当初の予定よりかなり遅くなってしまいましたが、鶴の友について-4--NO4-2に続いて、“規格外”の鶴の友・樋木酒造の造り方の方向と体制の“凄さ”さを以下に私の知る範囲で書いていきたいと思います。
樋口宗由現杜氏は酒蔵の製造の責任者である杜氏になった最初の新潟清酒学校の出身者(11期)で、10数年以上杜氏として鶴の友を造り続けていますがまだ四十歳代前半の“若さ”です。
内野の蔵を訪れたときに直接樋口杜氏のお話を伺う機会はきわめて少ないのですが、樋木尚一郎社長や奥様のお話を介してや蔵の内外の光景で理解出来ることが多くあります。
『愛車のダイハツ・コペンが似合う、新しい風を身に纏う越後杜氏』----------私個人は樋口宗由杜氏にそんな印象を強く感じています。
鶴の友・樋木酒造の杜氏としての実績や10数年以上のキャリアに比べ若いというだけではなく、酒蔵や酒造りの関係者にはまったく縁が無いにも関わらず日本酒と日本酒の造りに強く魅了され自らの強い意志でこの“業界”に飛び込んできた樋口杜氏は上記の言葉が似合う『ニュータイプの杜氏』なのです----------。
「いつかフェラーリに乗りたいから酒造りをしている」と公言している蔵元が某県にあるそうですが、新潟県の蔵に通うため峠を走る機会の多かった私は、最初に買った車から現在の車に至るまでMT(マニュアル)に乗り続けていますので(ちなみに妻も息子もMT派です)車の趣味から言ってもコペンに乗る杜氏のほうが好ましい存在です--------皮肉なことですが好きな車の価格と造られた酒の酒質は反比例していると言わざるを得ないのです。
フェラーリ好きの蔵の酒は全体的に価格がやや高く鶴の友は全体として価格が安く抑えられていますが、あくまで個人的な“感想”ですがやや厳しく言うと(古色蒼然とした昭和の表現ですが)、フェラーリ好きの蔵の酒は『狼の皮を被った羊』、鶴の友は『羊の皮を被った狼』に例えられるほど酒質のレベルには私個人は大きな差があると思われます。
鶴の友は一番安い上白(二千円以下で買えます)ですら標準的な吟醸酒(本醸造)のレベルにあると私個人は感じていますが、そう思うのは私個人に限らないと思われます。
鶴の友・上白は車に例えると、軽量でコンパクトな(トヨタのビッツ以下の大きさの)車にスバルの水平対向4気筒2000CCターボエンジンと4輪駆動を搭載した舗装路(冷、冷やして飲む)、未舗装路(燗をして飲む)両方できわめて速いがその販売価格がファミリーカーの値段-------というような通常ではあり得ない存在なのです。
風間前杜氏から鶴の友の造りを受け継いだ樋口杜氏の新たな風を身に纏った挑戦は平成15酒造年度から始まるのですが、その挑戦そのものも鶴の友・樋木尚一郎社長の『無謀とも言える規格外の決断』が無ければ始まることはなかったのです------------。
以下は2007年12月に書いた鶴の友について-2--NO8からの引用です。
風間杜氏から鶴の友を引き継いだ、若い樋口杜氏が同じく若い”仲間”と鶴の友を造って数年が過ぎました。
樋口杜氏と廃業された伊藤酒造から移られた若い方が年間を通じて蔵に常駐され、仕込みの時期には”尾瀬”から樋口杜氏のお仲間が3人が”蔵人”として合流します。
平均年齢三十代前半、5人中4人が何らかの形で”尾瀬の自然保護”関わる人達によって、現在の鶴の友は造られています。
伊藤酒造から移られた若い方も”尾瀬から来た蔵人”も、酒造りにはきわめて熱心です。
樋口杜氏も含め5人中2人が1級酒造技能士であり、尾瀬からの3人中2人が2級酒造技能士で、残りの1人の最若手も2級酒造技能士をめざしています。
