日本酒エリアN(庶民の酒飲みのブログ)gooブログ版  *生酛が生�瞼と表示されます

新潟淡麗辛口の蔵の人々と”庶民の酒飲み”の間で過ごした長い年月
(昭和五十年代~現在)を書き続けているブログです。

鶴の友について-2--NO5

2007-10-29 22:37:19 | 鶴の友について

20071026_026  あらめて、この28年を振り返って見ると不思議な思いにとらわれるときがあります。  ”日本酒の世界”の入り口のドアを開いて以来、自分のあずかり知らぬところで、ナビゲーションシステムが立ち上がりその見えない ”ディスプレー”と 聞こえない ”声”に導かれて進んで来たような気がしてなりません。 自分で選択してやってきた-----私自身はそう思っているのですが、実は ”誰か”が書いた”脚本”どうり線路の上を走って来ただけなのかもしれないと-----そう感じざるを得ないほど、節目、節目で迷わないように親切な案内板付きの ”道しるべ”が絶妙なタイミングで現れるのです。 多くの場合、その ”道しるべ”は ”人”でした。

その最初から私は、”対極”を同時並行で見る流れに乗っていました。 たとえば、淡麗辛口と生酛を同時並行で見てきたように-----。  私が酒蔵に縁を持ったきっかけは、学生時代の友人が新潟県の塩沢町におり、その友人が隣りの町の六日町にある八海山の関係者を知っていたことにあります。 その彼のおかげで、当時蔵におられたNHさんと知り合うことができたのです。 NHさんは、私にとって”日本酒の世界”へのドアを開けてくれた方ですが、その時点ですでに ”対極”の流れは始まっていました。( NHさんは私にとて、”八海山そのもの”でした。 平成になる前にNHさんは蔵を離れることになり、それにともない私と八海山の ”心理的距離”は大きく離れ、私が ”業界”を離れた以後は蔵との ”人間関係”は存在していません)

NHさんは、酒販店としてはあまりに”おそまつ”な私を気の毒に思ってくださり、二人の友人を紹介していただきました。 翌日、早速紹介していただいた二人のうちの一人に会っていただくために、村上へと六日町から車を走らせました。 それが、〆張鶴の宮尾行男専務(現社長)との出会いでした。  NHさんからの紹介もあり、宮尾専務は親切にかつ丁寧に対応して下さったのですが、蔵を訪れる酒販店の人間としての ”素養”がなかった私に ”困惑”もされていたと思われます。 そのとき同席されていた、故宮尾隆吉前社長が ”助け舟”を出してくだされ、 「新潟市に早福さんという面白い酒販店の店主がいる。Nさん、よかったら私が紹介するから行ってみたらどうですか」と、励ますように親切に言ってくださいました。 間違いなく ”おそまつ”でしたが、同時に ”素直”でもあった私は、その翌日、早福酒食品店に向けて出発することになります。 

宮尾行男社長ももちろんですが、故宮尾隆吉前社長にも大変良くしていただきました。 私の結婚式にご出席いただいたとき、「お忙しい中、しかも遠いところまでおいでいただき申し訳ございません」と申し上げると、「前から、一度見てみたいと思っていた公園があったのですが、なかなか来ることができません。こんな機会でもなければ見れなかったと思いますので、こちらこそありがとうございました」と、穏やかな笑顔を私に見せてくださいました。 本来なら、私がその公園をご案内しなければならないのに-----今でも申し訳なく思っています。

早福酒食品店には、越乃寒梅、鶴の友、〆張鶴、八海山、千代の光の五枚の看板がかかっていました。  30年近く前のことですから、当然早福さんも今よりもずっと ”若く精気”にあふれていました。 考えてみると、成功の兆しが見え始めた ”日本酒ルネッサンス”の ”統合作戦本部”を訪れていながら、まったくそのことに気づかず、”原子力空母”のような早福さんの圧倒的な存在感も感じとれなかったそのときの私は、やはり ”おそまつ”としか言いようがありません。

八海山、〆張鶴は、新潟市や東京を中心に、そのころ知られ始めていましたが、まだ有名とは言えない時期でした。 月桂冠をはじめ当時のナショナルブランド(NB)の、冷静に客観的に見ても、”かなりひどい”ものだった酒質しか知らなかった私は、「日本酒なんてものは、二十一世紀には消えてなくなる」と、本気で考えていました(NBの名誉のために書きますが、その当時と現在では、良い意味でNBの酒質は ”別物”になっています。 その酒質の ”平均レベル”は、へたな有名地酒を凌駕するレベルに達しています)  そんな私にも、八海山、〆張鶴の酒質は大きな ”驚き”でした。  淡麗辛口の蔵の中でも、その当時の八海山は ”軽さと切れ”にその特徴とこだわりがあり、誰もが分かり易いインパクトと魅力があり、〆張鶴には、軽さと切れだけにに留まらない ”バランスの凄さ”がありました。 例えて言うと、八海山はある部分は60点、しかしその他のある部分は150点-----平均90点、 〆張鶴は、すべての部分で90点ゆえに平均90点-----そんな ”個性の差”が際立っていました。 〆張鶴の ”バランスの凄さ”が一番良く出ていたのは、すでにその時に市販されていた〆張鶴純米酒の、”〆張鶴 純” でした。 普通に造れば、「重くて,くどくて、しつこい」の ”純米三悪”のハンデを背負いながら、まったくそれを感じさせない ”軽さと切れ”を持ちながら、食べ物の味を邪魔しないで包み込むやわらかなふくらみがあり、飲みあきのしない素晴らしい ”純米酒らしくない純米酒”でした。

