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新潟淡麗辛口の蔵の人々と”庶民の酒飲み”の間で過ごした長い年月
(昭和五十年代~現在)を書き続けているブログです。

國権について--NO4

2009-04-04 23:04:48 | 國権について

2008512_002

國権についてNO3の続き

細井専務の言われることは私も十分承知していましたが、私の”考え方”が私自身の体験に基づく”帰納法的なもの”だということは、細井専務にも理解していだだけていると思われます。

蔵、それも600石前後の販売石数の小さな造りでは、経営的にはけして楽ではありません。
小さくても”日本酒の製造”は、他のアルコール商品に比べ、手間ひまがかかるうえに他のアルコール商品と同じように”装置産業”という側面も持っています。
設備の投入は多少の労力の軽減と酒質の向上をもたらしますが、杜氏を始め蔵人の手間ひまを惜しまない造りの”根本的解決”にはつながりません。
そのうえ設備の更新や新規投入による酒質向上が、必ずしも販売総金額の向上につながらないのです。
日本酒業界にとって大幅な設備の投入が可能な場合は、同じ労力で投入した設備投資を賄えるほどの販売金額が増大する数量を造り出すことが可能なとき--------知名度の向上によって数量の大幅な拡大が見込めるときだけなのです。
しかし酒蔵も”企業”である以上、大幅な拡大に一旦舵を切ると”企業”として効率と売上高、利益の向上が最優先され酒質の維持向上の優先順位が下がっていくのが、残念ながら現実で、そのスパイラルに入った酒蔵が「地酒のイメージを纏ったナショナルブランド」になっていってしまう確率が高いのも、また現実なのです。
地酒が地酒であり続けるのは、大きな成功を収めても難しく、成功しなければもっと難しいものなのです。

地酒の蔵であり続けようとしている、細井専務の直面している”困難さ”は、おそまつで能天気な私にも、残念ながらよく理解できるのです。
設備の投入に限らず、細井専務が國権の酒質向上のためにしたいことが数多くあると思われますが、その多くを「損益計算書」が阻んでいます。
細井専務は、「損益計算書」の許す範囲の中で最善の努力を積み重ねようとされていますが、その努力にも限界があることを一番良くご存知なのは細井専務ご自身です。


私個人は、地酒の蔵であり続けようとしている蔵は、”形のうえ”では鶴の友と〆張鶴の間にそのすべてが入っているような気がしています。
”企業”としての自然で当然の利益を毀損してまでも”地酒の蔵”であることを優先する鶴の友、”形のうえ”では酒蔵の中でも最も成功した”企業”のひとつでありながら状況が許す範囲で”拡大のスパイラル”に抵抗し、地酒の蔵であることの部分をできるだけ残そうとしている〆張鶴-------対極にあると思えるこの鶴の友と〆張鶴の間には、当然ながら”差異”もありますが似ていると言うか”共通”の部分もあるのです。

有名銘柄を含む新潟淡麗辛口は昭和五十年代前半と現在では、残念ながらその姿を変えています。蔵の大きさ、知名度だけではなくその酒質が昭和五十年代とまるで”別物”になってしまった蔵が少なくない中で、鶴の友と〆張鶴(千代の光もそうですが)はそのころの酒質を維持して30年以上に渡って変わらぬ酒質をエンドユーザーの消費者に提供し続けてくれています。

30年以上前の半分強にまで販売数量を落としながら、強い”信念”で地酒の蔵としてその酒質を守り続けた鶴の友は本当に稀有の蔵で、そのご苦労のごく一部しか知らない私ですら造り続けていだだいているのは、やや大袈裟に言うと”奇跡”だとしか思えないのです。

一方、30年前に比べ3倍前後の販売数量があり、”企業”としても成功を収めた〆張鶴が僅かに醸造石数の増大の影響を受けながらも、変わらぬ酒質を維持し提供し続けてくれていることも通常では”ありえない”ことだと私個人は感じてきました。
そしてそれが、他の超有名な新潟淡麗辛口の複数の銘醸蔵と〆張鶴との”違い”だとも感じてきたのです。

一万石級の製造石数とその抜群の知名度、ひとつの都道府県あたりの正規取扱店の数がきわめて少ないにせよほとんど全国をカバーしている販売網--------これらを知る業界関係者や日本酒のファンにとって、「〆張鶴は、村上市あるいは新潟県下越地方の地酒の蔵として存在している」と言われたら抵抗を感じたり異論を持つ方は少なくないと思われます。
しかし宮尾行男社長始め宮尾酒造の皆様の意識の中では、そのように感じておられるのではないかと私は長年に亘って想像してきました。

そう感じる私なりの理由は、

  1. 昭和五十年代前半より宮尾行男専務(現社長)、故宮尾隆吉社長の”考え方”を直接伺える機会に恵まれただけはなく、現在ほど有名ではなかった時期に正規取扱店の一人として、その”考え方”がどのように醸造の現場や販売方針に反映していたかを私自身の実体験の中で知る機会があったこと。
  2. 私が業界を離れた平成3年以降、〆張鶴も日本酒ブームの中で拡大し続けていきましたが、エンドユーザーの消費者の一人として現在まで(ありがたいことに)お付き合いさせていただいている私には、”企業”として自然で当然な成長を拒んではいないが同時に出来得る限り醸造方針も販売方針も変えないという”意志”も感じられたこと。
  3. そして何より私の周囲にいる30年以上〆張鶴 純 を飲み続けている「吟醸会」の仲間達が、「〆張鶴は変わっていないし飲み飽きもしない」と言っていることです。
  4. 上記の3の事実は簡単のように思えて実はきわめて難しく稀なことであることを、私や「吟醸会」の仲間達は30年の時間の経過のおかげで実感しているからです。

かつて”業界”の人間だった私にとって、初めて出会った日本酒であり”本籍地”とも言える新潟淡麗辛口も30年もの時間が経過すると、その姿も認識も変わるほうが自然と言えます。
むしろ変わらないほうが”不自然”なのです。
変わらないためには”不自然さ”、言い換えれば”強い意志”が必要なのです。

3500石が一万石級に増えても僅かの変化はあるにしても”変わらない”ことは、鶴の友が”変わらない”ことと質や形は違うものの、実は稀で困難なことなのです。
〆張鶴の数量拡大は、4~5年ではなく、30年に亘って少しずつ慎重に計画され着実に実行されたものだ------私はそういう印象を持っています。
基本的に地元、県外を問わず〆張鶴の営業方針は「酒販小売店との直接取引」に限定されます。
新規取引には、私が取引をさせていただいた昭和五十年代前半からきわめて慎重で、
「取引する以上ただ扱っているということではなく、小売店にも蔵にもメリットのある数量でなければ取り扱いの意味がないのではないか」-------という”考え方”がその背景にあると私は感じてきました。
〆張鶴が”店の飾り”で良い場合以外は、酒販店側も、売れば売るほど数量の拡大が必要になってきます。
しかし急激な醸造数量の拡大は、酒質の向上とは”相性が悪い”ため、酒質の維持が可能な範囲での(設備の改善や設備の新規投入をして)数量拡大しかできず、その結果私が取引させていただいた最初の年から需要期(10月~3月)は割り当て、昭和五十年代後半には
「全体の醸造数量が昨年の110%になりますので、今年のNさんのお店の年間割り当て数量は同じく110%になります。月別に数を記入してありますが、月別の数量の変更はできるだけご要望にそえるようにします」-------という状況になっていました。
(事実、私の店の販売状況に合わせた頑なではない対応を、〆張鶴・宮尾酒造の皆様は可能な範囲でして下さいました)
しかし昭和六十年代に入ると、最初からこの状況を予測し「売る本数より投げる本数のほうが多くても実績を積み上げてきた」、エンドユーザーの消費者に”普通に販売していたため”店の規模の割にはかなり多いと言えた”実績”を持つ私の店でも、〆張鶴は”逼迫”するようになっていて、残念ながら新規のお客様に買っていただく1本を捻出するのに苦労する状態になっていました。

この時期私も他の酒販店の方々と同じように、〆張鶴や八海山の”需要と供給のギャップ”を埋めるため久保田の積極的販売に出ざるを得なかったのですが、この”状況”は私だけではなく、昭和五十年代初めから新潟淡麗辛口の販売を始めて先行していた酒販店のほとんどもこの”状況”に置かれていたことが、久保田の異例とも言える”大成功”の原因のひとつだと私は実感しています。
そしてこの久保田の”大成功”が、新潟淡麗辛口の先行した有名銘柄に大きな影響を与え大幅な数量拡大へと舵を切らせるのですが、〆張鶴・宮尾酒造はその方向には向かわず自分の”ペース”を守ったのです--------そしてそれが現在の新潟淡麗辛口の他の有名銘柄と、〆張鶴・宮尾酒造との「決定的な違い」となったのです。

毎年5%づつ製造する数量を増やすとすると、22年で約3倍の数量になります。
そう考えると、30年以上かかって3倍前後の石数になった〆張鶴・宮尾酒造は、拡大を自ら強い意欲を持って意図した”企業”とは、私自身は、とうてい思えません。
〆張鶴・宮尾酒造が”成功した企業”であり、地酒の蔵と言うには桁が違う販売数量を持っていることは私も十分に承知していますが、しかしその事実が必ずしも〆張鶴・宮尾酒造が「地酒であり続けることに強いこだわりを持つ蔵であること」を否定する証拠にはならない--------私はそう感じています。