数十年チームを組み老練な職人の技に支えられて造られてきた鶴の友は、1年交代で酒造りの各パートを全員が受け持ち、酒造りの全体像を知ったうえで担当したパートを深く掘り下げようとする-----新しい時代のチームワークで今は支えられ鶴の友は造られています。
尾瀬の自然と同じように、消えてしまったらもう二度と現れることの無い鶴の友が、尾瀬の自然の保護に関わる人達によって大切に造られていることに、深い”縁”を私は感じています。
4年前、風間杜氏も含む”超高齢蔵人集団”が引退されたとき、樋木尚一郎蔵元も一緒に”引退”されるつもりだったことは、私にも感じ取れていました。
鶴の友を造り続けることの、”物心両面での負担の大きさ”を知る人間の一人として私は、樋木社長のお気持ちを「理解せざるを得ない」心境にありました。
いつかはその日が来ることを、「頭では分かっていた」つもりだったのですが、実際にその事態に直面したときに私にできたのは、”呆然”と立ち尽くすだけでした。
鶴の友を失うという”事実”に直面したとき感じた”喪失感”は、とても想像できないほど大きかったからです。
私にできたことは、忸怩たる思いを抱えながら、その存続を樋木社長にお願いすることだけでした。
「単に、新潟市の”地酒のひとつ”が失われるに止まらない」影響の大きさを、全身で痛いほど感じていたことが、かろうじて私を後退させずに支えていました。
結果として、樋木尚一郎蔵元の引退が”先に延びた”ことを知ったとき、私は生き返ったような気持になると同時に申し訳ない気持で一杯にもなりました。
もちろん私がお願いしたから”存続”がきまったわけではありませんが、何もお役にたてない、何の貢献もできない私が、”物心両面での負担の大きさ”をさらに強いるお願いをしたのは、事実として私の中に残っていたからです。
「私自身も、できる限り踏み込まなければならない」----そのときからそのような気持が私の中ではっきり現れてきたように思われます。
私の周囲には、前述したとうり「吟醸会」を中心にした庶民の酒のファンが存在しています。
彼らは、30年前から〆張鶴や八海山を知る、能書きや理屈は知りませんが酒は知っている”集団”です。
鶴の友のファンの中心もこの集団だったのです。
彼らは、酒と料理の楽しみ方のある意味での”プロ”であり、鶴の友についてもよくその価値を知っているので、私が”語る”必要はあまりなく”代弁者”には事欠かないという、私にとって”自然体”で対応できるありがたい人達です。
しかし、そういう集団だけに大幅な拡大は考えられません-----なぜなら「吟醸会」も、”去るもの追わず来る者拒まず”だからです。
私は、この”居心地の良い”「吟醸会」の範囲を超えて、鶴の友のファンを拡大することに踏み切りました。
それは、それなりに”時間と労力”を要する”仕事”でしたが、自分が予想した以上に”歓迎”されたように思われます。
しかし、本業があるための私自身の「物理的限界」が、鶴の友のファンの拡大を制約しています。
直接的な「日本酒エリアN」拡大の限界が見えてしまったのです。もしこれ以上拡大するとしたら、フルタイムでやれる酒販店に”現役復帰”するしか、もう方法が残されていないのです。
しかしそれは、樋木尚一郎蔵元から強く止められていることでもあり、また簡単にできることでもありません。
私は自分の”前進”を計りながらも、内野の蔵で行われている「挑戦」が気になり続けていました。
樋口杜氏は、20年以上前に嶋悌司先生が提唱し初代校長を務められた、「新潟清酒学校」が生んだ新しいタイプの若い杜氏でした。風間前杜氏と数年一緒に鶴の友を造った経験があるとはいえ、まだ30歳の杜氏が80歳の超ベテラン杜氏の跡を継ぐのです。