”酒蔵巡り”の酒販店の ”素養”に欠ける私といえども、八海山、〆張鶴の酒質の ”凄さ”は十分に感じとれましたが、それよりも強く惹かれたのは ”人の姿勢”でした。 酒販店の三代目として周囲に押し付けられた ”仕事”に何の興味も意味も見つけられず、自分が ”納得”できる何かを求めて三代目という立場から逃げ出すことしか考えていなかった私は、けして楽でもなく(むしろ苦労が多い)、格好も良いとは言えず、古くさいがゆえに消えて無くなると考えていた日本酒に、なぜ、NHさんや宮尾専務はあれほど打ち込んでいるんだろう、なぜ、疑問を持たず自分のすべてを投入できるのだろう、なぜ、あれほど自分の仕事に ”誇り”をもてるのだろう-----どうしてもその理由を知りたかったのです。  その理由は、”おそまつ”な私ですら納得せざれを得ない説明を早福さんから受け ”解明”するのですが、考えてみるとそういう ”哲学”を周囲を巻き込んで推し進める ”張本人”から懇切丁寧な説明を受けたのですから、分かって当たり前だったのですが、その時の私はそのことにもまるで気づいていなかったのですから、”おそまつ”としか言いようがありません。 しかも、”分かる”ことと ”実行”することの間には相当の距離があることにも、私は気づいていなかったのです。

早福さんは、”平穏無事”とは逆方向の人生と ”ちん、とん、しゃん系”の遊びに鍛えられた人しか持ち得ない、他人を緊張させない ”気さくで洒脱”な魅力に富んだ人柄でした。  かなりレベルが違う ”おそまつ”な私を、そのまま受け止め対等の相手として遇することなど、私のような ”凡人”にはとうていできることではありません。 早福さんの話は、とても面白く時間の流れを忘れてしまうのですが、その中で、”嶋・早福ライン”(私が勝手に言っている言葉です)の仕事の意味と価値が、私にも自然に納得できたのです。  淡麗辛口は、意図的に造り出された酒質です。  三十数年前、「日本人の食生活は、今後肉体労働が減って ”ライト&ドライ化”していく。その時に、甘くてくどい今の日本酒では飲んでもらえない」と見通していた嶋悌司先生と、その考えに ”共鳴”した早福さんが二人三脚で ”新潟淡麗辛口”の流れを造りだしてきたと言っても過言ではありません。 「協会10号酵母、新潟県産五百万石、低温発酵」-----それが、新潟淡麗辛口の ”キイワ-ド”でした。原料米はもちろんのこと、酛、醪、上槽後の管理保存に至るまで昭和50年代の最先端の ”吟醸造り”の技術を可能な限り注ぎ込んだ、普通の価格で多くの人が買える ”吟醸酒に近い市販酒”-----それが、新潟淡麗辛口の ”本質”でした。 その革新的な試みを実現すべく、指導をする嶋悌司先生、実際に酒を造る五つの蔵、その酒を販売する早福さんを中心にした少数の酒販店-----立場の異なる三者がその ”哲学”を共有する「ドリ-ムチ-ム」を組んでいたのです。 革新的で意欲的でもあり、またそれが他の誰かの役に立ち他の誰かを喜ばせていると確信できる ”仕事”をしている人は、深い充実感と誇りを感じることができます-----「ドリ-ムチ-ム」に参加している人にとって、昭和50年代前半はまさに ”黄金の日々”でした。 そして私は、その ”黄金の日々”を体現している人の ”生き方”に強く魅了されたのです。 

嶋先生が ”最後の仕事”として取り組んだ「久保田」が発売され、順調にその成果がでているころ、”黄金の日々”は終わりを告げ始めていました。 そのころの早福酒食品店は、全国の酒販店の ”駆け込み寺”化していました。 ”玉石混交”(その多くは石、もちろん私も石ですが)の酒販店が毎日のように訪れ、早福さんご夫妻、ご家族、従業員の方々は大変でした。 私は、早福さんのそばにいて ”手とり足とり”教えていただいた ”直弟子”ではありませんでしたが、”生き方”を見せていただいた一人として”弟子の末席”に加えていただいたように、自分では思っていました。 その時期のある日、早福酒食品店の二階に十人くらいの新潟県外の酒販店の人間がきていました。 そして、珍しく書家のS先生も同席していました。 S先生は嶋先生と早福さんの古いお友達で、久保田のレッテルの ”字”を書かれた方です。  無口ならぬ ”六口”のS先生と言われる、普段は楽しく愉快な先生なのですが、私自身も不快になった自称”早福の弟子”の ”言動”に爆発され、「お前ら何か立派なことをやっているように勘違いしているようだが、お前たちがやったことは早福が涙や血を流してやっと売れるようになった酒を、横から来てかすめとっただけじゃないか。 早福は、そのままにしたら無くなってしまう地元の蔵をたとえ一つでも助けたくてやってきたんだ。 お前らが早福の弟子と言うならなぜそこを見習わないんだ。 なぜ自分の地元の蔵を助けようとしないんだ」-----と言い捨てて席を立たれました。 S先生の言葉は、直接私に向けられたものではなかったのですが、そのときの衝撃と恥ずかしさは今でも忘れることができません。  地元の蔵にまったく目が向いてなかった私も、その後意識して地元の蔵を訪ね始めたのですが、具体的な行動を起こす前に ”業界”を去ることになりました。  

