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新潟淡麗辛口の蔵の人々と”庶民の酒飲み”の間で過ごした長い年月
(昭和五十年代~現在)を書き続けているブログです。

鶴の友について-4--NO4-2

2015-02-15 01:28:48 | 鶴の友について



〆張鶴・宮尾酒造を酒や酒蔵を私なりに判断する“基準”とするようにいつの間にかなっていったのですが、その“基準”が酒販店としての私の生き方を決定づけることになったのです-----------なぜそうであったかを今私が思い出せる範囲で以下に書いていきます(過去に何回も書いていることですが-----)。




私にとって私なりに酒や酒蔵を見ることは、何も分からない“素人”が書画骨董を見ことに似ていたかも知れません。
その書画骨董が“本物”であった場合も“素人”にはいつも見ているものによく似ている別の書画骨董を見ても『本物であるか偽物であるかの区別』はつきませんし分かりません。
いつも見ている書画骨董と比べて『何かが違うという”違和感”』の程度の大小と、『自分自身がその書画骨董が好ましいか好ましくないか』が分かるだけです。
新潟淡麗辛口のトップランナーだった〆張鶴・宮尾酒造が、酒や酒蔵を私なりに判断する“基準”になってしまった私は、結果として「違和感が小さく好ましい酒や酒蔵を見つけるという“楽ではなく狭い道”」を歩むことになってしまったのです。
〆張鶴・宮尾酒造が造り出す日本酒と同等の価格で、個性や魅力は違っても酒質レベルにおいて同じ水準にあり前進をし続ける意志のある酒や蔵を探すのは、昭和五十年代前半でも、きわめて難しい作業にならざるを得なかったのです。

最初の時期、私が扱っていたのは〆張鶴と八海山でした。
昭和五十年代前半の八海山は現在とは明らかに違う、嶋悌司先生(元新潟県醸造試験場長)の強い指導のもと、高浜春男杜氏を中心に淡麗辛口のトップランナーを本気で目指していた蔵でしたが酒質の安定感、トップランナーとして現状に満足せず前進をし続ける“姿勢”は〆張鶴・宮尾酒造のほうが上回っていた印象が記憶に残っていますし、南雲浩さんが強く村上に行くことを勧めてくれたのもそれが“大きな理由”であったことも今の私には理解できます-----------今振り返ると私は新潟淡麗辛口と出会った最初の時点で八海山・八海醸造との比較の中で〆張鶴・宮尾酒造を“基準”に選んでいた-----------改めてそう思えるのです。
千代の光、南会津の國権、伊藤勝次杜氏の生もとと取引をさせて頂き、昭和の終わりの“嶋悌司先生の最後の仕事”である久保田(朝日酒造)が私にとって“最後の取引銘柄”になったのですが
〆張鶴・宮尾酒造が(蔵との直接取引をも含めて)“私自身の基準”だったため平成になっても私の店の銘柄は六つしかなかったのです。
六つという少ない銘柄だったため一銘柄あたりの販売数量が比較的多く、蔵とのコミニュケーションも良くとれていたと思われます。
この売り方を私が選んだのは大先輩の早福岩男・早福酒食品店会長の影響と〆張鶴・宮尾酒造を私なりの判断の基準にしたことの影響が大きかった-------今振り返るとそう痛感します。



〆張鶴・宮尾酒造は三十数年前から酒質向上のため蔵元が必要だと判断した設備投資を出来る範囲で着実にし続けてきました。
農閑期の“出稼ぎ”に頼った杜氏や蔵人による酒造りは将来限界を迎えることは、宮尾行男会長は早い段階で“予想”されていたし設備投資と同じように『酒を造り続けるための投資』にも早い時期から着実に手を打っていた--------私個人はそう思います。
〆張鶴・宮尾酒造にそれが出来たのはもちろん宮尾行男会長の“先を見据えた強い意志”が大きかったのですが、嶋悌司先生もその設立に関わられた新潟清酒学校(新潟県酒造組合の教育機関)が昭和五十九年に設立されたことで“実現への最初の一歩”を踏み出すことが可能になったのです。

