整備され新潟西インターから1時間と1時間半程度で行けるようになったため、
今回は新潟西インターに程近いホテル寺尾を“ベース基地”として行動することにしたのです-------。
8月19日の10時過ぎ、早福酒食品店に到着しました。
前日に郡山市に一泊し、これまた久しぶりにH商店のH君といろいろな話をゆっくりとすることができ、朝8時過ぎに郡山南インターから高速に乗りいつもよりのんびり走り、2時間弱で新潟市にたどり着きました。
80歳になった早福岩男さんはお元気で、まったく変わらないと私には思えるのですが、やたらと「俺も80になったから----」を“連発”されています。
たとえ型式の古い年代ものエンジンだとしても“トルクも馬力も排気量”も逆立ちしても敵わないエンジンでしかない私は、「エンジンの古さをいくら“強調”されても差が拡大することはあっても縮むことは有り得ない」ので苦笑するしか方法がありません。
今回は早福さんにも19日だけではなく22日にもお時間を割いて頂き、これまで以上に「自分が聞きたかったことを伺う」ことが出来ました。
新潟淡麗辛口の“歴史”は「もちろん早福岩男さんだけが造ってきた」わけでありませんが、「新潟清酒の販売の仕方を大きく変えた早福岩男さん抜きでも語れないという“事実”」に対する客観的で妥当な評価が記憶だけでなく記録にも残されるべきではないか-----私個人は改めてそう実感しています。
そしてそれはおそまつで能天気な私も年を重ねた今、微かであってもようやく私自身が“早福岩男さんの仕事の大きさの実態”が見え始めたことの“証明”なのかもしれません。
新潟淡麗辛口の“歴史”は、酒蔵だけの“視点”だけでも酒販店サイドの“視点”だけでも、たとえ私自身に分かる狭い範囲であっても、“その歴史の実像”は見え難い--------私個人はそう痛感しています。
“歴史”を造ってきた酒蔵と早福岩男さんのような酒販店の両方の“視点”から見ない限り、微かにさえ“歴史の全体像”を見ることが出来ない------私にはそう感じられてなりません。
8月19日の午後3時過ぎに鶴の友・樋木酒造に到着しました。
鶴の友・樋木酒造は、たぶん私が一番回数多く見させて頂いた酒蔵であると同時に私が一番“自然体”でお邪魔できる酒蔵でもあります。
以前は早福酒食品店の面した国道の116号を使うか女池インターから新潟バイパスに乗り内野方面に向ったのですが、海側を走る国道402号を使うほうが時間もかからずスムーズに走れることに気がつき、今は早福酒食品店から鶴の友・樋木酒造に向うときはこのルートしか走っていません。
今年は例年より雨が降ることが少なく、樋木尚一郎社長の“2時間前後かかる水撒き”が大変だったそうです。
私は別に”雨男”ではないのですが、私が新潟にいた1週間のうち2日雨が降り“水撒き”が休めたそうです。
一見何もせず放りっぱなしのような“庭”のように思えますが、
「タンポポひとつとっても、抜いて良いものと絶対に抜いてはいけないものがあるので、草取りはけっこう大変なんです」との蔵の方の発言が“証明”しているように「無造作では無く“無造作に見える”、自然に無理に作為を加えない庭」を樋木尚一郎社長は好まれているように私には思えます。
新潟市では8月に二つの会場で、新潟漆器展が開催されています。
二つの会場に展示された新潟漆器の多くは、数十年に亘って鶴の友・樋木尚一郎社長が“拾い集め”、有形文化財の蔵の屋根裏に“保存” されてきたものです。
成島焼も大堀相馬焼も、そして新潟漆器といい鶴の友・樋木尚一郎社長の“拾い集めたコレクション”は、“拾い集め始めた”時点では誰にも注目されず高価でもなく(新潟漆器は廃棄されかかったものも少なくなかったそうです)
その時点では希少でもなかったのですが、結果として貴重で大切なコレクションになってしまうのです。
現在は疎開先の二本松市で大堀相馬焼は造りを再開していますが、
相馬に帰還し相馬の土で相馬の登り窯で大堀相馬焼を造れる日がきたとき、
写真や本ではなくまとまった数の大堀相馬焼そのものの鶴の友・樋木尚一郎社長のコレクションはきわめて大きな貢献をするのではないのか-----私にはそう思えてならないのです。