しかも、樋口杜氏が若いころ一緒に尾瀬の山小屋で働いた仲間3人を、酒を造った経験のない素人の尾瀬で働く3人を”蔵人”として招き、鶴の友を造ろうとしたのですから-------。
もちろん樋口杜氏には自信もあったと思われますが、置かれた状況と先のことも考えた上での”決断”かと私は感じていました。
たぶん樋木尚一郎蔵元にとっても、樋口杜氏以上の決断だったと思われるのですが、残念ながらこの時期も電話でお話を伺うだけだったのですが、気負いも不安もまったく感じられない淡々としたいつもの樋木社長のように私は感じていました。
いつの間にか時間が流れ、樋口杜氏と”尾瀬の蔵人”が造った鶴の友を実際に口にする日が来ました。
予想していたように多少の影響はありました。鶴の友特撰に特に出ていたように私は感じました。
しかし、別撰、上白を含めて、鶴の友は確実に受け継がれたと言える”造り”だったと私個人は感じました-----安心したと言うほうが正直な気持だったかも知れません。
樋口杜氏と尾瀬の蔵人は、先人のデットコピーをすることなく伝統に挑戦し、その挑戦によって伝統を受け継ぎ、変えるべきは変えて伝統が「博物館入り」することを防ぐ、本当に”良い仕事”をしていただいたと感謝の気持も私は感じていました。
翌年以降の鶴の友はさらに安定を見せ、受け継いだ鶴の友の骨格に自分達らしさを付け加える兆しも感じさせる仕上がりになっていました。
”造りの面”は20年でも30年でも揺らぐことがないことを、私は確信しました。
しかしそれは鶴の友が20年、30年にわたって造り続けられることと、残念ながらイコールではないのです。 樋木尚一郎蔵元がもしご自分と鶴の友という酒の”美学”だけにこだわっていたなら、樋口杜氏と尾瀬の蔵人の”挑戦”は有りえなかったのではないか------個人的見解ですが、私はそう強く感じています。
「鶴の友という酒の名前がたとえ消えても、伝統を受け継ぎながらも今後の新しい時代に対応できる、若い”酒造りのチーム”が誕生すればいい」------樋木尚一郎蔵元はそう考えれて、淡々と静かに若いチームの”挑戦”を見守られていたのではないのか、私にはそう思えてならないのです。
(ここまでで引用は終了)
今年の3月23~24日、急遽だったのですが息子と二人で新潟市に行かせて頂きました。
息子は今年大学を卒業し社会人になったのですが、14年前小学3年のとき行った新潟を就職する前に再訪したいとの強い希望で行くことになったのですが、私にとっても息子と久しぶりにゆっくり話す時間を持てた楽しい時間になりました。
村上(〆張鶴・宮尾酒造)にもぜひ行きたいとの強い要望が息子にもあったのですが、卒業者の発表が3月12日、卒業式が3月20日、入社式が4月1日というスケジュールで日程に余裕がなく、私自身もさすがに年度末に長い休みは取りずらく、3月は大変にお忙しい〆張鶴・宮尾行男会長の日程を押さえていただくのは無理とも予想できましたので今回は14年前と同じ早福岩男さん(早福酒食品店会長)がおられ鶴の友・樋木酒造のある新潟市のみのコースになったのです。
(宮尾行男会長には違う機会の訪問をお願いしてあります)
この時期は仕込み自体は終了しており甑倒しを終わっていますがまだ蔵の内部の作業が残っており、樋木尚一郎社長のご長男の由一さんにご案内いただき蔵の方の邪魔にならないように見学させていただきました。
平成15酒造年度(15BY)から樋口杜氏が醸造の指揮をとる鶴の友は、伝統を受け継ぎながらもどのような“挑戦”をしてきたのでしょうか?