新潟清酒学校のような教育機関を持つ酒造組合は新潟県にしかなく醸造試験場を持つ県は新潟県しかありません-------“環境に恵まれていた”からこそ宮尾行男会長が望まれた『社内の人間で三十年後も造り続けられる体制』を実現出来たと思われますが、環境に恵まれていたことは他の新潟の蔵も同じですが、〆張鶴・宮尾酒造ほど将来も含め“安定した造りの体制”を確立した蔵は無いと思われます。
〆張鶴・宮尾酒造はきれいでやわらかいその酒質のように穏やかで真面目な蔵だと私個人は感じてきましたが同時にその根底には梃子でも動かない”頑固さ”があるとも感じてもきました。
〆張鶴はきれいでやわらかい酒質ですがそのきれいさとやわらかさの奥にはきわめて強固なものが存在し支えています。
宮尾行男会長は本当に真面目で穏やかな方ですが、『それを失ったら〆張鶴ではないという根幹を守る』ことにおいてはきわめて“頑固な方”だとも私は感じてきました。
〆張鶴・純の根底にある種の強固な部分が昭和五十年代初めから現在に至るまで「〆張鶴・純の美味さは変わらない」というエンドユーザーの消費者の評価につながっている-------三十数年前も今も根幹が守られ維持され続けているゆえに〆張鶴・宮尾酒造は昔も今も私にとっては“基準の蔵”なのです----------。

業界を離れて四半世紀になりますが、ありがたいことに、今も宮尾行男会長とは人間関係が続いています。
年間数回FAXで(忙しい方なので)近況や“感想”などを送らせていただいておりますが、ときおり宮尾行男会長からもFAXを頂戴します。
嶋悌司先生の唯一の著書である『酒を語る』が出版されたときもいち早くご連絡をいただくなどありがたいお付き合いをさせていただいております。
昨年の暮れには久しぶりにFAXを頂戴したのですが、〆張鶴・宮尾酒造そして宮尾行男会長とのご縁が私自身にとっていかに幸運であったかを改めて実感しています。



上記の画像は二年前に(本当に久しぶりに)〆張鶴・宮尾酒造に行かせていただいたときに撮らしていただいた瓶詰めラインに隣接した冷蔵倉庫です。
内部は温度の違いで二つに区切られていて、より低温の奥のスペースにはレッテルの貼られていない酒が保存されていました-------そしてその中には『販売を予定していない酒』も大切に保管されていると私個人は想像しています。
昭和五十年代初めより〆張鶴・純という素晴らしい酒質の純米酒(現在は純米吟醸)を造り続けてきた〆張鶴・宮尾酒造が、純米大吟醸を造っていないことを不思議に思われる方も少なくないと思われますが、私個人はそのことが『新潟淡麗辛口という“規格の基準”』の〆張鶴・宮尾酒造の凄さの一面を物語るものだと感じてきました。

〆張鶴・宮尾酒造はかなり以前から純米大吟醸を造ってきた-------これについてはそのほうが自然だったということには私個人は確信があります。
ではなぜ発売されていないのか?

昭和五十年代前半の〆張鶴・純は、純米酒として、他の純米酒を圧倒するレベルにありました。
純米酒そのものがまだまだ少ない時代でしたが、同じ価格帯ではもちろんのこともっと上の価格帯の純米酒でも〆張鶴・純の水準に達していたものはあまりなかったと記憶しています。
三千円台前半(税込み)の価格で純米吟醸になった現在の〆張鶴・純のレベルも当然ながら高く、価格が2倍以上の純米大吟醸でも(好みの差がありますので一概にはいえませんが酒質のレベルでは)〆張鶴・純より酒質が明らかに上と言えるものはあまり多くないように私個人には思えます。
〆張鶴・宮尾酒造にとって、純は昔も今も〆張鶴を代表する酒ですがもし〆張鶴・純米大吟醸が発売されるとすると〆張鶴・大吟醸(金ラベル)と同じかそれ以上の価格にならざるを得ません---------つまり〆張鶴・純の3倍前後の価格になってしまうのです。
私はかなり以前から〆張鶴純米大吟醸は“試験的”に造られてきたと思っていますし、他の蔵の純米大吟醸の平均的な水準は越えているとも予想していますが〆張鶴・純の3倍の価格にならざるを得ない訳ですから要求される“水準”は、造る側にとっても飲む側から見てもきわめて高いであろうことは容易に想像できます。
純米大吟醸は毎年試験的に造られていると思われるのですが、〆張鶴・宮尾酒造そして宮尾行男会長の“発売する基準”に達していないため単体での発売が見送られ続けている-----私にはそう思えてならないのです。
純米大吟醸は他の蔵なら“良心的な純米大吟醸”として十分な評価を受けていると思われますが、純米吟醸の純を圧倒する『大の字が加わる〆張鶴・純米大吟醸のレッテルを貼る』にはまだやるべきことがある-------ある意味でそのような対応が『新潟淡麗辛口という“規格の基準”』の〆張鶴・宮尾酒造の“凄さ”を体現しているのかも知れないと私個人には強く感じられるのです。




私の中では〆張鶴・宮尾酒造は“規格の基準”と言うべき存在なのですが、では鶴の友・樋木酒造はどう言うべきなのでしょうか?

