OCNブログ人終了(11月30日まで)のためGOOブログに移行する準備
のため文字数の制限でカットされる記事を分割して再掲します。
そして六年ほど前にそのチャンスがめぐってきました。
普段はあまり見ることのない県内のみの新聞が、県内の蔵の紹介のシリーズを掲載しておりたまたま私が見た日に、販売量が200石(一升瓶換算で2万本)の小さな蔵が紹介されていました。
その蔵の若いI専務は一年前までは銀行員だったが、飲む人達が飲みたいと思う酒を造って蔵を受け継いでいきたい--------そのようなインタビューの内容だったと記憶しています。
実はその蔵には、私は業界を離れる数年前に行ったことがあり、設備も古い小さな蔵でしたたが良い印象の記憶が残っていました。
そして仮に”取材向けの発言”だとしても、若いI専務の発言に「もしかしたら------」という可能性を感じたのです。
私は早速”無謀”にも、蔵の専務に連絡をしてみました。
幸いにも、いきなりの電話にも関わらず、I専務は私と会ってくれることを了解してくれました。
後日、I専務が話してくれたのですが、私が業界を離れた後に僅か三千部しか発売されなかった、早福岩男早福酒食品店社長(現会長)のことが描かれた「町の酒屋」という本を読んでいて、その本の中の私が現役の酒販店のときに書いた”作文”をも見ていたため、I専務は私の名前は知っていたそうです。
私はI専務に”私の考え”をぶつけてみました。
そして改めてこの蔵を見せてもらったのですが、十数年前とまるで変わらない古い蔵のままでしたが、私自身が年を重ねたせいか、十数年前とは違いその古さが貴重なもののように私は受け止めていました。
この時点でも、I専務の蔵に限らず地方の小さな蔵のほとんどは、続くか続かないかの”綱渡り”をしているようなものでした。
その現状の打破の突破口にしようとして、I専務の強い希望で造られた特別本醸造と(私自身の希望で)一番価格の安い普通酒を飲ませてもらいました。
どちらも南部のベテラン杜氏によって丁寧に造られたもので、「氏素性の良さ」を感じさせる酒でしたが、ある種の微かな”違和感”を私は感じていました------そしてその”違和感”は普通酒よりも特別本醸造のほうにより強く感じられたのです。
その”違和感”は、例えてみると、直接見ることはできないが潮風の存在で海が近いことが感じられるのに、サーフボードやスキューバダイビングの道具ではなく、山登りの道具や装備を一生懸命に揃えている-------そんな感じのものでした。
やや大袈裟に誇張して言うと、相反するものを一本の酒の中に”同居”させようとしているために、酒自体のバランスがやや崩れていて芯が強いとは言いにくい仕上がりになっていたのです。
「もしかしたらI専務が意図した、南部杜氏が得意とする華やかな香りと豊かなふくらみを9号酵母でだそうとした狙いが、I専務の蔵の古い蔵自体が持つ淡麗なタイプになりがちな”傾向”とバッティングしたからではないか? そうだと仮定すれば特別本醸造よりごくふつうに造られた普通酒のほうに”違和感”が小さかったことが説明できる」--------伊藤勝次杜氏の生酛のときにも感じたものと同じような”直感”を、私は感じていたのです。
その”直感”は、私の体験や経験から”帰納法的”に導き出されたもので、けして”根拠”がないものではなかったと”主観的”には思っていますが、私個人の”感覚”であるため私自身にも”絶対的な自信”もなければ”客観的証拠”もなかったのです。
しかしI専務が意図して造った特別本醸造がエンドユーザーの消費者、特に私の周囲に存在するエンドユーザーの消費者に、評価されにくい”酒質の形”であることだけははっきりと私には認識できていたのです。
I専務の率直な姿勢に好感を持った私は、言うか言うまいかかなり”迷った末に”、私も率直に言うことを”選択”しました。
「私自身の感じだけかも知れないですが、この本醸造はI専務の蔵自体が持つ”自然になりがちな酒質の方向”に逆行しているような気がします。