全国新酒鑑評会の金賞を積み重ね、「越後杜氏鑑評会」とも言うべき平成25BYの越後流酒造技術者選手権大会で第一位に輝いたのも挑戦のひとつのの結果であり”樋口杜氏の真骨頂”を物語るものではない-------30年以上鶴の友を見させていただいてきた私にとって、樋口杜氏の数々の実績が十分に素晴らしいものであることはもちろん承知していますが私自身には「樋口杜氏のもたらした“結果”よりも“結果”をもたらした“原因や過程”」のほうがより価値が高いと思われるからです。
「若々しくて格好良い杜氏さんだね、本当に四十歳を越えているの?」-------その言葉が、蔵の中で私達を見つけて挨拶をしてくれた樋口杜氏に対する私の息子の“印象”です。
平成15BYから鶴の友の醸造の責任者となり十数年たった“樋口杜氏の現在の位置”は、単にトップレベルの越後杜氏のみならず新潟清酒学校の講師でもあり他県の若手の醸造関係者がよく訪れる対象でもあり、(杜氏又は蔵人が引退し造り手がいなくなりかけた)他の二つの蔵に「鶴の友育ちの酒造技能士」を一人ずつ蔵の求めに応じて送り出した“供給基地の責任者”でもあるのです。
樋口杜氏は、酒蔵にも杜氏や蔵人に縁や関わりのまったく無い“飲む側の人間”として尾瀬の山小屋でのアルバイト中に日本酒(吟醸酒)に出会いその魅力に強く引かれ“日本酒を造る仕事”に飛び込んだ方です。
もちろん新潟清酒学校(新潟県醸造試験場の存在もきわめて大きいですが)を持つ46都道府県中唯一の県である新潟だから可能だったことですが、樋口杜氏のケースはその新潟でもきわめて珍しい事例と言えると思われます。
(新潟清酒学校の詳細は右のURLで見てください http://www.niigata-sake.or.jp/torikumi/school/index.html )
最初に所属していた中越の某蔵から縁があり平成10年代前半に鶴の友・樋木酒造に移ってきた樋口杜氏は、風間前杜氏と“超高齢軍団”と一緒の酒造りを数年経験するのですが平成15年に風間前杜氏と“超高齢軍団”が全員引退して蔵を去ることは想像できなかったと思われます。
引用した鶴の友について-2--NO8(2007年12月)に書いたとうり、鶴の友・樋木尚一郎社長は風間前杜氏と“超高齢軍団”の引退と同時にご自分も鶴の友も酒造業界から消え去る“意志”を強く固めておられました。
なぜ鶴の友の造りが継続されたのか、ある程度の想像は出来ますが本当のところは私にもわかりませんが、樋木尚一郎社長とご家族にとっては“ご自分達のための決断”ではなかったと私には思われてならないのです。
樋口宗由杜氏は「従来の越後杜氏・蔵人の“外の世界”から投入された“新しい血”」であり鶴の友・樋木尚一郎社長は「蔵元としてご自分の立場や利益より優先するものがあると固い信念を持つ“新潟淡麗辛口の規格外の蔵元”」です--------“新しい血”と“規格外の蔵元”が現在に至る鶴の友を平成15BYから造り続けています。
鶴の友・樋木酒造の根幹は間違いなく“規格外の蔵元の樋木尚一郎社長”が造り上げたものであり、その樋木社長が造ったフィールドで樋口宗由杜氏という“新しい血”が思う存分活躍しているのが今の鶴の友・樋木酒造なのです。
「造る量が減ることはあっても増えること無い」と言われる鶴の友・樋木酒造は、30年前の醸造数量の半分以下の800石を下回る小さいが“常識外の丁寧な造り”をし続けてきた蔵です。
平成14BYまではすべての面で“超ベテランの巧みの技”で支えられてきたのですが、樋口杜氏が製造責任者になった平成15BYからは“民主的で若いチームの挑戦”によって支えられているのです。
超高齢軍団の酒造りは、“自分達に無理の無いペース”を守りながらも超ベテランの職人の“あらゆる面での妥協”を許さない商品というより“作品”という言葉が似つかわしいものでした。
鶴の友・樋木尚一郎社長が、超高齢軍団の“作品造りという意志”を蔵元としての立場やご自分の都合より優先し続けてきたことが鶴の友という酒を“規格外の酒”にしてきたと私には思えます。
一方、樋口宗由杜氏は他の蔵では考えれない酒造りの伝統の“創造的破壊”を行い、30年後でも鶴の友を造る酒造技能士に困らない“外の世界に開かれた酒造り”を実現させたのですが、それも鶴の友・樋木尚一郎社長の『鶴の友の名声が地に落ちるリスクや蔵が打撃を受けるリスク』よりも樋口宗由杜氏の“創造的破壊”により『30年後も40年後も酒を造り続けられる若い酒造りのチームの誕生』することを優先した“決断”によって初めて可能になったことなのです。
では樋口宗由杜氏の行った酒造りの伝統の“創造的破壊”とは具体的にはどの様なものだったのでしょうか?
