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のため文字数の制限でカットされる記事を分割して再掲します。
私は何回も書いてるとうり、新潟淡麗辛口の「ブームのピーク以前」の平成三年に”日本酒の業界”を離れたため、日本酒バブルと言えた時期もそのバブルがはじけ焼酎ブームに押され続け、全アルコール飲料のシェアで焼酎の11.4%を大きく下回る7.6%にまで落ち込んだ現在に至るまで”日本酒の現場”を離れていたせいか、
「生きているタイムカプセルのように、久保田以前の昭和五十年代の”感覚”」が今も強く私には残っていて、それがかつて酒販店だった人間としても私を「ある意味で特殊な経歴を持つ、毛色の変わった人間」にしているのかも知れません。
昭和五十年代は、少なくても新潟淡麗辛口をその中心とした”地酒の蔵”と、エンドユーザーの消費者との”距離”が今よりも近く、私自身と同世代の若い層の日本酒のファンも少なくはなかったのです。
蔵と酒販店の関係も、人によりあるいは状況により”違い”があったにせよ、商売上だけのお付き合いだけではない人間対人間の”交流”があり、現在よりお互いの”距離”があまり離れていなかったように思えます。
時代が違う以上当たり前なのかも知れませんが、その昭和五十年代の視点で見ると現在の酒造・酒販の日本酒業界には、私個人は”違和感”を感じることが少なくありません。
その大きなひとつが「純米酒と生酛に対する考え方と評価」なのです。
私は昭和五十年代初めに〆張鶴 純 に出会ったのですが、その数年後には伊藤勝次杜氏の生酛を知り伊藤勝次杜氏の生酛単体での本醸造、純米の発売を強く蔵に要望することになります。
その当時は純米酒であることも生酛であることも「ステータスでは無い時代」で、純米酒そのものも現在よりはかなり少なくエンドユーザーの消費者にも知られておらず、強い”こだわり”を持つごく一部の蔵だけが造っていた純米酒しか、「飲んで美味いと思える純米酒」が無い時代だったのです。
純米酒を造ること自体はほとんどの蔵で可能だったと思われますが(実際にある程度の数量は造られていました)、酒化率が悪く高コストのため価格が高くなってしまうだけではなく、重くて、くどくて、しつこい-------ふつうに造ると”純米三悪”と言われたような”飲みにくい酒質”になりがちで、「糖類が添加されたNBの2級酒のほうがまだしも飲みやすくて美味い」と言われてしまうような状況だったのです。
その中の数少ない飲んで美味いと感じることが可能な純米も、瓶詰後の”美味さの保全”が簡単ではなく、”瓶詰め後の管理”に苦労があったのです。
〆張鶴 純 の”革新的新しさ”は、皮肉な言い方になるかも知れませんが、「純米という足を引っ張る”ハンデ”があるのに、あれだけ淡麗で綺麗な切れの良い酒を造れるのは凄い」という言葉で説明することが出来るのかも知れません。
しかも瓶詰め後の”管理”に苦労しなくてすむ”芯の強さ”も、〆張鶴 純 は併せ持っていたのです。
昭和五十年代半ばの頃と記憶しているのですが、宮尾行男専務(現社長)が珍しく苦笑を交えて、
「新規取引を希望されて蔵に来られる酒販店の方に、〆張鶴 純 は本当に純米で造っているのですか。
あの綺麗さと切れの良さは本醸造でなければ出ないと思うのですがと”質問”されたのですが、”もちろん純米です”とお答えしたのですが、私には思いがけない”質問”だったので----------」
と話してくれたことがあります。
この酒販店の方は、取引を求めて〆張鶴・宮尾酒造を訪れるくらいですから、他の蔵や他の純米酒をよくご存知だったからこその”質問”だったと、私には思えますし私にもその気持は少し分かるような気がします。
「軽快で、切れが良く、そっけないとは感じないまるみとやわらかさがあり、食べ物の味を邪魔もしないし、人間の体にも優しく酔いがさめるのも早い」-------これが新潟淡麗辛口に私が感じていたイメージなのですが、新潟の酒蔵といえどもごく一部の蔵でしか本醸造で実現していなかったイメージどうりの淡麗辛口を、その当時の一般的な”純米酒の造り”で実現させることには大きな困難があったからです。
