誤解のないように最初に書いておきますが、
私は”生酛”に対して「否定的見解」を持っている訳ではありません。
”生酛”により造られた酒が「過去形」になりかけていた昭和50年代半ばより、未来に向かって現在を生きていくという意味での「現在進行形」に、自ら造る”生酛”をもっていこうと”普通ではない努力”を亡くなられた平成8年まで続けてこられた伊藤勝次杜氏を身近に感じて見てきた私が、「否定的見解」を持つはずもありません。
伊藤勝次杜氏(平成元年より醸造部長)と頭の金田一政吉氏(平成元年より杜氏)が15年をかけて「現在進行形」にしてきた”生酛”と同じように、生酛であろうとなかろうと”庶民の酒飲み”の傍らに自然に存在し自然に飲まれているのか-------もし「現在進行形」であることよりも「伝統の生酛造りという形」を継承していることを重視しているとしたら、20年後、30年後はたして生酛はそのときも「庶民の酒飲みの傍らで自然に”生きて”いられるのか」-------そのことに私は弱くはない”危惧”を感じ、現在の”生酛の世界”に弱くはない”違和感”を感じてはいますが、それは「否定的見解」とは違うものではないのではないか-------私はそう思っているのです。
短く浅い接触でしたが、忘れられない大木幹夫杜氏の言葉が私にはあります。
「伊藤勝次杜氏ですか? 私らとは比較にならない”神様”みたいな存在ですよ。
あれだけの生酛をあれだけの量造れるのは物凄いことで、とうてい私らにできることじゃありませんよ」------もともと伊藤勝次杜氏のいた蔵とは取引があったのですが、この一言が私の興味と関心が生酛と伊藤勝次杜氏の方向に強く向かうきっかけになったからです。
(國権について--NO2より抜粋)
昭和50年代前半に3年連続で全国新酒鑑評会で金賞を受賞した國権の杜氏であり、
その直後”ヘッドハンティング”で月桂冠に引き抜かれ、近年まで月桂冠昭和蔵の杜氏として
活躍された大木幹夫杜氏の言葉を改めて思い返し、國権について--NO2を書いていくうちに
ふと浮かんでくることがありました。
杜氏の大集団である南部杜氏の中でも、若手実力派として評価の高かった大木幹夫杜氏の言葉は、キャリア的にも年齢的にも”南部杜氏の長老格”だった伊藤勝次杜氏に対する”社交辞令”の部分もあったと思われますが、その口調からそれだけではないことを誰でも十分に感じ取れるものでした。
”同業者”だけに大木幹夫杜氏は伊藤勝次杜氏の”もの凄さ”を実感されており、すべてを含めても600石(一升瓶換算6万本)しか造っていないご自身に比べ、生酛だけでも3000石(一升瓶換算30万本)を造っていた「伊藤勝次杜氏の仕事」に気が遠くなるような気持を感じておられたと思われます。
速醸酛に比べられないほど手間と時間を費やし、より”自然の摂理”に向き合わなければならない生酛で3000石造るなんてことは自分には出来ない-------その時の大木幹夫杜氏の言葉は”本音”だったと私には思われます。
「伊藤勝次杜氏は昭和50年代前半まで、(少なくても販売する酒としては)生酛の純米も吟醸酒も造っていなかったが、それは技術的に”造れなかった”のではなく、技術的には造れても”造らなかった”のではないか」--------大木幹夫杜氏の言葉を思い出しているとき、何故だかは分からないのですが、ふとそんな”仮定”が私自身の中から浮かんできました。
もしこの”仮定”がある程度の”正しさ”を持つとすると、私が感じていた”疑問”に私なりに納得できる”解答”を導き出せる--------という”考え”もこの”仮定”と一緒に浮かんできたのです。
いかに生酛一筋の杜氏だとしても、直前の酒造年度に本醸造生酛を造りだし発売した経験があったにせよ、一年であれほど見事な「生酛らしさと淡麗化をバランスさせた」純米吟醸レベルの純米生酛を造れるものだろうか?
