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新潟淡麗辛口の蔵の人々と”庶民の酒飲み”の間で過ごした長い年月
(昭和五十年代~現在)を書き続けているブログです。

國権について--NO1

2008-05-28 15:39:56 | 國権について

2008512_001 ”冬眠”から目覚めようとしている状態になりつつありますが、まだ私は”冬眠”から完全には抜け出してはいないようです。
今年は、久しぶりに”本格的冬眠明けの年”になるようにとしばらくお邪魔していない、千代の光の池田哲郎社長、〆張鶴の宮尾行男社長、鶴の友の樋木尚一郎社長のお話を直接伺うつもりでいるのですが、今のところ残念ながらその気持に身体、その他がついていっていないようです。 そんな私は、”本格的冬眠明け”の第一歩にしようと南会津の田島にある國権酒造を、本当に久しぶりに5月の中旬に訪ねました。

國権は、〆張鶴、八海山より1~2年後に取引させていただいた蔵で、最初に行かせていただいたとききからもう30年近い月日が流れています。
確か新潟の帰りに田島の蔵に寄らせていただいたと記憶しているのですが、
新潟より”寒かった”ことと、今も変わらずにある囲炉裏が中心の客間にあった一枚の色紙のことが強く印象に残っています。

うろ覚えですがその色紙には、次のようなことが書いてありました。

面白し、心ひとつの置き所

楽も苦になり、苦も楽になり

誰が書いたものかもよく覚えてないないのですが、不思議なくらい心引かれたことは
よく覚えています。
そのときから今に至るまで、その書かれていた言葉の意味を私は本当には理解できていませんが、國権という酒と蔵を思い浮かべるときその言葉が常に私の中に存在していたような気がします。

何回も書いている言い方だと私自身も苦笑しているのですが、私が平凡な人生を平凡に送ることが”目標”のつまらない男だったせいか、なぜか私は”規格外”の人生を送る”先輩”に恵まれています。國権酒造の細井泠一専務(現社長)もその例外ではなく、早福岩男さんや「吟醸会」のG来会長のように若いころから、”ちん、とん、しゃん系の遊び”で鍛えられた軽妙洒脱な面白い魅力を持っている方でした。
私にとって大変ありがたい”規格外”の人生を送る”先輩”のなかで、お互いにお互いを知っているのは、細井社長とG来会長の”ペア”だけなのですが、この”ペア”の今でも毎年1回はある直接対決は「拝観料」を払ってでも見たい”面白さ”です。


最初に細井泠一専務(現社長)にお会いしたとき、細井信浩現専務はおそらく小学生だったと思います。そのときの私は現在の細井信浩専務より若い二十才代前半でしたが、30年近い時間が流れた後で、中央大学出身ながら東広島の酒類総合研究所に学び、今年の5月にあった、平成19酒造年度の全国新酒鑑評会の、決審の審査員の一人として呼ばれるほど唎酒能力を評価されている細井信浩専務と直接話す機会が訪れることなど、ほんの僅かも想像できませんでした。

國権は、細井信浩専務が小学生のこの時期、最大の光を放っていたのではないかと私は感じています。
南会津の田島という”田舎”にいながら、細井泠一専務(現社長)の目は新潟を中心に大きく動き出そうとしていた”業界の変化の流れ”を見逃すことなく、3年連続で全国新酒鑑評会の金賞を取り続けた南部杜氏若手注目株の大木幹夫杜氏の技術を、本醸造生原酒の春一番(ふなぐち)、本醸造、純米の市販酒に注ぎ込み、新潟のデットコピーではなく新潟に対抗する気概を大木幹夫杜氏の造り出す酒質が支え、國権が最も輝いていた時期でした。
酒造技術者の側面をも待つ細井信浩専務にとって、この時期の國権はどうしても今の自分の目で見てみたかった酒蔵のひとつだったのではないか-------私はそう感じています。

私の日本酒に対する感じ方、考え方、価値観を180度転換させてくれた〆張鶴と、國権はある意味で対照的で、ある意味で対称的だった-------今の私にはそう思えてなりません。

その酒質同様、生真面目な〆張鶴の宮尾行男専務(現社長)と藤井正継杜氏のペアに比べると、細井泠一専務(現社長)と大木幹夫杜氏のペアから受ける印象はだいぶ違っていました。
若いころちょっと”遊び人”だった過去が、”更生”した今はマイナスではなくむしろ大きなプラスで杓子定規ではなく話しが分かる、親戚にこんな叔父さんがいたら楽しいだろうなぁ-------細井泠一専務(現社長)との初対面のときに私はそんなふうに感じました。
仕事も遊びも”野心的”と言えるかもしれないほど向上心が強い反面、気楽に声を掛けられる面白い人-------そんな印象を大木幹夫杜氏から私は受けました。

