地元のA酒店のA君に「ブログさぼり過ぎじゃないですか」との指摘をうけましたので、2012年第一弾を短め(私にしてはですが----)に書いていきたいと思います。
家に帰っても子供のいない 生活にもようやく慣れて、私自身にも家族にとっても“激動の昨年”を振り返りながら、新年を迎えることが出来ました。
大学に合格した翌日が東日本大震災だった息子も、授業以上に忙しいサークル活動に激動の一年の最後の12月31日にまで追いまくられ、元日の夜に“疲れた”様子で帰ってきましたが、息子にとっては“激動で忙しくあっても”充実した一年だったのかも知れません。
息子が所属するサークルの混声合唱団は一部のOB・OGその他の方々も動員した総勢117人で全力投入したビックイベントの“年末合唱”として、NHKホールで開催された第62回紅白歌合戦で北島三郎さんの“帰えろかな”と最後の蛍の光にバックコーラスとして参加しました。
「人は人の間でしか”磨かれない”」------私が若いころ誰かに言われた言葉なのですが、今思うと当たっていたように感じています。
「磨いてくれる砥石やヤスリの差が原石の”運命”を左右する」と言い換えても過言ではないとも思われるのです。振り返って見ると、おそまつで能天気な”質の悪い原石”の私も磨いてくれる人に恵まれたおかげで、ありがたいことに現在の自分があります。
八海山の南雲浩さん、富所さん、宮尾行男社長、故宮尾隆吉前社長、早福岩男会長、嶋悌司先生、池田哲郎社長、樋木尚一郎社長、そして新潟淡麗辛口と故伊藤勝次杜氏の生酛------素晴らしく”高性能の砥石やヤスリ”のおかげで、おそまつで能天気な私も何とか格好のつく水準に磨いていただいたことには感謝の気持しかありません。
子供のころから家業である酒販店を継ぐことを嫌ってきた私ですが、今私がそれを無くしたら私ではなくなると思う部分のほとんどは、(地元の人も含みます)日本酒に関わる人のおかげで造られたものです。
三十歳代半ばでその実家の酒販店を出た私は、そのときまだ生まれてなかった息子が大学生になった今、童話の”青い鳥”ではないですが皮肉なことに、目指すべき納得できるものが”家業の酒販店の中”に存在していたと痛感しているのです。
そしてブランクをも含めた”私の日本酒の世界でのキャリア”が日本酒には関心の無い、縁が無いエンドユーザーの消費者が日本酒のファンになってもらうことにほんの少しは貢献できるのでは--------早福岩男会長や鶴の友・樋木尚一郎社長が強い意思で造り上げた”結界”と比べると、かなりレベルも低くスケールも桁違いに小さいですが、私なりの「変わらない部分」を大切にした”結界”を造れるのではないかとも今は感じているのです--------------------。
上記は、鶴の友について-3--NO7の最後の部分の引用です。
息子の入学した大学は、“私なりの理由”があって私が息子が中学生のころから勧めてきたのですが、ありがたいことに、私の想像以上に「今の息子は磨いてくれる高性能の砥石やヤスリに恵まれている」ような気がします。
高性能の砥石やヤスリで“磨がれる”ことはありがたい反面(若ければ若いほど)辛いことでもありますが、そのことの貴重さと本当の価値は年を重ねるごとに肌の感覚で分かってくるように私には思えます。
息子もこれからの“人によって磨かれる年月”を、今の私のように、ある種の恥ずかしさの混じった懐かしさとありがたかったという感謝の気持とともに思い出す日がいつか訪れるとも思えるのです-------------------。
何回も書いていますが、昭和五十年代初めに私が偶然(あるいは本人の意に反した想定外の流れで)入り込んでしまった”新潟淡麗辛口の結界”は、今思うと本当に最先端でありその幸運に感謝するしかないほど恵まれたものだったのですが、当時の本人の感覚では「単に不本意であるだけでなく逃げ出したいほど辛く大変な面」も多かったのです。