「従来の日本酒のイメージを大きく破った淡麗辛口の、純米酒に有りがちな重さ、くどさや切れの悪さが無い純米酒らしくない純米酒」---------だからこそこの酒販店の方は、受け止めようによっては蔵元に対して失礼ではないかとも感じられる、無遠慮で素朴な”質問”をしてしまったと私には思えるのです。
誤解されると困るのであえて書いておきますが、私はこの当時も(現在もですが)新潟淡麗辛口だけが良いと思っていた訳ではありません。
もしそう思っていたなら、昭和五十年代半ばに南会津の國権や伊藤勝次杜氏の生酛の本醸造や純米酒を、苦戦しながらも売ろうと努力するはずもありません。
私が言いたいのは、昭和五十年代の新潟淡麗辛口は、エポックメーキング的存在であり酒造技術的側面においてもたとえごく一部の蔵だけであっても”最先端”を求め続けていた---------ということだけなのです。
昭和度五十年代前半に完成していた〆張鶴 純 の存在は、現在では当たり前と思える
純米酒のひとつの”基準”を造ったと、私は思っています。
その”基準”とは、平均精米歩合は60%かそれ以下の58%前後まで削り、清酒鑑評会用の出品吟醸酒の造りに準じた造りをしない限り、(淡麗辛口タイプだけではなくその他のタイプをも含めて)飲んで美味いと思える純米酒にはならない------という”基準”です。
その”基準に適合”した純米酒が、昭和五十年代後半から徐々に増え始め平成に入るとかなり多くなったのですが、残念ながら庶民の酒飲みの”晩酌で飲む酒”ではなくなり、”純米吟醸という形”で存在するようになったのです。
現在の〆張鶴 純 も純米吟醸となっています--------”純米吟醸という形”の中でもその高い酒質に比べ三千円強という価格は「きわめて安い」と思われますが、現在でも「毎日晩酌で飲めるほどの本数を確保」することのほうに大きな困難が存在しています。
昭和五十年代に比べると、現在の純米酒の”環境”は大きく変わっています。
灘、伏見のNBのみならず地方の地酒の蔵でも、「ワンカップの純米酒や紙パックの純米酒」を販売しているのは、現在は、さして珍しいことではなく普通の状況となっています。
エンドユーザーの消費者の間にも”認知度”が高くなり、日本酒(清酒)というカテゴリーの中で、今は、「半分とまではいかないが、三分の一くらいは独立した”分野”」として”純米酒という分野”が存在しているかのような印象を持つ人達が増えている---------そんな感じを私自身は持っています。
純米酒の数量が増えフィールドが拡大している事実は、純米酒という”分野の中”に酒質的にも価格的にも販売可能数量的にも、”ぴんきりの差”が拡大し”玉石混交の度合い”が拡大していることを意味していると思われるのですが、その中でどんなレベルの、どんなタイプの、どんな銘柄の純米酒を選ぶかで、「ご自分の個性や”酒に対する考え方”を表現”できる」ことがある程度可能になるほどには、”純米酒の世界”は拡大し成長してきたのではないか------とも私には思われるのです。
そうでなければ、南会津の細井信浩専務の國権のように約600石の販売石数の50%以上が純米吟醸、純米酒で占められている蔵が存在するはずもないのです。
かつてより純米酒を”愛飲”する人達が増えていることは、私自身にとっても喜ばしいことなのですが---------。
私自身が直接見聞きしたり、ネット上に公開されたブログで拝見させてもらった「純米優先主義、純米至上主義」の方々のご意見は、私自身が完全に同意することは難しくても、ひとつの「好み、あるいは考え方」としてあることは、私も十分理解できます。
しかし、純米酒を愛飲する層のごく一部には、「純米酒以外は本物の日本酒(清酒)とは言えない」--------あたかも「純米原理主義のような極端な意見」と私には思える、「好み、考え方」を持つ方もいらっしゃるようですが、この方々の意見には私自身は弱くない”違和感”を感じます。