今回は妙高市(千代の光)や村上市(〆張鶴)に行った帰りにも鶴の友・樋木酒造に寄る“パターン”になったこともあり、樋木尚一郎社長や奥様のお話を本当にゆっくりゆったりと伺えました。
樋木尚一郎社長と一緒に近所のスーパー(SM)やGMSを“偵察”に行くなど
前回までのような時間の余裕の無い1泊2日コースでは考えられないことでした。
以前に何回も書いていますが、鶴の友・樋木酒造という“空間”に流れている時間は、普段私の生活している”日常の空間”と違い、きわめてゆっくりと心地良く過ぎていきます。
その心地良さに身を置きお話を伺っていて、ふと気がつくと午後10時を過ぎていて、慌てて宿泊先のホテル寺尾に向う-------そんなことの繰り返しの楽しくてありがたい4日半を過ごさせていただきました。
私の主観的見方では、鶴の友・樋木酒造の“印象”は三十数年前と基本的にはほとんど変わっていません。
もちろん蔵の内外に僅かな“変化”はありますが、その“変化”は時間のもたらす変化のスピードに比べきわめて穏やかなものであり、鶴の友・樋木酒造の根幹が揺らぐような“変化”ではありません。
なぜなら鶴の友・樋木尚一郎社長の根幹が、三十数年前も現在も、まったく変わっていないからです-----------。
街おこしも文化財の保存のお話も、あまり語られること無い“日本酒業界の話”も三十年以上前から、鶴の友・樋木尚一郎社長の“考え方も発言も行動”も変わっていないことは、三十数年前からお話を伺い続けてきたに私には疑問の余地がない“事実”なのです。
三十数年前と現在で違いのあるのは、「日本酒業界への“予言”が“現実”」となったことと「新潟市の街おこしと文化の継承の両面で樋木尚一郎社長の存在を貴重に思う人」が目に見えて増えたことだけです------------。
上越線塩沢駅の左側の(リニューアルした)商店街が牧之通りです。
鶴の友・樋木社長も早福酒食品店早福岩男会長も絶賛の雁木と屋根の上の古来からの雪国独特の菱形の“風返し”の設置で統一し、建物の“印象”も出来る限り同じような“風合い”で統一し、三国街道の宿場町として栄えた塩沢宿を現代に甦らせようと意図したのが、牧之通りなのです。
私は樋木社長と早福会長に薦められたから牧之通りを見るためだけに塩沢に来たのではなく、私にとって塩沢は四十年近く前から二十四年前まで頻繁に訪れていた“懐かしい場所”だったから本当に久しぶりに訪問したかったのです。
実は、塩沢は私の学生時代の友人Nの地元なのです。
学生時代にスキーでNにはお世話になり、社会人になっては“地元のNの縁”から、八海山→〆張鶴→早福酒食品店早福岩男会長→千代の光・鶴の友というように新潟淡麗辛口の蔵に縁がつながっていったのです。
換言すると塩沢と友人Nは、私にとって、一番良い時期に“新潟淡麗辛口の世界”へのドアを開いてくれた存在なのです。
さらに言うと友人Nは、この牧之通りの計画が始まった12年前に塩沢町商工会の職員として関わり、中止や白紙も何度もあった紆余曲折を乗り越えた2年前の完成時以前に別な部署に移動しており、「仕事としての“関わり”」を離れてからも地元の一人の人間として“見守って”きたそうです。
もし人と人の関係を“貸し借り”だけで表現できるとしたら、私は友人Nに借りているばかりの人間です。
今の私は面白くて楽しい日本酒との“付き合い方”の伝授や、現在は貴重品になってしまった「トップレベルの酒質の酒蔵の“酒粕”」を配り続けることで、周囲の人に多少はお役に立っているかと思われますし、何人かの酒販店の後輩の“成長”にも少しは貢献している------“貸し借り”で言うとたぶん“貸し”のほうが大きいのかも知れません。
しかしその“貸し”も、友人Nからの“借り”が無ければ存在することはなかったのです。
偶然と言えば偶然なのですが、あのタイミングで八海山→〆張鶴→早福酒食品店早福岩男会長→千代の光・鶴の友と縁が続かなければ、私は今とまったく違う人間になっていたという“確信”がありますし、鶴の友・樋木尚一郎社長との関係もまったく違っていたはずです------それゆえ友人Nとの出会いも今更ながら不思議な縁であることに、久しぶりに懐かしい塩沢を訪問したとき改めて気付かされたのです。