当面の問題ですら解決はおろか“問題そのもの”をよく理解できていない状況にもかかわらず次から次に出現する問題に、おそまつで能天気を自覚していたにもかかわらず、真正面から対処せざるを得なかったのはまるで「軽トラックで高速道路を走る」ようなもので常に“過大な負荷”がかかっていたのですから逃げ出さなったことが、今思っても不思議でならないのです。
辛く大変であることは十分に分かっていながら逃げ出せなかったのは、それが私にとって“自然な流れ”だったからではないかと、今は思えるのです。
冒頭の指摘を受けたA君も現役の酒販店を離れ他の業種で働かざるを得ない数年を送ってきました。
郡山市のH酒店のH君も酒販店として厳しい負荷のかかった5~6年を過ごしてきました。
その“負荷のかかった年月”が、自分でも知らないうちに、少しずつではあっても自分自身の“あらゆる筋肉”を鍛え(本人の自覚が無くても)、周囲の人達には違って見えるようになるのです。
A君もH君も、皮肉なことにここ5~6年の苦しみが、自覚があろうとなかろうと大きく自分自身を成長させているのです。
そして日本酒の業界を離れた、あるいは離れようとしたとき「目には映っていたが“見えてなかった”捨てがたい日本酒の世界の本当の魅力に気がつく」のです---------------。
ではA君やH君に見えた「日本酒の世界の本当の魅力」とはどんなものでしょうか?
私に見えている光景を書かせていただくと、「人間と人間の信頼関係が造りだす他では得がたい関係」----------現在では希少なものになってしまった日本人が長く受け継いできた“DNAに刷り込まれた人とのかかわり方”が日本酒の世界には色濃く残っている光景なのです。
実は日本酒ほど、“手を抜かずきちんと造る”と、非常にめんどくさいと言えるほど大変な手間隙がかかるアルコール飲料はないのです。
日本酒は突き詰めていくと“究極の職人芸の世界”だし、理解されることが少ない“芸術の世界”だし、江戸時代に確立し改良を加え続けられてきた“伝統芸の世界”でもあるのですが、“タイムカプセル”という言葉が一番的確かも知れないのです--------------。
私個人は、もちろん多くの改良・改善が加え続けられてきたことは十分に承知しておりますが、現在の酒造りも江戸時代に確立した“範囲”を超えていないと感じております。
むしろ酒蔵という“存在そのもの”も含め、日本酒の造りからは私達が直接知ることの出来ない江戸時代の“時代の息吹や酒造りの職人(蔵人)の息づかい”が、たとえかすかであっても感じ取れることが、日本酒の最大の魅力であり面白さでもあり一番楽しいことでもある-----------私にはそう感じられてならないのです。
日本酒を知れば知るほど器や和食の世界に興味が自然にわいてくるよになります。
日本酒もその一部である受け継いできた“食文化”にも興味が生じるのは、ある意味で自然で当然なことですが、日本酒の面白さと楽しさを深く知ることによって“獲得した感覚”によって「敷居も高くないしスノッブでもない“親しみやすく身近で面白くて楽しい食文化の姿”」が見えてくるようになる----------私個人はそう感じています。
そして“見えてきた姿”によって私は、「学校で習ったのとは違い江戸時代は日本人にとって過ごしやすく充実した良い時代」ではなかったのかと感じるようなっています-------------なぜなら日本酒に限らず皮肉なことに、日本でよりも外国人によって高く評価される「他に類を見ない“日本固有の文化”」は江戸時代に確立したものがほとんどだと私個人には思えるからです。
以前にも何回も書いていると思われますが、きわめて長い時間がかかりましたが私が上記のように感じるようになったのは、鶴の友・樋木酒造という酒蔵と樋木尚一郎社長のおかげなのです。
そして現代の私達に「江戸時代の息吹や人々の息遣い」をまるでタイムカプセルのようにある種の“実感”をもって感じさせてくれる、鶴の友・樋木酒造という酒蔵と樋木尚一郎社長の“存在の貴重さ”を、私は改めて痛感せざるを得ないのです------------------。
鶴の友について-3--NO9に続く