もしこの”仮定”がある程度の正しさを持つとすれば、それは”高い確率で可能”という結論になります。
浮かんできた私なりの”仮定の過程”を以下に列挙します。
南部杜氏の長老格のベテラン杜氏が、ご自身が造っていなかったとしても、
吟醸造りの手法を”知らない”とは考えにくい。
南部杜氏自醸酒鑑会等で、南部杜氏の造り出す大吟醸は”見続けて”いたはずで
その造り方を含めて吟醸造りを知っていた-------と考えるほうが自然だと思われる。
全国に広がる杜氏の大集団である南部杜氏の横のつながりを介して、
伊藤勝次杜氏は、昭和40年代後半から50年代前半にかけて大きく変化していく
”日本酒の流れ”を、蔵の上層部や営業部よりつかんでいたのではないか。
その”日本酒の流れ”とは、エンドユーザーの消費者の「食生活のスタイルの変化」が、
糖類の添加を必要とするほどの量の醸造用アルコールを投入されて造られていた
日本酒に「親しみもなければ関心もない」消費者を若い世代を中心に生み出しており
灘、伏見のナショナルブランド(NB)を中核として地方の蔵もそれに追従してきた、従来の日本酒の需要層が高齢化し(まだかなりのボリュームがあったにせよ)減少し始じめた”流れ”でした。
しかしその”流れ”と同時に、ナショナルブランド(NB)に代表される従来の日本酒が、
”にせもの扱い”される中でそのアンチテーゼとして純米や本醸造、吟醸酒に力点を
置いた地方の蔵が、新潟をその大きな”核”として評価され始めていたことも、
伊藤勝次杜氏は感じていたと思われます。
ご自分が造りだし速醸酛とブレンドされた”形”でしか市販されていない生酛の需要層が”高齢化している”事実”を認識されていた伊藤勝次杜氏は、ご自分の生酛が
「現在進行形」ではなく「過去形」になっていまう可能性があることを感じ取っていた。
それゆえ”アンチテーゼの側の蔵”と認識してもらう必要性を伊藤勝次杜氏は
強く感じておられ、遅くても昭和50年代の初めには(少なくてもご自分の”醸造部”の権限の範囲内で)、そのための”試み”を始めていた-------そう”仮定”すると納得がいくのです。
そして”試み”は次のような”形”をとったのではないかと思われるのです。
- その当時はたとえ蔵だけではなく酒造業界全体に功績のあった杜氏であったとしても、
その”身分”は季節雇用の「酒造技能者」でしかなかったのです。
- どのような”形”で酒をどれだけ造り、どれだけ売っていくか-------は蔵の”上層部”が決定する”事項”であり、その”決定事項”にそって酒を実際に造っていくのが「酒造技能者」である酒造りの”職人の立場”だったのです。
- 蔵の方針として純米生酛や吟醸生酛はおろか”単体の生酛”の発売もしていない以上
伊藤勝次杜氏の”試みの選択肢”は限定されていたと思われます。
- 3000石の生酛を造りながらただの1本も生酛単体で発売されていないことは、
造る立場の”酒造りの職人”にとっては残念なことだったと思われますが、その反面”試み”には有利な”環境”と言えました。
- 将来の可能性のために、”発売を前提としない”純米を生酛で実験的に数本造ってみたい。そしてその純米も他の生酛と同様に、速醸酛で造った酒とブレンドして販売する------その”お伺い”は蔵の”上層部”にとっても拒否する必要性のないものだったと思われます。
- 本醸造や吟醸ではなく純米を伊藤勝次杜氏が選んだのは、技術的な理由だけではなくご自身が蔵人として最初に出会った酒がすべて生酛で造られた純米であったことも、影響を及ぼしていたと思われます。
昭和40年代後半から50年代前半にかけての時期は、純米酒は現在に比べてきわめて少ない量しか存在していませんでした。