『規格外の凄さ』-------鶴の友・樋木酒造を語るのにはこの言葉以外にないと私には思えます。
もし私が“規格の基準”である〆張鶴・宮尾酒造を知らなかったら、たぶん、鶴の友・樋木酒造の『規格外の凄さ』に気づくことは不可能だったと思われます。
“規格の基準”であった〆張鶴・宮尾酒造を”肌の感覚”で知っていたからこそ鶴の友・樋木酒造の『規格外の凄さ』を、お粗末で能天気な私でも感じることが可能だったのだろうと思われるのです。
今振り返ると、当時の私がはたしてどこまで鶴の友・樋木酒造の『規格外の凄さの本質』を分かっていたのか自分のことながらかなり“疑わしい”のですが、“受けた衝撃の大きさ”は昨日のことのように記憶に残っています。

鶴の友・樋木酒造の存在は昭和五十年代前半に早福岩男・早福酒食品店会長のおかげで私自身も承知していました。
鶴の友という酒の凄さはお粗末で能天気な私にも十分に理解出来たのですが、“新潟市の地酒”に徹し県外はおろか新潟市近辺以外の新潟県内すら取扱店がないという事実と早福岩男会長や他の蔵元に聞かされた“鶴の友の逸話”に恐れをなし、早福酒食品店から三十分以内で行ける内野にある鶴の友・樋木酒造に容易に近づけなかったのです。
しかし不思議なことに私の故郷である北関東のH市には何故か新潟県の蔵元や嶋悌司先生や早福岩男会長の縁につながる方が住んでおられ、ありがたいことに、鶴の友・樋木酒造もその例外ではなかったのです。
偶然がいくつも重って“縁”を造ってくれたおかげで、昭和五十年代後半私は初めて鶴の友・樋木酒造を訪ねることになります。
三十年数年前のそのときを今から振り返ると、鶴の友・樋木尚一郎社長との現在のありがたい関係を造ってくれた“縁”に、いくら感謝しても感謝し足りないのかも知れません。

鶴の友・樋木酒造は元々取扱店だった地元以外の酒販店とは取引しない頑固な蔵元として知られており、それ以外の酒販店が取引を求めて訪れると、“容赦ない言葉”で断られると私もいろんな人から聞かされていました。
私自身も“容赦ない言葉”で取引は断られたのですが、それは上から目線の強圧的な態度ではなくなぜ新規取引が出来ないかをお粗末で能天気な私にも理解出来る説明でもあり、その当時ですら「減ることはあっても増えることはない」と言われている蔵に「地元に売っている分を減らして私に売らせて下さいという私の“身勝手さ”」を指摘されたものでもあったのです。
〆張鶴や八海山を売らせて貰って数年が経過し二十回以上新潟に来ていたその当時の私は、いくらお粗末で能天気でも鶴の友・樋木尚一郎社長の“説明と指摘”が自分にとって不都合であっても正しいと受け止められる水準にかろうじて届いていたように思われます------。
午後にお邪魔したのですが夕食をご馳走になり“夜食”もいただき、昨年で閉館した弓道場兼将棋道場に泊まらせてもらい翌日の午前中まで樋木尚一郎社長の『優しい姿勢の容赦ない言葉』を聞かせていただいていました。
“縁”があったからかも知れませんが、よくよく考えてみると、前日の午後から翌日の午前中まで『容赦ない言葉による説明と指摘』をし続けていただいたのは通常では有り得ない“親切”だったのではないか------そして簡単には聞き流せないことではないのかと強く感じたことを今でもよく覚えています。

当時の私は後に嶋悌司先生に『極楽トンボ』と言われるようなお粗末で能天気な人間で、私自身もそのことは自覚していました。
自覚していたからこそ造られる現場と造っている人を知らなければ何も分からない-------そう痛感して蔵を訪ねる経験を重ねてきたのです。
私にとって何も知らないことはむしろ“武器”と言えました--------何も知らないから誰にでも素直に知らないことを聞くことが出来たからです。
たぶんこの時も樋木尚一郎社長に、自分自身が分からないこと・理解出来ないことを素直に質問をしたと記憶してますし、それゆえに蔵にいた時間が長くなったとも思われます。
樋木尚一郎社長には、「売上を上げたい、販売量を増やしたい」という気持ちはまったくと言っていいほどありませんでした。
他の新潟淡麗辛口の蔵が販売量を拡大し続けていた時期ですら『鶴の友は減ることはあっても増えることはないという“事実”』がそのことを一番良く証明しています。
樋木尚一郎社長にとっては売上や販売量は執着の対象ではなく“違うものを大切に思っていた”ため、欲に捕らわれず冷静でなおかつ酒造・酒販の業界全体を俯瞰した“視点”で見られている------おぼろげながらもそう感じざるを得なかった私は、樋木尚一郎社長の“視点”からはどのように見えているのかをより知りたくて、新潟市を訪れたときには必ず内野の樋木酒造に行かせていただくようになったのです。