十数年前の酒質は、越後杜氏が造っていたせいもあったかも知れませんが、淡麗なタイプだっとの記憶が私には残っていいます。
そして特に”意図”を持たずに造られた普通酒には、そのときの記憶を感じさせる部分がより強く残っているような感じがします。
私の感じていることが仮に正しいとしたら、I専務の蔵はもともと淡麗辛口になりやすい傾向があるということになり、新潟淡麗辛口の手法を出来る限り取り入れた本醸造、純米を”意図すれば”、(新潟淡麗辛口に比べれば泥臭いが)味に幅やふくらみを残しながら”切れ”が良く後味が残らない淡麗タイプの酒質を実現できるのではないか----------。
もしその本醸造、純米が適正と思える価格で販売されたら”県産酒に懐疑的”な県内のエンドユーザーの消費者に支持を得られるのではないか」
率直で歯に絹を着せぬストレートな言い方をする、鶴の友・樋木尚一郎社長のような”日本酒業界の先達の方々”に救われてきた私も、いつの間にかどうしても相手に理解してもらいたい場合は、相手が”不快な気持”になったとしてもストレートな言い方をするようになっていました。
結果として”意図した酒質”の本醸造、純米は、税込み1995円、2499円の販売価格で一年後に実現したのです。
その一年は、「思いもしなかったスムーズさと、思いもしなかった困難のサンドイッチ」のような一年と言えました。
たぶんそのどちらも、良くも悪くも、I専務と私が「酒の造りにおいては”素人”だったため、エンドユーザーの消費者の視点から判断するという考え方」が生み出したものでした。
I専務と私の”考え方”は、I専務の蔵の杜氏や蔵人、従業員の皆さんに”歓迎”されていたとは、いくらおそまつで能天気な私もとうてい思えないものでしたが、しかし出来上がった酒が(今考えても幸いにも私に運が味方してくれて、実現した酒質としか思えないのですが-----)皆さんを納得させ支持して頂ける方向に変えてくれました。
またその”考え方”は、酒を造る前から、私の想像以上にエンドユーザーの消費者に支持され思いもよらない”評価や応援”を生んでくれもしたのです。
酒のレッテルは、日本酒業界とはまったく縁のない地元の印刷会社に”応援価格”で造ってもらい、まだ造っていない酒の”告知”には、地元のミニコミ誌や大新聞と一緒に週一回無料で配布される地元のミニ新聞にも”考え方”に対する好意的な”評価と応援”をいただき、その結果翌年の四月以降の発売の予定で造りに入った十二月に、「まだ存在していない本醸造と純米の二本セット」を送料込み価格の五千円での予約販売の募集をしたところ、驚いたことに、約百セットという予想を超える申し込みがあったのです。
そして発売の四月を迎えたのですが、香りに僅かな問題を抱えていましたが(次の造りで解決可能なレベル)、9号酵母を使い慣れたベテランの南部杜氏が初めて10号系酵母を使い”切れの良い”淡麗タイプの酒を造るという「造りの素人だから意図できた冒険」は、客観的に見ても”成功”だったとの評価を得ることができたのです。
私にとって一番うれしかったのは、”考え方”に懐疑的だった蔵の30歳前後の従業員のOさんが、
「この酒質なら、自分の同級生にも胸を張って薦められます」と、私に笑顔で言ってくれたことでした。
蔵の従業員のOさんも”蔵の方針の変更”に苦労させられたと思いますが、休日の多くだけではなく仕事の終わった後の深夜に及ぶ場合も少なくなかった、”ボランティア活動”の一年を送った私も物心両面で楽ではなかったのですが、周囲のエンドユーザーの消費者に評価され順調な滑り出しをしていることを見て、「やって良かった」と実感していたのですが
しかし最後に”最大の困難”が待っていることを予想はできなかったのです-------。
最後にして最大の困難は突然やってきました。
酒質的には想定していた以上の水準に達していたため、酒を造る以前から取り扱いが決まっていた3店舗から、慎重にですが、10店舗程度に増す方向に動き始めたとき、私自身にはどうにもならない諸般の事情で、I専務の離脱とこの本醸造・純米の一年限りでの終了が決定してしまったのです。
