日本酒エリアN(庶民の酒飲みのブログ)gooブログ版  *生酛が生�瞼と表示されます

新潟淡麗辛口の蔵の人々と”庶民の酒飲み”の間で過ごした長い年月
(昭和五十年代~現在)を書き続けているブログです。

〆張鶴について--NO1(分割再掲版3)

2014-10-22 17:27:32 | 〆張鶴について

OCNブログ人終了(11月30日まで)のためGOOブログに移行する準備
のため文字数の制限でカットされる記事を分割して再掲します。



私は何回も書いてるとうり、新潟淡麗辛口の「ブームのピーク以前」の平成三年に”日本酒の業界”を離れたため、日本酒バブルと言えた時期もそのバブルがはじけ焼酎ブームに押され続け、全アルコール飲料のシェアで焼酎の11.4%を大きく下回る7.6%にまで落ち込んだ現在に至るまで”日本酒の現場”を離れていたせいか、
「生きているタイムカプセルのように、久保田以前の昭和五十年代の”感覚”」が今も強く私には残っていて、それがかつて酒販店だった人間としても私を「ある意味で特殊な経歴を持つ、毛色の変わった人間」にしているのかも知れません。


昭和五十年代は、少なくても新潟淡麗辛口をその中心とした”地酒の蔵”と、エンドユーザーの消費者との”距離”が今よりも近く、私自身と同世代の若い層の日本酒のファンも少なくはなかったのです。
蔵と酒販店の関係も、人によりあるいは状況により”違い”があったにせよ、商売上だけのお付き合いだけではない人間対人間の”交流”があり、現在よりお互いの”距離”があまり離れていなかったように思えます。
時代が違う以上当たり前なのかも知れませんが、その昭和五十年代の視点で見ると現在の酒造・酒販の日本酒業界には、私個人は”違和感”を感じることが少なくありません。
その大きなひとつが「純米酒と生酛に対する考え方と評価」なのです。

私は昭和五十年代初めに〆張鶴 純 に出会ったのですが、その数年後には伊藤勝次杜氏の生酛を知り伊藤勝次杜氏の生酛単体での本醸造、純米の発売を強く蔵に要望することになります。
その当時は純米酒であることも生酛であることも「ステータスでは無い時代」で、純米酒そのものも現在よりはかなり少なくエンドユーザーの消費者にも知られておらず、強い”こだわり”を持つごく一部の蔵だけが造っていた純米酒しか、「飲んで美味いと思える純米酒」が無い時代だったのです。

純米酒を造ること自体はほとんどの蔵で可能だったと思われますが(実際にある程度の数量は造られていました)、酒化率が悪く高コストのため価格が高くなってしまうだけではなく、重くて、くどくて、しつこい-------ふつうに造ると”純米三悪”と言われたような”飲みにくい酒質”になりがちで、「糖類が添加されたNBの2級酒のほうがまだしも飲みやすくて美味い」と言われてしまうような状況だったのです。
その中の数少ない飲んで美味いと感じることが可能な純米も、瓶詰後の”美味さの保全”が簡単ではなく、”瓶詰め後の管理”に苦労があったのです。

〆張鶴 純 の”革新的新しさ”は、皮肉な言い方になるかも知れませんが、「純米という足を引っ張る”ハンデ”があるのに、あれだけ淡麗で綺麗な切れの良い酒を造れるのは凄い」という言葉で説明することが出来るのかも知れません。
しかも瓶詰め後の”管理”に苦労しなくてすむ”芯の強さ”も、〆張鶴 純 は併せ持っていたのです。


昭和五十年代半ばの頃と記憶しているのですが、宮尾行男専務(現社長)が珍しく苦笑を交えて、
「新規取引を希望されて蔵に来られる酒販店の方に、〆張鶴 純 は本当に純米で造っているのですか。
あの綺麗さと切れの良さは本醸造でなければ出ないと思うのですがと”質問”されたのですが、”もちろん純米です”とお答えしたのですが、私には思いがけない”質問”だったので----------」
と話してくれたことがあります。

この酒販店の方は、取引を求めて〆張鶴・宮尾酒造を訪れるくらいですから、他の蔵や他の純米酒をよくご存知だったからこその”質問”だったと、私には思えますし私にもその気持は少し分かるような気がします。
「軽快で、切れが良く、そっけないとは感じないまるみとやわらかさがあり、食べ物の味を邪魔もしないし、人間の体にも優しく酔いがさめるのも早い」-------これが新潟淡麗辛口に私が感じていたイメージなのですが、新潟の酒蔵といえどもごく一部の蔵でしか本醸造で実現していなかったイメージどうりの淡麗辛口を、その当時の一般的な”純米酒の造り”で実現させることには大きな困難があったからです。

「従来の日本酒のイメージを大きく破った淡麗辛口の、純米酒に有りがちな重さ、くどさや切れの悪さが無い純米酒らしくない純米酒」---------だからこそこの酒販店の方は、受け止めようによっては蔵元に対して失礼ではないかとも感じられる、無遠慮で素朴な”質問”をしてしまったと私には思えるのです。

誤解されると困るのであえて書いておきますが、私はこの当時も(現在もですが)新潟淡麗辛口だけが良いと思っていた訳ではありません。
もしそう思っていたなら、昭和五十年代半ばに南会津の國権や伊藤勝次杜氏の生酛の本醸造や純米酒を、苦戦しながらも売ろうと努力するはずもありません。
私が言いたいのは、昭和五十年代の新潟淡麗辛口は、エポックメーキング的存在であり酒造技術的側面においてもたとえごく一部の蔵だけであっても”最先端”を求め続けていた---------ということだけなのです。

昭和度五十年代前半に完成していた〆張鶴 純 の存在は、現在では当たり前と思える
純米酒のひとつの”基準”を造ったと、私は思っています。
その”基準”とは、平均精米歩合は60%かそれ以下の58%前後まで削り、清酒鑑評会用の出品吟醸酒の造りに準じた造りをしない限り、(淡麗辛口タイプだけではなくその他のタイプをも含めて)飲んで美味いと思える純米酒にはならない------という”基準”です。
その”基準に適合”した純米酒が、昭和五十年代後半から徐々に増え始め平成に入るとかなり多くなったのですが、残念ながら庶民の酒飲みの”晩酌で飲む酒”ではなくなり、”純米吟醸という形”で存在するようになったのです。
現在の〆張鶴 純 も純米吟醸となっています--------”純米吟醸という形”の中でもその高い酒質に比べ三千円強という価格は「きわめて安い」と思われますが、現在でも「毎日晩酌で飲めるほどの本数を確保」することのほうに大きな困難が存在しています。


昭和五十年代に比べると、現在の純米酒の”環境”は大きく変わっています。
灘、伏見のNBのみならず地方の地酒の蔵でも、「ワンカップの純米酒や紙パックの純米酒」を販売しているのは、現在は、さして珍しいことではなく普通の状況となっています。
エンドユーザーの消費者の間にも”認知度”が高くなり、日本酒(清酒)というカテゴリーの中で、今は、「半分とまではいかないが、三分の一くらいは独立した”分野”」として”純米酒という分野”が存在しているかのような印象を持つ人達が増えている---------そんな感じを私自身は持っています。

純米酒の数量が増えフィールドが拡大している事実は、純米酒という”分野の中”に酒質的にも価格的にも販売可能数量的にも、”ぴんきりの差”が拡大し”玉石混交の度合い”が拡大していることを意味していると思われるのですが、その中でどんなレベルの、どんなタイプの、どんな銘柄の純米酒を選ぶかで、「ご自分の個性や”酒に対する考え方”を表現”できる」ことがある程度可能になるほどには、”純米酒の世界”は拡大し成長してきたのではないか------とも私には思われるのです。
そうでなければ、南会津の細井信浩専務の國権のように約600石の販売石数の50%以上が純米吟醸、純米酒で占められている蔵が存在するはずもないのです。
かつてより純米酒を”愛飲”する人達が増えていることは、私自身にとっても喜ばしいことなのですが---------。

私自身が直接見聞きしたり、ネット上に公開されたブログで拝見させてもらった「純米優先主義、純米至上主義」の方々のご意見は、私自身が完全に同意することは難しくても、ひとつの「好み、あるいは考え方」としてあることは、私も十分理解できます。
しかし、純米酒を愛飲する層のごく一部には、「純米酒以外は本物の日本酒(清酒)とは言えない」--------あたかも「純米原理主義のような極端な意見」と私には思える、「好み、考え方」を持つ方もいらっしゃるようですが、この方々の意見には私自身は弱くない”違和感”を感じます。

昭和五十年代前半に比べ現在は、純米酒の販売石数が飛躍的に伸びているだけではなく、純米酒の酒質が全体としてかなり向上していることは、おそまつで能天気な私でも十分に理解できます。
しかし、「純粋、自然、本物、本来の、混ぜ物の無い------」などのあたかも”健康飲料”をイメージするような言葉で語られる”純米酒”と、「昔からの、日本酒本来の伝統を受け継ぐ、本物の酒」という表現で語られる”純米酒”には、私自身は少し”違和感と抵抗”を感じているのです。