20057_021 会社員になってからも、そのことは常に頭の片隅にありました。 自分としては、”業界”にいたときは恵まれてもいたしやれることはやったと納得もしていましたが、地元の蔵の件だけが唯一の心残りだったのです。 またもやひょんなことから、4年前地元の蔵に ”ボランティア”で関わる機会が巡ってきました。 会社員の休日利用の ”ボランティア活動”のため限界はありましたが、十数年温めてきたことでもあり、私なりに全力投入しました。そのまっただ中で、早福さんのお店で偶然16年振りにS先生と一緒になり、「S先生の16年前の ”宿題の解答”を今ようやく書いています」と申し上げました。 S先生は、私のことも言われた ”言葉”のこともお忘れのようでしたが、「N君、もし私がそんなことを言ったとしたら、それは早福の代わりに言ったんだ。 早福はやさしい男だから、どんなに迷惑をかけられようと思い上がった言動にどんなに振り回されようと許してしまうんだ。 本当は早福だってそう思っているんだよ」と、笑顔で言葉を返してくれました。 早福さんを訪ねた酒販店の人間は、少なくても1000人を超えていると思われます。 その中で、”早福の弟子”だと今でも思っている人は、16年前のS先生の”言葉”を深く胸に刻んで自覚しなければならないと私は思っています-----我々は、「ドリ-ム-チ-ム」が成功したために、早福さんが抱え込まざるを得なかった ”負債”だったことを。

嶋・早福ラインの”仕事”の成果は、次々と淡麗辛口の銘醸蔵を立ち上げたことに留まりません。 マ-ケティングや営業活動、コスト重視の”生産”にしか目の向いてなかったNBをして、現在のレベルまで”酒質”を向上せざるを得なくしたことが”日本酒ルネッサンス”と言うべき、嶋・早福ラインの”仕事”の最大の成果だったと、私は思っています。

http://sakefan.blog.ocn.ne.jp/sake/2005/08/index.html

上記は、2005年8月に書いた ”長いブログのスタートです”の中で、早福岩男早福酒食品店会長について書かせていただいた部分です。 嶋先生と ”二人三脚”で新潟淡麗辛口の流れを造ってきた早福さんが、久保田の展開でも重要な役割を担ったのは自然な流れでしたが、しかしその展開のために、担わなくてもいいものもまで担ってしまったのではないかと私には思えてなりません。

久保田は、それまでの新潟淡麗辛口の展開と比べ、大きく強い ”光”を持っていました。 しかし、”光”が強い分だけそれが生む ”影”も大きく深い------私は個人的にですが、そう感じています。 五つの蔵にとっては、自分達と密接な関係を持ち、ともにナショナルブランド、新潟大手ブランドと一緒に戦ってきた ”監督とマネージャー”が、”敵のチーム”に深く関わってしまったのですから、ゆるやかながら成立していた ”価値観の共有”が乱れて崩れてゆくのは、むしろ自然な状況でした。

多くの人々にとって、久保田の発売と展開は、ある意味で時期を得た自然なものでした。 そしてそれは、私自身にとってもタイムリーなものだったのです。 嫌っていた酒販店の三代目という ”日常”を続けるための必要な ”道楽”として、新潟淡麗辛口を売ってきた私も、久保田の発売前後は難しい局面に入っていました。 それを一言で言えば、「道楽にしては大きくなり過ぎたが、商売の軸にするには小さ過ぎる」--------そんな状況になっていました。

「投げる本数のほうが、売れる本数より多い」-----長い間苦戦し続けてきたのですが、このころ〆張鶴、八海山の知名度の向上もあり、この二つの銘柄の ”投げる本数”はほとんど無くなっていました。 たぶん後で書くことになる「吟醸会」の仲間や私の店の ”N酒店”の常連の人達が、さらに〆張鶴、八海山のお客さんを造ってくれる-------”拡大再生産”のパターンに入っており、むしろ数量の ”不足”に苦しんでいました。 早福さんや〆張鶴の宮尾行男専務(現社長)、八海山の南雲浩さん(現六日町けやき苑店主)に直接話しを伺う機会が多かった私は、この状況がくることを確信していたがゆえに、”投げ”ながらも「取引本数」を増やし続けてきたのです。

私のN酒店は、”地酒専門店”ではなくごく ”ふつう”の酒屋で、月桂冠や剣菱に代表されるNBも ”豊富に”取り揃えていました。 ただ三代目の私が、〆張鶴、八海山や千代の光、南会津の国権という小さな蔵の酒や、自分が深くほれ込んだ ”生酛一筋四十年の南部杜氏”のI杜氏の造った ”生酛”を主力として売ろうとしていたことが、特徴と言えば特徴と言えました。 つまり、月桂冠や剣菱を売るように〆張鶴、八海山を売ろうとしてきたのです。 そのおかげで、〆張鶴、八海山もある程度の本数の実績があり、”売り惜しみ”はしなくてすみましたが、新潟淡麗辛口のブームが造り出す ”新しい需要”にはとうてい対応できない状況にあったのです。

〆張鶴も、私の最初の出会いからいって純米酒の”〆張鶴 純”が、どうしても需要の中心にならざるを得なかったのですが、”純”は〆張鶴全体の10%以下しかなく、取り扱いをさせいただいた最初の年から下半期は ”実績割当”に必ずなりました。 それゆえ、”実績割当”のこない5月~8月に宮尾酒造の皆様にお願いし、出していただける目一杯の本数を発注し、2坪の冷蔵庫にストックしその本数で10月以降の需要期をなんとかしのぐ------これを繰り返してきたのですが、この時期には夏場ですら ”足りない”状況になっており、純だけではなく本醸造、冬場のしぼりたて生原酒、活性生にいたるまですべて、”実績割当”になっていました。 しかし、”投げながら”売ってきたおかげで取り扱い本数の約30%が ”純”だったため、”売り惜しみ”することなく以前からお客様にもかける ”ご迷惑”も最小限に抑えられていましたが、どなたかに聞いてはるばる足を運ばれらたお客様であっても新規のお客様に買っていただく1本に苦しむ状態だったのです。 しかも、酒販店の ”環境”は昭和五十年代後半に比べはるかに悪化しており、不本意ながら ”道楽の酒”を店の営業の ”軸”にせざるを得ないと痛感していたのですが、千代の光も含め数量の短期的な拡大には限界があり、”軸”には程遠いのが実情でした。