友人Nとは20年振りくらいの“再会”です。
お互いに年齢を重ね“昔のイメージ”が違った部分がありました。
説明を聞きながら友人Nと牧之通りを歩いたのですが
“強い思い入れ”があるのは、言葉の端々に現れています。
「お前も良い仕事してるね-----」と言うと友人Nは苦笑するのみでした。
おそらく『能天気でお粗末な私に偉そうに言われたくない!』-----そんな気持だったのでしょう。
「牧之通りには本屋さんや文房具店など観光客の影響を受けない店もあるので、経済的なプラスはどうかという気持もあるが、牧之通りの反対側にある別の駅前商店街を含めて塩沢駅前商店街にはシャッターを閉めている(閉店した)店は一軒もない」----友人Nが気負いもなくさらっと言った言葉ですが、その言葉の意味はけして軽くはありません。
私の住む北関東の地方都市でも従来の駅前商店街は、残念ながら、“シャッター通り商店街”になっています。
ロードサイド店舗に押し捲られ、駅前商店街にかつての賑わいが戻ることは今後も難しいと思われます。
そんな流れの中にありながら、「塩沢の駅前商店街にはシャッターを閉めている(閉店した)店は一軒もない」というのは本当に驚くべきことなのです。
塩沢駅前の牧之通りは“一見の価値”が十分にあります、新潟県に行かれたときにはぜひ訪れることを強くお薦めします。
当初訪れる予定はなかったのですが、塩沢まで来たのでかつてと同じように六日町長森の八海山・八海醸造まで行ってみることにしました。
38年前から24年前まで足しげく通った場所なのに、私の記憶とは“違った光景”になっていました。
私がまったく来たことが無いと思われるような”風景”に蔵はなっていました。
この場所の反対側は新たに”開発されたスペース”で、私が見たことがない”光景”であることは承知していたのですが、元々の酒蔵があった場所までが“見覚えのない場所化”していたのは、正直言って予想外でした。
上記の写真が“新たに開発されたスペース”の案内板と“風景”です。
魚沼の里という名前がついていますので、ある種のテーマパークを目指しているのでは-----と思われます。
案内板にある八海山雪室は今年完成したばかりだそうですが、写真でも分かるように現在建設中の建物もありましたので、最終的にはどんな“かたち”になるのか-------24年以上八海山・八海醸造と接点の無い私には想像がつきません。
雪に埋もれる12月~3月に魚沼の里がどのように来訪者の目に映るのだろうかと思いながら、私は友人Nの車で魚沼の里を後にしたのです---------。
千代の光について--NO2、〆張鶴について--NO4で詳しく書くつもりですが8月20日に千代の光酒造(株)、21日〆張鶴・宮尾酒造(株)を訪問させて頂きました。
千代の光の外観は、私が初めて行かせていただいた三十数年前とほとんど変わってはいませんが、蔵の内部はサーマルタンクの数が増えただけではなく、常時空調がしてあるスペースが大幅に増えていました。
蔵の中の“設備の変化”に比べ、蔵全体の印象も事務室がある建物の入り口のたたずまいも池田哲郎社長のお話を伺った応接室の雰囲気も、変わってはいません。
〆張鶴・宮尾酒造も三十数年前には無かった瓶詰めラインと巨大な“冷蔵倉庫”のスペースが川をはさんで斜め向かいにありますが、右上の写真元々の蔵の外観はまったく変わっていません。
蔵の内部はかなり変わっていますが、応接室と事務所の印象は三十数年前
とまったく同じで変わってはいないのです。
当然のことながら、千代の光、〆張鶴そして八海山にも、私が初めて新潟に行かせて頂いた昭和五十年代初めからすると40年に近い月日が流れています。
千代の光、〆張鶴の“外観”には共通する“何か”がありますが、八海山の“外観”には共通する“何か”を発見することができません。
“共通する何か”------私なりの印象では、時間のもたらす変化のスピードにさらされながらも、現在の蔵に至る“新しい歴史”がスタートした昭和五十年前後の“原点”を状況が許す範囲の中で守り残していこうとする“姿勢”だと、思われます。