〆張鶴・宮尾酒造に、批判的な見解を持つ人達の批評のすべてが間違っているとは私も思っていませんが、口の悪い人達に”新潟ナショナルブランド”と言われる他の新潟淡麗辛口の有名銘柄に対するのと”同じ観点での批評”は少し的外れのような気が私はしています。
社員の生活に責任を持つ”企業”である以上は、数量拡大による利益の拡大の追求は自然なことです-------しかしそれを最優先したとするなら、不可思議と言うか整合性に欠けると言うかそれとも矛盾とでも言うべき”非合理性、非効率”が〆張鶴・宮尾酒造に存在していると私は感じているからです。
その”非合理性、非効率”は〆張鶴の数量が増えれば増えるほど、まるでバランスを取るかのように印象が強くなってきたように思うのです。
言い換えれば”非合理性、非効率”は、宮尾行男社長始め宮尾酒造の方々が「〆張鶴がそれを失ったら自分達の〆張鶴ではなくなる」と思われている部分--------〆張鶴はファクトリーではなく”酒蔵である”ことへの強いこだわりだと私は思うのです。
〆張鶴・宮尾酒造はこの30年、その酒質の特徴と同じように、”企業”としての成功と酒蔵であり続けることのバランスを取ることに”苦心”し続けてきたように私には感じられます。

その”バランスを取ること”を支えた方法は特に珍しいものでも目新しいものではありませんでした。

  1. 〆張鶴の酒質向上、酒質維持を最優先する。
  2. そのためには酒質を毀損しない範囲での慎重で計画的な増石しかできない。
  3. そうすると必然的に販売も計画的販売方針を採らざるを得なくなる。
  4. 計画的販売方針を採るためには、〆張鶴の”考え方”を理解してくれる酒販店(小売店)との直接取引が必須になる。
  5. 具体的には、村上市を中心にした地元の従来の需要を大事にしながらも、昭和五十年代前半にすでに〆張鶴の”代名詞”になっていた〆張鶴 純 や特定名称酒を増石の中心にして、その時点でも〆張鶴 純 や特定名称酒に強い需要のあった関東を軸にした新潟県外の酒販店(100%直接取引で増石の範囲内で対応できる限られた軒数ですが)販売していくが、増石そのものに限界があるため「年間割り当て」にならざるを得なかった。

〆張鶴・宮尾酒造の採った方法は、上記のように、他の新潟淡麗辛口の有名銘柄とさして変わったものではありませんでした。
しかし〆張鶴・宮尾酒造はどんな局面でもこの”方法”から逸脱することなく、きわめて強い増産圧力にさらされた時期も守り続けてきたのです。
鶴の友・樋木酒造の”頑固さ”とは質的にもタイプ的にもその”違い”は大きいのですが、
〆張鶴の梃子でも動かない”頑固さ”も私は感じ続けてきたのです。

鶴の友らしさを守るため30年前の約半分強まで醸造石数を減らした、鶴の友・樋木酒造は「有り得ない”企業”」ですが、〆張鶴・宮尾酒造も酒造業界の中では「きわめて稀な”企業”」だと私個人は痛感しているのです。
そして日本酒業界にとって、ある意味で必然的と思える危機の中で「地酒らしい地酒」として生き残っていく酒蔵は、対極にあるように見えるが共通の部分をも持つ鶴の友・樋木酒造的な部分か、〆張鶴・宮尾酒造的部分を持つ必要がある--------鶴の友と〆張鶴の”考え方”の間に”考え方のベース”を置かないと生き残れないのではないか、と私個人には思われてならないのです。


以下は細井専務との会話の続きです。

かなりの冗談と笑いを含んだ様子で細井専務は、「Nさんにお叱りを受けるかもしれないが、私は純米酒が日本酒のベースだと考えていますので、私のところでは純米、純米吟醸の合計が全体の50%以上になっています」と、あからさまではないが”自負”も感じさせる口調で話してくれました。
私は苦笑しながら、「私は”純米至上主義者”ではありませんが、”純米否定論者”でもありません。純米酒を否定しているのなら30年も〆張鶴 純 を飲んでいる訳がない。
ただエンドユーザーの消費者のサイドから見て、いろいろな理由で本醸造がベースなのではないかと思っているだけです」と返答しました。

30年前と変わらない600石という数字の中で酒を造り続けていくためには、単価を上げていくのがひとつの方法であり自然な流れです。
その中で何種類かの純米、何種類かの純米吟醸、何種類かの大吟醸などを少量多品種で売り切って1本あたりの単価を上げると同時に売れ残りのリスクを低減する-------地酒として生きていこうとする小さな蔵にとって、國権に限らず多くの蔵にとって、確かに有効で効率の良い方法です。
しかしその方法は、従来からの酒のファンや酒のマニアには有効だと私も同感しますが、他のアルコール商品と”戦い”若い需要層を増やしていく”反攻”には、必ずしも有効とは言えず、総需要の拡大には繋がらないのではないのか-------という危惧も私自身は感じざるを得ないのです。

鶴の友の上々の諸白(大吟醸)、特選、純米には酒のファン・マニアからも高い評価があり、数量の少なさもあり新潟市以外の県内・県外で最も手に入りにくい新潟淡麗辛口の酒になっていますが、鶴の友の最大の価値は、二千円以下の価格であり鶴の友の中では一番下の販売価格の酒で一番数量のある上白(本醸造)が、特に日本酒のファンでもないごく普通のエンドユーザーの消費者に、飲む機会さえあれば、その美味さとコストパフォーマンスに”驚きに近い”高い評価を受けている点にあると私は思っています。
〆張鶴は鶴の友に比べやや価格が高いが、(鶴の友と比べれば販売数量が圧倒的に多いため飲める機会を得る人も桁違いに多く)鶴の友への評価と似たような評価をするエンドユーザーの人数が鶴の友より圧倒的に多いように思われます。

鶴の友・樋木酒造も、〆張鶴・宮尾酒造も”少量多品種”とは縁が無い、30年前とほとんど変わっていないシンプルな”商品構成”を守り続けています。
鶴の友も〆張鶴も、「鶴の友の何々が美味い、〆張鶴の何々が良い」ではなく、
「鶴の友だから美味い、〆張鶴だから良い」という銘柄全体への評価をエンドユーザーの消費者から受けている、と私は感じています。
そしてそれは昭和四十年代後半の、「地酒としての鶴の友はこうあるべき」という鶴の友・樋木尚一郎社長の”頑固なまでの信念”が鶴の友の酒質に反映し、「どんな状況でもこれを失ったら〆張鶴ではなくなる」------”企業”としての成長と”酒蔵であり続ける”ことのバランスを、〆張鶴・宮尾行男社長が苦心しながら常に取ってきたことが〆張鶴の酒質に反映しているからだ、と私には思えてならないのです。

國権の細井専務が、酒質向上のためにやりたいことの多くが「損益計算書の壁」に阻まれていることは、前述したとうり私にも十分以上に理解できています。
しかしそれでも私は、「國権の何々が良い------」のではなく、「國権だから美味い------」と細井専務と同世代のエンドユーザーの消費者に言ってもらえる”國権”を飲んでみたいのです。
そしてそれは”日本酒業界”で評価があり、すでに日本酒のファン・マニアの一部に高い評価のある細井専務の國権だから”目指せる目標”だとも思うからです。

あるいは私自身が見させていただいてきた、細井泠一社長の”ご苦労”よりも大きなものになる可能性もありますが、細井泠一社長が築いたベースを大切にしながらも若い世代に属する細井信浩専務の國権が造られ始めている今、細井信浩専務の思う「地酒としてどうあるべきなのか」を反映した國権が、1年、3年、5年と時間が経てば経つほどその”目標”の実現に近づいて行くのではないか---------と私は思っているのです。
そしてそれを楽しみに、できれば毎年、”國権の仕込み”を見させてもらいに2月の会津田島に行きたいと考えているのです----------。



國権について--NO3

2009-03-14 16:50:20 | 國権について

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(撮影が下手でピンボケですが國権の蔵の中です)

30年近く、ときどきですが会津田島に来ていた私ですが、その途中も含めて道路にまったく雪の無い2月の会津田島は初めての経験でした。
旧型で古くはありますがテルさんの息子の光っちゃんのフラット6のレガシーに、履かせたスタッドレスタイヤが”活躍”したのは蔵の駐車場のスペースだけだったのです。

日本酒雑感--NO9に書いた”予定どうり”に、「吟醸会」のベース基地の東屋のテルさんのご長男の光っちゃんと2月4日に國権酒造を訪ねました。
”予定外”だったのは、光っちゃんの友達のG力発電所に勤めるY山君が急遽参加することになったのと、途中の渋滞で大遅刻をして國権酒造の皆さんにご心配とご迷惑をおかけしたことです。
残念ながら仕込は終わっていましたが、蔵の中を細井信浩専務が時間をかけて丁寧に案内してくれました。
写真はピンボケになってしまったものが多くあまり使えるものがありませんが、甑の大きさや麹ぶたの数で小さいが丁寧な造りを、ほんの少しでもイメージしてもらえれば助かります。