昭和五十年代前半に比べ現在は、純米酒の販売石数が飛躍的に伸びているだけではなく、純米酒の酒質が全体としてかなり向上していることは、おそまつで能天気な私でも十分に理解できます。
しかし、「純粋、自然、本物、本来の、混ぜ物の無い------」などのあたかも”健康飲料”をイメージするような言葉で語られる”純米酒”と、「昔からの、日本酒本来の伝統を受け継ぐ、本物の酒」という表現で語られる”純米酒”には、私自身は少し”違和感と抵抗”を感じているのです。
以下の私個人の”考え”は、”屁理屈”に近いのではと私自身も感じる面があるのですが、昭和五十年代初めから純米酒を見せてもらってきた私自身の、正直な”感想”でもあるのです。
日本酒(他のアルコール飲料も同じですが)は、飲み方を誤れば身体を悪くし命を危うくする可能性もある、アルコール依存症の危険性もある、「健康食品や健康飲料そのもの」ではないと私は考えてきました。
正しい飲み方・楽しみ方をすれば、「面白くて楽しいだけではなく、『酒は百薬の長』と言われるように健康増進や健康の維持の役に立つ日本人の身体に優しい日本伝統のアルコール飲料」-------それが私が感じてきた”日本酒の姿”なのです。
「昔からの、日本酒本来の伝統を受け継ぐ」------この”昔から”の昔がどの時代までを含めているのかはよく分からないのですが、もし明治四十年以前の時代をも含むとしたら、「現在の純米酒のほとんどは『日本酒本来の伝統を”完全に”受け継いでいる』」とは言い難い面が私はあると感じています。
ごくごく一部の生酛の純米酒以外の現在の純米酒のほとんどは、速醸酛かあるいは山廃酛で造られていると思われます。
醸造試験場において、山廃酛が開発されたのが明治42年、速醸酛の開発は明治43年だったと私は記憶しています。
酛(酵母の培養液)という造りの根幹をなす部分に大きな変更が加えられている以上、明治四十年以前の生酛で造られていた純米酒と現在の純米酒がまったく同じものとは、私には思えないのです。
もし「昔の造り方を寸分違えずに受け継ぐことが”伝統の継承”」だとしたら、現在の日本酒は”伝統を継承”していないことになり、純米酒もその例外ではない-------ということになると私には思われるのです。
では、ごくごく一部の生酛の純米酒はどうでしょうか。
確かに生酛純米は、現在の日本酒の中では一番”伝統を継承”していると言えるのかも知れません。
しかし、私は酒販店を離れて以来”業界の情報”に疎くなっているためか、”家付き酵母と言われる野生酵母”で現在も造られている生酛の純米酒を私は見たことがありません。
私が昭和五十年代半ばに、酒販店としてその発売に関わった伊藤勝次杜氏の生酛の純米酒も、純粋な培養酵母である協会7号酵母を使っていたと私は記憶しています。
明治40年から市販が始まり昭和三十年代に一般的になった、野生酵母とはまったく違う純粋に培養された協会酵母の”目的”は、「酒であるが、造りに失敗し酒とは言えない状態」--------腐造の可能性の低減と、酒質の”再現性”の追及にあったと私は伺っていました。
協会酵母は”酒質の再現性と酒質の向上”に大きく寄与したと思われますが、明治40年以前には存在していないため、協会酵母を使用したとするなら、生酛の純米酒も「完全には”伝統を継承”している」とは、私には思えないのです。
私個人の個人的考えに過ぎませんが、現在の日本酒は”速醸酛、山廃酛、協会酵母”のいずれかの”恩恵”を受けている以上、純米酒であろうとなかろうと生酛であろうとなかろうと、濃淡の差が大きくあろう少なかろうと、「明治40年以前の造りを寸分違えずに受け継ぐという意味での”伝統の継承”」は行なわれていないと------屁理屈に近いと自分自身でも感じるのですが-------私にはそう思えるのです。
「伝統を受け継ぐということは、先人の ”デットコピ-”をすることではない。これでもか、これでもかと ”ぶち壊そう”としても ”ぶち壊せない”ものが伝統なんだ。伝統を受け継ぐには ”熱い気持ち”が必要なんだ。酒としていくら立派でも、博物館に入ってしまったら意味が無いんだ」-----嶋先生に伺った ”全文”はこのようなものでした。