久保田の展開は、基本的には事前に一年間の販売店の希望数量を受け、その時点での生産能力内でできるだけ販売店の希望にそった年間本数を月別に決定し、販売店総合計の本数を計画的に生産し出荷する------という仕組みで走ろうとしていました。 その手法は昭和五十年代の初めより、試行錯誤を繰り返してきた新潟淡麗辛口の”売り方”のひとつの集大成で、その”合理性”は多くの人にプラスをもたらし、私自身も得るものが多かったのですが、新潟の酒に縁を持った”動機”からするとむしろ離れていく方向だったことも、私は頭の片隅でいつも感じていました。

私は迷った末に、久保田を取り扱いをすることに決めました。 決めた以上は他の銘柄のときがそうであったように、たとえかなりの本数を”投げる”ことになっても、徹底してやろうと決めたのです。 そう決めた大きな理由のひとつは、嶋先生と早福岩男さんの存在があったからです。 これは当時の私個人の見解に過ぎませんが、「馴染みのない朝日酒造がどうであれ、嶋先生と早福さんは信頼できた」からです。 そしてエンドユザーの消費者の立場に立つと、トップレベルの新潟淡麗辛口の不足は、(いかに違う魅力があろうとも南会津の国権や”生酛”では埋まらず)トップレベルの酒質の新潟淡麗辛口でしか埋められないことも痛感したからです。

この決断が、私自身にも過去十数年の”集大成”を強いる「激動への入り口」になるとは、そのときの私にはまるで想像できなかったのです。

鶴の友について-2--NO6に続く


鶴の友について-2--NO4

2007-10-16 15:54:58 | 鶴の友について

20057_006 鶴の友は、「酒は庶民の楽しみ」、「酒は日本人にとって、欠かすことのできない面白さと楽しさにあふれているもの」-----肌の感覚でそのことを私に納得させてくれた蔵です。 

私が現役の酒販店時代に取引はありませんでしたが、”商売”以外のご縁から二十数年前におじゃまして以来、現在に至るまで ”人間関係”が続いています。
鶴の友はその根幹はまったく変わることなく、樋木尚一郎社長の眼は原点から逸れることなく 、また遠くをも見通しています。  ”業界”にいたときの私が、古い仲間から ”予言者扱い”されるほど、”予想”を的中させることができたのは、樋木社長のおかげでした。

頑ななまでに原則を変えず、他の四つの蔵がこの三十年で2~8倍にまでその販売量を増やしたにもかかわらず、逆に半分強に減っています。
鶴の友は、新潟市周辺のごく一部でしか販売されておらず、県外はおろか新潟市周辺以外では手に入れることが、きわめて難しい酒です。 それは”庶民の酒飲み”に顔を向けてないからではなく、逆に100%向けているからです。
鶴の友は、本来の ”地酒”に徹しています。 地元の酒飲みに喜んでもらうために犠牲を払って造っているのであって、それゆえ、県外、特に大都市圏に売るつもりがまったくと言っていいほどないのです。

業界を離れてからの13年、私は樋木社長と接する機会が増えました。 1~2年に1回はおじゃまさせていただき、電話でしょちゅうお話を伺っています。
その年月の中で、以前から自分では分かっていたつもりの樋木社長の”原則”をようやく肌の感覚で理解することができ、それを自分の”原則”とすることができたように思えます。

「酒は庶民の楽しみである以上、酒を造る者も売る者も庶民の立場でなければならない」-----飲む人間に対する強い気持ちがその”原則”なのです。 樋木社長ほど”飲む人間”、そして”弱い立場”の人間に愛情を持つ人を、私は知りません。
私が周囲の”恵まれない酒飲み”に対する”ボランティア活動”を始めたのも、数年前地元の小さな蔵に”ボランティア”で関わったことも、樋木社長の”愛情と応援”があって可能になったことです。また、つぼに入った超有名な”幻”扱いされている焼酎も樋木社長がいなければ、存在することはありえなかったのです。

十数年前、その開発者といわれ今は”焼酎の神様”扱いをされている、K酒店のK店主に焼酎をかめで仕込んでつぼに入れて売ることを朝の5時まで樋木社長がアドバイスし続ける現場に、私も立ち会っていました。
K店主には、このとき一度しか私は会ってないのですが、新潟の酒の件でうまくいかなかったのか、前夜にはあまり元気とは思えなかったその朝のK店主のふっ切れた表情を、今でもよく覚えています。 数年前新潟県醸造試験場に講演の講師として招かれたK店主は、あの焼酎の原点は樋木社長にあると聴衆の前で言い切ったそうです。
樋木社長にとって、私やK店主にアドバイスしたり応援することは何のプラスもなく、マイナスでしかありえません。損だ、得だだということはまったく存在せず、純粋に”弱い立場”の人間への愛情と親切心だけでした。 しかもそれは、私達だけにかぎられないのです。

この”普通ではない心の置き所”を反映する鶴の友が、”普通”ではないことはむしろ自然といえます。
”素晴らしくかつ不思議な酒”といわれる鶴の友は、平均年齢80歳の”超高年齢軍団”によって3年前まで造られていました。
 含んだ瞬間やわらかく、しかししっかりとした”米の旨み”としか言いようのない味が口の中に広がり、それでいて他の淡麗辛口を上回る、喉ごしの良さと切れの良さを持っていました。 鶴の友の場合は、”切れる”というより後味が”消えてなくなる”といったほうが適切かもしれません。 きちんと造った淡麗辛口は、人間の身体にやさしく翌日に残ることはないのですが、鶴の友は適量だった場合、その日のうちに醒めてしまうのです。 さらに不思議なのは、淡白な白身魚の刺身の味もじゃまをせず包みこみ、あんこう鍋のような強い味にも負けない”強さ”を同時に持っていることです。
それは、例えてみると、サーキットでめちゃくちゃ速いレーシングカーが、グラベル(未舗装路)のラリーのSS(スペシャルステージ)でもめちゃくちゃ速い-----普通なら絶対ありえないことなのです。  