”仕事”で酒を扱っている光っちゃんもY山君も、”蔵の中”を見るのは初めてでした。
久しぶりに仕込みの時期に会津田島に来た私の目に、30年前と比べて変わったと感じられたのは、細井専務のお子さんの安全のために風格のある座敷にある囲炉裏に”蓋”がされていたことだけでした。
玄関も、入ってすぐの左の座敷もあまり変わってなく、一番時間の経過を感じたのは細井社長の頭髪と髭が”風格のある白”に変わっていたことです。
仕事でもプライベートでも酒蔵にはまったく縁のないY山君にとって、”蔵の景色”のすべてが珍しく興味を強く惹かれたようでした。
その座敷の隣にある釜場があり小さめの和釜と甑を説明付きで見た後で、ふなぐちの”名前の由来”になったふね、やぶたを見て(ちょうどやぶたの粕はがしをしていました)酛場(酒母室)へ進んだところ、仕込み容器(壷代)に暖気樽が入っており、その隣の壷代では汲掛け用の円筒が入れられていました。

「これから汲掛けという作業をしますが、あまり熱心に見られると作業をする蔵人が”あがってしまって”作業ができなくなりますので、ほどほどに見てください」と細井専務の冗談も出始め、光っちゃんもY君も”固さ”がほぐれてきました。
「麹室を開けられるか親方(杜氏)に聞いてきますから-------」と細井専務は言ってくれたのですが、大遅刻してなければ麹の引き込みも出麹もふつうに見れたのですから、「次の機会もありますから------」と”辞退”しました。
そして醪の入った仕込みタンクを見させてもらうため、梯子を上りタンクの前に通された足場に乗り醪の表面を見たうえで、細井専務にひしゃくですくってもらった醪の味を見させてもらって「蔵見学の時間」は無事終了しました。

光っちゃん達に蔵の見学の最中、細井専務は細かい説明は省いていましたし、私も必要最低限しか発言はしませんでした。
プライベートでは日本酒に”縁と興味”が無かった35歳の光っちゃん達に、”見学している現場”で細かいことを説明しても分からないからです。
細かい知識よりも、はるかな”ご先祖様”の時代から伝えられてきた、日本人しかできない”自然の摂理”を肌の感覚で感じ取り取り入れてきた”芸の細かさ”が、「その主成分がでんぷんである米」から酒を造りだすことを可能にしていることを、自分の目で見てほんの少しでも感じてもらえればいい--------私自身もそう思っていたからです。
”見たこと”の説明なら後でいくらでもできますが、”見てないこと”の説明は説明する方も説明される方も、私の実体験では、「説明し難いし理解し難い」のです。

その後座敷にもどり細井専務を囲んで話をしました。
光っちゃんもY山君も、自分達より幾分若いが”ほぼ同世代”の細井専務が相手だったせいか、だんだん”本音の会話”が出始めたようでした。

「こんな機会がなかったら知ることは無かったと思いますが、日本酒ってこんなに興味深くて面白いものだったんですね-------。今日は来させてもらって本当に良かった」------というY山君の発言に続いて光っちゃんも、「またぜひ来たいなぁ、そしてそときは仕込みを最初から見たいなぁ」という”本音の発言”を皮切りに、話が弾み始めたのです。

「皆さんはあまり日本酒は飲まれませんか」という細井専務の”質問”に対してY山君は、
「友達や会社の仲間とは居酒屋で飲むことが多いのですが、その際にはビールかチューハイがほとんどで日本酒はあまり頼まないし、頼みにくい”雰囲気”があるかなぁ-----。それに居酒屋のメニューに日本酒のことが書いてあってもその説明自体がよく分からないし、その説明自体が当たっているのかどうかも自分達には分からないので”パス”してしまうことが多いかも知れません」との正直な”返答”に、細井専務はきわめて軽いが”ショック”を感じたようでした。
日本酒と和食を楽しみ語る、手前味噌ながら優れた”コミュニティ”と私が思える吟醸会の主要メンバーの光っちゃんですら、外で友達と飲むときは日本酒を飲む機会が少ない------知識、データとして分かっていた「日本酒は若い需要層に恐ろしいほど”足場”を持っていない」ことを、直接素直に率直に”聞かされる”局面で、平静でいられるほうがむしろ不自然です。

「能、狂言そして歌舞伎は日本の伝統文化だと自分自身も思うが、私自身にとっても身近で日常的な存在とは思えない。 しかしY山君も、能や狂言の俳優に比べ歌舞伎の俳優のことは知っているよね。 それは歌舞伎俳優の主だった人達が、歌舞伎だけではなくテレビドラマや映画、舞台に進出して時代劇だけではなく現代劇やミュージカルにまで出演していて見聞きする機会が多いからだよね」------私はこの発言に続いて以下のような説明を始めました。

歌舞伎の俳優は、自分達の”芸”がいくら伝統芸、文化だろうが、その芸が庶民に理解され支持されたなければ成立もしなければ存続もしないことを、肌の感覚で実感しているように私には思える。
”身内”だけで”身内”にしか分からない見方で、「立派だ、凄い」と言っていても”身内”以外の庶民にとっては、「何も分からないし、分かりたいとも思わない」--------歌舞伎の俳優は、本業の歌舞伎以外の外のフィールドでも十二分に通用することを”実証”し続けていることで、歌舞伎が”過去の遺物”ではなく現代でも「生き続けている”庶民の楽しみ”」であることを”身内”以外の大多数を占める庶民に証明しているからこそ、庶民にとって能や狂言に比べはるかに近い存在になっている。
日本酒は歌舞伎以上に、庶民(の酒飲み)に支えられることが致命的なほど重要なのに”歌舞伎の世界”に比べ、その面白さと楽しさを伝える努力ははるかに少なくきわめて小さいと、私には思えてならないのです。
そしてそのことが全アルコール飲料のシェアで、焼酎の11.4%を下回る7.6%という日本酒の現状をもたらしているとも思えてならないのです。

日本酒の面白さと楽しさを知らしめることは、「酒造好適米は、酵母は、生酛は、大吟醸は、純米は」------ということだけを告知することではないと私個人は感じています。
何故ならばそれは身内の、身内にしか分からない”見方”でしかなく、むしろその”見方”を押し付けることは小さなプラスを生んでも大きなマイナスをエンドユーザーの消費者に造りだしているように、私個人には感じられてならないからです。

私は、以前に比べればかなり少なくなりましたが、少し興味はあるが日本酒を飲む機会があまりないという人達のために「ミニ試飲会」をすることが、ごくたまにあります。
その場合早福さんの”越くにの五峰”を利用させていただいて、新潟淡麗辛口と一言で言われる五銘柄をある順番にそって飲んでもらい、そして最初にもどる------という単純で簡単な”試飲方法”しかおこないません。
きわめてシンプルで”言葉”を必要としない試飲なのですが、ほとんどの人が「日本酒というものが銘柄によってこんなに味の差があるとは思わなかった。 こんな機会がなければ分からなかったけど、面白いものなんですね-----」との感想を持つようようです。
ご夫婦の間でも味の好みが分かれ、アルコールに対する好みは同じだと思っていたことを大きく”裏切られた”こと、でむしろ「面白い」と日本酒に興味と関心を持ってもらえることが多いのです。

面白いという庶民の酒飲みの反応は、

  1. 銘柄によって味の差がきわめて大きいがスタートで
  2. なぜそうなのか→→→造られ方が違うから
  3. どう造られ方が違うのか→→→原料米や精米も含む技術的な違いがあるから
  4. なぜ技術的な違いがあるのか→→→蔵元や杜氏が何を大切にし何にこだわるかの違いがでてくるから
  5. ここまできて初めて酒造好適米、酵母、大吟醸、純米の説明が必要になります。

もし私が、日本酒について何の知識も経験もない人間で、1~4をはぶいて5の説明を押し付けられたら、「難しそうだしめんどくさそうだから、とりあえずパスしよう」と思ったはずです。
Y山君の世代の人達にっとっては、これがごく普通の日本酒に対する”標準的な対応”だと思われるのです。
細井専務はそのことを十分認識されていると思われますが、残念ながら、酒造・酒販の”日本酒業界”全体の認識は低いと言わざるを得ないのが現状だと私は感じています。
”日本酒業界”の認識とエンドユーザーの消費者の意識との乖離が、日本酒の現在の状況を生んでいると私には思われてならないのです。
その乖離をきちんと認識したうえでないと、他のアルコール商品に対する”日本酒の反攻”は成立しないのではないか-------私個人にはそう思えてならないのです。

「酒は面白くて楽しいもの」、「酒は庶民の楽しみ」---------以前に何回も書いていますので(鶴の友についてシリーズ)詳しくは述べませんが、”この言葉”は昭和五十年代前半、鶴の友の樋木尚一郎蔵元に初めてお会いしたときに伺ったものです。
”その言葉”は、おそまつで能天気で何も分からなかった私であっても、強い印象が残り忘れられないものでした。
昭和五十年代前半から、早福岩男さんに接しさせていただきながら〆張鶴、八海山、千代の光、久保田、伊藤勝次杜氏の生酛を取り扱いさせていただいた月日と、平成3年以降のエンドユーザーの一人として早福岩男さん、〆張鶴、千代の光、そして鶴の友の樋木尚一郎蔵元に向き合ってきた月日のおかげで、今は私なりに”その言葉”の意味が理解できたように思うのです。