以下の私個人の”考え”は、”屁理屈”に近いのではと私自身も感じる面があるのですが、昭和五十年代初めから純米酒を見せてもらってきた私自身の、正直な”感想”でもあるのです。


日本酒(他のアルコール飲料も同じですが)は、飲み方を誤れば身体を悪くし命を危うくする可能性もある、アルコール依存症の危険性もある、「健康食品や健康飲料そのもの」ではないと私は考えてきました。
正しい飲み方・楽しみ方をすれば、「面白くて楽しいだけではなく、『酒は百薬の長』と言われるように健康増進や健康の維持の役に立つ日本人の身体に優しい日本伝統のアルコール飲料」-------それが私が感じてきた”日本酒の姿”なのです。

「昔からの、日本酒本来の伝統を受け継ぐ」------この”昔から”の昔がどの時代までを含めているのかはよく分からないのですが、もし明治四十年以前の時代をも含むとしたら、「現在の純米酒のほとんどは『日本酒本来の伝統を”完全に”受け継いでいる』」とは言い難い面が私はあると感じています。

ごくごく一部の生酛の純米酒以外の現在の純米酒のほとんどは、速醸酛かあるいは山廃酛で造られていると思われます。
醸造試験場において、山廃酛が開発されたのが明治42年、速醸酛の開発は明治43年だったと私は記憶しています。
酛(酵母の培養液)という造りの根幹をなす部分に大きな変更が加えられている以上、明治四十年以前の生酛で造られていた純米酒と現在の純米酒がまったく同じものとは、私には思えないのです。
もし「昔の造り方を寸分違えずに受け継ぐことが”伝統の継承”」だとしたら、現在の日本酒は”伝統を継承”していないことになり、純米酒もその例外ではない-------ということになると私には思われるのです。

では、ごくごく一部の生酛の純米酒はどうでしょうか。
確かに生酛純米は、現在の日本酒の中では一番”伝統を継承”していると言えるのかも知れません。
しかし、私は酒販店を離れて以来”業界の情報”に疎くなっているためか、”家付き酵母と言われる野生酵母”で現在も造られている生酛の純米酒を私は見たことがありません。
私が昭和五十年代半ばに、酒販店としてその発売に関わった伊藤勝次杜氏の生酛の純米酒も、純粋な培養酵母である協会7号酵母を使っていたと私は記憶しています。

明治40年から市販が始まり昭和三十年代に一般的になった、野生酵母とはまったく違う純粋に培養された協会酵母の”目的”は、「酒であるが、造りに失敗し酒とは言えない状態」--------腐造の可能性の低減と、酒質の”再現性”の追及にあったと私は伺っていました。
協会酵母は”酒質の再現性と酒質の向上”に大きく寄与したと思われますが、明治40年以前には存在していないため、協会酵母を使用したとするなら、生酛の純米酒も「完全には”伝統を継承”している」とは、私には思えないのです。

私個人の個人的考えに過ぎませんが、現在の日本酒は”速醸酛、山廃酛、協会酵母”のいずれかの”恩恵”を受けている以上、純米酒であろうとなかろうと生酛であろうとなかろうと、濃淡の差が大きくあろう少なかろうと、「明治40年以前の造りを寸分違えずに受け継ぐという意味での”伝統の継承”」は行なわれていないと------屁理屈に近いと自分自身でも感じるのですが-------私にはそう思えるのです。

「伝統を受け継ぐということは、先人の ”デットコピ-”をすることではない。これでもか、これでもかと ”ぶち壊そう”としても ”ぶち壊せない”ものが伝統なんだ。伝統を受け継ぐには ”熱い気持ち”が必要なんだ。酒としていくら立派でも、博物館に入ってしまったら意味が無いんだ」-----嶋先生に伺った ”全文”はこのようなものでした。

これは、私が2005年8月に書いた「長いブログのスタートです」の博物館の項目からの引用です。
http://blog.goo.ne.jp/sakefan2005/d/20050831


私は若いころ、この嶋悌司先生(元新潟県醸造試験場長、元朝日酒造専務)の”伝統の受け継ぎ方”のお考えを直接伺って以来、この”伝統の受け継ぎ方”の信奉者でそれは今も変わっていません。
その”考え方”を、〆張鶴 純 に代表される新潟淡麗辛口、伊藤勝次杜氏の生酛、南会津の國権を昭和五十年代から平成の初めにかけて販売してゆく中で、”消化し受け止められる点”だけでもおそまつで能天気なりに”実践”していこうとしてきた私にとって、”デットコピーの伝統の継承”の考え方は”屁理屈”に近いものなのです。
その”屁理屈”に近い考え方をあえて述べたのは、現在の純米酒に対する”風潮”への批判や攻撃のためではありません。

この記事の前半に長々と書いた、知名度も低く売れない時代からの”〆張鶴 純”に対する私自身の取り組み方で、純米酒に”私なりの強い思い”があることをご理解いただけたと思います。
私は純米酒だけにしかない”面白さや楽しさ”を、私なりに承知しているつもりですが、それでも”純米酒だけにこだわる”のは『もったいないのではないか』--------そういう気持で述べさせてもらったのです。

「純米酒が好きだ」、「自分が飲みたい日本酒のNO1は純米酒だ」、「自分は、純米酒が日本酒の”本流”だと思うので純米酒をなるべく飲みたい」--------こういうご意見には、私は”違和感も抵抗”もまったく感じることはありません。
しかし、「自分は、純米酒以外は本物の日本酒(清酒)とは言えないと思うので、純米酒以外の日本酒は飲まない」---------まるで「純米原理主義」のように私には思える意見には、”違和感と抵抗”を少し感じますが、それ以上に「本当にもったいないことだ」と思ってしまうのです。

もし「純米酒以外の日本酒を飲まないとしたら」、〆張鶴ひとつをとってみても、昭和五十年代から評価の高い〆張鶴大吟醸も、(再発売は難しいと思えますが)かつて飲んだことある人間の記憶の中に今もその印象が強く残る”幻の〆張鶴”である活性生も、フレッシュな新酒段階のしぼりたて生原酒も、価格と酒質のコストパフォーマンスがきわめて高い〆張鶴・吟撰も飲めないことになり--------美味い酒に出会ったときの酒飲みの「喜びと楽しさ、そして幸せな気持」を、結果として自ら狭い範囲に”限定”することになるからです。

日本酒エリアNの中で何回も書かせていただいている、早福岩男会長と早福豊社長のお店である早福酒食品店は、新潟淡麗辛口のファンにとっては”楽園”のような酒販店ですが、同時に量がきわめて少ないため新潟清酒の中でも購入することが、一番難しいと思われる鶴の友がふつうに買える数少ない酒販店のひとつです。
私が早福さんのお店に行って、鶴の友の唯一市販されている大吟醸の上々の諸白が棚に並んでいるのを”発見”したら、財布の中身が寂しくても、買えるだけの本数を買います。
そして、「その日の大幸運を神様に感謝」します。
たとえ早福酒食品店といえども、棚に並んでいる日がほとんどない上々の諸白に次いで数量の少ない、鶴の友の特撰、純米を”発見”したら「その日の幸運を神様に感謝しながら」、たぶん私は特撰を買えるだけ買うと思われます。

鶴の友・純米は、純米吟醸に格上げされた昭和五十年代の”基準”を超えていながらも、二千円台の半ばの価格の純米酒として販売されているありがたい日本酒です。
鶴の友全体に共通する、量が少ないために手に入れ難いという”欠点”があるものの、この価格帯の純米酒としては全国でも稀有のレベルにある純米酒だと、私個人は感じています。
しかしそれでも私は、純米ではなく特撰を選ぶと思われるのです。
なぜなら上々の諸白と酒質的な差のあまり大きくない鶴の友の特撰は、8000円~10000円の標準的な市販の大吟醸と比べても、その酒質で引けを取っているとは思えない”超お買い得商品”であるだけなく、鶴の友の稀有とも言える特性が純米酒より強く本醸造の特撰(別撰も上白も本醸造です)に感じられると私には思えるからです。

電話でお話させていただく機会は少なくないのですが、早福岩男会長にも早福酒食品店にもごぶさたしている年月が長くなっているのですが、12月の早福酒食品店に行けたら私は何を買うかという”幸せな迷いの中”に浸ると思われます。

財布の中に2~3万円のお金があれば、
鶴の友は、まず上々の諸白を1本、そして特撰を1~2本、別撰1本、
〆張鶴は、純を1~2本、しぼりたて生原酒を1本、さらに吟撰を1本、
千代の光は、吟醸造り1本、しぼりたて生原酒(ふなぐち)を1本、特別本醸造を1本、
たぶん私はこの組み合わせの中から”選ぶ”と思われるのですが、想像するだけで「わくわくするような幸せな気持」になります。

この銘柄の純米酒、あの銘柄の純米吟醸、次はあっちの銘柄の純米大吟醸-------そうゆう” 横の楽しみ方”もあると思うのですが、たとえば、「いつも飲むのは上白か別撰、純米があるときには純米も飲むし、お中元、お歳暮の時期には特撰、12月には上々の諸白を絶対に飲む」--------鶴の友の市販酒のすべてを飲む”縦の楽しみ方”もあると思うのです。
私は、鶴の友、〆張鶴、千代の光の三つの蔵の市販酒の”縦のフルライン”を出来る範囲で飲んで30年以上楽しませていただいていますが、その”面白さと楽しさ”はむしろ時間が経てば経つほど深まってきたような気がします。