その少ない量の中でも、「飲んで美味い純米酒」はさらに少なく、ややおおげさに言うと
”砂漠の中でダイヤモンドを探す”ようなものだったのです。
当時のほとんどの蔵にとって、純米酒そのものを造ることは難しいことではありませんでした。
ただし普通に純米酒を造ると、重くて、くどくて、しつこい-------「純米三悪」と言われたくらい
”酒の柄”が悪くなり、糖類の添加を必要とするレベルの大量のアルコールを投入された酒のほうが「まだしも飲みやすくて旨い」--------今振り返ると、”笑い話”のような状況が現実にあったのです。
速醸酛に比べ桁違いの醗酵力を持つ酵母を育ててしまう生酛で、重くて、くどくて、しつこい-----の「純米三悪」にならない”柄の良い純米”を造ることは、簡単な”作業”ではありません。
伊藤勝次杜氏、頭の金田一政吉氏をその中心にした、3000石の生酛を造ってきた、
この蔵の”南部の蔵人集団”にとっても、簡単には越えられない”高いハードル”が純米生酛だったのです。
その”高いハードル”を越えるため、私個人の”想像”ではですが、伊藤勝次杜氏は以下の手順を踏んだのではないかと思われます。
- 酛も醪も従来どうりだが、(当然ながら)アルコール添加をせずに醗酵を進め、日本酒度をプラスに入る前後まで”切って”上槽した純米生酛実際に造って、麹、酛、醪、
貯蔵、熟成の”経過”を見る。
- そして翌年、前酒造年度の純米生酛の酒質の”不満足な点”を改善するため、麹、酛、醪のどれかかあるいは全部に”変更”を加えその”経過”を見る。
- さらにその翌年も2.を繰り返し、そして年を経るごとに”実験”のための純米生酛の本数が増えていったとも思われます。
- 4~5年の”実験”の結果、伊藤勝次杜氏は強い醗酵力を持つ生酛で”酒の柄”が良く綺麗な純米を造るためには、吟醸酒の手法を取り入れ純米吟醸を造るようなつもりで酵母の醗酵力を押さえ込むのがいいのではないか。
- そしてその吟醸酒の手法も、南部杜氏の華やかで香り高い吟醸酒の手法よりもより徹底して低温で酵母を押さえ込む、嶋悌司先生(元新潟県醸造試験場長)が強いリーダーシップを発揮され評価の高まっていた新潟淡麗辛口の吟醸造りの手法のほうが純米生酛には”相性が良い”-------伊藤勝次杜氏はそう感じられていたのではないか------私にはそう思えてならないのです。
- 1~5の”想像”が仮に正しいとすると、”発売されていない”生酛単体の酛米、麹米が五百万石で麹が突き破精(つきはぜ)タイプであったことと、私が”違和感”を感じなかったことの”説明”がつくのです。
以前に何回も書いていますが、新潟淡麗辛口は低温での醗酵に適し良い意味で「醗酵力があまり強くない」協会10号酵母をできる限り低温の環境下で醗酵させ、意図的に醪日数が長くなるような造りをして、「酒を造っているより”酒粕を造っている”」と言われるくらい粕歩合の高い白米からの酒化率が低い(原料の白米からできる酒の量が少なくコストが高くなることを意味しています)、出品大吟醸の造りから”得られたもの”を惜しみなく投入されて意図的に造られた、吟醸酒にきわめて近い市販酒--------それが新潟淡麗辛口の”本質”だと私個人は思っています。
低温で長期の醪日数により吟醸酒レベルの”淡麗化”を果たしながらも、”切れ”にバランスしたふくらみをもつ〆張鶴、燗をしても崩れないやわらかできめ細かいしっかりとした”味わい”を持ちながらも新潟でもトップレベルの”切れ”をも持つ鶴の友--------他県の市販酒を”淡麗化”で圧倒しながらも”淡麗化の負の側面”がまるで無いのは、新潟県産の酒造好適米の
五百万石の”おかげ”だということは、そのころにはいくらおそまつで能天気な私でも少しは”実感”できていました。