たぶん、八海山・八海醸造は千代の光や〆張鶴との共通の“原点”を持ちながらも、その“原点”を守り残そうとする気持が少し薄いのではないか----------私の個人的印象ではそのように感じられます。
むしろ八海山・八海醸造は、平成の初めを“スタートの原点”とし、時代のもたらす変化のスピードを上回るスピードで“新しい歴史”を造ろうと疾走している------これが、久しぶりに八海山・八海醸造の“外観”や魚沼の里を見て私が感じた個人的印象なのです。
内野は新潟大学の五十嵐キャンパスのすぐそばにある昔からの住宅街です。
新潟市の中心部からもあまり離れていないし通勤通学にも生活するにも便利な場所です。
内野は新潟市の中心と比べれば緑の多い住宅街ですが、鶴の友・樋木酒造は「緑に取り囲まれている」と言ったほうが適切なほど緑豊かな酒蔵なのです。
その緑豊かな鶴の友・樋木酒造という、“外の喧騒”から離れ時間がきわめてゆっくりと心地良く過ぎていく“結界のような空間”で、樋木尚一郎社長や奥様のお話を伺えた4日間は私にとって“至福の時”でした。
ある意味で“圧倒的な破壊力”を持つ時の流れによる“変化の波”に、飲み込まれないということは本当に難しく事実上不可能なことです。
新潟に限らず全国の酒を自醸し販売を続けている大多数の酒蔵は、時間のもたらす変化のスピードをやや上回る速さで動いている~時の変化にやや遅れたスピードで歩んでいるという“範囲の中”に存在している思われます。
その“範囲の外”を選択し変わらないことは、強い意志と代償を必要とします。
“結界のような空間”を三十数年に亘って維持し守り抜いてきた、鶴の友・樋木酒造が払い続けてきた“犠牲”も小さなものではありません。
何回も書いている三十数年前に比べ約半分にまで醸造石数が減っているのことも、“結界のような空間”を維持し守り抜いていたために払った“犠牲”の一つでしかないのです。
日本酒の世界、特に酒蔵には「日本人にとってとても暮らし易かった“失った過去”」が、濃淡や多寡に差があっても、まるで“タイムカプセル”のように存在し残っているように私には思えます。
鶴の友・樋木酒造は、冒頭の写真のように蔵の建物も住まいも文化庁の登録有形文化財であり、蔵の中は「古き良き日本を思わせる“結界のような空間”」だと私は感じてきました------そして、その樋木酒造だからこそあの素晴らしく不思議な酒質の、一番価格の安い上白すら“宝物”のように思える、“あの鶴の友”を造れるのだということを改めて痛感させられたのです------------。
全国新酒鑑評会平成25年酒造年度の記事を偶然目に
しましたが、鶴ノ友さんが金賞を受賞されたようです。
新潟の錚々たるお蔵の中で受賞されたのは素晴らしい
の一言に尽きます。
いよいよ希少価値が上がるような気がしてなりません。
コメントに気づくのが遅くなり失礼しました。
藤田さんが書き込まれたとうり平成25BYの全国新酒鑑評会の金賞
を受賞していますが、その直前の4月に「越後杜氏鑑評会」とも言うべ
越後流酒造技術者選手権大会で、鶴の友・樋木酒造が第一位に輝き
樋口宗吉杜氏が表彰式で“お礼の言葉”を述べ、樋木尚一郎社長が
「樋木尚一郎社長らしい“言葉”で」乾杯の音頭をとったと伺っています。
樋口杜氏は嶋悌司先生もその設立に関わられた新潟清酒学校の出身で風間前杜氏の根幹を受け継ぎながらも、ここ4~5年は樋口杜氏らしさを付け加えてきたように私には感じられます。
鶴の友の杜氏になった直後の「若手ピカイチの杜氏」という評価より
「新しい世代の越後杜氏のトップランナーの一人」という評価のほうが
今はふさわしいのかも知れません。
そしてそれは、全国新酒鑑評会に出品された大吟醸を飲まなくとも
2000円以下で買える鶴の友・上白を飲んでも、日本酒が大好きな人には、はっきりと分かる水準にあると、私個人は感じています。
いろいろな意味でエンドユーザーの消費者にとって、鶴の友・樋木酒造は有り得ない希少で貴重な大切な酒蔵なのです----------。