これは、私が2005年8月に書いた「長いブログのスタートです」の博物館の項目からの引用です。
(http://blog.goo.ne.jp/sakefan2005/d/20050831)
私は若いころ、この嶋悌司先生(元新潟県醸造試験場長、元朝日酒造専務)の”伝統の受け継ぎ方”のお考えを直接伺って以来、この”伝統の受け継ぎ方”の信奉者でそれは今も変わっていません。
その”考え方”を、〆張鶴 純 に代表される新潟淡麗辛口、伊藤勝次杜氏の生酛、南会津の國権を昭和五十年代から平成の初めにかけて販売してゆく中で、”消化し受け止められる点”だけでもおそまつで能天気なりに”実践”していこうとしてきた私にとって、”デットコピーの伝統の継承”の考え方は”屁理屈”に近いものなのです。
その”屁理屈”に近い考え方をあえて述べたのは、現在の純米酒に対する”風潮”への批判や攻撃のためではありません。
この記事の前半に長々と書いた、知名度も低く売れない時代からの”〆張鶴 純”に対する私自身の取り組み方で、純米酒に”私なりの強い思い”があることをご理解いただけたと思います。
私は純米酒だけにしかない”面白さや楽しさ”を、私なりに承知しているつもりですが、それでも”純米酒だけにこだわる”のは『もったいないのではないか』--------そういう気持で述べさせてもらったのです。
「純米酒が好きだ」、「自分が飲みたい日本酒のNO1は純米酒だ」、「自分は、純米酒が日本酒の”本流”だと思うので純米酒をなるべく飲みたい」--------こういうご意見には、私は”違和感も抵抗”もまったく感じることはありません。
しかし、「自分は、純米酒以外は本物の日本酒(清酒)とは言えないと思うので、純米酒以外の日本酒は飲まない」---------まるで「純米原理主義」のように私には思える意見には、”違和感と抵抗”を少し感じますが、それ以上に「本当にもったいないことだ」と思ってしまうのです。
もし「純米酒以外の日本酒を飲まないとしたら」、〆張鶴ひとつをとってみても、昭和五十年代から評価の高い〆張鶴大吟醸も、(再発売は難しいと思えますが)かつて飲んだことある人間の記憶の中に今もその印象が強く残る”幻の〆張鶴”である活性生も、フレッシュな新酒段階のしぼりたて生原酒も、価格と酒質のコストパフォーマンスがきわめて高い〆張鶴・吟撰も飲めないことになり--------美味い酒に出会ったときの酒飲みの「喜びと楽しさ、そして幸せな気持」を、結果として自ら狭い範囲に”限定”することになるからです。
日本酒エリアNの中で何回も書かせていただいている、早福岩男会長と早福豊社長のお店である早福酒食品店は、新潟淡麗辛口のファンにとっては”楽園”のような酒販店ですが、同時に量がきわめて少ないため新潟清酒の中でも購入することが、一番難しいと思われる鶴の友がふつうに買える数少ない酒販店のひとつです。
私が早福さんのお店に行って、鶴の友の唯一市販されている大吟醸の上々の諸白が棚に並んでいるのを”発見”したら、財布の中身が寂しくても、買えるだけの本数を買います。
そして、「その日の大幸運を神様に感謝」します。
たとえ早福酒食品店といえども、棚に並んでいる日がほとんどない上々の諸白に次いで数量の少ない、鶴の友の特撰、純米を”発見”したら「その日の幸運を神様に感謝しながら」、たぶん私は特撰を買えるだけ買うと思われます。
鶴の友・純米は、純米吟醸に格上げされた昭和五十年代の”基準”を超えていながらも、二千円台の半ばの価格の純米酒として販売されているありがたい日本酒です。
鶴の友全体に共通する、量が少ないために手に入れ難いという”欠点”があるものの、この価格帯の純米酒としては全国でも稀有のレベルにある純米酒だと、私個人は感じています。
しかしそれでも私は、純米ではなく特撰を選ぶと思われるのです。
なぜなら上々の諸白と酒質的な差のあまり大きくない鶴の友の特撰は、8000円~10000円の標準的な市販の大吟醸と比べても、その酒質で引けを取っているとは思えない”超お買い得商品”であるだけなく、鶴の友の稀有とも言える特性が純米酒より強く本醸造の特撰(別撰も上白も本醸造です)に感じられると私には思えるからです。