続くか続かないかの”綱渡り”のような蔵側の状況は、残念ながら、私にも十分理解できることであり、私はその状況にささやかな貢献も出来ないほど”無力”だったのです。
私は、長い間酒を造り続けてきた古くて小さい蔵そのものが、これが最後の造りだということを知っていて、全力で杜氏や蔵人に力を貸して造りだした”最後の輝き”のような本醸造・純米の売り方の方向を、従業員のOさんと相談して変えました。
1200本の純米と6600本の本醸造を大事に一日でも長く売れるように、取引先の拡大は中止し、当初の3店舗のみだけの販売にしたのです。
今でもあの本醸造・純米を造り続けていたらと思うことがあります。
もし造り続けていたら私の県の”庶民の酒飲み”にとって大きな財産になっていたのではないか-------死んだ子の年を数えるというのは、こんな気持のことを言うのかと思ってしまうのです。
純米は一年もたずに無くなり、本醸造も2年経ったときそのすべてが無くなりました。
皮肉なことに、残りの本数が少なくなったときエンドユーザーの消費者の認知度が高まり、
無くなるスピードが加速したのです。
3軒の販売店で約二年で、1200本の純米と6600本の本醸造は売れて無くなっていったのです。
そして、「私の置かれた立場の限界ぎりぎりの自分のやれること」は終了を迎えることになったのです。
私自身は、置かれた立場の限界まで走ったため、”結果”については成功であれ失敗であれ「あれ以上はできなかった」ということは”納得”していて、残念な思いもありますが、”後悔”することはありません。
置かれた立場という”範囲の中”で考えれば、自分自身が思っていた以上の人達からの”応援と手助け”のおかげで、むしろ予想以上にやれたのではないか--------今でも私はそう感じていますが、置かれた立場の”範囲の中”でしか動けなかったことが、最後の最大の困難に対して私がまったく”無力”だったことの”最大の原因”だとも痛感しているのです。
「エンドユーザーの消費者の視点から考える」という”考え方”を持ち込み、間接的にはその流れの中で酒質も売り方も変え中長期的なスパンでは酒質と売り方に”成功”と言える結果を出せていながら、I専務の蔵に対しての直接的な貢献においては”無力”だったことが、最後の最後で”逆転負け”をもたらした---------そう痛感したのです、そしてそのことが”ボランティア活動”の限界”の証明であることを思い知ったのです。
もし私が”考え方”だけでなくその”考え方”を実践している現役の酒販店で、I専務の蔵の本醸造・純米の全体の1/3以上の本数を私自身が販売できていたら---------このレベルの直接的貢献を私が出来ていたら、I専務の蔵は今も酒を造り続けていたのではないか--------むしろ直接的貢献が出来なければ、蔵と一緒に”考え方”を実行に移すことは”無理”なのではないか---------私はこの”成功と失敗”の経験以後、そう思うようになっていったのです。
現役の酒販店に”現役復帰”しない限り、県内酒に関わることはするべきではない--------そう痛感したのです。
I専務の蔵の本醸造・純米が完全に無くなった四年前、この「日本酒エリアN」を私は書き始めました。
以前に何回も書いていますが、人に読んでもらうことはあまり意識することなく、書くことで日本酒の”世界”に接してきた私のこの三十年の”整理や清算”をするため、自分の”本音”を吐き出すように書こうとしたことが、この日本酒エリアNを書いた最大の”動機”かも知れない--------と今は感じています。
そして、I専務の蔵の本醸造・純米に関わったことが、スピンすることが”日常であった”とも言える私にとって、”最後の大スピン”になるだろうとも思っていたのです------------。
書き始めたときは、日本酒の世界から「離れるのが前提の”自分史”」のような気持でいました。
それゆえ、自分自身はよく分かっているが説明が複雑で難しい事や、自分自身が直接関わった蔵や出来事の”公式見解”とは異なる自分自身の”体験”は詳しく書く必要性は無く、