「軽くて切れが良い酒は蔵が一生懸命に造ろうすれば造れるし、しっかりとした味があってふくらみのある酒も造れる。しかしだN君、軽くて切れのある酒は素っ気なくて薄っぺらになりがちだし、味があってふくらみのある酒はややもすると重くてくどくなりがちだ。
軽くて切れが良いということと味があってふくらみがあるということは、N君、残念ながらふつうの場合”二律背反”で、ひとつの酒の中に矛盾無く”実現”することはきわめて難しい。
俺は嶋先生とは違い酒の技術的なことは何も分からないが、新潟淡麗辛口は君がよく行っている〆張鶴ひとつとってみても、軽くて切れが良いがやわらかなふくらみがありけして素っ気なくもなかれば薄っぺらでもない。 それはもちろん嶋先生や蔵元、杜氏の努力の成果だと思うが、新潟県産の五百万石という酒造好適米のおかげという面もあるとも感じている」
これは私が新潟に行き始めて1年ほど経ったころに、早福岩男早福酒食品店社長(現会長)に伺ったお話です。
新潟県の酒蔵107場のすべてを訪れ、嶋悌司先生と”親しい関係”になるほど新潟県醸造試験場に通った”実績”があった、この時期の早福さんが「酒の技術的なことが何も分からない」としたら、現在の私は「酒の”さの字”すら分からない」ということに自動的になってしまいますが、昭和50年代前半のこの時期に(たとえ私がほとんど分かっていなかったとしても)、
このお話を早福さんから伺えたことは、大きな”幸運”でした。
そして早福さんは、さらに私にとって重要で大きなことにつながるお話もしてくれたのです。
「ここから近い内野という所に鶴の友という銘柄の酒を造っている樋木酒造という蔵がある。
本当に”頑固”な蔵で、取引先の酒販店も新潟市とその近辺しかないし新規の取引はすべて断っていて本来の意味での”新潟市の地酒”に徹している。
鶴の友は、五百万石にこだわり一番価格の安い2級酒にも使っているのだが、その五百万石の数量が少ないため必然的に販売石数も少なくなってしまっている。
この鶴の友の酒質は”不思議”としか言い様がないもので、新潟淡麗辛口の中でもトップレベルの”切れの良さ”を持ちながら米の旨みとしか言えないしっかりとした味があり、しかもその味が燗をしても崩れない”強さ”に支えられている-------蔵元の樋木家や風間杜氏の姿勢を五百万石という”米の力”が手助けしているとしか思えない酒質なんだ」
このような話を聞けば、当然ながら、”万難を排しても”鶴の友という蔵に行きたくなります、
ましてや早福さんの近所なのですから--------。
「断られるとは思うが、行ってみたくなるだろうな-----」、と微苦笑を浮かべながらも早福さんは樋木酒造への道順を教えてくれたのですが、それは今振り返ると、現在の私に至る大きな
”道しるべ”のひとつでした。
”鶴の友への道”のその後の展開は、「鶴の友についてシリーズ」に書いてありますがそれはともかく、私は新潟に行き始めた早い段階で、五百万石を麹米に使うと”軽くて切れの良い”淡麗な酒になりやすく、酒のあらゆる工程で”手抜き”をしない時間をかけた丁寧な”造り”をすると、その五百万石が”素っ気なくて薄っぺら”になることをも防ぎ-------淡麗化にバランスしたやわらかさやふくらみをも与えてくれるという”事実を知る機会”に巡り合っていたのです。
昭和50年代半ばの私は、現在の私ほど”その事実”を明確には意識していませんでしたが、”その事実”から強い影響を受けていて、それが”〆張鶴というものさし”を私の中に造り上げていたと思われるのです。
伊藤勝次杜氏の本醸造生酛は、新潟淡麗辛口ほど”淡麗化”はされていませんでしたが、
