郡山の寿屋酒店三瓶徹店主は、私にとって同士的存在の ”古い仲間”です。 その付き合いの ”歴史”は25年以上になります。 それだけに、色々な ”事件”や面白い ”思い出”が豊富に存在しています。 その中でも最たるものは、十数年前の私自身の結婚式の披露宴の席上で、突如勃発した三瓶徹店主が ”開戦の火種”となった 「新潟・福島戦争」でしょうか。 ”新郎”(にしては少しひねていましたが)という、文字どうり ”手も足も出ない”立場の私の目の前で起こったという ”状況”と、登場人物が嶋先生を始め ”重量級”であったこと、そしてそれが三瓶徹店主の ”現役復帰”を大きく前進させたという ”エ-スのスリ-カ-ド級”の事件だったのです。
三瓶店主との ”出会い”には、”生酛”が絡んでいました。 私が ”生酛”に関わらなければ、会う機会は無かったと思われます。 思えば、”IK杜氏の生酛”は私に多くの ”縁”を運んでくれました。 鮨店店主のTさんや三瓶店主のように、”IK杜氏の生酛”が造ってくれた ”縁”は不思議なことに、お互いの状況の変化という ”外的要因”では変わることなく、しかも長く続くのです。
三瓶店主は地元の蔵に就職し、その蔵が酒造りを止めた後も小売部部門を担当し ”日本一の番頭”を目指していました。 造りの方ではありませんでしたが、酒蔵にいただけに酒に対しては ”筋金入りの愛情”を持っていました。 私にはこの ”筋金入りの愛情”がとても貴重なものに思え、自分が傾倒していた ”嶋・早福ライン”のことを熱心に話し込むことになったのです。 考えてみると、三瓶店主にとって私は、最初に現れた ”道しるべ”だったのかも知れません。 しかし、私自身に現れてくれた ”道しるべ”に比べ私は ”おそまつ”だったので、三瓶店主は次の ”道しるべ”に出会うまで ”大苦労”をすることになります。 「20年前のNさんは、”六角形にギザギザがついていた”からね。昔はこんなもんじゃないよ」-----5年前、若い酒販店の息子と三瓶店主を訪ねたときの言葉です。 酒販店の息子に色々と話すものの、本人の理解が ”進んでいない”のを見て取っての三瓶店主の発言でした。 この言葉には、私は苦笑するしかありませんでした。 いくら ”おそまつ”でも、多少は ”学習効果”があり、いくら客観的に正しくても、またそれを言う資格があったとしても、相手を完全に ”叩き潰す”言動は、絶対に相手が”納得”しないことを学んでいたからです。 今の私は、「どうやったら、どのように言ったら相手が納得し易いか」-----それしか考えていませんが、基本的には ”六角形にギザギザ”であることは現在も変わりません。 特に、三瓶店主に対してはそうであり続けると思われます。 三瓶店主が不快になることを慮って私が ”六角形にギザギザ”で無くなった時に、私と三瓶店主の ”人間関係”が終わると感じているからです。
久保田が発売される前後に、三瓶店主は2番目にして最大の ”道しるべ”に出会います。久保田が発売されたころ、門前市をなしていた自称”早福の弟子”はいったいどこに行ってしまったのかと思う現在でも、三瓶店主は ”早福の弟子”であり続けています。 ”番頭”の立場を気にし当初久保田の取り扱いに ”迷い”のあった三瓶店主に、「立場は関係ない。やれる人間かどうかだけが重要なだけだ」-----と強く迫ったのは私ですが、後に”番頭”という立場がたたることを ”おそまつ”な私は想像もできなかったのです。
久保田を得た三瓶店主はまるで ”水を得た魚”のように活躍していきます。 もちろん酒そのものも評価されたのですが、それ以上に ”酒にかける”三瓶店主の思いが周囲の人に評価されたのだと私は感じていました。 全国久保田会でも嶋・早福ライン(私が勝手に使っている言葉です)でも主力メンバ-への道を順調に歩み始めたころ、思わぬ矢が思わぬ所から飛んできて、三瓶店主は ”番頭”の立場を去り ”浪人生活”を送ることになります。
”傘張り”ならぬ障子、襖張りの浪人生活を送る三瓶店主に私は以前と変わらずにしょちゅう電話で ”情報”を入れていました。 張っている障子や襖に、”酒のレッテル”が浮かんでくるというような ”浪人生活”を送っていた三瓶店主には迷惑なことだろうと私も感じてはいましたが、私には強い予感がありました-----「三瓶店主は、そう遠くない時期に復帰する」という予感です。 復帰したときに ”情報の穴”が生じないように ”情報”を送り続けたのです。 そんな日々の中で、三瓶店主と私は ”事件の日”を迎えたのです。
その日(私の結婚式の日ですが)”動き”のとれない私は三瓶店主の ”現役復帰”促進の意味も含めて招待をしていました。 三瓶店主もそのことは十分に分かっていました。 分かっていただけに ”複雑な思い”もあったと思われますが、”淡々”と出席してくれたのです。