また時おりですが、かつて私が取り扱っていた八海山も飲ませていただき、30年前の”自分の舌が覚えている八海山”と比べて楽しませてもらったり、現在も(池田哲郎社長にはお叱りを受けると思うのですが)千代の光のしぼりたて生原酒を5~6本”0度Cという低温”で3~6年貯蔵保管しており、新酒のフレッシュさと比較して「低温で酵母が押さえ込まれ熟成のスピードが極端に遅くなったことで実現する丸みとやわらかさ」も楽しんでいます。

日本酒の”楽しみ方”は、純米酒に限りませんが飲んだ銘柄の数を追う”横の楽しみ方”だけなく”縦のフルライン”の楽しみ方もあれば、”時間を遡る”楽しみ方もあれば”時間の経過を楽しむ”楽しみ方もある--------いろいろな楽しみ方があり”間口も広ければ奥行も深い”と私個人は感じているのです。
それゆえ、まるで”純米原理主義”のように私には思える意見をお持ちの方々が、せっかく広い間口と深い奥行を持つ”日本酒の楽しみ方”を、狭い”領域”に限定していることが『もったいない』と思う気持が、私個人には強くあるのかも知れません。



この記事の冒頭に書いたとうり、私は、純米酒至上主義者でも純米酒否定論者でもありませんが、ここまで書いてきて改めて実感していることがあります。
昭和五十年代初めに〆張鶴 純 と出会い、昭和五十年代半ばに伊藤勝次杜氏の生酛の純米の誕生に酒販店の人間として立ち会えたことが、私にとってきわめて大きな幸運であり、大きな出来事であったことを改めて痛感しているのです。

ある意味で”対極”にあると言え、またある意味では”共通の部分”をも持つとも言える
〆張鶴 純 と伊藤勝次杜氏の生酛の純米の存在は、単に若いだけではなくとんでもなく”おそまつで能天気”だった私の、現在の純米酒そして日本酒についての”感じ方、考え方”への方向を示したくれた”大きな道しるべ”だったと思えるからです。
そして出会った”時期”、出会った”順番”をも考えたとき、長い時間が経過した今でも感謝せざるを得ない心境になるのです。
もし”時期そして順番”が違っていたら、純米酒、そして日本酒についての今の私自身の”感じ方、考え方”とは大きく違ったものになっていたと、現在の私はそうはっきりと”自覚”しているからです。
そして、「想像できる大きく違った”感じ方、考え方”」より、現在の私の純米酒そして日本酒についての”感じ方、考え方”のほうが私自身が”好ましい”と思えるからです-----------------。
そして、それゆえ現在も私は、〆張鶴・宮尾酒造と〆張鶴 純 に感謝の気持を持ち続けているのです------------。




〆張鶴について--NO2に続く(ただしいつになるかは私にも分かりませんが---------)

 

 


〆張鶴について--NO1(分割再掲版2)

2014-10-22 17:17:44 | 〆張鶴について

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白いレッテルが貼られ白い化粧箱に入れられていた〆張鶴 純 の”外側”は、その”中身”と高い次元でバランスしていた-------そんな思いが今でも私には強く残っています。
白い箱と白いレッテルに目立つように印刷されていた”純の字”は、故宮尾隆吉前社長がご趣味だった水彩画用の絵筆を使って書かれた-------私にはそう伺った記憶が残っています。
中身の酒質と外装が高い次元でバランスし”渾然一体”となっていた〆張鶴 純 に、私が感じたものは伝統を受け継ぎながらの「新しさ、それも革新的な新しさ」だったのです。
三十年以上の時間が経過した現在も、その中身と外装の”コンセプト”が変わっていない〆張鶴 純 がまったく”古びていない”事実が、出会った最初に感じた「革新的な新しさ」が間違いでなかったことを証明している-------私にはそう思えるのです。

”時代の風”が〆張鶴 純 にとって追い風になる------私はそう確信していたのです。
大苦戦をしていることが、北関東の地方都市のH市まではその”追い風”がまだ十分に届いていないことを証明していましたが、時間の経過が”味方”になることを私は強く意識していたのです。
また、〆張鶴・宮尾酒造の製造石数、特に全体の10%以下でしかなかった純米酒の増石には限界があることを”認識”せざるを得なかったため、”追い風”を誰もが認識できるようになる時間との”競争”で、〆張鶴 純 の”割り当て実績”を現時点の地元H市の〆張鶴 純 のファンだけではなく”将来のファンのため”にも、一本でも多く獲得しなければならないことも、私は強く意識していたのです。

全体の量が10%しか増えないとき、あるいは”悪平等”なのかも知れませんがいくら増量の要望があろうとも、昨年の実績に対して一律10%のアップしか”現実的な方法”はありません。
年間300本の実績の10%アップは30本で合計で330本、年間1000本の実績の10%アップは100本で合計1100本になります---------蔵自体が動きが取れない完全な逼迫状況になったときの年間割り当ての330本はどうしようもない本数ですが、1100本なら少ないなりに(来店されるお客様のご希望どうりには対応できないまでも)何とかすることができます。
それゆえに、なるべく早く年間1000本の”壁”を破る必要性を、私は強く感じていたのです。

私が〆張鶴・宮尾酒造と取引をさせていただいた最初の年から、下半期は月30本の割り当てになりました。
「このままの状況だと12月までで酒が1本も無くなってしまいますので---------。」というやもを得ない理由だったのですが、”追い風”が私の店に届くより前に〆張鶴 純 の逼迫が迫っていたのです。

取引を始めさせてもらってからの半年の間に、私は〆張鶴・宮尾酒造を3回訪れていました。
おそまつで能天気な私は「自分が何も知らないこと」を自覚していましたので、今思うと大変なご迷惑をおかけしたのではと反省しているのですが、初歩の初歩のようなことも含め「自分が知りたいことを」宮尾行男専務(現社長)、宮尾隆吉社長(故人)に質問し教えていだだいていました。
そして村上の帰りには必ず新潟市に回り、早福岩男早福酒食品店社長(現会長)に新潟淡麗辛口の銘柄のことだけではなく、その新潟淡麗辛口を「どのように売っていくか」-------その当時の酒販店の常識では逆立ちしても考えられなかった「町の酒屋としての生き方」も教えてもらっていたのです。

”大苦戦”の中での”下期割り当て”の知らせを聞いたとき、自分の”確信”を現実に近づけるため、(今思うと大袈裟で穴があったら入りたい心境になりますが)やれるだけやってみようと覚悟をしたのです。


以前に何回も書いていますが、私の”実家”であったN酒店は”ごく普通の酒屋”で、ご多分に漏れずビールや月桂冠に代表されるNBの日本酒を中心にそれなりに売っていました。
規模も大きくもなく小さくもない”ごく普通の酒屋”だったのですが、私で三代目という”歴史”もあり、それなりに評価されていたと思われます。
その”ごく普通の酒屋”であるN酒店の店頭の「一番良い場所」に、〆張鶴や八海山を持ち込んで並べたのは、私の反抗でもあり”私の居場所”を造るためであり、将来を見越した「酒販店として差別化」がその理由ではなかったのです。
そして〆張鶴や八海山、早福酒食品店を訪れるためによく新潟県に行ったのも、”仕事上の出張”と言うよりも「期間、場所限定の家出」と言ったほうが実態に即していました。
この「期間、場所限定の家出」は短い場合でも4~5日で長いと一週間になったのですが、
それだけ私が店に居なくても、N酒店の営業に支障がでなかった”事実”が、この時期の私の”存在の軽さ”を証明しています。

月桂冠や剣菱を買いに来て、〆張鶴や八海山の話を長い時間聞かされたお客様も”閉口された”と思われますが、ごく少数の〆張鶴や八海山を知っていてN酒店に来店されたお客様も大量の灘、伏見のNBの中に”同列に置かれている”のを見て”面食らった”と思われます。
このときの私にあったのは、たぶん、熱意とその熱意を良いほうに”誤解”してくれるきわめて少数の理解者だけだったのです。

”追い風”がまだ私の住む北関東のH市までは届いていないという”事実”は、裏を返せば、月桂冠に代表される灘、伏見のNBがブランドとしての戦闘力を保持していて、まだ売れることを意味していました。
しかし〆張鶴・宮尾酒造や早福岩男さんとの「言葉のキャッチボール」の中で、そう遠くない将来に灘、伏見のNBがブランドとしての戦闘力を失い価格競争に巻き込まれていくことを、おそまつで能天気な私でも予想できていました。

まだビールやNBの日本酒が、”普通の価格”で売れているという状況が続いているうちに、〆張鶴 純 を将来の柱にするための”最初の関門”の年間1000本の実績を全力で取りに出なければならないことを、〆張鶴・宮尾酒造の「下期割り当てのお知らせ」が、私に教えてくれたのです。


