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新潟淡麗辛口の蔵の人々と”庶民の酒飲み”の間で過ごした長い年月
(昭和五十年代~現在)を書き続けているブログです。

鶴の友について-5--NO1

2017-11-28 17:46:12 | 鶴の友について



前回の投稿からまただいぶ時間が過ぎてしまいました。
にも関わらず見て頂いている人が少なくないことには本当に申し訳なく反省もしております。
元々このブログは、2005年に中学生だった息子の一言で書き始めたもので、どちらかと言うと“備忘録あるいは覚書”の要素のほうが大きかったのです。
それゆえに当初は一部の蔵や一部の個人名は意図的に書いてはいなかったのです。
何度も書いていますが、ある意味で、私は“変わった育てられ方”をされてきたと言うか、酒販店を離れて四半世紀以上経つのに今も鶴の友・樋木尚一郎社長、〆張鶴・宮尾行男会長、千代の光・池田哲郎社長に良くして頂いているという“あまり無い経歴”を歩んできました--------それゆえ酒蔵、酒販業界の一部にもパイプが残っており、2005年には自分自身が過去に経験してきた“事実や実体験”であってもストレートには書き難い面が存在していたのです。

それから12年の月日が流れ中学生だった息子も大学を出て3年目の社会人になった今、私自身も会社員としての“卒業の日”が視野の片隅に入りつつある今“私の体験してきた事実”をもう少し素直に書いても良いのかなぁとの気持ちになりつつあります。
なぜなら“私が体験し目の前で見た事実”が「私自身が耳を疑うような“事実”」に変換され“流布”していることを知る機会が少なくないからです。
かつて私を良く知る人間がある蔵元から私についての話を熱心に聞かされたのですが、「自分の知っているNさんは蔵元の話のNより年齢が若いし話の内容も直接聞いている話と違うからNという別人の話か?」と思った--------そのようなことがけっこうあるからなのです。

私自身はおそまつで能天気な人間にしか過ぎないのですが、昭和五十年代初めより年齢が一回り以上の酒販店の方々と“新潟淡麗辛口の世界”に入り込んでしまったため“キャリアと年齢が一致”していません。
たぶん私の年齢の世代では久保田の展開のおりに“新潟淡麗辛口の世界”に関わりを持った酒販店が大多数だと思われますが、私はその時点で〆張鶴、八海山、千代の光を取り扱っており比較的多いと思われた販売実績を待っていたため、久保田発売の半年前に“久保田作戦”に参加することが決定していてそれ以後朝日酒造相澤東京主張所所長(当時)を介して嶋悌司先生に大変お世話になることになるのです。
またそれ以前の昭和五十年代前半に、私が取り扱いをしていた〆張鶴、八海山、千代の光、南会津の国権、当時頑なに生酛の単体での発売を拒んでいた大七との長く続いた交渉をしていた関係でごく一部の郡山市の酒販店と関わりを持っていて、久保田の展開そして私が業界を離れてからも“その流れ”が続いていたのですが約10年前にこの郡山の人達と接触を持ったことを“後悔”する出来事に私は遭遇することになるのです------------。





意図せずに“その私の後悔に繋がる景色”を見せてくれたのも郡山市の酒販店のH店主でした。
彼は、「1階の高窓から見える景色と3階のベランダから見える景色は違う」ということを教えてくれたのです」
彼自身も「見ていた景色と“実際の景色”が違う」ことに気が付き愕然としていたのですが、そのことで私も気が付かざるを得なかったのです-------私に見えていた風景は“偽りの無い本物”なのかと-----------。

冷静に客観的に見ようと努力した結果、私に見えていた風景とは“180度違う景色”が見え始めたのです。
そしてその“景色”は、人を見る目の無さと“性善説”に疑いを持ってなかった自分の甘さを私自身に思い知らしめたのです。
私は二度と郡山市の酒販店には関わりたくないと強く思ったのですが、私がこの景色を見直すきっかけを造ってくれたH店主には“同病相哀れむ”という訳ではありませんがそれにやや近い感情があり、苦境に陥りつつあったH店主を手助けしようという気持ちの方が上回る結果になってしまい約10年が過ぎた今もH店主とは親しい付き合いがあります。
H店主は、酒のマニア・酒の通ではない郡山市周辺の“ごくふつうの酒のファン”のエンドユーザーの消費者とって、現在は貴重なだけではなく面白い存在にもなっていると私には感じられます。
その面白さの一端を以下に紹介したいと思います。



郡山市・H商店 H店主

「こんな周りに何も無い田舎で、有名銘柄もまるで無いのに何でやっていけるのですか?」--------真顔で来店したお客様にそう言われたことがあると笑いながら私に“教えて”くれたことがありました--------そう言うあなたもどうして来たのと突っ込みを入れたくなりますが-------。
H商店の周りには本当に何も無く、日本酒も焼酎も“超有名銘柄”ももちろんのこと“有名銘柄”も取り扱ってはいません。
にも関わらず真顔で発言されたお客様も、場所を調べ遠方からわざわざ来店しその後も来られているそうです。
また月に1~2回来店し酒を購入してくれるのですが“酒の話”は一切せず、車の話を1時間ほどして帰っていくお客様がいたり、会津で買える酒をわざわざH商店まで定期的に買いに来る(会津の)人がいたり、「旅行に行ったからお土産を買ってきた」と置いてゆくお客さんもいるそうです。
そして手書きで個性的な“酒のポスター”を生み出す意外な才能もH店主にはあります。
私が現役の酒販店だった昭和五十年代初めから平成の初めならいざ知らず、現在ではH店主のような酒販店は、かなり珍しい存在だと思われますが、さらに珍しいのは平日の午前中は(アルバイトに行っているため)“常に留守の店主”だということです----------。