この”ありえない味”を造り続けて来たこの蔵に、2年前に”危機”が訪れました。 物心両面での負担のきわめて大きい造りを続けるこの蔵が、いつかは無くなる日が来ることを頭では理解していたつもりでしたが実際に直面したとき、私は呆然と立ち尽くすことしかできませんでした。 幸いこの蔵の造りは、30歳の杜氏を軸にした”若手軍団”に受け継がれ造られています。 わずかな混乱はあるものの”超ベテラン軍団”の味の骨格は受け継がれ、数年後にはそれに”若さ”を加えた酒質を造り出すのではと私は期待しています。 しかし、また”危機”が訪れる可能性は残念ながら残っています。 私が現役の酒販店のころ、蔵元の”思い”を知るがゆえに取引させていただくことはあきらめました。 鶴の友は新潟市民の”宝”であって、他の地域の人間がかすめとるべきではないと思ったからです。しかし、今の私は結果として新潟市民からかすめとることになったとしても、自分にできるあらゆることをしてでも残って欲しいと強く願っています。 自分の息子にもこの酒からしかもらうことのできない”幸せ”をどうしても味あわせてあげたいからです-----。 

http://sakefan.blog.ocn.ne.jp/sake/2005/08/index.html

上記は2005年8月に書いた、自分が感じてきた ”鶴の友の姿”です。

私は、最初に樋木社長をお訪ねして以来、その後も八海山、〆張鶴、千代の光を回って新潟市にたどり着き、早福さんそして樋木社長のお話を伺うことを、年間3~4回続けました。  その動機は ”商売”のためでもなく ”酒の勉強”のためでもありません。 子供のころから嫌ってきた「酒販店の後継ぎ」という ”自分の日常”への反抗、そして短期の ”日常からの脱出”がその目的でした。 ”極楽トンボ”という嶋悌司先生の私へのお言葉は、恐ろしいほどまったくそのとうりだったのです。

今思えば昭和50年代の後半は、酒販店にとっても酒蔵にとっても ”のどかな時代”でした。 もちろん ”変化の流れ”は確実に近づいていたのですが、その ”足音”はまだ遠くでしか聞こえず、”何か”にゆっくり取り組む時間の余裕がまだ残っていた時代でした。 この時期に、自分もその流れの中で ”ささやかな一翼”と言うか ”情けないような一翼”を担っていた新潟淡麗辛口の前進と拡大を、八海山、〆張鶴、千代の光の各蔵元と早福さんをとうして、直接見続ける機会を与えられた私はきわめて幸運でした。 そして同時に、自分の立場を危うくしないように ”封鎖”をしながらにせよ、自分の目に映った ”景色”が 樋木社長にはどのように見えるのかを、鶴の友の蔵の中で樋木社長に伺える ”縁”を与えられたことも、本当に幸運なことでした。

”黄金の日々”が、ゆっくりとしかし確実に ”終わり”へ向かっているこの時期に、皮肉なことに、「鶴の友は、なぜ鶴の友なのか」、「〆張鶴の、〆張鶴たるゆえんは何んなのか」、「千代の光は、なぜ千代の光でありえるのか」、そして「八海山が、八海山たりえた理由」がほんの少しずつですが ”極楽トンボ”の私にも見え始めていました。 この時期は、”怖くて凄い”との評判の嶋悌司先生との面識はなく ”話で聞く”だけでしたし、 早福岩男さんも、”能天気”な私が「オーバーヒートで走れなくなる」ようなレベルの話は、後輩に優しい方ですので、慎重に避けて下さっていました。 それゆえ ”日本酒ルネッサンス”とも言うべき動きの中で、「監督やプロデュサーの役割」を果たされたお二人から直接伺う機会はありませんでしたが、”蔵の動きを通して”それもおぼろげながら見え始めていような気がします。

昭和が終わるころ、”新潟淡麗辛口”へのドアを私に開いてくれた南雲浩さんが ”ある事情”で八海山を離れられたとき、五つの蔵がすべてそろっての ”黄金の日々”が終わったのかもしれません。

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南雲浩さんが離脱された後、私が行かせていただいていた四つの蔵の間で ゆるやかではありましたが一致していた ”価値観”の優先順位のずれが、造っても造っても酒が足りない ”新潟淡麗辛口のブーム”の中で目立ち始めていました。しかし、それが誰の目にもはっきり映ったのは、朝日酒造の久保田が発売されたころからでした。

 嶋悌司先生がご自分の ”最後の仕事”として、新潟県醸造試験場長を定年前に退職され朝日酒造に移られたのは、「朝日酒造の新たな創業」-------”久保田プロジェクト”のためでした。 久保田の発売の半年前、当時地方銘酒(地酒)を扱う酒販店の有力なグループのひとつであったTマーケテングのM会の例会に、嶋悌司先生が講演のため参加されました。このとき私は、初めて嶋先生にお会いすることになったのです。  例会での嶋先生のお話は、当然久保田が中心になりました。

M会は池袋のK酒店K店主を中心に、昭和五十年代の初めから地酒にかかわってきた人が多く、新潟の五つの蔵のどれかと関係を持っていました。ちなみに、「私の親友のような酒販店だから」と私にK店主を紹介してくれたのは、南雲浩さんでした。

嶋悌司先生のお話は、”M会の落ちこぼれ”の私でも理解でき分かる内容でもあったのですが、私も含むM会のほとんどの人がある種の”違和感”を感じていました。
それは、「なぜ今、朝日山なのか」------という疑問でした。 ”新潟県のナショナルブランド”で、県内で月桂冠よりNBとしての存在感のある朝日山がいまさらなぜ越乃寒梅や八海山のような ”売り方”をしようとするのか、そしてそれをなぜ嶋悌司先生が担うのか------ということに得心がいかなかったのです。 