基本的に酒造りは農閑期の“農家の出稼ぎ”の蔵人(杜氏も含む)により造られいましたが、その蔵人の集団は高度な専門性を要求されるため長い間ギルドのような職人の徒弟制度によって支えられてきました。
この制度下では下働きから始め長い時間をかけ杜氏まで登りつめるのが普通で、5~6年ぐらいではまだ下積みで酒造りの“全体像”を知る機会などありません。
昭和五十年代前半に私が出会った蔵の杜氏で最若手は四十歳代半ばで〆張鶴・宮尾酒造の杜氏になった藤井正継杜氏でしたし、最年長はその当時既に南部杜氏の長老の一人だった生もとを造り続けてきた伊藤勝次杜氏でした-------酒造りの各パートを経験し現場を知り尽くす杜氏になるには少なくても20年以上は必要な時代だったのです。
時代の変化により、残念ながら、農閑期の“農家の出稼ぎ”の蔵人(杜氏も含む)による徒弟制度に支えられて酒造りは存在はしていますが後継者難のためや酒蔵側の状況の変化で存続が難しい状況にあり、現在の中小の酒蔵においては蔵の後継者自らが蔵人や杜氏も兼ねるのとが多くなってきています。
酒蔵のご子息が東京農大の醸造科を卒業して東広島の独立行政法人酒類総合研究所を経て蔵に帰り醸造の責任者になるのはある意味で自然なのかも知れませんが、もともと外の世界に広い“接触面”を持っているとは思えないない“酒造りの世界”を、より狭い『限られた人たちの、外からの新しい血が入り難い世界』にしかねない側面もあるのではと私個人は感じています---------。
新潟清酒学校の存在はある意味で上記の蔵元兼蔵人(あるいは杜氏)のアンチテーゼかも知れません。
なぜなら入校資格が、新潟県内の酒造企業に通年雇用されており企業主が適任者として推薦している者であること・原則として、経営者の子弟は除くだからです。
昭和五十年代の終わりに、酒造りの後継者を育てなければ農閑期の“農家の出稼ぎ”の蔵人(杜氏も含む)の高齢化と後継者難により事実上地方銘酒としての酒造りが出来なくなる------強い危機感を背景にした新潟清酒学校の設立は新潟県の“酒造県としての実力とレベルの高さ”をある意味で象徴しています。
そのおかげで〆張鶴・宮尾酒造のように社内の人間だけで“遠い将来まで”高いレベルでの酒造りがまかなえ何の心配もない体制を取れている蔵が存在しているのですが、蔵元兼蔵人(あるいは杜氏)より広がりや広い適応範囲を持つとはいえ、(〆張鶴・宮尾酒造の社員である以上)何らかのかたちで村上という地域や〆張鶴・宮尾酒造に関わりのある人達のみに限定されて造られているため、他府県よりはるかに進んでいる新潟県といえどもまったく縁の無い“外側の世界から新しい血”を呼び込むのはきわめて難しいことなのです。
現在の鶴の友・樋木酒造も新潟清酒学校の存在に支えられているのは事実ですが、“外側の世界から新しい血”を呼び込んでいる“規格外の酒蔵”であることも事実なのです。
鶴の友について-2--NO8からの引用で述べたとうり樋口宗由杜氏ご自身が酒造りにも新潟県にもまったく縁の無い生まれで、エンドユーザーの一消費者として若いころの尾瀬の山小屋のアルバイト時代に日本酒(吟醸酒)に出会い強くその世界に惹きつけられた方です。
そして、いろいろな事情もあったと思われますが、自分が杜氏として醸造の責任者として鶴の友を造ることになったとき(廃業した内野にあった蔵から移ってきた一人を除いて)酒造りには素人の尾瀬の山小屋時代の仲間三人を蔵人として招聘し酒造りに挑戦し---------ある意味で無謀と言われかねない“常識外の酒造りへの挑戦”を試み、結果としての“創造的破壊”を行ったと私自身には思えてならないのです。