売れる本数を売っているだけでは、数年で1000本の壁を越えることは到底出来ません。
「下期割り当て」が終了した翌年の4月~9月に昨年の実績を大幅に上回る数字を、私は発注したのです。
当時は新潟淡麗辛口といえども需要の中心は冬場であり、春先から夏は不需要期になり〆張鶴・宮尾酒造の取引酒販店といえども需要が落ちるため、蔵には僅かですが余裕が生じることもあってオーダーどうりの数字ではないにせよ、出来る限り実績を超えた本数を蔵は送ってくれました。
私はその〆張鶴 純 を来店するお客様だけではなく、親戚・縁者・友人・知人を問わず事情の許す限り「試飲してもらう人の拡大」に使わせてもらったのです。

そしてまた”下期割り当て”がやってくるのですが、その冬にはまだ”実績割当”になっていなかった〆張鶴活性生、〆張鶴しぼりたて生原酒をできるだけ発注し「試飲してもらう人の拡大」に使ったのですが、季節限定ということもありまた生原酒は売れ残っても冷蔵保存(0~2度C)すればその”魅力が向上”することも手伝って、配ることは配ったのですが予想以上に反応が良く”冷蔵能力の不足”に襲われる結果となってしまったのです。

かなり以前に発売中止になり現在飲むことの出来ない〆張鶴活性生は、飲んだ人の記憶の中だけに存在する、「幻の〆張鶴」と言えるのかも知れません。
ざっくり言うと、〆張鶴活性生は、「絞る直前の醪を瓶詰め」したものです。
ほとんど、仕込み中の蔵に行かなければ飲めない醪と同じもので、発生し続ける炭酸ガスを抜くために瓶の栓の王冠に”穴”を開けて出荷されていた”要冷蔵必須品”だったのです。
高い温度に置いておくと、たとえ栓に穴が開いてようと”増大する炭酸ガスの圧力”で栓が天井にまで”吹っ飛ぶ”管理が楽ではない日本酒なのですが、その爽やかな風味には今でも忘れられない魅力がありました。
いろいろな事情があり、再発売は難しいことは私自身も承知しておりますが、私の周囲からは仕込みの時期になると必ず、「昔のように〆張の活性生を飲みたいなぁ----」との声が聞こえてきます。
「直接お会いする機会があれば超限定で、輸送もクール便で着くと同時に冷蔵庫に保管という条件で再発売していただけないかと宮尾行男社長にお願いしてみようと考えてはいるけど、その実現は難しいかも--------」と答えることしか私には出来ないのです。

その後私は、冷蔵能力増強のため、0~2度Cの温度を保持する2坪のプレハブ冷蔵庫を設置し、上半期は〆張鶴 純 を冬場は活性生やしぼりたて生原酒を蔵から送って頂けるだけ冷蔵庫に入れ続けることになるのです。
しかしそれも長くは続かなかったのです。

昭和五十年代終盤になると、〆張鶴は取り扱い全アイテムが完全な”年間割り当て”にならざるを得ないほどの”逼迫状況”に蔵は追い込まれていました。
私の店でも、大吟醸、特級、1級、2級の本醸造、純のみならず、活性生、しぼりてて生原酒をも含めた「完全な年間月別数量割り当て」の状況下にありました。
しかし昭和五十年代前半からの「売れても売れなくても実績を拡大するという”方針”」のおかげで、〆張鶴の販売数量自体は関東の他の正規取扱店と比べて極端に多くなくても、純と活性生、しぼりたて生原酒の割り当て数量が他の正規取扱店に比べてかなり多いという状況にありました。
料飲店との取引ももちろんゼロでありませんでしたが、エンドユーザーの消費者の庶民の酒飲みを中心に販売しようとしていたため、元々取引がありかつ最初の頃から取り扱っていただいた少数の料飲店以外は〆張鶴を販売していなかったたため、以前からのお客様には迷惑をかけずに済んでいましたが、きわめて強く吹き始めていた〆張鶴への”追い風”が運んでくれた「〆張鶴 純 を求めて来店される”新規のお客様”」への対応には苦慮することとなったのです。

〆張鶴 純 は高くなったその知名度と”希少な美味い純米酒であること”と、需要に対する供給量の少なさも手伝って、エンドユーザーの消費者とっては、正規取扱店段階で実感している”逼迫状況”よりもかなりひどい”逼迫状況下”」にあったと思われます。
「〆張鶴 純 は、たとえ正規取扱店であっても酒販店で”買える酒”ではなく、料飲店で”お一人様二合まで”という限定条件で飲む酒」-------残念ながら、多くの庶民の酒飲みの”実感”はこのようなものであったと思われます。
私の店に来店された”新規のお客様”も、〆張鶴 純 の名前や”その中身の美味さ”を知っていても、白いレッテルが貼られ白い箱にはいった”その外装”を見たことのない人がほとんどだったのです。

この時期、夏であっても〆張鶴は純だけでも月100本以上入荷し本醸造も含めると200本以上入荷するようになっていましたが、7~8月の夏場でも本醸造には若干の余裕はありましたが、純は苦しい状況になっていました。
夏場の入荷本数は、11月~1月の最大需要期のための”ストック”の意味合いで全量2坪の冷蔵庫で”冷蔵保管”するのが、”本来の目的”でした。
その酒造年度により違いはありましたが、毎年5%から10%の間くらいの昨年度実績に対する”プラスされた本数”はあったのですが、もともと11月~1月の実績本数は「需要に対応出来るほど多くなかった」ため夏場の実績を”冷蔵保管によってスライドさせて”補っていたのです。

しかし新潟淡麗辛口は、八海山や千代の光も含めて”冷やして飲む需要”も多く、
「冷やして飲むなら冬場も美味いが夏場もより美味い」------という声が多くなり、冷蔵保管の0~2度Cの温度が家に持ち帰っても家庭用冷蔵庫で冷やすのと同じくらい”冷えている”ことも手伝い、”ストック”が難しくなるほど売れるようになってしまったのです。
その状況下に、「〆張鶴 純 を求めて来店される”新規のお客様”」が増え始め、私はさらに苦しい局面に立たされたのです。

「酒は面白くて楽しいもの」、「酒は庶民の楽しみ」、「酒が庶民の楽しみである以上、酒を造る人間も酒を売る人間も庶民の立場に立たなければいけない」、「鶴の友は長い間お世話になっている地元の人に飲んでもらうために造っているのであって、都会や県外の人のために造っているつもりはない」---------鶴の友・樋木尚一郎社長の考え方を、”知識あるいは理屈”として理解することは難しいことではないのかも知れません。
たぶんほとんどの人は、積極的な否定はしないと思われます。
しかしそれを”知識や理屈”では無く、日常的でごく当たり前の”肌の感覚”として捉えることはきわめて難しく、鶴の友・樋木尚一郎社長の「ごく当たり前の日常」を見せていただいた私はまるで「何の準備も心構えも無く軽い気持で来てみたら、目の前にアイガー北壁があった」ような”心境”で、最小限の消極的肯定ですらおそまつで能天気な私には大変な”困難”に思えたのです。

上記は、鶴の友について-3--NO1(http://blog.goo.ne.jp/sakefan2005/d/20090902)の引用です。


この苦しい局面に立たされたとき、私は鶴の友・樋木尚一郎社長が私に教え続けてくれていた考え方を、ほんの僅かですが”肌の感覚”で捉えることが可能になり始めたのかも知れません。

「〆張鶴 純 を求めて来店される”新規のお客様”」のお住まいが”都会であればあるほど”、酒販店で普通の価格で買うことが難しい状態にある事実は、残念ながら私も十分承知しており(日本酒のファンの一人として)お気の毒だとも思っていました。
〆張鶴の看板を掲げた酒販店である以上、何とか対応したい気持も弱くはなかったのですが「売る本数より投げる本数のほうがはるかに多い」ときから支持してくれ、その支持を年を経るごとに拡大再生産してくれた、私にとって大切な地元のエンドユーザーの消費者である庶民の酒飲みのための本数を削ってまで対応することは、私にはとうてい出来ないことだったのです。

私の店の”地元のお客さん”は、昭和五十年代初めより〆張鶴 純 の販売を支えてくれたのですが、それは〆張鶴 純 が有名だったからでもなく純米酒だったからでもありません。
その時点では私の地元H市では無名に近かった、〆張鶴 純 の伝統を受け継ぎながらの”革新的な新しさ”を認め支持してくれたごく少数の同世代の人達と、私の熱意そのものを「応援し育ててやろう」と手助けをしてくれた私の周囲の兄や叔父さんにあたる世代の人達の好意的な応援があって始めて「売れても売れなくても実績を拡大する”方針”」を私は取ることができ、その私にとって本当にありがたい人達の地元における”好意的応援の拡大再生産”が私の店の「〆張鶴の逼迫状態」を造りだしてくれたのです。

この時期から〆張鶴、八海山もその酒質よりも手に入り難い希少性、言い換えれば”幻しの酒的部分”に評価の対象が移り始め、新潟淡麗辛口も、
「地に足の着いた需要から、ブームあるいはバブルと言るかも知れない、急拡大していくと予想できた”足場の弱い不安定な需要”」にその照準を合わせ始めたように、今の私には感じられます。
その象徴的な出来事が、朝日酒造の”久保田の発売”だったように私には思えます。