親切に対応して下さったのですが酒に対する知識や唎酒能力が乏しいという自分自身の問題から、最初のころやや敷居が高かった新潟の蔵に比べ、國権は最初の訪問のときから親しみ易く話し易い雰囲気がありました。また細井泠一専務(現社長)のお話は本当に面白く、その面白さと楽しさを私の”話”から察知したテルさんやS髙、O川研究員、県庁職員のGさんと翌年の仕込みの時期に田島に行き、ふねから流れ出る生原酒を容器にすくってきてもらい囲炉裏の火に暖めてもらいながら、細井泠一専務(現社長)の硬軟取り混ぜた話にも酔い、また爆笑もしました-------「日本酒の面白さと楽しさ」そのもののこの”國権行き”はG来会長を始め「吟醸会」の皆さんにすぐ伝わり、”私抜き”でも「吟醸会」の皆さんは仕込みの時期の”國権行き”が恒例行事となり、30年近くたった現在では、半分親戚のような付き合いになっています。

このように國権と〆張鶴との間には”違い”があったのですが、今思うと”似ている面”もありました。
その質も現れ方も過程もまるで違うのですが、最大の特徴として”バランス”が酒の中心に存在していたことです。

〆張鶴はこの時期、新潟淡麗辛口の先端を走っていました。意欲的で熱心な藤井正継杜氏もまだ40歳代であり、嶋悌司先生のおられた新潟県醸造試験場の強力なサポートを受けられる状況の中、宮尾行男専務(現社長)も使える資金はすべて酒質向上と無理のないペースでの増産余力の確保に投入されていました。
その結果、設備も少しづつ毎年向上し、酒質も前に進み続けていました。
私が初めて國権を訪れた昭和五十年代後半の〆張鶴 純 は、二千円台前半の価格で、
新潟県産五百万石(原料米)を使用し平均精米歩合55%、粕歩合は40%を超え、エンドユーザーの消費者に高い評価を受け逼迫状況になっていました。
〆張鶴 純 は八海山に比べ派手な面もなく、分かりやすい面白さもありませんがそれはレベルが低いためではなく、すべての面でレベルが高いため目立つ点が無い------欠点の無い完成されたバランス美のためだったのです。
現在の〆張鶴 純 はこの頃と比べると、やや味のある、やや重い方向にあると思われますが、平均精米歩合は50%に達し、くどくも無ければ素っ気なくも無い完成されたバランス美は今も健在で、相変らず食べ物の味の邪魔もしなければ飲み飽きもしません。

では大木幹夫杜氏の造り出す國権はどうだったのでしょうか?
以下はあくまでも私個人が感じたことで、客観的に証明されていない私個人の主観であることを最初にお断りしておきます。

その頃の國権は600石くらいだったように記憶していますが、3500~4000石で逼迫状況にあった〆張鶴に比べ、タンク1本1本を大木幹夫杜氏が完全に把握しているメリットがあったにせよ、酒造りのインフラのすべてにおいて遅れていました。
原料米や精米歩合、粕歩合も現在の國権の水準に比べ特に進んでいた訳ではありません。
しかし大木幹夫杜氏の造り出す本醸造生原酒(ふなぐち)の春一番は、ただでさえ重くくどくなりがちの生原酒であるのにもかかわらず、華やかだが強すぎない香りにバランスしたふくらみがあり、18~18.5%の高いアルコール度数を飲む人に強くは感じさせない切れ方をしていました。
私個人の想像では、大木幹夫杜氏も、新潟淡麗辛口と同様にご自分が3年連続で金賞を取った大吟醸の手法を可能な限り市販酒の本醸造に取り入れたと感じています。
軽さと切れの良さ”そのもの”では新潟淡麗辛口のトップクラスに勝てなくとも、大木幹夫杜氏ご自身の最大の武器の華やかな香りに「バランスしたふくらみ」、「バランスした切れ方」の方向で酒を造れば十分に新潟淡麗辛口に対抗できる------それが春一番だったように私には思えるのです。

言い換えれば、〆張鶴は構造的な帰結としての”容易には崩れない”バランスであり、
國権のバランスは、細井泠一専務(現社長)の了承を得たうえでの、大木幹夫杜氏の”ぎりぎりの荒技”の結果としてのバランスだったような気がするのです。

”ぎりぎりの荒技”で造り出された國権の市販酒が注目され始めたのは、ある意味当然のことでした。
しかし、その”ぎりぎりの荒技”への注目がエンドユーザーの消費者に広く拡大する前に、業界----それも酒を造る側の”プロ”の間に大きな注目を浴びたのが、細井泠一専務(現社長)にとって思いもしなかった”事態”を生むことになってしまうのです。