”その事実”を巧みに駆使して生酛らしさを保持しながら、”生酛の負の側面”を押さえ込み綺麗で切れがあり冷やでも熱めの燗でも美味い酒質を、1600円前後の価格で実現した素晴らしい市販酒でしたが、吟醸酒的要素を十分に感じるものでしたが吟醸酒と言うには少し”淡麗化”が足りなく、私自身も吟醸酒レベルとは言い切れませんでした。
しかし本醸造生酛は、エンドユーザーの消費者、その中の若い需要層にも受け入れられる”資格”を持ちながらも、伊藤勝次杜氏が受け継いできた生酛の”本質”を失ってはいない、ありがたくて”凄い酒”だったのです。
何事もなければこの蔵と私の”交渉”は終了して、私は「大勢の取引先の酒販店の一人」という本来の立場に戻るはずでした。
幸か不幸か、”事件”がこの蔵との”交渉”に私を引き戻すことになったのです。
好意で手助けしてくれた先輩に、結果として、その好意に泥を塗ってしまった私は”追い込まれて”いました。 しかし今でも、幸か不幸かよく分からないのですが、本醸造生酛の市場での評価とその評価の高さが引き起こしたとも言える”事件”のおかげで、”交渉”は前回と比べて”やり易く”なっていました-------”追い込まれて”いたことと”やり易く”なっていたというふたつが私をして、伊藤勝次杜氏に純米生酛発売への”お願い”をさせたのです。
「純米というハンデ付きでお願いするのは本当に申し訳ないのですが、淡麗辛口には出せない生酛らしい味の厚みを持ちながら淡麗辛口のように ”切れ”の良い純米を生酛で造って欲しい」という ”無茶な”なお願いでした。
この純米の生酛が無いと状況が改善出来ないと続ける私に、”IK杜氏”はしばらく無言でした。 「やはり無理なお願いだったなぁ」と落胆し始めた私に、「Nさんの言う酒は大変に難しい。難しいが、それが飲む人の要望ならやってみるしかない。酛の段階から一から見直しやってみましょう」と答えを返してくれました。
(長いブログのスタートですより抜粋)
私はかなり難しいかもしれないが、伊藤勝次杜氏ならできるはずだという”直感と確信”を感じていました。 その”直感と確信”は、本醸造生酛で伊藤勝次杜氏が駆使されたと私が感じていた”その事実”に支えられていました。
このときの伊藤勝次杜氏の”長い沈黙”は、何を意味していたのか?
現在の私は以下のように仮定というか想像しています。
例年どうりの造りに本醸造生酛の本数も増える状況で、純米生酛の製品化は蔵人、特に頭(かしら)、麹師(こうじし)、酛師(もとや)、釜屋(かまや)に過大な負担を与えることにならないか
何とかなるとしても、醪の本数を調整して負担の軽減は考えなければいけない
本醸造生酛と純米生酛は別な酒と考えなければならないが、今までの”実験”の成果で対応できるか?
”蔵の方針”として純米生酛を発売するのであれば、ぜひ造ってみたいし造る以上は飲む人に喜んで飲んでもらえる酒を造りたい
1~4のことに思いをはせながら伊藤勝次杜氏は”長い沈黙”をされていた-------今の私はそう感じていますし、伊藤勝次杜氏ご自身は「純米吟醸レベルに淡麗化された純米生酛は造れる」と思っておられたとも私は感じています。 結果から言うと私の”直感と確信”は、間違ってはいなかったのかも知れませんが、どのように純米生酛を造り上げたのかは、やはり残された”手がかり”をもとに想像するしか方法がないのです。 そして最大の”手がかり”は私自身が飲んだ、昭和57年に発売された純米生酛の、私自身の”記憶”だったのです。
私個人が”手がかり”をとうして推測できたことは、
- 4~5年の”実験”の結果、生酛らしさと淡麗化がバランスするポイントが”ある範囲”にあることは伊藤勝次杜氏は掴んでおられた
- 本醸造生酛の発売は”実験の範囲”の拡大のチャンスだったが、発売自体が微妙なバランスにより支えられたもので、本醸造生酛の市場の評価しだいでは今後の”生酛単体の発売”も危うくなる危険もあったため、”安全性”を重視した造りになった