樋口宗由杜氏の“創造的破壊”は、今振り返ると、そこしかないという“絶妙なタイミング”に恵まれていたかも知れません。
風間前杜氏と超高齢軍団の“総引退”が数年早くても数年遅くても、現在の鶴の友・樋木酒造とはまったく違った“かたち”になっていただろうと私自身には感じられます。
数年早ければ鶴の友は造られない方向に間違いなく動いただろうし、数年遅ければ休廃業も含め違う判断を鶴の友・樋木尚一郎社長はされたように私には思えます。
平成14酒造年度(14BY)から平成15酒造年度(15BY)のこのタイミングでしか“常識外の酒造りへの挑戦”を試み、結果としての“創造的破壊”を行うことが出来なかった-----------そしてこの“絶妙なタイミング”に恵まれなければ、鶴の友は『飲んだ人の記憶の中にしか存在しない“本当の幻の酒”』になってしまう可能性が大きかったことを改めて痛感しているのです。
では樋口宗由杜氏の“創造的破壊”とは具体的にはどのようなことだったのでしょうか。
その内容自体は『特に変わったこと』ではありません。
一言で言えば、酒造りに強い意欲と情熱があれば酒造業界外の人間でも5~6年の鶴の友・樋木酒造でのOJTと3年の新潟清酒学校の講習で、徒弟制度で受け継いできた伝統の酒造りの“担い手の酒造技能士”に成れることを『証明』した------ということになります。
1 鶴の友・樋木酒造は800石以下の小さな蔵ですが、業界外の“素人”が酒造りに挑むにはその小ささが結果としてプラスに働く。
2 樋口宗由杜氏ご自身が業界外の“素人”が酒造りに挑んだ方であったため、どのようにしたら“素人”が分かりやすいか意欲と情熱を維持できるかを実体験で 肌の感覚で理解されていた。
3 小さな蔵のため蔵人全員で対処する“仕事”も多く、また短い期間で酒造りの工程を次々と担当していくため清酒学校を卒業するころには“実地・理論の両 面”で酒造りへの理解が進み酒造りの全体像が自分なりに把握出来る様になる。
4 3年が経過した(新潟清酒学校卒業後)以降は酒造りの“全体像”を自分なりに把握した上で、自分が任された“分野”をより深めていくことが可能になり『樋木酒造の内外の仲間とのコミ-ション』がより活発になり酒造りへの理解と情熱がより進むことになる。
5 樋口宗由杜氏ともうお一人以外はまったくの素人であったがもともと樋口宗由杜氏の古くからの仲間だったため、“徒弟制度の酒造り”とは違う『仲間意識』がスタートした時点から存在していた。
(樋口宗由杜氏にとってもリスクの多い賭けであったが、尾瀬から呼ばれてきた3人にとっても大きなリスクを伴う行動であったため強い仲間意識と信頼が無ければ踏み切れなかった行動だったためありがちな序列感覚など存在せず、困難に若い全員が一致して立ち向かうような“意識”が存在していた)
上記の結果鶴の友・樋木酒造には、平成15BYにまったく酒造業界に縁の無い若い方でも酒造りへの意欲と情熱さえあれば『その出自に関係なく仲間として受け入れて貰える蔵』となり平成という時代に“違和感の無い酒蔵”になったのですが、「時代の流れの中で変えてはいけないものを守るため変えざるを得ないものを変えた」---------言い換えればそう表現できます。
風間前杜氏と超高齢軍団の造る鶴の友は私自身も長く親しんだため愛着がありますが(今も私は数本秘蔵しています)、今振り返ると、平成14BYで全員が引退されなくても残念ながら数年後の引退は避けられなかったと思われます。
平成14BYと平成15BYとの間にはきわめて大きな違いがあります。