当時私達に見えていた景色は、一階の高窓から見た庭の景色のようなものでした。
美しく花が咲き誇る魅力的な光景でしたが、奥の生垣に視野を遮られその先の風景はまるで見えていなかったことが今はよく分かります。
鶴の友・樋木社長は、例えて言うと、私達とは違い三階のベランダから見ていたため、同じ風景を見てもまるで違った景色が見えていたのです。
高い位置から見ると、美しく花が咲き誇る庭も足元に雑草が蔓延っている様や裏側の汚れや枯れている様も見て取れると同時に、一階の高窓からは奥の生垣に遮られて見えない『そう遠くない将来に生垣の中にも訪れるであろう“外の荒廃”』も(鶴の友・樋木尚一郎社長の目には)はっきりと見えていたのだろうと思われるのです。
鶴の友・樋木尚一郎社長の、周囲(私も含まれます)の人達や蔵を訪れた酒販店の方達に対する『容赦ない言葉による説明と指摘』は、一階の高窓からしか庭の景色を見ようとしない人達に発した『親切心が根底にある“警告”』だったのですが、ほとんどの方は『容赦ない言葉と指摘の裏側にあった樋木尚一郎社長の“真意”』を受け止め切れなかったように記憶しています。
(私自身も平成三年に酒販店から離れ“業界外の人間”になっていなかったら、樋木尚一郎社長の“真意”は理解出来なかったと思われます)
昭和五十年代後半から“警告”を聞き続けてきた私には、現在の酒造・酒販業界の“風景”は鶴の友・樋木尚一郎社長の“警告が実体化したもの”としか思えないのです-----------。

 

この記事の冒頭で“規格の基準”である〆張鶴の造り方の方向と体制の“凄さ”を述べました。
では“規格外”の鶴の友・樋木酒造の造り方の方向と体制の“凄さ”はどのようなものなのでしょうか?

鶴の友は平成14年(平成14BY)まで風間前杜氏を含めた平均80歳の“超高齢軍団”が造りの中心に居ましたが、この年度の造りの終盤にある出来事があり、杜氏も含めたこの“超高齢軍団”が全員引退することになってしまったのです。
(樋口現杜氏も中越の蔵から鶴の友に唯一の若手として移籍して1~2年たったころでまだ三十歳前後のころです)
このとき鶴の友・樋木尚一郎社長は、“超高齢軍団”の引退とともに鶴の友の造りを終了されるつもりでした。
ある出来事がおきた直後に私が内野の蔵を訪ねたとき、その決意はきわめて固かったとの印象が強く残っています。
いつか鶴の友が飲めなくなる日が来ることは分かっていたはずなのに、その事態に直面したとき私はただ呆然とするだけでしたが、同時に何とか造りの継続を樋木社長に懇願している自分を発見していました。
樋木尚一郎社長と樋木家の方々にとって造りを止めたほうが絶対に良いことは十分に承知していたのですが、それでも私は鶴の友が無くなるという事態を受け止め切れなかったのです。

酒の神様が我々鶴の友のファンの願いを叶えていただけたのか、平成15年の初夏に鶴の友の造りが平成15BYも続くという朗報が内野の蔵から私にももたらされました。
樋口宗由現杜氏を中心に若手五人で(風間前杜氏と超高齢軍団が支えてきた)鶴の友の造りを受け継いでいくという嬉しい内容のご連絡だったのですが、それは大きな喜びときわめて大きな驚きが背中合わせの知らせだったのです----------それは“規格外”の鶴の友・樋木酒造以外では、樋木尚一郎社長以外では決断出来なかった(今でもこの決断は本当に凄いと思っています)驚きの『造り方の方向と体制』だったのです-----------。




この記事も長くなってしまいましたので、鶴の友・樋木酒造の驚きの『規格外の造り方の方向と体制』についての具体的な説明は、(次に書く予定の)鶴の友について-4--NO4-3でしたいと思います。