- その”安全性”とは、従来の生酛らしさをあまり押さえ込まず綺麗さと切れの向上に重点を置く------というリファインの観点の造りではなかったかと私は思うのです。
- それに対して純米生酛は、蔵全体が”行ける”との好感触を得ている状況下で蔵全体のサポートが期待できていたし、コストよりも”酒質”を実現できるかの方が”優先順位”が高かったと思われます。
- そこで伊藤勝次杜氏は、本醸造生酛のときにも脳裏に浮かんでいた「冒険だが成功する確率が高い冒険」に踏み切ったと思われるのです。
- その”冒険”とは、「純米吟醸レベルに淡麗化された純米生酛にバランスするポイントまで、生酛らしさを押さえ込む」という、本醸造生酛のときとは”逆の発想”の造りではなかったのか。
- そして”成功する確率の高さ”とは、”ある範囲”にあるポイントを実際に見つけ出すためにその”ある範囲”を埋め尽くせば確率は100%に近くなる------ということだったのないかと想像できるのです。
- 具体的には、吟醸酒にとって一番大事な麹を微妙に変えて(もちろんそれによって酛も醪も変わってきます)発売予定本数(タンクの本数)の数倍を仕込み、ポイントに当たったと伊藤勝次杜氏が判断した醪だけが実際に純米生酛として”発売”されたのではないか-----現在の私はそう思っているのです。
初めて市販される純米生酛が実際に造られている時期、私がこの蔵を訪れたときの話ですが、伊藤勝次杜氏直々に麹室、酒母室を案内していただき醪の醗酵タンクにたどり着いたとき、伊藤勝次杜氏が珍しく冗談を含んだ口調で、
「この醪はNさんに”注文された”純米生酛だけど、これはうまくいった醪。隣も純米生酛だけどこれはちょっと駄目でNさんには買ってもらえそうもないかなぁ」と気持ち良さそうに笑顔を浮かべられた後で、なぜその醪が駄目そうなのか説明して下さったことがありました。
26~27年も前のことですがよく覚えていたのは、伊藤勝次杜氏のそんな愉快そうな表情を見るのが初めてで珍しかったからです。
今振り返るとこのときの私は、単におそまつで能天気なだけではなく、救いようのないほど”間抜け”で穴があったら入りたい心境になります。
通常なら、蔵の部外者でも感じざるを得ない緊迫した”空気”に包まれている仕込みの最盛期の時期に、仕込みの責任者である伊藤勝次杜氏が微かに”悪戯心”を感じさせるような上機嫌な様子で私に、”目の前”の純米生酛の醪ではなく”隣り”の純米生酛の醪が駄目そうなのか説明してくれていることを、なぜ私は「不思議なこと」と思わなかったのか-------本当にこのときの私は”間抜けの王様”でした。
「淡麗化にバランスするポイントまで押さえ込まれた生酛らしさ」-------きわめて幅の狭い、きわめて小さいポイントを、伊藤勝次杜氏が見事に捉えた純米生酛の醪を目の前にしながら、まるで私にはそれが”見えてなかった”のですから-------。
伊藤勝次杜氏は”意地悪”でそうされたわけではなく、秋には分かってもらえるだろうことをあえて自慢げに言う必要なないだろうというお気持だったと思われますが、「ちょっと”抜けて”いるところがNさんらしくて面白い」と絵に描いた”コメディの主人公”のような私の姿に、笑いをこらえられなかった”状況”をも楽しんでおられたのだと思われます。
この話は私の”間抜けさ”の証明であると同時に私の”仮定の根拠”のひとつでもあるのですが、さらに伊藤勝次杜氏のいた蔵と私と関係をも”象徴”しているようにも今の私には感じられるのです。
ここまで書いてくると、書く必要もないのかも知れませんが、
「伊藤勝次杜氏はなぜあの時、私のとんでもないお願いを聞いてくださったのか?」