電話でお話させていただく機会は少なくないのですが、早福岩男会長にも早福酒食品店にもごぶさたしている年月が長くなっているのですが、12月の早福酒食品店に行けたら私は何を買うかという”幸せな迷いの中”に浸ると思われます。
財布の中に2~3万円のお金があれば、
鶴の友は、まず上々の諸白を1本、そして特撰を1~2本、別撰1本、
〆張鶴は、純を1~2本、しぼりたて生原酒を1本、さらに吟撰を1本、
千代の光は、吟醸造り1本、しぼりたて生原酒(ふなぐち)を1本、特別本醸造を1本、
たぶん私はこの組み合わせの中から”選ぶ”と思われるのですが、想像するだけで「わくわくするような幸せな気持」になります。
この銘柄の純米酒、あの銘柄の純米吟醸、次はあっちの銘柄の純米大吟醸-------そうゆう” 横の楽しみ方”もあると思うのですが、たとえば、「いつも飲むのは上白か別撰、純米があるときには純米も飲むし、お中元、お歳暮の時期には特撰、12月には上々の諸白を絶対に飲む」--------鶴の友の市販酒のすべてを飲む”縦の楽しみ方”もあると思うのです。
私は、鶴の友、〆張鶴、千代の光の三つの蔵の市販酒の”縦のフルライン”を出来る範囲で飲んで30年以上楽しませていただいていますが、その”面白さと楽しさ”はむしろ時間が経てば経つほど深まってきたような気がします。
また時おりですが、かつて私が取り扱っていた八海山も飲ませていただき、30年前の”自分の舌が覚えている八海山”と比べて楽しませてもらったり、現在も(池田哲郎社長にはお叱りを受けると思うのですが)千代の光のしぼりたて生原酒を5~6本”0度Cという低温”で3~6年貯蔵保管しており、新酒のフレッシュさと比較して「低温で酵母が押さえ込まれ熟成のスピードが極端に遅くなったことで実現する丸みとやわらかさ」も楽しんでいます。
日本酒の”楽しみ方”は、純米酒に限りませんが飲んだ銘柄の数を追う”横の楽しみ方”だけなく”縦のフルライン”の楽しみ方もあれば、”時間を遡る”楽しみ方もあれば”時間の経過を楽しむ”楽しみ方もある--------いろいろな楽しみ方があり”間口も広ければ奥行も深い”と私個人は感じているのです。
それゆえ、まるで”純米原理主義”のように私には思える意見をお持ちの方々が、せっかく広い間口と深い奥行を持つ”日本酒の楽しみ方”を、狭い”領域”に限定していることが『もったいない』と思う気持が、私個人には強くあるのかも知れません。
この記事の冒頭に書いたとうり、私は、純米酒至上主義者でも純米酒否定論者でもありませんが、ここまで書いてきて改めて実感していることがあります。
昭和五十年代初めに〆張鶴 純 と出会い、昭和五十年代半ばに伊藤勝次杜氏の生酛の純米の誕生に酒販店の人間として立ち会えたことが、私にとってきわめて大きな幸運であり、大きな出来事であったことを改めて痛感しているのです。
ある意味で”対極”にあると言え、またある意味では”共通の部分”をも持つとも言える
〆張鶴 純 と伊藤勝次杜氏の生酛の純米の存在は、単に若いだけではなくとんでもなく”おそまつで能天気”だった私の、現在の純米酒そして日本酒についての”感じ方、考え方”への方向を示したくれた”大きな道しるべ”だったと思えるからです。
そして出会った”時期”、出会った”順番”をも考えたとき、長い時間が経過した今でも感謝せざるを得ない心境になるのです。
もし”時期そして順番”が違っていたら、純米酒、そして日本酒についての今の私自身の”感じ方、考え方”とは大きく違ったものになっていたと、現在の私はそうはっきりと”自覚”しているからです。
そして、「想像できる大きく違った”感じ方、考え方”」より、現在の私の純米酒そして日本酒についての”感じ方、考え方”のほうが私自身が”好ましい”と思えるからです-----------------。
そして、それゆえ現在も私は、〆張鶴・宮尾酒造と〆張鶴 純 に感謝の気持を持ち続けているのです------------。
〆張鶴について--NO2に続く(ただしいつになるかは私にも分かりませんが---------)