日本酒そのものの将来には私個人は楽観しています。
日本酒の面白さと楽しさ、伝統に裏付けられた日本人のDNAに刻み込まれた文化であり、多彩な和食を1本で受け止められる幅と奥の深さ--------現在でもエンドユーザーの消費者に日本酒の入り口に立ってもらいドア開けてもらえば、強い関心と興味を伴って認知してもらえると私は信じられるからです。
しかし現在の蔵や酒販店の将来には、私は、楽観的判断を持つことはできません。
個々の蔵や酒販店が生き残れるかは、個々の蔵や酒販店がどれだけエンドユーザーの消費者に日本酒の入り口に立ってもらえるのか、ドアを開いて中に入ってもらえるかにかかっているからです--------蔵や酒販店とエンドユーザーの消費者の意識の乖離という事実への認識が低いと感じざるを得ないため楽観的にはなれないのです。

私個人は、エンドユーザーの消費者に日本酒のドアを開いて中に入ってもらうためには、酒そのものというハード以外に、前掲の1~4の”ソフト的なもの”が必要と思っていますが、ハードとしての酒には”切れ”が絶対に必要だとも思っています。

「Nさん、私は日本酒のことは良くは知らないのですがNさんの言われる”切れ”とは具体的にはどういうことなのですか?」------私の”説明”の途中でY山君から質問がありました。

「Y山君は蔵に一緒に来て、細井専務の丁寧で分かりやすい説明付きで蔵の中を見せてもらい醪の味も見るという経験をしたから、たぶん日本酒の面白さと楽しさと奥の深さを感じてもらえたと思うけど、残念ながらこんな体験ができるのはエンドユーザーの消費者の中のごく一部の人に限られている。
その人達以外の大多数の人が感じる日本酒の印象は、日本酒の酒質がすべてになる。
日本酒以外のアルコール商品は、蒸留酒だけではなく醸造酒のビール、ビール系飲料まで淡麗とかクリアとかドライとか切れとか宣伝しているよね。 淡麗辛口は本来新潟淡麗辛口が”世間に広めた”もので、アサヒスーパードライはそのコンセプトを”後追い”したものだったんだ」

新潟淡麗辛口は、”辛口”にウエイトがあるののではなく、ライト&ドライがその本質だと私は感じてきました。
そして新潟淡麗辛口は、日本酒本来のやわらかさやまるみを、食生活がライト&ドライに変化していた(私自身を含む)昭和五十年代の若い需要層に認知され理解してもらうために、どうしても必要な”酒質”だったのです。
しかし新潟淡麗辛口が”全盛期”を迎えた平成3年ころから、一部有名銘柄の”売られ方”や拡大戦略の弊害と言える酒質の低下、本末転倒の行き過ぎた淡麗化の諸原因が”反動”を生み日本酒全体が「真逆の方向」へ動くことになってしまった。

「ビールは言うに及ばず焼酎ですら、軽くて切れが良い淡麗でクリアという方向へ全力で動いているときに日本酒は業界全体で逆の方向に動き、ライト&ドライの食生活が当たり前のY山君達の世代にその存在感も小さく馴染みの薄いものになってしまう結果を生んでいる。
例えて言うと、歌舞伎の俳優がTVや映画、現代劇の舞台に出演するのは、歌舞伎もそれを演じる自分達もけして”過去の遺物”でもなければ現代でも”評価されるべき価値”がある--------それを歌舞伎を知らない層や若い世代に証明するために、TVや映画や舞台でも歌舞伎以外の俳優とあえて”戦う”ことで実証してきたように私には思える。
日本酒も歌舞伎の俳優と同じように他のアルコール商品と”戦う”ことができなければ、他の俳優にはできない歌舞伎にしかない良さを理解してもらえないように、日本酒しか持っていない素晴らしさはとうてい若い層には分かってもらえない。
”切れ”において他のアルコール商品と”戦えなければ”、若い世代に日本酒の入り口には立ってもらえず、ましてやドアを開けて中に入ってもらうことなど不可能ではないのかと私個人は感じているんだけど、Y山君この説明で分かった?」

反応はY山君ではなく細井専務から”直球”で帰ってきました。

「たとえNさんが言うことが仮に正しいとしても、私の蔵では〆張鶴、千代の光や鶴の友のような酒は造れないし、新潟淡麗辛口は勉強になる点が多いがそれと同じような酒質を造ったとしても絶対に”本家”に及ばないし、新潟淡麗辛口だけが素晴らしいとは私は思っていない」

細井専務の反応はしごく当然なものでした。もちろん私もそのとうりだと思っていますので、

「もちろん細井専務の言われるとうりです。新潟淡麗辛口がすべてはないし、その新潟淡麗辛口の蔵も現在でもその酒質に高い評価のある蔵はきわめて少数になっています。
細井専務や光っちゃんの世代はもちろんだと思うのですが、私達ですら酒に限らず食べ物ですら味が濃すぎたり、くどくていつまでも舌に残って消えないものはあまり食べなくなっている。 ビールやビール系でも飲まれているのは、ラベルに淡麗とかドライとかクリアとか書いてあるものがシェアの多くを占めています。 日本酒は蒸留酒ではありませんから蒸留酒には無いやわらかでまるい味がなければならないと私も痛感していますが、それでも重くてくどくて切れが悪ければ従来の日本酒のファン層以外には飲んでもらえないのも”現実”だと私は考えています。 あくまで私個人の考えですが、”切れ”を良くする方向で造り切れが向上しそのかわりに味の幅が少し狭まったとしても、”切れが向上することによってより多くの人に飲んでもらえる可能性が拡大するし、さらに”切れる”ことによってそのやわらかさとまるみに”正当な評価”をしてもらえるのでなないか----------そう思っているだけなのです」

話はさらに続き自分自身にとっても興味深い話を細井専務から伺ったのですが、中途半端な終わり方で申し訳ないのですが、またまた長くなりそうですので続きは國権について--NO4に書きたいと思います。

 


國権について--NO2

2008-07-09 18:47:35 | 國権について

2008512_006

平成17酒造年度までの全国新酒鑑評会や南部杜氏鑑評会で、受賞蔵として、月桂冠昭和蔵、杜氏大木幹夫という記事を目にしましたので、現在現役かどうかは分かりませんが、近年まで大木幹夫杜氏は月桂冠で活躍されていたようです。
大木幹夫杜氏とは、短く浅い接触しかありませんでしたが、その後のご活躍は私にとってもうれしいことです。
短く浅い接触でしたが、忘れられない大木幹夫杜氏の言葉が私にはあります。

「伊藤勝次杜氏ですか? 私らとは比較にならない”神様”みたいな存在ですよ。
あれだけの生酛をあれだけの量造れるのは物凄いことで、とうてい私らにできることじゃありませんよ」------もともと伊藤勝次杜氏のいた蔵とは取引があったのですが、この一言が私の興味と関心が生酛と伊藤勝次杜氏の方向に強く向かうきっかけになったからです。

”規格外”の人生が容貌にも現れた独特の魅力が細井泠一社長にはありますが、細井信浩専務は女性に人気が有りそうな、シンプルに”いい男”------そんな印象を私は感じています。
30歳代前半の細井信浩専務はとても爽やかで、たぶん初対面で悪い印象を持つ人はいないと思われます。
東広島から帰ってきた7年前が初対面で、今回が2度目だったのですが細井信浩専務からうける印象はだいぶ変わっていました。

國権について--NO1に書いたように、細井信浩専務は平成19酒造年度の全国新酒鑑評会の、決審の審査員の一人として呼ばれました。もちろん唎酒能力を評価されてのことですが、
それだけではありません。
福島県、仙台国税局、全国-----酒造業界の各段階において細井信浩専務が造り出す鑑評会用の吟醸酒のレベルを評価されていなければ、ありえないことなのです。
事実、鶴の友の樋口杜氏も千代の光の池田哲郎社長も國権の名前はご存知で、國権への評価も低いものではありません。

初対面のときは、テルさんやS髙、O川のG力研究所の研究員の恒例の「國権行き」に私は
”便乗”したのですが、細井信浩専務にとって私は、「親父の知り合い」にしか過ぎないし、新潟淡麗辛口の”信奉者”の一人としか思えなかったのではないかと、感じていました。
私はありがたいことに、今でも、鶴の友の樋木尚一郎社長に電話でよくお話を伺っていますし、〆張鶴の宮尾行男社長、千代の光の池田哲郎社長にもときおりお話を伺っています。
それゆえ、7年前の細井信浩専務がそんな印象を持たれたとしても、理解できないことではありません。

現役の酒販店時代の私は昭和五十年代前半より、〆張鶴、八海山、千代の光を主力銘柄として売っていましたし、久保田も発売当初より主力銘柄としてきました。
その”経歴”からいって、「新潟淡麗辛口だけの信奉者」と受け止められるのが”自然”なのかも知れません。
確かに新潟淡麗辛口は、日本酒を売ろうとしてきた酒販店だった私にとって、”故郷”のようなものでした。
現在と比べると昭和五十年代は、社会全体も”酒業界”もまだのんびりした時代で、「酒の素人」で酒について分からないだらけの私でも、酒造りの現場を毎年見せていただきながら、分からないことはそのつど蔵元や杜氏に質問し教えていただき、ゆっくり「勉強」させていただくことが可能なゆとりが蔵にも酒販店にもあったように思われます。
このタイミングで新潟淡麗辛口の蔵に出会えたのは、今振り返ると、私にとってはきわめて大きな幸運だったと思えます。
この時期の新潟県の一部の蔵の動きは、それまでの業界の常識からすると、明らかに”革新的”な動きでした。
私が最初に出会った日本酒は、この”革新的”な動きの中心にいる蔵のものだったのです。
そして、おそまつで能天気な私が心引かれ懸命に”勉強”しようとした日本酒が、この時期の新潟淡麗辛口だったのです。