この”疑問”に対する私個人が私なりに納得できた”解答”は、
「伊藤勝次杜氏はそのレベルの純米生酛を造れたから」というシンプルなものです。
私の”お願い”が、伊藤勝次杜氏の純米生酛に影響を及ぼした点があるとすれば、
その純米生酛を昭和56酒造年度(56BY)に製造し昭和57年に発売するという”時期”の決定だけだったのです。
しかしこの”時期の決定”が、結果として、伊藤勝次杜氏の生酛にとって「小さくはない影響」を与えたことも”事実”と言えました。
久保田の発売に代表される新潟淡麗辛口の”大攻勢”が全国を席巻する直前に、新潟淡麗辛口の得意とする”軽みと切れの良さ”に”対応できる切れ”を獲得し、新潟淡麗辛口がやや苦手とする”味の幅や丸み”に強みを持った上で熱めの燗でも崩れないという”個性”を持つ伊藤勝次杜氏の純米生酛が存在したことは、この蔵にとっても生酛全体にとってもきわめて大きな幸運であった------私個人はそう感じられてならないのです。
まるで、「淡麗辛口にあらずんば酒にあらず」と言われてるかのような、昭和50年代後半から平成6年ごろまで続いた、「他の地方蔵をブルドーザーのように圧倒した」新潟淡麗辛口の大攻勢の中でも、鶴の友の”きめ細かくしなやかで骨太の淡麗化”(申し訳ありませんが、鶴の友を実際に飲んだ人しか分からない”表現”かも知れません)に似た”淡麗さ”を持つ伊藤勝次杜氏の生酛は、「生酛であることがプラスではない生酛にとって”冬の時代”」であっても”違和感”を感じさせることなくエンドユーザーの消費者に飲まれ、その本来の特性である
”味の幅や丸み”に強みを持った上で熱めの燗でも崩れないことを”個性”として受け止め認知してくれる人達を、エンドユーザーの消費者の中に少しづつですが増やし続けていたのです。
そして伊藤勝次杜氏がお亡くなりなる平成8年前後に、「行過ぎた淡麗化に対する反動が顕在化し」、新潟淡麗辛口のアンチテーゼとしてその対極にあった生酛に”スポットライトが当り始め”、生酛の認知度と評価が高まることになったのです。
この大事な時期の、平成8年11月から9年の1月の二ヶ月間に、伊藤勝次杜氏(平成元年より醸造部長)、金田一政吉杜氏(平成元年より杜氏)のお二人を続けて失ったことがきわめて大きな”痛手”であったことは想像に難くありません。
残されたこの蔵の”南部の蔵人集団”が、その痛手を乗り越え生酛を造り続けてきたことは賞賛に値すると私も思いますが、「冬の時代の生酛を支え春に向かって進んできた」お二人の生酛とは違った面が出てくるのはある意味で自然でやもを得ないことでした。
生酛であることが大きくプラスに働く現在のこの蔵は、日本酒全体の地位が低下しシェアを落し続けている中で、”冬の時代”に比べ大きく拡大した生酛という日本酒のひとつの”カテゴリー”の中のトップブランドであり、”生酛の世界”のナショナルブランド(NB)とも言うべき地位にあります。
そのためではないと思われますが、伊藤勝次杜氏の生酛に存在していた、私個人にとって一番重要な”淡麗さ”-------ごく普通の庶民の酒飲みに”違和感”を感じさせない”淡麗さ”の印象がかなり弱くなっている-----そう現在の私個人が感じているので、生酛に関心のある人なら誰でも想像できる伊藤勝次杜氏がいた蔵の名前と銘柄を、あえて私は書かないのです。
今振り返ると、ごくふつうのおじいさんにしか見えなかった伊藤勝次杜氏は凄い杜氏でした。
自らの受け継いだ生酛の、客観的に見て”滅びかけていた冬の時代”にも生酛一筋に造り続け、ご自分の生酛を平成の時代へ向けて”現在進行形”であり続けられる酒にするためならば、おそまつで能天気で”間抜け”な私の言葉でも、ほんの少しでもプラスあると思われれば真摯に受け止めご自分の生酛に反映させようとされていました。