嶋悌司先生への尊敬の気持ちからか、あるいは何らかの思惑からかM会の人達は、嶋悌司先生にその ”違和感”を表明することを避けていました。
しかし私は、”極楽トンボ”でしたしおそまつなことも自覚しておりましたので、聞くことの ”怖さ”より知らないことを知りたいとの ”気持”のほうが上回り、めったにない嶋先生に直接質問できるチャンスを逃すことはできませんでした。そして、お叱りを承知の上で質問の手を上げたのです。

「 嶋先生、なぜ定年を一年半も残して朝日酒造に移られたのですか。なぜ今朝日山なのですか」------若気の至りとはいえ、今思うと大変失礼な質問であったと反省しております。 私のほうに顔を向けられた嶋悌司先生の眼光の鋭さに、質問をしてしまったことを後悔したのですが、先生のご返答は意外なものでした。

「新潟の酒が評価されるためには、新潟全体のレベルアップが必要だったが、そのためには目標となるべきトップレベルの蔵の存在が必須だった。越乃寒梅を名実ともに追う蔵として、いろいろ考え準備もした上で、鶴の友、八海山、〆張鶴、千代の光の立ち上げをしてきたのだが、いざ立ち上がると酒が足りなくなってしまい、ややもすると土地転がしならぬ ”酒転がし”が横行し、せっかく飲みたいと思ってくれる消費者に迷惑をかけている。 この状況は新潟の酒には良い状況とは言えない。 新潟の酒が、”幻でも幽霊”でもなく手も足もあることを分かっていただくためには、酒質が良いのはもちろんだがその酒質の酒を安定的に消費者に供給するには、従来とは違う ”仕組み”が必要か------と感じていた。 酒質を落とさずに量を拡大していくためには、原料や設備の面で十年くらい先を考えた先行投資が必要だし、最初から新潟県以外の市場に展開するのにも ”資金や人”の面で ”体力”が必要だった。 この”体力”が、新潟県内でありそうなのは朝日酒造だけだったし、平沢亨社長(当時)も ”新たな創業”のつもりで全力で取り組みたい-----そのためにも朝日酒造に来てもらえないかとの話があったので移ったというのがその理由です」

お叱りを受けると思い少々(本音を言うとかなり)びびったのですが、嶋悌司先生の私へのご返答は直球-------それも、ど真ん中のストレートでした。 ”怖い”とお聞きしていた嶋先生でしたが、懇切丁寧な説明をして下さったのです。
これがご縁で、久保田の展開の中で嶋先生に大変お世話になることになるのですが、”怖い”のが分かっていても思わず寄って行ってしまう ”迫力のある面白さと魅力”に嶋先生は満ち溢れていました。そして、”怖い”と同じ分量”優しい”方でした。

この久保田の発売が、新潟淡麗辛口ブームに拍車をかけ激動を生むことになり、”極楽トンボ”の私も ”極楽トンボ”ではいられない状況になっていったのです。

   鶴の友について-2--NO5に続く   

      


鶴の友について-2--NO3

2007-10-08 23:23:02 | 鶴の友について

20057_029 「それなら、お父さんが書いたらいいじゃないか」-----中一の息子のこの言葉がこのブログを書くきっかけになりました。                    

この言葉は、私がインターネットで日本酒関係のHPを見ながら「ぴんとこないなぁ」、「なかなか無いなぁ」と”独り言”を言っているときに息子から出たのです。私の息子は赤ん坊のころから、日本酒には縁がありました。毎年7月にはアパートのドアの前に、”普通の家庭”としては考えられないほどの多くの酒が置かれ、12月には甘い香りが強く漂う大量の酒粕まで追加される生活を生まれたときから送っています。彼にとって、今は自分が飲むことはできなくても、日本酒は常に身近な存在なのです。

かつて一度だけ、息子と一緒に新潟へ行きました。自分がいつも目にしている酒の銘柄が造られている現場を直接見られ、話をよく聞かされている、父親の敬愛する大先輩の店にも行き、どちらでも大変可愛がっていただいたので、新潟は息子にとっても非常に良いところだそうです。

淡麗辛口をその”原動力”として、”日本酒ルネッサンス”と言うべき動きに、成功の兆しが見え始めた昭和50年代前半に、思わぬことから私は新潟淡麗辛口の蔵に縁を持ちました。 私のアパートに集金その他で来られる”酒飲み”が、「何でこの酒がこんな所にこんなにあるんだ」と驚かれる、有名な蔵もその当時はまだ”マイナー”な時代で、マイナーなだけに”商売”のからんでくるウエイトは少なく、”家業を嫌っていた酒販店の三代目”の私でも強く惹かれる”人間関係”がそこにはあったのです。 売れるとか売れないはまったく考えず、扱ってみたいと強く思ったのは、酒そのものの魅力ももちろんありますが、それ以上に”酒を造る人”に強く惹かれたからです。 私はどちらかと言うと”酒に酔う”のではなく、”酒に関わる人”に酔って年月を重ねてきたような気がします。 私にとって”酒”とは”人”なのです-----いつも”人”を通して”酒”を感じてきました。 しかし、それゆえ平成の初めまで続く”悪戦苦闘”の日々を送ることになります。

酒は恐ろしいほど、酒を造る人の”心の置き所”を反映します。 そして、その”反映する心”は、技術者である杜氏ももちろんですが、それ以上に”蔵元の心”が反映します。  誤解を恐れずに言うと、酒を造ること自体は酒蔵にとって、それほど難しいことではありませんが、酒造りのすべてにおいて手を抜かずに酒を造ることは、きわめて困難な作業と言わざるを得ません。 当時は嶋悌司先生(元新潟県醸造試験場長)と早福岩男さん(早福酒食品店会長)を中心に、五つの蔵がお互いに切磋琢磨しながら、困難な作業を実行していました。 まったく同じ”哲学”を共有し、自分達の進む道に何の疑問も持たず、ただ前に進むだけ------今思うと、”黄金の日々”だったのかもしれません。 そうゆう”哲学”とそれを”体現”している人々に、私は強く惹きつけられ続けさらに”深み”にはまっていくことになります。