良いとか悪いとかではありませんが、私自身が体験してきた昭和五十年代初めからの”時代”と久保田が発売された昭和六十年以降の”時代”では、日本酒の世界の片隅にいた自分自身の”実感”では大きな違いがあるように思えます。
久保田以前(の世代)、久保田以後(の世代)という言葉を私はブログの中で何回も使わせてもらっていますが、私が新潟淡麗辛口を知ることになって僅か十年で新潟淡麗辛口は大きくその姿を変え酒造・酒販の日本酒の世界全体も大きく変化したと、私には思えてならないからです。

自分の好きなもの(あるいは商品)は時間が経っても変わることはあまりありませんが、売れるもの(商品)は時間の経過とともに変わっていきます。
昭和五十年代自分の好きなものであった新潟淡麗辛口も、昭和六十年以降は売れる商品になっていましたが、私自身もその流れに逆らわずにそれなりに”適応”していましたが、”人の縁”が原点だった私は新潟淡麗辛口を”売れる商品”としての存在だけではなく、やや大袈裟に言うと、私自身のある種の「考え方、スタンスを表現することが出来る存在」としても捉えていたように思われるのです。


〆張鶴について--NO1(分割再掲版1)

2014-10-22 17:12:17 | 〆張鶴について

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20057_011_2

おそまつで能天気な私ですが、一人の日本酒のファンとして感じ続けていることがあります。
あくまで私個人の個人的な意見に過ぎませんので、大したことがない「毛色の変わった人間の、毛色の変わった”感想”」と思っていただき、気軽に見ていただければ助かります。
ただ、相変わらず”長い作文”ですので、”お急ぎの方”はパスしていただいたほうが良いのかも知れませんが-----------。


純米酒雑感(昭和五十年代前半の〆張鶴 純 からの視点)

前回、鶴の友におじゃましたとき、樋木社長より、こんなお話を伺いました。 吟醸酒にこだわる ”マニア、あるいは酒通”の方が ”運良く”新潟市の料飲店で鶴の友の吟醸の「上々の諸白」を偶然に飲まれて(実際これは本当に運が良い)、蔵に電話してきたそうです。 「おたくの吟醸酒は本当に美味いが、私には納得できないことがある。あれほど美味いのになんで純米吟醸じゃないのですか」-----樋木さんは、丁寧な説明もしたのですがご本人は最後まで納得されなかったそうです。 私に言わせていただくとそれは、”大馬力の高価格のスポ-ツカ-”のスピ-ド違反車を捕まえるためにイギリスやイタリア、フランスが高速道路に配備しているスバル インプレッサWRX、WRX STI を普通車やミニバンの価格で出しているメーカーの世界ラリ-選手権を実際に戦うWRカーを、「なぜ、クラウンやシーマじゃないのか?」と言ってるようなものです。 ご本人も ”お気に入り”の純米吟醸と直接比較して飲めば一瞬で分かることなのですが-----。  

これは私が2005年8月に書いた「長いブログのスタートです」の一部です。
http://blog.goo.ne.jp/sakefan2005/d/20050831

かなりの冗談と笑いを含んだ様子で細井専務は、「Nさんにお叱りを受けるかもしれないが、私は純米酒が日本酒のベースだと考えていますので、私のところでは純米、純米吟醸の合計が全体の50%以上になっています」と、あからさまではないが”自負”も感じさせる口調で話してくれました。
私は苦笑しながら、「私は”純米至上主義者”ではありませんが、”純米否定論者”でもありません。純米酒を否定しているのなら30年も〆張鶴 純 を飲んでいる訳がない。
ただエンドユーザーの消費者のサイドから見て、いろいろな理由で本醸造がベースなのではないかと思っているだけです」と返答しました。

30年前と変わらない600石という数字の中で酒を造り続けていくためには、単価を上げていくのがひとつの方法であり自然な流れです。
その中で何種類かの純米、何種類かの純米吟醸、何種類かの大吟醸などを少量多品種で売り切って1本あたりの単価を上げると同時に売れ残りのリスクを低減する-------地酒として生きていこうとする小さな蔵にとって、國権に限らず多くの蔵にとって、確かに有効で効率の良い方法です。
しかしその方法は、従来からの酒のファンや酒のマニアには有効だと私も同感しますが、他のアルコール商品と”戦い”若い需要層を増やしていく”反攻”には、必ずしも有効とは言えず、総需要の拡大には繋がらないのではないのか-------という危惧も私自身は感じざるを得ないのです。

鶴の友の上々の諸白(大吟醸)、特選、純米には酒のファン・マニアからも高い評価があり、数量の少なさもあり新潟市以外の県内・県外で最も手に入りにくい新潟淡麗辛口の酒になっていますが、鶴の友の最大の価値は、二千円以下の価格であり鶴の友の中では一番下の販売価格の酒で一番数量のある上白(本醸造)が、特に日本酒のファンでもないごく普通のエンドユーザーの消費者に、飲む機会さえあれば、その美味さとコストパフォーマンスに”驚きに近い”高い評価を受けている点にあると私は思っています。
〆張鶴は鶴の友に比べやや価格が高いが、(鶴の友と比べれば販売数量が圧倒的に多いため飲める機会を得る人も桁違いに多く)鶴の友への評価と似たような評価をするエンドユーザーの人数が鶴の友より圧倒的に多いように思われます。

鶴の友・樋木酒造も、〆張鶴・宮尾酒造も”少量多品種”とは縁が無い、30年前とほとんど変わっていないシンプルな”商品構成”を守り続けています。
鶴の友も〆張鶴も、「鶴の友の何々が美味い、〆張鶴の何々が良い」ではなく、
「鶴の友だから美味い、〆張鶴だから良い」という銘柄全体への評価をエンドユーザーの消費者から受けている、と私は感じています。
そしてそれは昭和四十年代後半の、「地酒としての鶴の友はこうあるべき」という鶴の友・樋木尚一郎社長の”頑固なまでの信念”が鶴の友の酒質に反映し、「どんな状況でもこれを失ったら〆張鶴ではなくなる」------”企業”としての成長と”酒蔵であり続ける”ことのバランスを、〆張鶴・宮尾行男社長が苦心しながら常に取ってきたことが〆張鶴の酒質に反映しているからだ、と私には思えてならないのです。

これは國権について--NO4の一部です。
http://blog.goo.ne.jp/sakefan2005/d/20090404



上記のふたつの引用のとうり、私は純米酒至上主義者でもなければ純米酒否定論者でもありません。
飲んで美味いかどうかが私にとっては一番”大切”で、その美味い日本酒が純米か本醸造なのかという”区別”はあまり気にしていない-------と言ったほうが”正確”かも知れません。
私のような財布の中身に”余裕”のない庶民の酒飲みにとっては、「その酒の美味さとその酒の価格のバランス」が一番重要だからです。

現在に比べると、はるかに純米酒が少なかった昭和五十年代前半から”純米酒の状況”を見てきたせいか、単に酒化率が悪いためその価格が高くなってしまうだけではなく、造りも造った後の”酒質保全”にも気を使わなければならず、なおかつエンドユーザーの消費者に届いた段階で「保全された美味さと価格のバランス」が取れている純米酒があまり多くないという印象が、まるで”後遺症”のように私には今も少なからず残っています。
特に新潟淡麗辛口においては、この時期、本醸造で”実現できている酒質”を本醸造と大きくは変わらない価格で”実現”できている純米酒は、本当に”希少”だったのです。

この時期、酒販店としてもおそまつで能天気な私が、”発見”できたこのレベルの純米酒は、「〆張鶴 純 」だけでした。
当時の〆張鶴 純 は八海山や〆張鶴の本醸造との価格差も小さく、ナショナルブランド(NB)の月桂冠の一級酒との価格差もあまり大きなものではありませんでした。
確か2200円~2300円くらいだったように記憶しているのですが、現在とは違い当時は〆張鶴といえどもその知名度も高くなく、北関東の地方都市のH市ではその名前を知っているエンドユーザーの消費者はきわめて少なく、最初の数年は「売る本数より投げる本数のほうがはるかに多い」大苦戦の状況だったのです。

それでも私が、〆張鶴 純 の実績を拡大し続け、売ることを諦めなかったのには理由があったのです。

現在も高い評価と高い知名度を誇る〆張鶴 純 は、この昭和五十年代前半にはその酒質の根幹が完成していたと、私個人は、そう感じています。
新潟県産の酒造好適米の五百万石を中心にした米を精米歩合60%にまで削り、粕歩合が40%以上になってしまうほどの低温長期の醪で造りだされたこの純米酒は、当時の関東信越国税局や国税庁醸造試験場の清酒鑑評会用の大吟醸の造りの手法が惜しみなく投入された、純米吟醸と言うべきレベルにあった------今の時点から振り返っても私個人はそう思えるからです。

昭和五十年代前半の「完成していた〆張鶴 純 」は、現在の3500~5000円の一線級の純米吟醸や、精米歩合が50%になり「名実ともに純米吟醸になった」現在の〆張鶴 純 とも十分に戦える”水準”にあったと、今でも私個人は感じています。
まるで”綱渡り”をしているような、軽さと切れの良さがあったこの時期の八海山と同等の切れを持ちながらも、八海山には少なかったまるみと舌触りの良さそして「どこも出ていない、どこも引っ込んでいないバランスの良さ」があり、料理の邪魔もしなければ飲み飽きもしない-----------庶民の酒飲みにとってはその酒質の水準の高さに比べ価格が極めて安い、本当に有り難い日本酒だったのです。