前者は伝統の徒弟制度で鍛えられた超高齢軍団が“巧みの技と阿吽の呼吸”を駆使し自分達が納得出来る単なる商品ではない“作品”を造った最後の年であり、後者は平均年齢30歳代前半の素人を含む平成育ちの若手が自分達に理解でき実行し続けることが出来る方法で“鶴の友という作品”を造ろうとした最初の年なのです。
どんなに愛着があり変えたくない“かたち”であっても時の流れという圧倒的力の前では逆らえないことが多いと思われます。
”かたちの変革”を時によって迫られたとき、『変えてはいけないものを守るためそれ以外はすべて変える』-------大きなリスクがあるのを承知した上で鶴の友・樋木尚一郎社長が決断し樋口宗由杜氏と4人の蔵人が実行した“創造的破壊”による“鶴の友の酒造りの成功”は業界全体に大きな良い影響を与えたと私は確信しています。
そして現在の鶴の友・樋木酒造は、古き良き時代の伝統を色濃く残し守りながらも“日本酒業界外の新しい血と言える若い人材”が違和感無く入り込み普通に活躍できる稀有の蔵となっているのです------------。
私が昭和五十年代半ばに出会った杜氏・蔵人の皆さんは、日産のシルビアのS13や180SXに乗っていることは無く想像すらできないことでした。
その当時の皆さんのほとんどが、農繁期はプロの農家であり農閑期には酒造りのプロという仕事のことを第一に考える“職人気質”の集団だったからです。
樋口宗由杜氏は現在の越後杜氏を代表する杜氏の一人であり新潟清酒学校の講師も務めている方ですが、同時にダイハツのコペンが愛車と伺ってもまったく違和感が無い方です。
生もと一筋だった南部杜氏の長老で長く大七酒造の杜氏を務められた故伊藤勝次杜氏の“年輪を感じさせる風貌”も私は大好きでしたが、私の息子が「若々しくて格好良い杜氏さんだね、本当に四十歳を越えているの?」との印象を強く感じた樋口宗由杜氏のような酒造りの“伝統の核心”を受け継ぎながらも、平成の時代に違和感の無い一人でも多くの『ニュータイプの杜氏や蔵人』に酒造りを担っていただくことがこれからの日本酒造りには一番必要なことであり日本酒の将来を左右しかねない大事なことなのだと私には思えてならないのです-------そしてその重大さは、鶴の友という銘柄の高い評価が地に落ちるリスクを甘受しても『ニュータイプの杜氏や蔵人』による酒造りに踏み切った、鶴の友・樋木尚一郎社長が一番理解し痛感されていられたのではないかと今の私にはそう思えてならないのです-----------。
あとがき
OCNブログ人が無くなりGOOブログに移ってきたのを契機に少し勤勉にブログを書こうかなと思ったのですが、相変わらず“短めの論文のような長さ”のため書くのに時間がかかってしまい5ヶ月以上記事をアップしていない“残念な”状況になってしまっています。
特に今回の記事は書くのには(5ヶ月という)時間もかかりいろいろな苦労もありました。
“行間を読んでもらうよな書き方”がこのブログには多いのですが、それが記事が長くなる原因でもありますし”勤勉さに欠ける”原因にもなっています。
もう少し踏み込んで書いても良いかなとの考えは有るのですが鶴の友や〆張鶴のようにありがたいことに現在も直接交流がある蔵には踏み込めても、仮に私の持つ体験や知識が貴重なものであったとしても、八海山や久保田や大七のように現在は交流のない蔵のことは書きずらい面があるのです。
いつになるか分かりませんが大七についてももう少し自分が体験してきたことを踏み込んで書くべきか-----実際に書くかどうかは分かりませんがそんな気持ちが少しずつ大きくなりつつあるのも事実なのです。
なぜなら昭和五十年代半ばの故伊藤勝次杜氏の生もと本醸造・純米への挑戦と発売の経緯をリアルタイムで直接体験した方が大七酒造自体にもう残っていない時代になってしまっているからです--------。