私が國権と取引させていだだいて数年後、その”事態”は突然起きたのです。
大木幹夫杜氏が所属する南部杜氏協会(南部杜氏の組合)から、日本酒業界の”巨人”である月桂冠から大木幹夫杜氏の”移籍”への「強いオファー」があることを、細井泠一専務(現社長)は知らされたのです。
灘、伏見の蔵は全国に販売網を持つナショナルブランド(NB)の蔵が多いというだけではなく、日本酒そのものの歴史、伝統という点でも他の地方を圧倒していました。
昭和四十年代後半から新潟で始まり、新潟淡麗辛口の”隆盛”に繋がっていく”地酒運動”もNBによる”淘汰の波”に対する新潟清酒の、「生き残りを賭けたささやかな反撃」という側面があったのですが、十分な成功を収めていたこの時期の新潟淡麗辛口のトップレベルの蔵でさえ、NBに「かすり傷を与えた程度」としか思えなかったほどの、”巨大な存在感”が灘、伏見の蔵にはあったのです。
細井泠一専務(現社長)にとって、”この勝負”は最初から分が悪いものでした。
大木幹夫杜氏ご自身ももちろん名誉なことであり、意欲も当然あったと思われますが強くその気持を押し出せない面もあったことは私にも想像することができました。
しかし南部杜氏協会にとっては、月桂冠からの「強いオファー」は南部杜氏の技術と力を「醸造業界」が認めたに等しく、ぜひとも実現したい話でした。
そして大木幹夫杜氏の、國権から月桂冠への移籍が決定したのです。

〆張鶴、八海山、千代の光、久保田、そして國権を主力銘柄として販売しながらも、月桂冠を始めとするNBも”豊富”に取り扱っていた私は、この”事態”に別な面での驚きも覚えました。私が思っていたよりも、NB,特に月桂冠に”危機感”が強かったことが驚きだったのです。

日本酒の歴史を体現する灘、伏見のNBは、伝統的な丹波杜氏を擁する蔵から、その販売力を背景に昭和四十年代までに近代的な”醸造メーカー”に脱皮していました。
全国津々浦々にいつでも安定的に安定した酒を供給するためには、それは自然な”流れ”でした。
コーヒーに例えて言うと、レギュラーコーヒーを販売する”老舗の大規模商店”から、レギュラーコーヒーもあるが「缶コーヒー」をメインに販売するメーカーにならざるを得なかったのです。
新潟を始めとする、レギュラーコーヒーを販売する”新興の小規模商店”から受けた数量的な被害はNBにとって微々たるものでしたが、「缶コーヒー」の”品質”を突かれた結果のイメージ低下が、強い危機感をNBに感じさせたのかも知れません。
それでなくてもビールに、数量の面でも離されイメージの面でも凌駕されていたNBの盟主の月桂冠にとっては、このイメージ低下の状況は”放置”できないものでした。
そしてその状況がNBをして、「缶コーヒー」全体の品質レベルを向上させ、「缶コーヒー」の一部で”新興の小規模商店”のレギュラーコーヒーの水準を超える方向に舵を切らせることになった------私個人はそう思っています。
月桂冠をその方向に舵を切らせた中心に、栗山専務(当時)がいたというように私は聞いていますが、もしそうであればなぜ國権の大木幹夫杜氏を栗山専務(当時)が選んだのか、今の私にはほんの少しですが分かるような気がします-----------。

國権の販売本数を、簡単に三桁以上上回る月桂冠の危機感に裏打ちされた、國権の立場からすると、強引とも思える”行動”によって國権の状況は変わらざるを得ませんでした。

細井泠一専務(現社長)にとって、心の置き所が”楽から苦”に変わる出来事でしたが、せめてあと数年大木幹夫杜氏がいたらという気持になった日々が少なくなかったと思われますが、それは國権のファンである私達も同様でした。
しかし、業界の盟主の月桂冠が注目せざるを得ないほどの輝きを見せた國権を造り出した細井泠一現社長の”仕事”の大きさは光を、今も、失ってはいません。
その”仕事”があって、細井信浩現専務が継ぐべき國権があるのですから------。

いかに”家業”といえども酒蔵を継ぐことは、現在は「楽でもなければ得でもない」選択だと思われます。あえてその選択をした細井信浩専務は、蔵にもどって7~8年の造りを経験した今、嶋悌司先生流の「伝統の受け継ぎ方」の方向に舵を切るのではないか-----客観的根拠はありませんが、私の中にはそんな予感があります。
そして、5年後なのか、10年後になるのか今の私には分かりませんが、その予感が実現したとき、囲炉裏のある客間にあった色紙に書いてあった言葉のように、”苦も楽”に変わり、細井信浩専務が展開の”推進力”になった構造的な帰結の國権を、細井泠一社長の造り出した國権を超えた國権を、庶民の酒飲みのために造りだしてくれるような気がしてならないのです---------。




細井信浩専務のことを書く前に、この「國権について--NO1」は長くなり過ぎましたので
この続きは、「國権について--NO2」に書くことにしたいと思います。
ただし、怠け者の私ですので、いつになるか本人にもわかりませんが----------。


書いた内容のごく一部に、勘違いによる間違いがあったため、5月31日にそれを加筆修正しています。