「二十一世紀には日本酒なんてものは無くなる」------この時期の数年前の学生のころの私は本気でそう思っていました。
酒販店の三代目として育ってきた私は、他の人より子供のころから日本酒を知る機会に”恵まれて”いたため上記の”感想”を持つようになったと思われるのですが、その”感想”は主として月桂冠に代表される大手ナショナルブランド(NB)の日本酒によって”造り出された”ものでした。
何回も書いていますが、当時のNBの日本酒は今思っても「清酒風アルコール飲料」と言われかねない”かなりひどい”ものでした。
二十歳を超えてようやく酒が飲めるようになった私の同級生達は、悪いイメージしか日本酒に持っておらず、たぶん、飲みたくないアルコール飲料の”アンケート”をとったら「間違いなくトップを争える立場」にあったはずです。

これも何回も書いていますがNBの名誉のためにあえて言うと、現在のNBはその当時のNBとは”別物”と言えるほどの酒質向上を実現しています。
逆に地酒側の方が、残念ながら銘柄によっては、かつてとは”別物”になりつつあるのかと思わざるを得ないほどの酒質低下を感じる機会が少なくないのです。

酒販店に生まれ「アルコールに囲まれて」育ったにも関わらず、不埒にも〆張鶴と八海山に出会う前の私は、日本酒は”中高年の飲み物”と思い一顧だにしなかったのです。
そんな不埒なイメージを日本酒に持っていた私でしたが、〆張鶴 純 に出会ったとき、八海山の南雲浩さん(現六日町けやき苑店主)の紹介で宮尾酒造を訪れ、故宮尾隆吉前社長の紹介で早福岩男早福酒食品店社長(現会長)を訪ねることになる”流れ”の中で、「この酒なら自分の同級生に胸を張って勧められるし、彼らにも支持されるはずだ」というそれまでとは”180度違う”確信を感じたのです。



長いブログのスタートです-- 2009アップデイト版分割再掲5

2014-10-22 16:53:20 | 長いブログのスタートです

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私は自分自身のこの”ギャップと違和感”を、自分の”主観”に過ぎないが”自己規制”することなく思いつき感じるままに書いてみようと試みました---------それゆえこのシリーズのタイトルを「日本酒雑感」としたのです。
”自己規制”をしないという意味は、現実は厳しいので結果はどうなるか分かりませんが、現実の「困難の羅列」を正面から見据えながらも、”流れ”に逆らわず現役の酒販店に”復帰”する方向を本気で目指そうとする気持になった私の”主観”を、できるだけ客観性を保ちながらも今まで以上に書いてみる------ということでした。
そして私自身の”ギャップと違和感”を、自己規制することなく”主観”を書くとなれば、
今まで詳しく書くことを避けてきた、伊藤勝次杜氏の生酛について書く”必要性”が浮上してきたのですが、ある意味でそれも”自然な流れ”でした。

私本人は、この「日本酒エリアN」の中では、特定の個人や蔵に対する”直接的批判”は慎重と言えるほど避けてきたと思っています。
伊藤勝次杜氏のいた蔵に対しても、批判をするつもりは私にはありません。
しかし伊藤勝次杜氏の”生酛単体”での本醸造・純米の発売の”経緯”についての、平成三年以降まったく縁の無くなったこの蔵の”公式見解”を私は直接には知りませんが、
たぶん私の”主観”と「整合性」が欠ける部分があることは、私にも想像できていました。
しかしこの蔵にも生酛自体にも、私が直接的に関わることは無いと思っていたため、”経緯”についても詳しい説明をする必要性を私自身は感じていなかったのです。

しかし伊藤勝次杜氏のいた蔵の現在の”情報や伝わり方”やネット上で知りうる現在の生酛の”情報や感想”は、私自身が直接体験する中で感じてきたものとは大きくその”姿”を変えている-------そう私は受け止めざるを得なかったのです。
私は、現在の生酛の直接的な情報は、まったくと言って良いほど持っていません。
私は生酛で造られていることが”プラス”でなく、むしろ”マイナス要因”として受け止められていた昭和五十年代半ばに伊藤勝次杜氏の生酛に出会った”後遺症”のせいか、
「生酛で造られていること”自体”だけで価値がある」--------という”考え方”には、少し抵抗がありました。
私が知る”時代”とまったく違う「生酛の隆盛」が、もしその”考え方”に立脚し支えられたものであるなら、伊藤勝次杜氏の生酛の中でしてきた”私の仕事”はその多くが”無駄だった”ということになるからです。
そして、ある意味で現在真摯に生酛に取り組んでおられる杜氏や蔵人の皆さんには大変失礼な”私の誤解”なのですが、伊藤勝次杜氏をしても多大なご苦労と時間を要した「完成形の素晴らしい伊藤勝次杜氏の生酛」を超える生酛に、たぶん出会うことはもうないだろうと思ってもいたからでした。

日本酒雑感シリーズの中で伊藤勝次杜氏の生酛について書こう、と漠然とそう思っていましたが、違う内容を書いたつもりのNO1、NO2の続きが、”必然的”に伊藤勝次杜氏の生酛にならざるを得ない”流れ”に自然になってしまっていることに、一番驚いたのは私自身でした。
「結果的にはどうなるか分からないが、エンドユーザーの消費者の視点にも”対応”できる酒販店への”現役復帰”を目指すことを自分の中では決めた」私でも、気持の”完全な方向転換”は難しかったのですが、書いている記事のほうがその”方向転換”を促していたのです。

日本酒雑感NO3~NO8は、少なくても”私の主観”では、このようにして「書かされた」ものでした。
たぶん伊藤勝次杜氏のいた蔵の”正史”とは、かなり「整合性に欠けた」ものになっていると思われるのですが、たとえ私個人の”主観”であってもそれは私が「実際に体験した」ものである以上、極力客観性の保持に努めましたが、そう書くしかないものだったのです。

現在の”生酛の隆盛”の原点のひとつであると私には思える、伊藤勝次杜氏の生酛本醸造、生酛純米の「生酛単体での発売の”関係者”」は、蔵の内部の方々以外では、おそまつで能天気な外部の人間である私一人しか居なかったことは、たとえ蔵であっても否定できない”事実”でした。
誤解をして欲しくはないのですが、この蔵を批判するつもりは私にはありませんし、現在をも含めて”生酛そのもの”に否定的見解を持っているわけでもありません。
ただいろいろな”複雑な事情”で、その功績、貢献の大きさの割りに生前も亡くなられた後も
「正当な評価」を受けていないと私が痛感してきた伊藤勝次杜氏の、私にはごくふつうのおじいさんとしか思えなかった人の肌の温もりや息遣い、そして真摯な生酛への取り組みにいつも付随していた「自然の摂理に対する謙虚さ」---------それが一杯に詰まった伊藤勝次杜氏の
”仕事”を私に分かる範囲で書いておきたいという気持だけだったのです。
そして、もし”現役復帰”したら「このような杜氏が造る酒を売りたい」------そういう気持で書いただけなのです。

日本酒雑感NO3~NO8は記事の中にも書きましたが、伊藤勝次杜氏に対する私の”長い長い弔辞”のようなものだったかも知れません。
しかもその時期、短い期間でしたが伊藤勝次杜氏と一緒に”仕事”をした、私自身にしか書けないものでした。
蔵の方々はもっと”長いスパン”で伊藤勝次杜氏と一緒に”仕事”をしてきたため、蔵の”公式見解”が私の書いたものと違っていても、それはそれで”自然な”ことです。
しかし私の書いている「日本酒雑感」も、蔵の”公式見解”も「自分の立場から見た主観」であって「客観」ではありません。
私個人は、エンドユーザーの消費者にとっての「客観」は、いくつもの立場の「主観」を”比較検討し対照”することでしか確保されないと感じています。
それゆえ私は、自分が実際に見たり味わったり体験した範囲に限定されますが、自己規制をせずに「主観」をより今まで以上に書いていこうと思っているだけなのです。

自分自身でも呆れるだけではなく、疲れ果てるほど長々書いてきたこの記事もようやく終わりが見えてきました。
私は「日本酒雑感」のシリーズを書いていく中で、疑問というか、それを知りたいという欲求のようなものが(私自身にも具体的にはそれが何であるかよく分かっていなかったのですが)、常にあったように感じていました。
たぶんそれは通常に比べて、「主観」を知る機会の多かった酒販店としては”特殊な育ち方”と私自身の”立場の変化”の多さが造りだしてくれた「客観」と、”現役復帰”を目指す気持の「変化」が”化学反応を起こさない限り”発生”しない、疑問であり欲求であったかも知れないのです。