自分のための”記録”という点と”離れるために必要な儀式”という点が前面に出ているため、
”不親切で分かりにくい”しかもきわめて長いものになってしまい、私の周囲では”批判的見解の嵐”になってしまいました。
その中でも古い仲間のS髙研究員の、「お前のはブログではない。短めの”論文”だとしても何が言いたいのかは、”事情”を知らない人間にほとんど分からない」との批判は、さすがに尤もだと感じ、短めの標準的長さのものを書いたうえで”儀式”を終了させようと思ったのです。
その短めで標準的な長さのものが、鶴の友について--NO1~NO6でした。
たぶんこのシリーズを書かなければ、私は予定どうり日本酒の世界から”足を洗って”いたと思われます。
最後に書くものであり、なおかつ短めで焦点を絞る必要がある以上、書くべきものは鶴の友と樋木尚一郎社長の他にはありませんでした。
ある意味で〆張鶴・宮尾行男社長も”誤解にさらされ”、実像があまり知られていない方だと私は感じておりますが、しかし〆張鶴の知名度の高さと〆張鶴の酒質を実際に飲んで知る人の多さが”誤解のレベル”をある水準以下に押さえ込んでいて、おそまつで能天気な私の”出番”などまったく必要ありませんが、鶴の友はその販売数量の少なさのため地元新潟市以外では直接飲んでその酒質を知る人は、〆張鶴に比べるとかなり多く見積もっても桁が二つ違うくらい少なく、さらに鶴の友・樋木尚一郎社長は宮尾行男社長よりはるかに多くの”誤解にさらされ”、その”実像”を垣間見る”機会”を与えられた人はきわめて少数だったのです。
おそまつで能天気でありましたが、その”機会”を与えられた数少ない人間であることを私は自覚していました。
最後にあまり知られることの無い、鶴の友と樋木尚一郎社長の”実像”を、小さな自分の”許容量の中”で理解し納得できた範囲で書き、たとえ一人でも二人でもいいから分かってもらえたら、日本酒の世界と一緒に(常にスピンを伴って)歩んできた”私の三十年の幕引き”に相応しいのかも知れない-------そう感じて書いたものでした。
それゆえ書き終った後、私は自分のブログを半年以上まったく見ることがなかったのです。
その半年を含む一年以上の期間、私は表面的には何の変化もありませんでしたし、〆張鶴、千代の光、鶴の友そして早福岩男さんとの関係もまた変わらなかったのですが、自分自身の中では、「たとえどのような関係が過去にあったにせよ、現在は一人のエンドユーザーの消費者としての”分”をわきまえ”分”を超えずにお付き合いさせて頂くべき」--------という気持で月日を送っていたのです。
この時期の私は再び、ある種の”挫折感に近い寂しさ”と背中合わせでしたが、ほっと息をつけるような”開放感”をも同時に感じていたのです。
鶴の友について--NO6を書き終えて半年以上経ったとき、よく覚えていないのですが何かを調べるつもりだったのと思われるのですが、鶴の友という”言葉”でグーグルで検索をしてみました。
まったく予想外で正直言って”驚いた”のですが、検索結果の1ページ目に私が書いたものが二つ入っていました。
「鶴の友について書かれたものが、〆張鶴に比べるとかなり少ないという”理由”があるにせよ、アクセス数がそれなりに多いということじゃないの」----------どの程度詳しいのかよく分かりませんが、少なくても私よりはPCにもブログにも詳しいと思える知り合いに聞いたところ、このような答えが返ってきました。
”開放感”も長く続くと”暇を持て余す”という言葉に段々近づいて行きますし、”挫折感に近い寂しさ”も時間が経てば経つほど薄れていきます。
おそまつで能天気な私は、またしてもとんでもない”勘違い”をし、「見てくださる人がそれなりに多いということは、もしかしたら見てくれる人のお役に立てているのかも知れない。
それならばもう少し詳しく、鶴の友と樋木尚一郎社長のことを書いてみよう」---------お恥ずかしい次第ですがこのような”流れ”で、鶴の友について-2--NO1~番外編を書くことになってしまったのです。