私の目の前のテ-ブルには、”主賓の挨拶”をして下さる嶋先生、私も三瓶店主も大変に親しかった朝日酒造A東京出張所長、〆張鶴宮尾隆吉前社長(故人)、千代の光池田哲郎社長、”心理的距離”が大きくなっていた中でも出席してくれた南雲二郎氏(現八海醸造社長)、私も三瓶店主も親しい仲の福島県のK酒造H専務(現社長)-----三瓶店主がどんな状況でも絶対に ”無視”できないメンバ-が一堂に会していました。
私の記憶では、披露宴の前半が終了したころ、その ”戦争”は開戦しました。 たしか嶋先生の隣りがH専務で、その間に三瓶店主が立っていました。 私が聞こえたのは、「福島県の方で ”めんどう”を見ないなら、三瓶は新潟で貰う」との嶋先生の声と、「そう言われるなら、熨斗を付けて進呈する」とのH専務の言葉でした。 その言葉と声の調子は、人をはっとさせるものでした。 その前の ”やりとり”は聞こえてなかったのですが、私は瞬間的に事状を察しました。 それは嶋先生のよく知られた ”おっかなさ”とあまり知られていない ”やさしさ”が同時に出た一瞬でした。
嶋先生は、障子、襖張りの浪人生活を送る三瓶店主の姿を直接見て、可哀想で堪らなくなったのです。 自分の立場やテ-ブルに並んだ〆張鶴、八海山、千代の光の各蔵元や周囲の招待客が ”どう思うか”などは ”吹っ飛んで”おり、可哀想で堪らない気持ちが ”憤怒”のエネルギ-と化していました。 そして、”運悪く”同じテ-ブルにいたH専務が「三瓶店主を ”見捨てた”福島県の業界の代表」と嶋先生の目には映ってしまい、H専務にまともに ”憤怒のエネルギ-”がぶち当たってしまったのです。
私が、基本的には ”堅物”のせいか、私に関わってくれる人は何故か ”ちん、とん、しゃん系”の遊びで鍛えられた軽妙洒脱な魅力に富んだ人が多いのですが、H専務もそのお一人でした。 普段はとても面白く楽しい人で周りに笑いが絶えないのですが、(無理もないと私も感じていたのですが)このときのH専務は普段のH専務ではありませんでした。 H専務は、「新潟何するものぞ」との ”気概”を持った南会津の蔵元でした。”気概”の対象の”新潟”がずらっと並んでいる中でその ”親玉”から、”無実の罪”(”真犯人”は別にいました)でいきなり糾弾されて自然体でいられるわけがありません。 普段なら軽快に捌けるゴロを、肩に力が入ってしまい一塁に ”暴投”してしまった-----私にはそう感じられました。
H専務(現社長)は、私や三瓶店主にとって、今でもときどき会いたくなる ”好きな蔵元”です。「そんなつもりで言ったのでは---」と後日H専務は言われたことがあるのですが、三瓶店主も私もまったく気にしてはいません、むしろ ”あの一言”に感謝しています。 なせなら ”あの一言”が嶋先生の知遇を直接受けるという酒販店としては ”稀有の立場”に三瓶店主に押し上げ、”現役復帰”とその後の活躍を大きく支えることになったからです。
嶋先生の ”おっかなさ”は有名でした。 しかし、”おっかない”のは十分分かっていながらも、つい寄っていってしまう ”魅力”が嶋先生にはあったのです。 新潟県外の 酒販店の人間が嶋先生と直接接する機会が生じ始めたのは、久保田の発売半年前くらいからだと記憶しています。 その時点で、新潟淡麗辛口を取り扱う酒販店で、嶋先生の ”凄さ”と ”おっかなさ”を知らない人間は、”もぐり”と言われてもしかたがないほど知られていました。 久保田の展開が順調に進む中で、従来からの ”地酒専門店”は ”要領良く”嶋先生の ”おっかなさ”を避け、久保田から新潟淡麗に ”参入”してきた ”新人”は嶋先生と ”視線”が合わないようにしていました-----両者とも残念ながら、嶋先生の ”視線”が届かないところで ”勝手な言動”が多かったのです。
久保田は、朝日山で知られた新潟県の最大手の朝日酒造がその総力をかけ造りだした酒ですが、初期の段階では、前新潟県醸造試験場長の嶋先生と早福酒食品店早福岩男社長の ”最後の仕事”との ”印象”を、酒販店サイドはきわめて強く持っていましたし、朝日酒造サイドもその ”イメ-ジ”を強調していました。 一言で言うと、久保田は ”嶋先生の酒”だったのです。 ゆえに嶋先生の前では ”おとなしく模範的な会話”に終始する酒販店がほとんどだったのです。 嶋先生は”酒の神様”で、当然ながら本当の神様ではありませんので、すべてが正しく批判をしてはならない存在でもありませんし、人間ですから欠点もあるはずですが、直接対面するとその ”実績と迫力”に圧倒されて表面だけでも ”良い子”になってしまうのが自らの利益を最優先する ”大人の酒販店”の対応でした。
”大人の酒販店”でもなく、”良い子”になるだけの能力も無かった ”おそまつ”な私にとってたとえ非常に ”おっかなく”ても、嶋先生は興味の尽きない ”魅力のある対象”でした。 それまでに自分自身で見てきた ”新潟淡麗の風景”、聞かされてきた ”歴史”-----それでも分かりきれないどうしても知りたい ”素朴な疑問”があり、その ”解答”を嶋先生に教えていただきたいと強い希望があったからです。