私が初めて早福岩男さんのお会いしたとき、あまりにも何も知らない私に”困惑”されたことは何回も書いています。
今まであまりに当たり前の私自身の体験した”事実”だったので、疑問が起きる余地はまるでなかったのですが、その時の(昭和五十年代初め)早福さんは越乃寒梅、鶴の友、〆張鶴、八海山、千代の光を取り扱っていただけではなく、「すでに町の酒屋であり、早福さん」だったのです。
その時から懇切丁寧に私に教えようとしてくれた”早福哲学”は、私自身がおそまつで能天気だったため理解するのに長い時間を必要としましたが、今の自分自身にとって”早福哲学”は自然なものであるだけでなく、日本酒を主力に売っていこうとする酒販店にとって実践できるか実践できないかは別にしても、「当たり前の常識」となっています。
しかしその時から十年も遡らない昭和四十年代前半には、新潟県でも大手ナショナルブランド(NB)が圧倒的強さを誇り、新潟清酒は片隅に置かれ、新潟市の一流料亭で開かれた新潟県酒造組合の宴会にさえ新潟の酒が出てこなかった、という笑えない話があった--------と
嶋悌司先生が「酒を語る」の中に書いておられるような”状況”だったのです。

私は、嶋悌次司先生の「酒を語る」のこのページを読んだとき、「私が知りたかったことが何であったか」のを、ようやく”知る”ことができたのです。

海軍の話に例えて見ると、私が早福さんとお会いしたときの僅か7~8年前までは、新潟県も
「大艦巨砲主義」の真っ只中にあり、有力な戦艦を持つ灘、伏見の戦艦群を中心とするNB連合艦隊に”圧倒”され、”新潟県の海域”のある部分だけしか守れない”戦力”しか新潟清酒には無い”状況”だったのです。
しかし私が新潟に最初に行ったときには、新潟清酒はごく一部の蔵だけであったとしても、
後に「大艦巨砲主義」を淘汰することになる、現代の常識である「航空優先主義」に切り替わっており、搭載した16インチや18インチの巨砲をその”戦闘力”とするのではなく空母に搭載した航空機をその最大の”戦闘力”とする空母機動部隊を、まだ規模が小さかったが実際に運用し”新潟県の海域”だけではなく巨大な主戦場である”首都圏の海域”で、「戦果」を挙げ始めていたのです。
そしてそのときすでに早福さんは、新潟県に存在する五つの航空基地(酒蔵)から送られてくる高性能の艦載機(新潟淡麗辛口)を運用する巨大なプラットフォームを持つ原子力空母のような存在だったのです。

なぜこのような”転換”を新潟清酒は短期間で果たすことができたのか?
もちろん嶋悌司先生と当時の新潟県醸造試験場の淡麗辛口への「強力な働きかけ」と、淡麗辛口において”先行”していた「故石本省吾二代目蔵元の越乃寒梅」の存在抜きには、
新潟淡麗辛口の”成功”は語れません。
しかし私自身は、さらに、”酒販店の立場”で見ても一人の”エンドユーザーの消費者の立場”で見ても、早福岩男さんと早福酒食品店の”存在”がなかったら、新潟淡麗辛口の”これほどの成功”は難しかったのではないかと思われます。

それほど早福さんの存在は大きかったため、私だけに限らないと思われますが、私は「盲点、もしくは錯覚の中」に入り込んでしまったのです。

私が早福さんに初めて会ったときの僅か7~8年前まで、新潟清酒は嶋悌司先生が書かれたような”惨状の中”にありました。
その7~8年前の早福さん(私が会う以前の早福さん----以後IZ早福さんと書きます)も当然ながら、私の知る早福さんではなく灘、伏見のNBの攻勢に苦しむIZ早福だったはずです。
上記の”環境、あるいは情勢”に恵まれたとしても、7~8年でIZ早福さんが早福さんになるのは、限りなく”奇跡”に近い「普通ではないこと」なのに、私は見逃してしまったのです。
その7~8年間にIZ早福さんが”何をしたのか”は、当然ながら、私も知識としては知っていました。
「当時の新潟県に107あった酒蔵全部に行ったのか、それはすげーなぁ。新潟県醸造試験場に通って嶋悌司先生と知り合ったのか、それも凄いことだなぁ」--------と思っただけで”終って”しまい、その”凄さ”の本当の意味も分からず、ましてや肌の感覚でその”凄さ”を実感するなど当時の私にはまったく”不可能”だったのです。

私自身も、新潟県の(たぶんですが)20前後の蔵を直接訪ねています。
昭和五十年前半には、新潟県の一部の蔵では、他県の酒販店が訪ねてくるのは一般的ではないにしろ、さほど”珍しい”ことではなくなっていました。
私自身も、取引を求めての場合のほうが多かったのですが、八海山から千代の光への移動の途中に”勉強”のため数回寄らせてもらった雪中梅のようなケースも少なくなかったのです。
まだのんびりした”時代”だったせいか、突然訪ねていっても無理に取引をお願いしないかぎりは、雪中梅の丸山蔵元も(今考えると大変申し訳なかったのですが)親切な対応をしてくださったのです。
けして”卑下”でも”謙遜”でもないのですが、おそまつで能天気な私は「自分が何も分からない」を自覚していたため、その結果としてどの蔵に行っても「教えを請う謙虚な姿勢」にならざるを得なかったため、一度も”嫌な思い”をしたことがありませんでした。
しかしもし私が違う”態度”だったら、この時期の新潟でも、数年後私が伊藤勝次杜氏の生酛単体の発売を強く要望したときのような、「蔵の厳しい反応」を受けたと思われるのです。

早福さんの百分の一のスケールで、(時代の風潮も含め)百倍やり易い状況で、一万分の一以下の結果しか出せなかった(伊藤勝次杜氏の生酛やI専務の蔵に取り組んだ)私は、107のすべての蔵を訪ねたIZ早福さんの行動の凄さも、少なくても私の一万倍の成果を発揮することになるIZ早福さんの「蔵への働きかけ」の凄さも、ようやく今になって実感できるようになり、気の遠くなるような心境なのです。
たぶんIZ早福さんの「蔵への働きかけ」は、蔵から「厳しい反応や反発、慇懃無礼や慇懃無しの無礼、無視」------初期ほど厳しいリアクションをよんだと思われるのですが、蔵の反応の”根底”には、「酒造りの素人の酒販店に、酒造りの何が分かる」という気持があったと思われます。
そのことがあったため、(もちろんIZ早福さんに好意的で協力的な蔵も少なくなかったと私にも想像できますが)、IZ早福さんを”酒の勉強”へ向かわせた気持は尋常なものではなかったと思われるのです。

話として早福さんから聞くと、”酒の勉強”のため新潟県醸造試験場に通っているうちに嶋悌司先生と親しくなったということはごくふつうのように思えてしまいますが、実際にはとうていふつうでは有りえない”話”です。
そもそも、酒販店が酒の勉強のため醸造試験場に通うということ自体がふつうではないし、
後に新潟清酒を一変させる”原動力”になる、気鋭の研究者であり技術者であった嶋悌司先生と知り合い親しくなることは絶対にふつうでは有りえないことです。
嶋悌司先生の”厳しい目”で見ても、IZ早福さんの酒に対する”打ち込み方”は、竹刀ではなく真剣を振るっている---------そのように見えていなければ不可能なことだったと、そのおそまつさ加減と能天気振りを”極楽とんぼ”とかつて嶋悌司先生に評された私は、今はそう痛感せざるを得ないのです。

嶋悌司先生の「酒を語る」のあるページを見たことが、「盲点、あるいは錯覚の中」から抜け出るきっかけになったことを、艦船に例えて言うと、
日本酒業界にいたときの私に見えていた”早福さんの凄さ”は、船団護衛用の小型駆逐艦の艦橋からの視界と装備するレーダーの捜索範囲に限定されたものだったのです。
しかし平成三年に日本酒業界を離れ、良くも悪くも色々な「日本酒業界外」での経験を積み上げる”長い時間の中”で、かつての自分の”体験”を客観的に見れるようになっていく中で”現役復帰”を目指す気持になっていくことは、自分が知らないうちに小型駆逐艦にSH-60Bクラスの哨戒ヘリが搭載され、自分が分からないうちにその発艦準備をしていたような”作業”だったのかも知れません。
そしてその哨戒ヘリが発艦して上空に舞い上がったとき(嶋悌司先生の「酒を語る」を見たとき)、突然私の視界とレーダーの捜索範囲が大幅に拡大し、海上から見える原子力空母とは違う”本当の姿”を垣間見ることできた-------ということだったように思えるのです。

私は、”現役復帰”を目指す気持の中で、漠然とですが「今後日本酒を主力として売っていく酒販店はどうすべきか、どうあるべきか。自分はどうすべきか、どうあるべきか-------」を考え続けてきたことが、たぶん、この「日本酒エリアN」を書くことそのものだったような気がしています。
おそらく”そんな気持”が無ければ、ここまで書き続けることはできなかった------そう思えるのです。
そしてようやく「その解答」が、私が初めて会った、五枚の看板を掲げ成功した早福酒食品店店主の早福さんではなく、私が会うことができなかった昭和四十年代半ばのIZ早福さんの中にあることに気づいたのです。