五つの蔵のうち、三つの蔵と私は取引させていただき、一つの蔵とは取引は無かったものの”人間関係”がありました。 私が意図的に関係を持たなかった五つの最後の蔵が越乃寒梅です。 なぜなら、越乃寒梅は、蔵元の意思とは関係なく当時すでに”メジャー”だったので、”マイナー”な私が入り込むのは失礼だと感じていましたし、”マイナー”な私の”居場所”もあると思えなかったからです。  そのころは、”新潟の酒の神様” 嶋悌司先生と直接お会いする機会はまったくありませんでしたが、お付き合いをさせていただいた蔵を通して、嶋悌司先生の存在の大きさは十分に感じとることができました。 その後、久保田の展開に最初から参加するなかで、嶋悌司先生にも個人的にも大変お世話なることになるのですが、そのころには五つの蔵の”黄金の日々”は終わりを告げ始めていました。

その数年後、思わぬことで私は”業界”を離れることになります。 それから、もう13年がたっているのですが、相変わらず私は酒から離れることができていません。 酒とはまったく関係の無い業界の会社員として13年を過ごしてきたのですが、なぜか私の周囲には”庶民の酒飲みの日本酒ファン”が増えてしまいます。 仕事上の付き合いの方でも、何気なく酒の話になると、私にとってごく”普通”の話をしているだけなのですが、相手が”庶民の酒飲み”の場合は興味が尽きないようで、そして必ずと言ってよいほど、「Nさんと話してると酒が飲みたくなりますね」と言われます。 そして、それ以上に”本人の自覚”無しに拡大させてしまったのが、”酒粕のファン”かもしれません。

私にとって”酒粕”とは、果物のような甘い香りのする、やわらかくて厚みがあり、切るのに苦労するもので、水にもすぐ溶けるものですが、現実に”酒粕好き”が手にしていたものは、まったく違っていたようです。 軽い気持ちで、今も人間関係が続いている三つの蔵の”酒粕”を周囲の方に差し上げ始めたのですが、その反響は予想を超えるもので、13年前は40㎏だったものが現在は300㎏を超えています。  ”酒粕”といえども300㎏を超えてしまう量になると、”サラリーマンのボランティア活動”としてはけして荷が軽くはなく、ここのところ暮れが近ずくたびに、今年は止めようかと思うのですが、差し上げた酒粕の”お裾分け”、”お裾分けのお裾分け”で本人が思っている以上にその範囲と人数が拡大しており、毎年その人達が楽しみに待っている------そう聞かされると、その人達の”幸せ”を奪うことはできかねます。  また、酒粕は、酒そのもの以上に酒質のレベルの違いを分かり易く語って、”庶民の楽しみ”である日本酒の素晴らしさを示していると実感している以上、私には止めることができないのです。

私が、”庶民の酒飲み”や”庶民の酒粕好き”に貢献できるのは、今も続く三つの蔵との”人間関係”のおかげです。 二つの蔵は、”黄金の日々”が思い出ではなく、そのときの気持ちを持ち続けており、一つの蔵は、十分な成功を収め酒飲みの間で有名でありながら、”黄金の日々”の面影を色濃く残しています。

これは、2005年の8月に書いた、”日本酒エリアN”の最初の記事「長いブログのスタートです」の最初の部分です。冗談ではなく、本人も呆れるほど本当に”長い”のですが、”長いのに”へこたれない方は、”耐久レース”への参加をお願いいたします。

http://sakefan.blog.ocn.ne.jp/sake/2005/08/index.html

上記のような ”動機”で、新潟淡麗辛口に縁を持った私が、最初に樋木尚一郎社長にお会いしたとき、”何を”見たのか。

鶴の友について-2--NO2の冒頭の ”羊さん”の文章どうりの ”鶴の友の姿”と、情けない自分の姿でした。今ほど、”その姿”が見えていたわけではありませんが、自分の内側に ”批判の目”が向くのには十分でした。

”ノブレス・オブリージの一環”として、内野を中心とした新潟市の地元の ”庶民の酒飲みの幸せ”のために、物心両面で犠牲を払って造ってきた鶴の友を、その鶴の友を売って利益を得たいので取引して下さい------思い上がりと勘違いに気付くことなく、臆面もなく申し上げたのですから。 ”一刀両断”に切り捨てられてもしょうがなかった状況でしたが、私のあまりに低いレベルと、”極楽トンボ”と嶋悌司先生に言われた私の能天気ぶりに呆れられたのか、まるで逆の申し訳ないような対応を樋木尚一郎社長はとってくださいました。

鶴の友が、コストに合わない造りをしているのは、私も聞いていました。しかし、実際に見るのと伝聞で聞くのとは大違いなのです。 内野の駅前の土地を駐車場に無料開放していたり、敷地内の弓道場兼将棋の部屋も、近隣の”同好の士”どうしでスケジュールを調整し、自由に使わせてもらっている姿も、直接目にしました。そのことを樋木尚一郎社長にお尋ねすると、「雨が降りそうだから傘を用意した」、「雪が降りそうなので、スタッドレスタイヤを用意した」------のような自然でごくふつうのことであるかのような、淡々とした ”答”が帰ってきました。私が味わったことない ”空気”とゆったりとした ”時間の流れ方”の中で、樋木尚一郎社長の ”当たり前ではない”お話を伺っているうちに、いつのまにか私もそれが ”ふつうの話”であるかのような ”相づち”を打ち始めていました。