学校の”勉強”と違い、新潟淡麗辛口の”勉強”は、私にとって新鮮で楽しいものでした。
それゆえ最初のころ私は、新潟の皆様の”迷惑”を省みず、年間3~4回〆張鶴、八海山、千代の光、そして早福酒食品店に押しかけていました。
そんな日々の中で、伊藤勝次杜氏のいた蔵の営業のSさんから國権の話を聞いたのです。
Sさんの蔵は、福島県の中では大手の蔵であり私の店とは以前からの取引がありました。
しかし(その当時の私の記憶では)、一万石近い販売量と福島県内や私の県のカバー率の高さから、”地酒の蔵”とは私は考えていませんでした。
Sさんは、単体としては販売していないものの速醸酛で造られた市販酒に、その根幹を支えるものとして必ずブレンドされていた「生酛」に強い誇りを持っていました。
このSさんの”話”が、私を國権に導き、その國権の大木幹夫杜氏の”言葉”が、伊藤勝次杜氏の生酛へと私を向かわせることになるのです-------今振り返ると、この”流れ”には複雑な思いもあるのですが、新潟淡麗辛口とは違う方向で”現状打破”を図る國権、時代の流れや周囲の変化があっても杜氏として犠牲を払ってでも生酛を造り続けてきた伊藤勝次杜氏の生酛に出会ったことで、私はほんの少しですが、日本酒の「間口の広さと奥行きの深さ」を、おそまつな私なりに感じられるようになったのです。

違う”方向”の國権や、”対極”にあると言っても過言ではない「生酛」の視点からも、新潟淡麗辛口を見れる機会を与えられたことで、私が最初に出会った日本酒の新潟淡麗辛口がどうゆうものなのかがより理解できるようになった--------新潟淡麗辛口だけしか知らなかったら新潟淡麗辛口自体も、おそまつな私にはまるで理解できず、その”革新性”などほんの少しも分からなかったはずです。
酒を造る現場で、酒を造る人に直接分からないことを聞く--------苦笑されたり、お叱りを受けることもありましたが、どんな小さなことでも私が分かるまで教えていただけたことは、本当にありがたいことでした。
そのおかげで、昭和の終わるころには、おそまつな私なりに、日本酒に対する「基準線」ができたように思われるのです。

平成3年、”家庭の事情”で実家の酒販店を出て会社員になることで、”業界”を離れることにになりました。
今振り返るといろいろな思いもあるのですが、今も私はこの”決断”を後悔しておりません。
ただ、私自身がそれを失ったら自分ではないと思っているかなりの部分が、日本酒に関わる人達のおかげで造られたものだということに、自分自身が気がついていなかったことが”誤算”だったかも知れません。
平成3年から6年にかけてが、新潟淡麗辛口をその中心とした”地酒ブームのピーク”だったと思えるのですが、私はその時期をなるべく日本酒から離れて過ごそうとしていました。
しかし100%消し去るのは、思っていた以上に困難な”作業”でした。
私自身は極力離れるように努めたつもりだったのですが、どうもそれは周囲には”無駄な努力”としか見えなかったようです。
会社員としての生活にようやく慣れてきた平成7年ごろ、ようやく”無駄な努力”であることに自分でも気がつき、「趣味、あるいはボランティア活動」という形で日本酒の世界に”復帰”を果たしました--------その”理由”は鶴の友について--NO4に書いてあります。

違う流通業界に身を置いて数年たった私の目には、それまで慣れ親しんできた”日本酒業界”が違って見え始めていました。エンドユーザーの消費者の一人、庶民の酒飲みの一人としての時間がたてばたつほど、私は「弱くはない違和感」を”日本酒業界”に感じるようになっていきました。

酒販店という家業を嫌っていた私が、偶然の連続から、新潟淡麗辛口と出会ったのは昭和50年代前半でした。
この時期、地方の日本酒にとってはときおり”小春日和”の日があったとしても、季節は”冬”と言えました。
商売という視点で見た場合、北関東の地方都市において〆張鶴や八海山、千代の光を主力として売っていこうとする”チャレンジ”は、「馬鹿かアホウとしか思えない」------と言われてもしょうがない状況にありました。
日本酒全体はこの時期すでに低落傾向にありましたが(それでも全アルコール飲料に占める日本酒のシェアは現在の2倍以上はあったと記憶しています)、月桂冠に代表されるNBの圧倒的な販売力が全国をカバーしていました。
しかし私自身と同世代(20歳代)の人間からは、「日本酒ねぇ、匂いが変だしベタベタするし、おかしな味がいつまでも口に残るし、二日酔いがひどいしあまり飲みたくないなぁ」-------まったくと言っていいほど支持が得られない時代だったのです。
それゆえ私自身もかつては、「日本酒なんてものは21世紀にはなくなる」と思っていたのです。

私が出会った新潟淡麗辛口は、私が思っていた日本酒とはまるで違っていました。
”ふた昔以上前”の缶コーヒーのように、コーヒーなのか”甘味飲料”なのか分からないようなものではなく、喫茶店で飲むレギュラーコーヒーだったのです。
「軽くて切れが良くなければ日本酒じゃない、人間の身体に優しくなければ日本酒じゃない」------同世代の一人でもいいから分かって欲しくてそう言い続ける”長い苦戦の日々”が始まったのです。
当時、全国的にも私の店でも、当然ながら日本酒の数量の多くを占めているのは月桂冠に代表されるNBでしたが、そのNBが若い世代にまったく”足場”を持ててないことを私は痛感していました、このままでは時の流れがNBに味方しないことも-------。
その対極にあり、ライト&ドライ化する食生活の変化に対応し、NBが拾えない”潜在需要”をメインのターゲットにした、「意図的に造り出された酒質」の新潟淡麗辛口なら自分自身がそうであったように、同世代の人間にも受け入れてもらえるのではないか-------同世代の人間に受け入れてもらわないかぎり、日本酒を中心に売ってゆくことなど不可能だという”思い”が、「失敗の連続」であっても日本酒を売り続けることを諦めさせませんでした。
そして、懸命に売ろうとしていく年月の中で、ますます”日本酒の世界”が好きになっている自分に気がついていました。

苦戦しながらも、國権そして生酛へも”活動の範囲”を広げ始めたころ、妙なことから私はテルさんやG力研究所のS髙、O川の研究員と知り合うことになります。
テルさんは鮨店の店主でしたが私のプラス4歳、S髙、O川研究員はプラスマイナス2歳の同世代-------これは私にとって本当に”ラッキー”な出会いでした。
テルさんは、当然ながら”樽酒”も含めて日本酒の知識があったのですが、テルさんご本人の日本酒への評価は”熱燗”しか飲めないという低いものでした。
S髙、O川研究員は、大学院までの学生時代を都会で過ごしたため、これも当然ながら日本酒以外の”知識”は私より有りましたが、G力研究所の先輩研究員に連れてきてもらった、テルさんとテルさんの店の常連が造り出している”東屋の雰囲気”に強い魅力を感じていましたが、日本酒は”その付属品”程度の評価しかなかったはずです。
私はテルさん達に、私自身が強い魅力を感じていた日本酒を見てもらうことから始めました。
軽くて切れがいい八海山、軽過ぎず重くもないバランスの取れた〆張鶴 純、きれいな甘さと切れを持つ千代の光------華やかな香りと”ふなぐち”ならでの厚みのある味がありながらくどく感じさせない國権の春一番、他の酒とは違う魅力を持つ生酛------酒は一本、一本がまるで違う個性と味を持ち、それが日本酒の最大の魅力であることを分かってもらいたかったからです。

テルさんにとっては感慨深いことだったせいか、今でもときおり出てくる昭和50年代後半のそのころの話があります。
「酒にも渋さがあるとお前が言ったとき、酒が渋いなんて馬鹿な話があるもんかと正直思った。しかしお前の言うとうり、〆張鶴の大吟醸を飲んだ直後八海山の特級(当時)を飲むと、普段は”味のついた水”としか思えない八海山の特級が確かに素っ気なく渋く感じた。あれには驚いた。あれ以来”ひやや冷やして飲む日本酒”に本気で関心を持つようになってしまった。熱燗しか飲めなかった俺が、今は、その熱燗をほとんど飲まなくなっているんだから、Nよ、お前は本当に”迷惑な男だ”」-------そう言ってテルさんは笑うのです。