昭和50年代半ばから平成の初めにかけての、この伊藤勝次杜氏の「普通ではない努力の集積」が、現在のこの蔵の地位も生酛全体の認知度と評価をもたらしたと私は思っています。 その”功績”の大きさは、伊藤勝次杜氏の生前も正当に評価されているとは思えませんでしたが、亡くなられて十数年がたった今ではその事実自体を知る人がいなくなりつつあります。
昭和50年代半ばの生酛にとって”冬の時代”から昭和が終わりを告げた平成元年まで、
私は蔵の外部の人間としては、一番近くで伊藤勝次杜氏の”仕事”を見せてもらった一人だと思います。
「否定的見解」がほとんどだった時期も、それに影響されることなく生酛一筋に造ってこられたのは、酒造りの職人としての”誇りと自覚”からだったと思われますが、私はそれだけではなかったように感じていました。
なぜなら伊藤勝次杜氏との”キャチボール”の中で、「飲む人の要望がそうであるならば」、
「飲む人の立場から見てそうであるならば」という言葉がいつも出ていましたし、直接エンドユーザーの消費者の感想を聞く機会がきわめて少なかった”冬の時代”であっても「飲んでくれる人のために手は抜けない」という伊藤勝次杜氏の言葉をいつも私は聞いていたからです。
私は生酛は日本が世界に誇るべき”文化でもあり伝統”だとも思っていますが、”文化や伝統”は庶民の傍らに自然に”存在”していなければ、受け継がれたとは言えないのではないかとも思っています。
昭和50年代に入る前に生酛を止めた灘、伏見のナショナルブランド(NB)が生酛を復活させたり、かつて生酛に「否定的見解」を持っていた蔵まで生酛に”新規参入”している現在の状況は、伊藤勝次杜氏のいた蔵の現在の”上層部”や昭和の時代から生酛を造ってきた”老舗の生酛の蔵”にとっては「春か初夏の季節」に見えていると思われますが、
生酛の”冬の時代”を知っている私には、少しづつですが確実に冬に向かっている「秋の気配」を感じる”景色”に見えてならないのです。
はたして現在の生酛と”生酛の世界”は庶民の酒飲みに支えられ、庶民の酒飲みに身近で日常的なものとして存在しているのか--------伊藤勝次杜氏の時代よりエンドユーザーの消費者との距離ができ、庶民の酒飲みに”敷居の高い存在”になっているのではないかという
”危惧と違和感”が、たぶん私に「秋の気配」を感じさせているのかも知れません。
平成3年に業界を離れ、平成8年に伊藤勝次の訃報を聞いたとき、私にとっての生酛は”終わって”いたと私は感じてきましたし、その後この蔵を訪ねたことはありませんでした。
しかし業界を離れても私は、〆張鶴、千代の光そして鶴の友との”人間関係”はありがたいことに切れずに続き現在に至っています。
その新潟淡麗辛口の蔵を中心にこの日本酒エリアNを書くことで昭和50年代前半から平成3年までを”再体験”した-----と以前書きましたが、伊藤勝次杜氏の生酛もその例外ではありませんが詳しく書くことはあまりありませんでした-------その私が今回なぜここまで詳しく書いているのかにようやく気が付きました。
この日本酒雑感のNO3~NO8はおそまつで能天気でしかも”間抜け”でもあったその当時の私が知りえたことに現在の私が知りえたことを加えて書いた、平成8年の11月22日雪の降る寒い日におこなわれたと聞いた伊藤勝次杜氏の告別式に参列できなかった私の、十数年遅れの”長い長い弔辞”のようなもので、今が書くべきタイミングなのだということに--------。
そして、たぶん”空耳”だとは思いますが、「Nさんはちょっと抜けているところが面白くていい」という故伊藤勝次杜氏の懐かしい声も聞こえたような気もしたのです--------。
日本酒雑感--NO9または國権について--NO3に続く