私はあまりPCにもブログ自体にも詳しくないないため、アクセス解析はしていませんので正確かどうか分かりませんが、グーグルやヤフーの検索結果の順位から判断すると、この時期に書いた鶴の友について-2--NO2、鶴の友について-2--NO4が現在も一番よく見て頂いているようです。
そして、日本酒の世界から離れることの”儀式”として書き始めたはずのこの「日本酒エリアN」も、この時期から”微妙に”意味合いが変化し始め、私本人の自覚が無いまま少しずつですが、むしろ”離れる”のとは逆の方向に向かい始めていた---------苦笑とともに今ではそう思えるのです。
そしてこの鶴の友について-2のシリーズを書き終わらないうちに、「巻き込まれたのか、自ら首を突っ込んだのか」-------その判断が”微妙”なのですがある出来事に関わり、当初想像したよりその影響の範囲が拡大し私だけでは対応しきれなくなり、守るべき”自分の分”を自ら踏み越えた”お願い”を申し上げ、〆張鶴・宮尾行男社長、早福岩男早福酒食品店社長にご迷惑をおかけすることになる、”事件の発端”が私を待っていたのです。
その”事件”のスタートはごくささやかなものでした。
直接的な接触は少なかったものの、十数年前から知っていたH商店のH君の小さな”つまずき”を私が知ることから、それは始まったのです。
その”つまずき”は、H君自身が十年以上「これで良い」と信じてやってきたことの一角が崩れたことで”発生”したのですが、その”つまずきの発生”に私は直接的な関わりはまったく持っていませんでしたが、「私自身の過去の行動の、私自身の認識の及ばない面の影響まで入れるならば」間接的には関わりが無くはない-------といえるものでした。
その”つまずき”の経緯をH君から聞かされることになった私は、若い頃の自分自身の「人を見る目の無さ」を思い知らされることになるのですが、同時にH君自身の”視野の狭さ”も私は気になったのです。
現在のH君は、自分の”つまずきや失敗”は自分自身の中に原因があったことを認識していて、最終的には自分の後ろには自分自身しか居ない--------ということを十分に理解できていて「当たり前のことを当たり前に」という方向に一歩踏み出していますが、そう思えるようになるまでにはH君も私自身も、またもやまるで「ジェットコースターに乗ってしまったような」二年間を過ごさなければならなかったのです。
川の水が「上から下にしか流れない」のは”自然な流れ”ですので、自分の都合に具合が悪かろうが”流れ”には逆らえないと感じ、「流れに逆らわないこと」を三十年かけて学んできたような気がしています。
しかし、”流れ”に逆らわないことは「何もしないこと」を意味しているのではありません。
強い雨の日でも、ずぶ濡れになっても、やらなければならない”仕事”はやらなければならないし、その日が台風でも出社しなければならない日なら、できるだけ”安全のための対策”をとって、注意しながら”仕事”をしなければなりません---------”自然の流れ”が私自身の都合を考慮してくれない以上、当たり前過ぎるほど当たり前のことですが、私自身が”自然の流れ”に適合していくしか”道”はないのです。
H君が立脚していた一角が崩れても、それがささやかな”つまずき”とH君自身が思えたのは頼るべき他の一角があったからでしたが、時間の経過とともにその一角も崩れた一角と”同じような脆さ”を抱えたものであることが判明する”出来事”が、あたかもシフトアップするかのように次々と起こり始めるのです。
H君自身にとってもH商店にとっても、自分と自分の店を支える”確固たる基盤”だと思っていたことが実はそうでは無かったことを思い知らされることになったH君は、残念ながら”混乱の極み”の状態にあり「何が何だか判らない」行くべき”道”を見失った状況の中にいました。
規模の大きな川や雄大な滝に見えていたものが、実は他人の水タンクを借りてその中の水をポンプで汲み出しホースで散水しているようなものであることが”見えてしまった”H君は、
大河の流れや圧倒的水量を誇る滝まで「ホースの散水と区別がつかない」危険な状態にあったのです。