テルさんも30歳代の初め、S髙、O川の両研究員も私も20歳代-------若く元気であり、”遊び”に対してもバイタリティにあふれていたため、どんどん前へ進んでいきました。
國権を皮切りに、〆張鶴、八海山を造りのシーズンに見させていただき、ついには伊藤勝次杜氏が初めて生酛の純米に挑戦したシーズンに、ふつうは絶対に入らせてはもらえない生酛の酒母室の中の数十本並んだ仕込み容器(壷代)の”中身”を見せていただき、生酛純米そのものの醪を目の前にして、故伊藤勝次杜氏(亡くなられて十数年になります)からその醪の良し悪しを懇切丁寧に解説していただく--------そういうところまで”突っ走って”しまったのです。
その一方で、テルさんの義兄でもあり東屋の常連の”重鎮”のG来さんを通じて常連の皆さんとも親しくなり、日本酒という”遊び”に参加していただきましたが、常連の皆さんの”年季の入った遊び”も見せていただき、今までにない”楽しさと面白さ”を私は感じていました。
常連の皆さんは、年令も私より一回り以上の方がほとんどで、その”遊びや遊び方”を見せていただくだけではなく、ときどき諸先輩の”遊びのお供”をして実際に参加させていただく中でだんだん強く感じることがありました。
それは、当たり前と言えば当たり前なのですが、自分が知っていることより知らないことのほうが圧倒的に多いという”単純な事実”でした。
私は、日本酒を”知っている”と思っていましたが、本当に知っているのか?
「酒を売る立場の人間」の中で、その平均レベルよりは”知っている”というだけに過ぎないのではないか。
「お前達売る立場の人間が絶賛する酒であっても、不愉快な相手と飲んだときは”不味い酒”になってしまうし、たとえ〆張鶴の大吟醸といえども、カレーライスを食ってるときにマグカップに入れて出されたらとうてい”美味い”とは思えない。
愉快な飲み仲間、多彩で美味い和食、料理や酒を控えめに引き立てる器、そういう魅力をもつものが渾然一体になってはじめて”楽しくて面白い”と思えるんじゃないか。
そのパートのひとつでしかない、日本酒単体ですべてを判断しようとするお前の考え方に少し無理があるんじゃないか。
俺にとって一番不味い酒は、Nよ、お前のつまらない”講釈”を聞きながら飲まなきゃならないときの酒だ」--------G来吟醸会会長は、豪快に笑いながら私に”大切”なことを教えてくれたのです。

私は、「新潟の人達によって育てられた」と言っても過言ではないほどの強い影響を”新潟の人達”から受けてきましたが、同時にテルさんの鮨店「東屋」のあるH市K浜の人達に育てられたとも思っています。
もしそのどちらかが欠けていたら、私は、今の私とはまったく違うタイプの人間になっていただろうと確信できるのです。

私は、だんだん”専門用語”を使わなくなっていきました。
「日本酒単体で、日本酒の楽しさと面白さのすべてを語ることはできない」-------G来会長の言葉を痛感した私は、店の中や外で「私に何ができるか」を考えるようになったからです。
その結果、「日本酒ねぇ、匂いが変だしベタベタするし、おかしな味がいつまでも口に残るし、二日酔いがひどいしあまり飲みたくないなぁ」と言われる”誤解”を解き、そのレベルも個性の違いもきわめて大きいことが日本酒の最大の魅力であることを少しでも分かってもらうため、”専門用語”を「封印」して私の店に来られるお客様と接するようにしていったのです。

”講釈”を極力ひかえ、ただひたすら”試飲”してもらい、要望がない限り”技術的な話”はしないように努めました。
〆張鶴、八海山、千代の光、國権そして生酛という少ない銘柄しかない私の店であっても、各銘柄の本醸造から大吟醸のフルラインの取り扱いのため、エンドユーザーの消費者に日本酒の違いの大きさを感じられるだけの”幅”はあったと思います。
「日本酒って、こんなに味が違うものなんですね。驚いたななぁ」------そんな日々の中で、私はあることに、事前の想像以上に苦しんでいました。
”違い”の説明を要望されたとき、”専門用語”を使わず”技術的な話”もしないで、要望されたお客様が”納得”される説明をすることは、きわめて困難なことだったからです。
初めのうちは、今思い出すと自分でも笑ってしまうほどの”悪戦苦闘”でした。そんな日々を繰り返すうちに思ったことがあります。
「単純に考えたほうが良いのかも知れない。要するに自分自身がなぜその酒や、その蔵が楽しくて面白いと心引かれるのかを、素直に自分の言葉で話せばいいのではないか」-----ふと、しかし強く、そう感じたのです。
そのおかげで私自身も、少し楽になったような気がします-------慣れない窮屈なスーツとネクタイを脱ぎ捨て、TシャツとGパンの”私本来の姿”に戻れたような気持になったからです。

もともと”差別化”のためではなく、継ぎたくない”酒販店の三代目”という役割を続けるための”必要な道楽”として日本酒を売ろうとしてきた私は、この時期以後、肩の力が抜け「日本酒という遊び」をより楽しい、より面白いと感じるようになっていったのです。
店での接客もその例外ではなく、質問されたことを、苦労しながらも比喩や例えを多用し、ほんの少しでもその答えを納得してもらえることが、楽しくて嬉しいと思うようになっていきました。
今振り返ると、鶴の友の樋木尚一郎社長の、その当時の”業界の常識”の中では「異端」と言われていた、エンドユーザーの消費者(庶民の酒飲み)に対する考え方、対処の仕方にも、私は強い影響を受けていたことを感謝の気持とともに実感しています。

それまでの私は、例えてみると、人気のあまりない「日本酒同好会」の幹事みたいなものでした。「あまり会員もいないし、行くと訳の分からない”講釈”を聞かされ、無理やり会員にされそうだしなぁ」------そう思われても”間違い”と言い切れない”状況”でした。
しかし、”自然体の私”にもどってからは、不思議に訪れる人がすこしづつ増えてきました。
〆張鶴や八海山の”知名度”が上がり、”フォローの風”が吹き始めたこともあり、「日本酒同好会」に私の同世代前後の「会員」も増えてきたため、幹事の私も”忙しく”なってきました。

本で見た八海山を買うつもりで来店された仲がよさそうな30歳くらいのご夫婦が、試飲をした結果まるで好みが違うことが判明し、ちょっとした”夫婦喧嘩”の後でも妥協できず、〆張鶴 純と千代の光のしぼりたて生原酒というまったく”違うタイプ”の酒をお互いに抱えて帰ったりとか、「日本酒が熟成する、枯れるというのはどういうことですかねぇ」との私自身が十分分かっていると”誤解”していた質問に、相手が納得できる説明ができずに絶句し、S髙研究員を介してG力研究所の”化学の専門家”のレクチャーを受けたうえで、理想的な低温で1年貯蔵したものと新酒の〆張鶴のしぼりたて生原酒を用意し、2年がかりで”納得”してしてもらったことなど-------店にいるだけでも楽しませてもらったり、お客様に教えてもらっていたのです。
そんな月日を送っているうちに、「日本酒同好会」もだんだん”人気”がでてきました。
そのうち外出先で、”試飲用の日本酒無しの状況”でも質問がくるようになり、できるだけ普通の言葉を使って話すように努めたのですが、「Nさんと話していると日本酒が飲んでみたくなりますねぇ」と言われることが増えてきました。

私が”業界”を離れた平成3年には、私の店も新潟淡麗辛口を中心にした”地酒業界”にも確実な”成功の兆し”がありましたが、私は強い懸念を感じ始めていました。
昭和60年代に入ったころから、日本酒に強いフォローの風が当たっていました。
私の店でも〆張鶴、八海山は余裕はまるでなく、その供給力不足を久保田で埋めている状況にあったのですが、全体として見ても、トップクラスの新潟淡麗辛口の需要が供給を上回る事態になっていました。
久保田にしても、その”仕掛け”が時期を得ただけではなく”大規模”でもあったため、「棚に置いとけば何もしなくても売れる」という状況になるのは時間の問題でした。
私自身もその気持が分からなくはないのですが、先行きに自信を持った”地酒業界”は蔵も酒販店も、拡大戦略に大きく舵を切ったのです-------拡大戦略自体は私も悪いとは思いませんが、誰のための拡大戦略なのかという点では私は疑問を持たざるを得ない心境にありました。
20歳代の初めに、同世代の自分の友人にすら日本酒にまったく関心を持ってもらえず、長い”悪戦苦闘の時代”を経て、ようやく日本酒の面白さと楽しさを周囲に理解してもらえるようになった30歳代前半の私は、エンドユーザーの消費者(庶民の酒飲み)に認知され評価されることがいかに難しく、いかにありがたいことかを痛感していたからです。

”地酒ブーム”がピークを越えて、下り坂に入っていこうとしていた平成7年ごろ、私は”業界”を離れてエンドユーザーの消費者の立場にあったこともあり、強い懸念が「弱くはない批判的見解」に変わっていました。
”業界”を離れても私は、ありがたいことに、〆張鶴、千代の光、そして鶴の友の各蔵元との交流が続いていましたし、早福岩男さんや一部の酒販店との交流も続いていました。
この方々から入ってくる”情報”で確認できたことや、自分の目で見たり自分の耳で聞いた「エンドユーザーの消費者の視点を欠いた拡大戦略の結果、末端で必然的に起きる弊害」が、エンドユーザーの消費者の「日本酒離れ」を確実に促進させていることに”強い危機感”を感じていたのです。

