最近読んだ2冊。
どちらも死に際しての深い話で、死ぬことが昔よりも身近になった今、伴侶の死、患者さんの多くの死を体験した人の話はとても参考になりました。
加賀乙彦、津村節子両氏はそれぞれ伴侶を失って間がない時の対談で、まだ悲しみが癒えていない語り口に、限りない愛情を感じた。文学者らしく、自分の思いと向き合いそれをきちんと表現しているので、その時の心構えも少しは出来たと思うって、夫を見送るつもりにしていますが、98歳まで生きた姑の息子、腰が痛いだけでどこも悪いところがないし、私が見送られることになるかもしれません。
もう一冊は、東大病院その他で外科医をしていた著者=森鴎外の孫が、訪問診療の現場に移り、在宅死の患者さんを何百人と見送った話。
人はどんな最後がいいのか。
たくさんの実例と統計資料、医療行政などにも目を配り、その人の希望に寄り添いながら、無理な延命治療をせずに、家族も納得いく最後を模索する話。
小堀鷗一郎医師のドキュメンタリー番組はNHKで放送されてみた記憶がありますが、映画にもなったらしい。知らんかった。
小堀鷗一郎医師ご紹介|地域医療センター|堀ノ内病院 (horinouchi-hp.com)
NHKの番組で印象に残ったのは、全盲の娘さんが末期がんのお父さんの介護をしている場面。なんか温かいものを作ってゆっくり運んでいる。
患者さんは小堀医師に全幅の信頼を寄せていて、庭の大きな柿の実が熟れたら先生に上げたいと、そればかり言っていた記憶。確か百匁柿とか言っていた。
臨終後、お父さんにお礼言わなかったと娘さんが言うと小堀医師は「親子なんてそんなもんだよ」と発言。そうなんだ、それでいいんだと私も納得した記憶がある。
わが父も末期がんで、死ぬのは家の仏壇の前と主治医に頼んでいたらしい。最後に意識が亡くなってから、「今家に帰れば楽に死ねます」と医師に言われて、その時、たまたま病室には私しかいなくて、「いえ、こちらでお願いします」と反射的に言ってしまう。私は51歳、まだ死と縁遠い年でした。
意識が亡くなる前に連れて帰れば喜んだかもしれないけど、何もわからなくなってから言われても遅すぎるとも思った。
病院、または家で死ぬのはいいけれど、搬送途中で亡くなるといろいろ大変らしい。それで医師も断念して「最後まで診させていただきます」と言ってもらえた。
その時は先生の意図が分からなかったけど、この本読んで父に強く頼まれていたのかもしれないと思い当たった。
でも治療をいろいろしている時には止めて連れて帰る決断ができないのです。家で受け入れる条件の調整がついていなかった、家族が父の思いを受けて準備していたわけでもなかったのです。
死に際しては百人百様、どれがいいかは一概に決められ無いけれど、小堀先生は一つ一つ、どうすればいいか、寄り添って考えている。そこが素晴らしいと思った。
昭和30年代初めまで、年寄りは家で亡くなるのが普通だった。
小学一年生の冬休み初日、隣のお婆さんが亡くなって、母が私を呼びに来て、亡くなったばかりの枕もとで、「白骨の御文章」を上げるように言われて、読んだことがある。手渡された和紙綴じのお経本は旧仮名遣いで読めないところもあったけど、私は家で毎晩お経上げていたので、読むふりして何とか済ませた。
祖父が仏壇にお参りすると10円くれていたのです。10円は貯金して千円になると農協に預けていたのかな。何しろ古い話です。
おばあさんには木綿のかけ布団が掛かっていた。藍色で、絵絣で、詰めかけた近所の女性は殆どが着物姿。昔は冬は着物着ている人が多かった。
冠婚葬祭、生まれてから死ぬまで節目の行事は家で。共同体が総出で行事をこなす。7歳の私も訳の分からないまま、枕元に駆り出される。
時間は逆に向いて流れないけれど、日本昔話みたいな臨終の様子を今日は思い出していた。
午前中、友達が来て話をして機織りせず。午後から風邪気味で本読んでいた。
風が強くて寒い日だった。毎年取り寄せる干し柿が今日届いた。生産者直売。20個で1,200円と激安。この時期、あいさつ代わりに人に上げるのに重宝しています。