自分自身に出来ることの”限界”を感じざるを得なかった私も、この事態を見て自らに禁じていた手段をも使う”全力投入”を覚悟したのです。
その時私は自分が業界を離れるときにかけてもらった、鶴の友・樋木尚一郎社長の暖かい気持のこもった”言葉”を思い出していました。
鶴の友についてシリーズで詳しく書いていますので、その”言葉”は詳述しませんが、
「酒販店としては失敗したり駄目であったとしても、人間として駄目でないならどんな仕事であれ他人に迷惑をかけずに胸を張って生きていけますよ」--------という”言葉”を思いだしていたのです。
最悪の場合、H君も業界を離れる可能性はありました。
しかし私自身の体験上、「日本酒業界のみに固定した視野」だけでは他の業界でやっていくのは難しい-------と私は痛感していました。
まして大河と滝と”ホースの散水”の区別がつかず、日本酒業界に存在している”自然な流れ”をも明確に理解しているとは言えない状態では、酒販店としても他の業界の人間としても生きていくのは困難が多いはずだと感じていたのです。
「大河と滝と”ホースの散水”との違いが、明確に分かる距離で大河や滝と直接向き合う機会を造る」---------それによってH君が”自然の流れ”に逆らわないという意味をほんの少しでも分かってくれれば、先に光が見えるかも知れない-------私がとれる”最大の手段”はそれしかなかったのです。
その”手段”は、具体的にはH君の置かれた状況と立場を私が説明させていただいた上で、
〆張鶴・宮尾行男社長には直接H君に会っていただきお話をしてもらい、早福岩男早福酒食品店会長にはH君へのさらなる応援をお願いするものでした。
この”手段”は、日本酒業界から離れようとしていた私の”方針”にも、自分の”分”を守ってお付き合いをさせていただこうとの”考え方”にも逆行するものでしたが、そのことに”こだわれない”ほど事態の進むスピードは速かったのです。
その”手段”は、私にとってもめったに使えない”非常手段”でしたが、宮尾行男社長と早福岩男会長にご迷惑をおかけした申し訳なさはどうしても残りますが、使ってよかったと今の私は思っています。
宮尾社長には、分刻みのスケジュールに追われる造りの時期の三月にも関わらず、日程の変更を三回せざるを得ない忙しさの中でもH君のために三時間の時間を割いていただき、早福岩男会長には「私自身が大きな借りを造った」と思うような”応援”をH君にしてくれました。
その”手段”は、H君にとって即効性があるものではありませんでしたが、結果的には、
「批判の刃が自分自身にも向き、H君自身も”ホースで散水”していた事実に気が付き始め、そのことが”自然な流れ”に目を向けるきっかけ」になったのです。
残念ながら現在のH君は、酒販店を離れ別な方向で生きていこうとしていますが、自然の流れに逆らわずにやれることをやる-------という方向に踏み出しているので、その先に必ず次の”ステージ”が待っているような気が私はしていまます。
鶴の友について-2のシリーズが途中から内容が”変化”したのは、それを書きながら同時に上記のような状況で”全力で走っていた”ということが”影響”しているのです。
H君との「ジェットコースターに乗っているような二年間」で、私は知りたくなくても、H君を介してだけではなくその他の人達からも、私自身の人脈が及ぶ範囲に限定されますが、日本酒業界の最新の動きが入るようになってしまっていました。
また”H君との二年間”は、実は私自身にとっても「公私の両面で厳しい期間」だったのですが、”全力投入”で走っているうちにふと気づくと、新潟の皆様と、現役の酒販店時代よりも”近い”ところまで入り込んでいる自分を「発見」したのです。
ある意味でH君の”事件”は私にとって”迷惑”なことでしたが、皮肉なことにその”迷惑な事件”のおかげで、「自然な流れに逆らって、日本酒から離れようと意図した自分の方針」の誤りを”正された”ような気がしており、むしろ”H君の事件”に感謝すべきなのかも知れないと感じています。