細井信浩専務と最初に会った平成13~14年ごろには、焼酎の台頭もあり日本酒のシェアは一桁のパーセントにまで低下していました。
そのとき私が細井専務に申し上げたかったことは、「日本酒はエンドユーザーの消費者、特に細井専務と同世代の若い層にまったくと言っていいほど支持されていない。現在日本酒の需要を支えているのは、新潟淡麗辛口によって昭和50年代後半から平成の初めにかけて日本酒のファンになってくれた私と同世代の人間です。しかしこの年代以下には支持層が少ないため、この状況を放置すると年々シェアは低下する。しかも、現在の状況は私自身が体験した昭和50年代の初めの”冬”より”厳しい冬”のように思える。
細井専務と同世代の20歳代、そして30歳代の層に”足場”を築けないともっと厳しいことになりかねない」-------という”危機感”と、
「かつて”既存の日本酒”が拾えなかった若い層の”潜在需要”を、その革新性で拾い、支持を拡大する結果を生んだ、昭和40年代後半~50年代前半の新潟淡麗辛口の”計画された試み”が、”日本酒厳冬の時代”に対処していかざるを得ない細井専務の”参考”になるのではないか」という私個人の”感想”でした。
しかし東広島から帰ってきたばかりの細井専務には、東広島で点火した”燃え盛る火”に水を注されたという思いがあったのかも知れませんし、私の言い方にも、”新潟至上主義者”と誤解されるような面があったのかも知れません。
いづれにせよ私は、将来、細井信浩専務とあまりお会いする機会はないのではないかと感じていました。

ところが、私自身が”縁”というものを感じざるを得ないあることで、昨年の後半、私は細井信浩専務に”お願い”をしました。
その”お願い”は快諾していただいたのですが、電話で話した”印象”は、7年前とはかなり違っていたのです。
細井専務はきわめて忙しく、ほとんど蔵にいないような状況でしたが、何回か電話で話させていただくうちに、もう一度7年前の”話”をさせていただきたいような気持に、私はだんだんなっていったようです。

新潟淡麗辛口の”計画された試み”のポイントは、私個人の知りうる範囲の中で受けた印象では、「規格を押さえたうえでの規格外」だと私自身は感じています。

嶋悌司先生は、酒造技術者、酒造研究者の”世界”で認められる十分な実績があり、
早福岩男さんは酒販店以前の”仕事”で成功していて、”店主”としての実力には十分な評価がありました。
その方々が、”業界の常識”ではなく、”業界外の世間の常識”から日本酒の将来を考えたとき、”業界の常識の範囲”から飛び出た「規格外」に全力を投入せざるを得なかった------それゆえ新潟淡麗辛口は当時のエンドユーザーの消費者の「日本酒に対する先入観」を吹き飛ばし、支持され評価された-------と私個人は思っています。

細井信浩専務が、平成19酒造年度の全国新酒鑑評会の決審の審査員の一人だったという事実は、前述したように、酒造業界や東広島において、國権と細井信浩専務の実績が十分に評価されていることの証明です。
その意味で、現在の細井信浩専務は十分「業界の規格」を満たしていると思えます。
現在の新潟淡麗辛口は、鶴の友、千代の光、〆張鶴などの一部の蔵以外は、残念ながら「業界の規格の範囲」に収まっています。
30年以上前の「革新性」にとって、今もその「革新性」を保つことはきわめて困難なことなのです。
私の個人的見解ですが、今の「革新性」は「業界の規格の範囲内」にはないと思われます。
今の「革新性」は、細井信浩専務と同じように、社会の各々の現場で若手を卒業して中堅になりつつある”業界外の同世代の人達”の中に、そのヒントがあるのではないかと私は感じています。
そして、いろいろな意味で「小さな蔵の大変さ」があっても、5年後か10年後かも分かりませんが、そのヒントを掴み取り”業界外の同世代の人達”の応援も得て、「規格を押さえたうえでの規格外」の、日本酒に関心の無い若い層にも支持される「革新性」を感じさせる國権を細井信浩専務が造り出してくれることを、私は期待しています。

地元の福島県の庶民の酒飲みの皆さんや、県外の國権の取り扱い酒販店に行くことが可能なエンドユーザーの消費者の皆さん、ぜひ國権を飲んで今の”味”を覚えていて下さい。
私の受けた印象では、たぶん私が申し上げた”たわごと”は聞いていただけたとは思えませんが、細井信浩専務は”動こう”としています。”動く”ことによって”酒質”も、たとえゆっくりでも良いほうに動いていきます。
定期的に飲み、ゆっくりと変わってゆく”味”を見続けていくのも、日本酒ならでの楽しさと面白さで、日本酒の”業界”を離れて16年たっても、私が引き付けられている魅力のひとつなのですから---------。


國権について--NO1

2008-05-28 15:39:56 | 國権について

2008512_001 ”冬眠”から目覚めようとしている状態になりつつありますが、まだ私は”冬眠”から完全には抜け出してはいないようです。
今年は、久しぶりに”本格的冬眠明けの年”になるようにとしばらくお邪魔していない、千代の光の池田哲郎社長、〆張鶴の宮尾行男社長、鶴の友の樋木尚一郎社長のお話を直接伺うつもりでいるのですが、今のところ残念ながらその気持に身体、その他がついていっていないようです。 そんな私は、”本格的冬眠明け”の第一歩にしようと南会津の田島にある國権酒造を、本当に久しぶりに5月の中旬に訪ねました。

國権は、〆張鶴、八海山より1~2年後に取引させていただいた蔵で、最初に行かせていただいたとききからもう30年近い月日が流れています。
確か新潟の帰りに田島の蔵に寄らせていただいたと記憶しているのですが、
新潟より”寒かった”ことと、今も変わらずにある囲炉裏が中心の客間にあった一枚の色紙のことが強く印象に残っています。

うろ覚えですがその色紙には、次のようなことが書いてありました。

面白し、心ひとつの置き所

楽も苦になり、苦も楽になり

誰が書いたものかもよく覚えてないないのですが、不思議なくらい心引かれたことは
よく覚えています。
そのときから今に至るまで、その書かれていた言葉の意味を私は本当には理解できていませんが、國権という酒と蔵を思い浮かべるときその言葉が常に私の中に存在していたような気がします。

何回も書いている言い方だと私自身も苦笑しているのですが、私が平凡な人生を平凡に送ることが”目標”のつまらない男だったせいか、なぜか私は”規格外”の人生を送る”先輩”に恵まれています。國権酒造の細井泠一専務(現社長)もその例外ではなく、早福岩男さんや「吟醸会」のG来会長のように若いころから、”ちん、とん、しゃん系の遊び”で鍛えられた軽妙洒脱な面白い魅力を持っている方でした。
私にとって大変ありがたい”規格外”の人生を送る”先輩”のなかで、お互いにお互いを知っているのは、細井社長とG来会長の”ペア”だけなのですが、この”ペア”の今でも毎年1回はある直接対決は「拝観料」を払ってでも見たい”面白さ”です。


最初に細井泠一専務(現社長)にお会いしたとき、細井信浩現専務はおそらく小学生だったと思います。そのときの私は現在の細井信浩専務より若い二十才代前半でしたが、30年近い時間が流れた後で、中央大学出身ながら東広島の酒類総合研究所に学び、今年の5月にあった、平成19酒造年度の全国新酒鑑評会の、決審の審査員の一人として呼ばれるほど唎酒能力を評価されている細井信浩専務と直接話す機会が訪れることなど、ほんの僅かも想像できませんでした。

國権は、細井信浩専務が小学生のこの時期、最大の光を放っていたのではないかと私は感じています。
南会津の田島という”田舎”にいながら、細井泠一専務(現社長)の目は新潟を中心に大きく動き出そうとしていた”業界の変化の流れ”を見逃すことなく、3年連続で全国新酒鑑評会の金賞を取り続けた南部杜氏若手注目株の大木幹夫杜氏の技術を、本醸造生原酒の春一番(ふなぐち)、本醸造、純米の市販酒に注ぎ込み、新潟のデットコピーではなく新潟に対抗する気概を大木幹夫杜氏の造り出す酒質が支え、國権が最も輝いていた時期でした。
酒造技術者の側面をも待つ細井信浩専務にとって、この時期の國権はどうしても今の自分の目で見てみたかった酒蔵のひとつだったのではないか-------私はそう感じています。

私の日本酒に対する感じ方、考え方、価値観を180度転換させてくれた〆張鶴と、國権はある意味で対照的で、ある意味で対称的だった-------今の私にはそう思えてなりません。

その酒質同様、生真面目な〆張鶴の宮尾行男専務(現社長)と藤井正継杜氏のペアに比べると、細井泠一専務(現社長)と大木幹夫杜氏のペアから受ける印象はだいぶ違っていました。
若いころちょっと”遊び人”だった過去が、”更生”した今はマイナスではなくむしろ大きなプラスで杓子定規ではなく話しが分かる、親戚にこんな叔父さんがいたら楽しいだろうなぁ-------細井泠一専務(現社長)との初対面のときに私はそんなふうに感じました。
仕事も遊びも”野心的”と言えるかもしれないほど向上心が強い反面、気楽に声を掛けられる面白い人-------そんな印象を大木幹夫杜氏から私は受けました。