自分の意識上では ”封鎖”を続けていたつもりでしたが、上記のとうりの ”動機”で新潟淡麗辛口に縁を持った私ですので、それまで出会ったことのないタイプの樋木社長に、強く惹きつけられるのはある意味で必然だったかもしれません。 故郷の塩沢町に帰り就職した、学生時代の友人Nの縁で八海山に行ったことから、”新潟の酒”に入り込んだ私は、このとき ”酒を売る立場の人間”としてきわめて大きな ”分水嶺”の上に立っていることに、気がついておりませんでした。

 鶴の友について-2--NO4に続く

  


鶴の友について-2--NO2

2007-10-06 00:04:28 | 鶴の友について

  さて、鶴の友でございます。
地元に住んでおりましても鶴の友の評判は一際高うございます。
本日も内野の酒飲みは鶴の友でいい心地になっていることでございましょう。

この鶴の友、一番安いものは上白という名前で売られておりますが、
これをぬる燗にして飲むと、まあうまいことうまいこと。
香りなどに派手さはありませんが比較的味がございまして
しかししつこさはなく、しっかりした骨格を奥に感じるような
そんなお酒でございます。
是非にも燗をつけるべきでございます。

で、そんなお酒が一升1800円で手に入るということになりますと
他のお酒はいきおい買わなくなります。
実際の所は鶴の友が異常なのでありますが
恐ろしいもので鶴の友に慣れると
他の造り酒屋はどれだけ暴利をむさぼっているのか?
などと思えてくるのであります。

この樋木酒造さん、どうも造り酒屋というもの、
半公共的な性格を持つものというような考え方を
持っておられるようでありまして
詳しい事は書きませんが
世話になった人もさぞ多いでしょう。
どうやらノブレス・オブリージというもの、
この世に本当に存在していたらしい、
そう思える話があれやこれやと。
この家あって、あの酒があるのでございましょうなぁ。

http://blog.goo.ne.jp/merino_wool 鶴の友 副題 羊の基準酒 より引用

20071026_016_3 北関東の住民の私が申し上げるのも大変に”おこがましい”のですが、さすが内野育ち-----この方は本当によく鶴の友と樋木尚一郎蔵元のことをご存知です。

肩のこらない短い文章で、”鶴の友の本質”を的確に指摘しています。

「鶴の友は建物以上に中に住んでいる人間のほうが、今の世にありえない文化財だ」-----尊敬する大先輩の早福岩男さんが、かつて言われたこの言葉の”意味”の一番良い”解説”が、上記の文章です。

今の日本にはきわめて少ない”有りえない人”が造っているから、”有りえない酒”になる-----それが鶴の友という酒の持つ”凄さの本質”なのです。

鶴の友について-2--NO1の最後に書いたように、業界の人間だったかつての私は”怖くて”理解できず、その”凄さ”を”有りえない酒質”に限って”理解”しようと努力していました。  久保田が発売されたころ私は苦戦しながらも、状況が好転し始めたこともあり、先に希望を持てる状態になっていました。しかし、鶴の友について--NO6に書いた”予言”をこの時期しているのですから、”努力”は無駄だったようです。

このころ、おそまつな私もほんの少し、”新潟の酒”のことが分かるようになっていました。  日本人の食生活の変化を見通していた、嶋悌司先生の”強い信念の指導”で登場した、軽くて切れの良い、酒を造っているより酒粕を造っていると言ったほうがある意味で当たっている”新潟淡麗辛口”の姿も、10号酵母、五百万石(新潟県産の酒造好適米)、低温発酵------この”原則”は同じなのに、蔵により”差”と言うか”個性”があることも分かり始めていました。

平成3年まで私は、〆張鶴、千代の光、八海山、そして鶴の友を酒質だけではなく”それ以外”も同時に比較できる、”恵まれた立場” にありました(以下の各銘柄への感想は昭和の終わりのころまでのもので、現在とは違っています)。

軽くて切れが良く、それでいて素っ気ないと感じないぎりぎりの”まるみ”を持つ、”鋭角的”な八海山、越乃寒梅(発売2年目までの久保田もこのタイプでした)。
軽みと切れの良さを持ちながらも角がなく、バランスがとれどこも引っ込まずどこも出張っていない〆張鶴。
淡麗タイプにはまれな甘さを持ちながらも、切れの良さがそのやわらかい甘さをむしろ”魅力的”なものにしていた千代の光------おそまつで浅い知識しかない私でも、10年以上見させてもらう機会を与えてもらえば、分からないなりにその酒質を納得できていました。
しかし、鶴の友は何故あの酒質になるのか、まったく見当もつかずまったく分からずじまいでした。

樋木尚一郎社長にお尋ねしても、酒質以外の話になることが多く、またその話が大変興味深く、他の蔵と違うゆっくりした時間が流れていて、その心地よさにつつまれ酒の話を伺う前に帰る時間になってしまうが常でした。
自分なりに”勉強”もし、他の蔵にもお聞きしたのですが、「あの蔵は別格で-----」という感じのお話がほとんどで、浅い知識しかない私でも”技術的には矛盾”と思える酒質の不思議は、分からないままでした。

新潟淡麗辛口を売って酒販店として”飯が食える”ようになりたい------という”日常”を失いたくなかった私は、それ以上踏み込まないように自分の気持ちを、懸命に”封鎖”していたのかも知れません。しかし、その”封鎖”があまり成功していないことも”頭の片隅”では自覚していました。

八海山、〆張鶴、千代の光に続いて鶴の友が、私の店に並ぶ可能性がゼロであることは、最初に蔵に行ったときに、はっきりしていました。
それまで培ってきた酒販店としての”日常”を失いたくなければ、行かないのが”最善の選択”なのに、私は無理に”機会”を造ってでも、内野に行き続けました。
おそまつな私ですが、おそまつなりに何回も樋木尚一郎社長のお話を伺ううちに、自分が鶴の友の”何に”惹かれているのか、おぼろげながら見えてきました。

”何が”見えたのかは、鶴の友について-2--NO3で書きます。