H店主のことは三十年前から知ってはいましたが、必ずしも親しいとは言えない存在でした。
十数年前だったでしょうか、長くお付き合いがあった郡山の酒販店に対する『印象が180度変わる事態』が生じ、その渦中に巻き込まれたH店主と密接な関係になったのです。
その時点ではエンドユーザーの消費者にとって貴重な酒販店とは言えない存在でしたが、その時代しか知らない人が現在のH店主を見たら“別人”としか思えないほど大きく変わり『止めたら庶民の酒飲みが困る酒販店の店主』になっているように私には思えます。
もちろん100点満点ではなく課題も多く抱えているのですが、少なくても、酒販店は酒を造ってくれる酒蔵とその酒を買ってくれるエンドユーザーの消費者がいなければ成立しない存在ということを『理屈ではなく当たり前の肌の感覚』で今のH店主は分かっている------そう私には見えるのです。
アルバイトをしているくらいですので経済的には楽とは言えないのですが、細谷店主は“楽ではない話”も少なくても電話では“明るい笑い声”ともに話してくるし、私の“突っ込み”も笑いながらになってしまうのです。
10年前は話す内容も暗かったし会話の中に“笑いの要素”が入ってくるのは皆無に近かったのですから隔世の感があります。

“印象が180度変わる事態”が生じてからの数年は「まるでジェットコースターに乗ったかのような“激動”」が続き、酒販店を廃業するのが普通のような状況なのに、なぜか不思議(もちろんH店主も努力していますが)なことに支援の手が伸びてきて、もしかして廃業したほうが楽だったかも知れないのに“廃業出来ない流れ”に方向が変わったことが一度や二度ではないのです。
さらにH店主の店の状況を知りつつも“廃業することにならない”と、私自身も“妙な確信”を持ち続けていたのも不思議と言えば不思議といえました。
そのときの“妙な確信”を支えていたものは、「今回の激動や苦闘が、自分が宝物や大事なものと思い強く握り締めていた拳を開く機会になる。開いてみると宝物や大切なものに思えたものが、実際は無駄なものだったりゴミのようなものだったことに気づき捨て去ることが出来る。そして拳を開いたことで本当に自分に必要で大切なものを改めて掴み取ることが出来る」---------私自身が昭和五十年代初めから平成にかけて諸先輩のおかげで経験することが出来た私自身の“実体験”だったのです。
そしてH店主は“自分にとって必要な大事なもの”を激動と苦闘の日々の中で改めて掴み取った---------私にはそう思えてならないのです。





ではH店主が掴み取った“大事なもの”とは一体何なんでしょうか。
たぶんそれは「酒と酒に関わる人達を自分が大好きである」ことにH店主自身が改めて実感したことだと思われます。
“酒と酒に関わる人達”とは、蔵元や早福岩男早福酒食品店会長のような酒販店の大先輩だけではなくエンドユーザー消費者(ふつうの酒のファン)も含まれます。
H店主は廃業も覚悟せざるを得ない日々の中で、「酒販店としての自分は何を一番失いたくないのか」を毎日の仕事や生活の中で肌の感覚で痛感させられたと思われるのです。
“酒を間に置いた人間と人間の気持ちの交流”-------それが一番自分が失いたくないものだと自覚したH店主は、「廃業する日が来るまではその気持ちの交流を大事にし今の自分に出来ることをしよう」そう思い行動に移したと思われます。
不思議なことにそう思い行動すると、思わぬ人から暖かい言葉を掛けられたり思わぬ人からサポートの手が伸びてきたりとH店主の想像していなかった事態になってきたようなのです。
平日の午前中のアルバイトも意外な人からの話だったようですが、H店主の“心の置き所の変化”が引き寄せた話だったのかも知れません。
そんな“経験の数々”がとっくの昔から“理屈”では理解できていた「早福岩男・早福酒食品店会長の”教え”」を、心の底からあるいは肌の感覚で理解し共感できるようにH店主を変えていったように私には思われてならないのです。

ある意味で私もH店主も早福岩男会長の“弟子”と言えると思います。
私が“早福哲学”をおそまつで能天気なりに“少し理解できた”と思えるのは、皮肉なことに、酒販店を離れたの流通業界に身を置いて“複数の視点”を持てたからです。
激動と苦闘の時期にH店主から「Nさんからは早福さんとおなじことを言われる」と苦笑交じりでよく言われたのですが、今はH店主の発言は「早福さんの発言と同じよう」に私の耳には聞こえてきます。
「酒と酒に関わる人達を自分が大好きである」--------昭和五十年代初め新潟の蔵を歩くなかで出会った地方銘酒(地酒)を取り扱う酒販店は程度の差はあっても皆さん“酒に対する愛情”を持っていました。
酒蔵に対してもエンドユーザーの消費者に対しても「酒を間に置いての人間対人間の気持ちの交流」を大事にしていたと思われるのですが、現在の有名銘酒(地酒)専門店の皆さんははたしてどうなのでしょうか?
その意味では私と違和感無く付き合うH店主は“昭和の匂いのする酒販店の一人”と言ったらH店主自身は苦笑いをしそうですが---------------。


少しH店主を良く書き過ぎたとの“自覚”は私にもあります。
この記事で書いたH店主は、車のエンジンに例えて言うと、「最高出力、最大トルクを発揮しているときのH店主」でアイドリングのときや低回転のときは“印象が異なる場合があります”と保険の意味で付け加えておきます---------。
























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