親切に対応して下さったのですが酒に対する知識や唎酒能力が乏しいという自分自身の問題から、最初のころやや敷居が高かった新潟の蔵に比べ、國権は最初の訪問のときから親しみ易く話し易い雰囲気がありました。また細井泠一専務(現社長)のお話は本当に面白く、その面白さと楽しさを私の”話”から察知したテルさんやS髙、O川研究員、県庁職員のGさんと翌年の仕込みの時期に田島に行き、ふねから流れ出る生原酒を容器にすくってきてもらい囲炉裏の火に暖めてもらいながら、細井泠一専務(現社長)の硬軟取り混ぜた話にも酔い、また爆笑もしました-------「日本酒の面白さと楽しさ」そのもののこの”國権行き”はG来会長を始め「吟醸会」の皆さんにすぐ伝わり、”私抜き”でも「吟醸会」の皆さんは仕込みの時期の”國権行き”が恒例行事となり、30年近くたった現在では、半分親戚のような付き合いになっています。

このように國権と〆張鶴との間には”違い”があったのですが、今思うと”似ている面”もありました。
その質も現れ方も過程もまるで違うのですが、最大の特徴として”バランス”が酒の中心に存在していたことです。

〆張鶴はこの時期、新潟淡麗辛口の先端を走っていました。意欲的で熱心な藤井正継杜氏もまだ40歳代であり、嶋悌司先生のおられた新潟県醸造試験場の強力なサポートを受けられる状況の中、宮尾行男専務(現社長)も使える資金はすべて酒質向上と無理のないペースでの増産余力の確保に投入されていました。
その結果、設備も少しづつ毎年向上し、酒質も前に進み続けていました。
私が初めて國権を訪れた昭和五十年代後半の〆張鶴 純 は、二千円台前半の価格で、
新潟県産五百万石(原料米)を使用し平均精米歩合55%、粕歩合は40%を超え、エンドユーザーの消費者に高い評価を受け逼迫状況になっていました。
〆張鶴 純 は八海山に比べ派手な面もなく、分かりやすい面白さもありませんがそれはレベルが低いためではなく、すべての面でレベルが高いため目立つ点が無い------欠点の無い完成されたバランス美のためだったのです。
現在の〆張鶴 純 はこの頃と比べると、やや味のある、やや重い方向にあると思われますが、平均精米歩合は50%に達し、くどくも無ければ素っ気なくも無い完成されたバランス美は今も健在で、相変らず食べ物の味の邪魔もしなければ飲み飽きもしません。

では大木幹夫杜氏の造り出す國権はどうだったのでしょうか?
以下はあくまでも私個人が感じたことで、客観的に証明されていない私個人の主観であることを最初にお断りしておきます。

その頃の國権は600石くらいだったように記憶していますが、3500~4000石で逼迫状況にあった〆張鶴に比べ、タンク1本1本を大木幹夫杜氏が完全に把握しているメリットがあったにせよ、酒造りのインフラのすべてにおいて遅れていました。
原料米や精米歩合、粕歩合も現在の國権の水準に比べ特に進んでいた訳ではありません。
しかし大木幹夫杜氏の造り出す本醸造生原酒(ふなぐち)の春一番は、ただでさえ重くくどくなりがちの生原酒であるのにもかかわらず、華やかだが強すぎない香りにバランスしたふくらみがあり、18~18.5%の高いアルコール度数を飲む人に強くは感じさせない切れ方をしていました。
私個人の想像では、大木幹夫杜氏も、新潟淡麗辛口と同様にご自分が3年連続で金賞を取った大吟醸の手法を可能な限り市販酒の本醸造に取り入れたと感じています。
軽さと切れの良さ”そのもの”では新潟淡麗辛口のトップクラスに勝てなくとも、大木幹夫杜氏ご自身の最大の武器の華やかな香りに「バランスしたふくらみ」、「バランスした切れ方」の方向で酒を造れば十分に新潟淡麗辛口に対抗できる------それが春一番だったように私には思えるのです。

言い換えれば、〆張鶴は構造的な帰結としての”容易には崩れない”バランスであり、
國権のバランスは、細井泠一専務(現社長)の了承を得たうえでの、大木幹夫杜氏の”ぎりぎりの荒技”の結果としてのバランスだったような気がするのです。

”ぎりぎりの荒技”で造り出された國権の市販酒が注目され始めたのは、ある意味当然のことでした。
しかし、その”ぎりぎりの荒技”への注目がエンドユーザーの消費者に広く拡大する前に、業界----それも酒を造る側の”プロ”の間に大きな注目を浴びたのが、細井泠一専務(現社長)にとって思いもしなかった”事態”を生むことになってしまうのです。

私が國権と取引させていだだいて数年後、その”事態”は突然起きたのです。
大木幹夫杜氏が所属する南部杜氏協会(南部杜氏の組合)から、日本酒業界の”巨人”である月桂冠から大木幹夫杜氏の”移籍”への「強いオファー」があることを、細井泠一専務(現社長)は知らされたのです。
灘、伏見の蔵は全国に販売網を持つナショナルブランド(NB)の蔵が多いというだけではなく、日本酒そのものの歴史、伝統という点でも他の地方を圧倒していました。
昭和四十年代後半から新潟で始まり、新潟淡麗辛口の”隆盛”に繋がっていく”地酒運動”もNBによる”淘汰の波”に対する新潟清酒の、「生き残りを賭けたささやかな反撃」という側面があったのですが、十分な成功を収めていたこの時期の新潟淡麗辛口のトップレベルの蔵でさえ、NBに「かすり傷を与えた程度」としか思えなかったほどの、”巨大な存在感”が灘、伏見の蔵にはあったのです。
細井泠一専務(現社長)にとって、”この勝負”は最初から分が悪いものでした。
大木幹夫杜氏ご自身ももちろん名誉なことであり、意欲も当然あったと思われますが強くその気持を押し出せない面もあったことは私にも想像することができました。
しかし南部杜氏協会にとっては、月桂冠からの「強いオファー」は南部杜氏の技術と力を「醸造業界」が認めたに等しく、ぜひとも実現したい話でした。
そして大木幹夫杜氏の、國権から月桂冠への移籍が決定したのです。

〆張鶴、八海山、千代の光、久保田、そして國権を主力銘柄として販売しながらも、月桂冠を始めとするNBも”豊富”に取り扱っていた私は、この”事態”に別な面での驚きも覚えました。私が思っていたよりも、NB,特に月桂冠に”危機感”が強かったことが驚きだったのです。

日本酒の歴史を体現する灘、伏見のNBは、伝統的な丹波杜氏を擁する蔵から、その販売力を背景に昭和四十年代までに近代的な”醸造メーカー”に脱皮していました。
全国津々浦々にいつでも安定的に安定した酒を供給するためには、それは自然な”流れ”でした。
コーヒーに例えて言うと、レギュラーコーヒーを販売する”老舗の大規模商店”から、レギュラーコーヒーもあるが「缶コーヒー」をメインに販売するメーカーにならざるを得なかったのです。
新潟を始めとする、レギュラーコーヒーを販売する”新興の小規模商店”から受けた数量的な被害はNBにとって微々たるものでしたが、「缶コーヒー」の”品質”を突かれた結果のイメージ低下が、強い危機感をNBに感じさせたのかも知れません。
それでなくてもビールに、数量の面でも離されイメージの面でも凌駕されていたNBの盟主の月桂冠にとっては、このイメージ低下の状況は”放置”できないものでした。
そしてその状況がNBをして、「缶コーヒー」全体の品質レベルを向上させ、「缶コーヒー」の一部で”新興の小規模商店”のレギュラーコーヒーの水準を超える方向に舵を切らせることになった------私個人はそう思っています。
月桂冠をその方向に舵を切らせた中心に、栗山専務(当時)がいたというように私は聞いていますが、もしそうであればなぜ國権の大木幹夫杜氏を栗山専務(当時)が選んだのか、今の私にはほんの少しですが分かるような気がします-----------。

國権の販売本数を、簡単に三桁以上上回る月桂冠の危機感に裏打ちされた、國権の立場からすると、強引とも思える”行動”によって國権の状況は変わらざるを得ませんでした。

細井泠一専務(現社長)にとって、心の置き所が”楽から苦”に変わる出来事でしたが、せめてあと数年大木幹夫杜氏がいたらという気持になった日々が少なくなかったと思われますが、それは國権のファンである私達も同様でした。
しかし、業界の盟主の月桂冠が注目せざるを得ないほどの輝きを見せた國権を造り出した細井泠一現社長の”仕事”の大きさは光を、今も、失ってはいません。
その”仕事”があって、細井信浩現専務が継ぐべき國権があるのですから------。

いかに”家業”といえども酒蔵を継ぐことは、現在は「楽でもなければ得でもない」選択だと思われます。あえてその選択をした細井信浩専務は、蔵にもどって7~8年の造りを経験した今、嶋悌司先生流の「伝統の受け継ぎ方」の方向に舵を切るのではないか-----客観的根拠はありませんが、私の中にはそんな予感があります。
そして、5年後なのか、10年後になるのか今の私には分かりませんが、その予感が実現したとき、囲炉裏のある客間にあった色紙に書いてあった言葉のように、”苦も楽”に変わり、細井信浩専務が展開の”推進力”になった構造的な帰結の國権を、細井泠一社長の造り出した國権を超えた國権を、庶民の酒飲みのために造りだしてくれるような気がしてならないのです---------。




細井信浩専務のことを書く前に、この「國権について--NO1」は長くなり過ぎましたので
この続きは、「國権について--NO2」に書くことにしたいと思います。
ただし、怠け者の私ですので、いつになるか本人にもわかりませんが----------。


書いた内容のごく一部に、勘違いによる間違いがあったため、5月31日にそれを加筆修正しています。