私だけではなく大勢の人達が知識として知ってはいるが、肌の感覚としてはほとんど実感できていない、早福酒食品店を早福酒食品店たらしめたIZ早福さんの”動機”は何だったのか?
私には想像も出来ない「数々の困難や挫折の危機」に遭遇しながら、潰れること無く乗り越えられたのは何故なのか?
そしてそれを支えたのは何であったのか?
私は、原子力空母の早福さんではなく、自分の存在する”海域”で苦戦しながらも将来を見据えた”戦い”をしていた大型駆逐艦のIZ早福さんの中に、私の求める”答え”があることを確信したのです。
そしてIZ早福さんの成功につながる部分を勉強し、IZ早福さんの成功への道の過程の裏側にあった「忍耐や失敗、不本意な結果」はさらによく勉強し、小さい自分の器量の限度一杯までそれを学び自分なりに実際の行動に移す--------その中にしか私の求める「解答」はないのと思えるのです。

亡くなられた伊藤勝次杜氏には、残念ながら、聞きたいこと知りたいことが私の中にまだ残っていても、直接尋ねることはできません。
しかしIZ早福さんのことは、直接早福さんご自身に尋ねることができるし〆張鶴の宮尾行男社長にも鶴の友の樋木尚一郎社長にも伺うことができます。
それゆえ私は、今年はどうしても新潟に行きたいのです。
そしてお忙しい早福さんや、宮尾社長、樋木社長には大変申し訳ないのですが、久しぶりにじっくりとお話を伺いたいと強く希望しているのです。

私は今、早福さんにお聞きしたいことが、本当に数多くあります。
そして、日本酒にとって昭和五十年代よりはるかに厳しい環境の現在であっても、「日本酒は面白くて楽しい」ものであることには変わりはない、とも思っています。
その気持を持ち続けながら”酒販店に現役復帰”しようと考えたとき、IZ早福さんに学ぶべきことで私がまだ学んでいないことが数多く残っている-------今の私はそう痛感しているのです。

この長いブログのスタートです--2009アップデイト版は、ようやく書き終えてみると、私自身が知りえた範囲内に限定されているという意味での、(早福さんやその周囲の方にお叱りを受けそうですが)、「私的 早福岩男論」とも言えるようなものになっているような気もします。
酒販店として「特殊な育ち方」をし、自分自身の選択で日本酒業界を離れる「選択」をした私が今”現役復帰”を目指している-------その皮肉さに私自身も”苦笑”を禁じ得ないのですが、
そうゆう「経歴」を経なければ実感できることのなかった、IZ早福さんが何も無い原野を切り開きIZ早福さんしか造れなかった「町の酒屋」への道を、何も分からず何も知らない状態でも歩かせてもらえたことに、本当に感謝の気持を感じています。
その道があったからこそ、長い間道草を眺めて立ち止まっていても道から離れることが出来ずにいた私にも、「もう少し先へ歩いてみるか」-------そう思えば実際に再び歩き始めることができる可能性が、まだかなり多く残されているのですから--------------。



長いブログのスタートです-- 2009アップデイト版分割再掲4

2014-10-22 16:49:52 | 長いブログのスタートです

OCNブログ人終了(11月30日まで)のためGOOブログに移行する準備
のため文字数の制限でカットされる記事を分割して再掲します。




私にはお金も無く店も無く、あるのは私個人の信用だけです。
そんな私が本気で”現役復帰”を目指せば、「困難の羅列」になってしまうのは目に見えています。
その「困難の羅列」を避ける一番良い方法は、不完全燃焼という”副作用”は生じますが、
日本酒業界から離れることです。
I専務の蔵に関わったことで私は「ボランティア活動」の限界と、「日本酒を売るのを仕事にするには避けて通れない”困難の羅列”」を同時に味わったのかも知れません。
しかし「困難の羅列」を忌避したいがための”方針”は、”流れ”に逆行していたため崩れるのも”時間の問題”だったのかも知れません。

H君の”事件”は私と國権との関係にも影響を与えてくれたのです。
七年振りに会津田島を訪れて細井信浩専務にお会いし、國権についてNO1~NO2を書いたのですが、この時期には「日本酒から離れるという”方針”」は消えて無くなり、”流れ”に逆らわない「従来の姿勢」に私自身も戻っていたように思われます。

日本酒雑感のシリーズを書き始めたころには、当初の予想より大きく変化し影響も想像以上だった”H君の事件”も結末を迎えようとしていました。
この”H君の事件”は、結果的には私自身にも大きな変化を与えてくれました。
意図的に狭い範囲にしようとしていた、私自身の「日本酒業界の足場」はかなり広がり、この7~8年関係が薄くなっていた”昔の仲間”との接触の機会も大幅に増えていました。
その中で、現在の酒造・酒販の日本酒業界の状況のレクチャーも受けたのですが、
私の感じていた”実感”と業界の人間の”常識”の間のギャップの大きさに、私はある種の弱くはない”違和感”を感じていました。

”ギャップ”の大きさの原因のひとつは、酒販店の人間としては「特殊な育ち方」をしてきた私の”経歴”にあるかも知れません。

H君や大黒正宗について--NO1に書かせてもらった尼崎の山本酒店・山本正和さん、
二十年の付き合いがある牛久市の松蔵屋酒店・石田英雄君など一線級の人達も、新潟淡麗辛口で言うと「久保田以降の世代」に属し、私のように「草分けの世代ではないが〆張鶴や八海山を主力にした久保田以前の世代」は現役の酒販店の中にはかなり少なくなっています。
この世代の主力の人達は、私より一回り(十二歳)以上の年齢の人がほとんどで、訃報を聞いたり現役を引退されたと聞くことが少なくない年齢になっているのです。
私は大学を出てすぐの二十歳代の初めに〆張鶴、八海山に”出会って”しまったため、
「久保田以前の世代」に属しながらも、実は「久保田以降の世代」の主力の人達と十歳以下の”一桁の年齢の差”しかないのですが、「久保田以降の世代」にとって話で聞かされるか比較的最近の”歴史”として語られる出来事が、私にとっては自分自身が実際に体験してきた”生々しい出来事”なのです。

私は平成になってすぐに、北関東の県の県庁所在地であるM市のホテルで結婚式をしたのですが、(私が晩婚だったこともありますが)主賓の挨拶は嶋悌司先生にしていただき、故宮尾隆吉〆張鶴前社長、八海山の南雲二郎さん(現八海山社長)、千代の光・池田哲郎常務(現社長)、國権・細井泠一専務(現社長)の皆様に出席していただけたのも、私が「久保田以前の世代」であり、おそまつで能天気であったにせよ新潟淡麗辛口を十年以上売ろうとしてきた”キャリア”のおかげだったのです。

私が出会ったころの〆張鶴や八海山は、”成功の兆し”は十分に有り関東を中心に知られ始めていましたが、現在ほどの成功は蔵自身も”想像”はできていない------そんな時期でした。
しかしそれゆえ蔵と酒販店の間には”ある種の仲間意識”に近い気持があり、現在よりはるかに「人間対人間」の関係が成立していました。
おそまつで能天気であっても、たぶん、その当時の酒販店の中で”最年少”だった私はそんな「関係」の恩恵を一番多く受けてきたのではないかと思うのです。
今振り返ると「穴があったら入りたい」心境になるのですが、その当時の私の”最大の武器”は「自分は何も知らず、何も分からない」ことであり、「自分に都合良く”解釈”できるレベルの自分さえ無い」-------それゆえ「Nは本当にあれで大丈夫なのか?」と〆張鶴、八海山、千代の光の蔵の皆さんに”ご心配”いただき、早福さんには「噛んで含めるようなアドバイス」を辛抱強くしていただき、ついには取引関係の無い鶴の友・樋木尚一郎社長にまで”心配がゆえのアドバイス”をしていただくようになってしまったのです。

そういう比較的”濃密な人間関係”で育ってきた私は、まるで逆の、ある意味では潔いはっきりした”ビジネスライクな人間関係”が幅をきかしている、現在の日本酒業界の姿を嫌でも知ることになったのです。
かつて私はこんな”笑い話”を、早福岩男さんから聞いたことがあります。
「自分自身が、たとえ無名であってもその銘柄を売ろうと思ったら、”投げながら”売っていかなければ売れるものではない」
早福さんの店を訪れた、新潟県外の都会の若手の酒販店の人間にこのような”アドバイスをしたところ、
「早福さん質問があります。何本ぐらい投げれば何本ぐらい売れるのですか?」との質問が返ってきた-------そういう”笑い話”です。
「さすがに俺も参って、すぐには何も言葉が出てこなかった」-------愉快そうに笑う早福さんと同じように私も大笑いしたのですが、そのときの私は単に”笑い話”としか受け止めてはいませんでしたが、今の私には少しですが、早福さんの”笑いの底にあった苦さ”が分かります。

言っている早福さんは、ご自分が実践してきた”考え方”あるいは”姿勢”の問題を聞くほうが分かりやすい形に”変換”して言っているのに、聞くほうは”考え方”や”姿勢”の入り込む余地がまるで無い、ビジネスライクな”費用対効率”の問題としか受け止めていない-------そういう図式の苦さが内在した”笑い話”だったからです。

酒販店の人間としては「特殊な育ち方」をしてきた私が、現在の私自身の立場であるエンドユーザーの消費者の一人としての”視点”から見たとき、今の日本酒業界の”常識”について
小さくない”ギャップ”や弱くはない”違和感”を感じたのは、上記の理由からだったのです。