<癌薬ーー丸山ワクチン開発者(千里氏)の子:元ソニーミュージック社長の文書です>
<政治の現在、捉え方、見方の事例として紹介します。自分(臼蔵)はこの見方、考え方に賛同しているわけではありません。大きな違和感があります。このような考え方が経済界、リーダー層に向けて発信されていることは知っておく必要があると思い紹介します>
<以下がその文書>
菅さん(前首相)が、政権迷走への批判を浴び続けた末、首相を辞めました。私は決して菅さんを支持するわけではありませんが、かといって、あの人はだめだよって指をさす気にもならない。それは私自身をひっくるめ多くの国民が、菅さんと同質の「だらしなさ」を共有していると思うからです。
「気をつけ! 休め」っていうのがありますよね。子供のころ、校庭に整列したときにやった、あれです。
例えて言うならば、黒船がやって来て、太平洋戦争が終わるまでの約100年間、日本はずっと「気をつけ」の姿勢で気を張っていたんじゃないか。そんな「気をつけジェネレーション」の最後にあたるのが、経営者ならソニーの盛田昭夫さんや大賀典雄さん、ホンダの本田宗一郎さん。政治家では後藤田正晴さん、中曽根康弘さん、宮沢喜一さんあたりでしょうか。戦争をごく身近なものとして経験し、並ではない苦労をした人たちです。
ところが戦争が終わると、人々は緊張から解放され「休め」の状態になった。昭和7~8年生まれ以降の世代は「団塊」を含めて、平和な世の中でちゃらちゃら暮らし、苦労の足りない「休みっぱなしジェネレーション」と呼べるのではないでしょうか。
終戦から66年。戦後の復興を必死で引っ張ってきた「気をつけジェネレーション」がどんどんいなくなり、今の日本は国全体が「休め」の人々であふれているように感じます。そんなわけで、菅さん1人を「だらしない」と責めるような気分にはちょっとなれないんです。
菅さんはよく「リーダーシップがない」と批判されましたが、そもそも日本の場合、政治家に求められるリーダーシップとはどんなものなのでしょうか。定義もしっかりしていないのに「リーダーシップがない」って国会で騒ぎ立てるのはおかしいと思うんです。
これは間違っていたらごめんなさいですが、私たち「休みっぱなしジェネレーション」は、どこかでアメリカ大統領のような形を漠然とリーダーシップと考えているのではないでしょうか。菅さんにせよ、その前の鳩山由紀夫さんにせよ、「リーダーシップ=アメリカ大統領」というイメージで首相をやっていたような気がします。でも議院内閣制の日本は大統領制のアメリカとは政治の仕組みが違う。大統領のような権力の裏付けがないのに、大統領のようなつもりで首相が振る舞おうとすれば、当然、上滑りします。
日本は現場力が圧倒的に強く、その結果として暗黙知によるチームワークで伸びてきた国です。歴史的に、それほど強力なリーダーシップを持たない首相の下でも何とか政治を切り盛りしてきた。社会が進むべき方向性が見えにくくなり、人々が強力な指導者を求める気持ちは分かります。けれども日本の社会と政治の成り立ちを考えれば、急に「頼れるリーダーシップを!」と叫んでも、それは無い物ねだりというものでしょう。むしろ円滑なチームワークがとれるように組織のメンテナンスをしっかりやる方が日本では現実的ではないかと思うんです。
菅さんだけでなく「休みっぱなしジェネレーション」の政治家の言動は市民運動型だとも感じてきました。政治というのは、さまざまな見方や意見がある問題について、どこかに落としどころを探るものだと思います。野党と折衝するにしても、プランAがだめならプランB、それでもだめならプランCという具合に「次の手」を用意していなければならない。真の政治家ならAからEくらいまで持っているべきでしょう。
ところが民主党の菅さん、鳩山さんに限らず、自民党の小泉さん、安倍さん、福田さん、麻生さんと「休みっぱなしジェネレーション」の政治家は、プランAと言ったらプランAの一点張りで、あとはびくとも動かない。市民運動ならそれでもいいかもしれません。むしろプランBやCを持ち出したりしたら、主張が一貫していない、弱腰だ、となる。でもそれでは政治の世界では議論が先に進まず、問題を解決できません。
どうせ新しい首相が出てきても、あまり代わり映えしないだろうなと思いつつ、ここ何代かの首相の顔を改めて思い浮かべてみました。すると、ある共通点に気がついたんです。どの首相経験者も、最近の高層ビルの壁面を覆うガラスのように顔がツルツルしている感じなんですね。苦労の足りないツルンとした顔。物事を表面的なデータや数字でとらえ、概念的、抽象的な思考ばかりしていると、ああなります。
かつての自民党政権時代、与野党には「悪代官」ぽい国会議員がたくさんいました。そんなあくの強い顔を見て私は「イヤだなー」と思っていたのですが、振り返ってみると、決してツルンとしていないあの手の顔は、自信を持って現場を掌握し己の存在を主張していたことの表れだったのかもしれません。
野田新首相もまた顔がツルツルしているでしょう。日本全体がいつまでも「休め」のままでいいはずはないのですが。
<政治の現在、捉え方、見方の事例として紹介します。自分(臼蔵)はこの見方、考え方に賛同しているわけではありません。大きな違和感があります。このような考え方が経済界、リーダー層に向けて発信されていることは知っておく必要があると思い紹介します>
<以下がその文書>
菅さん(前首相)が、政権迷走への批判を浴び続けた末、首相を辞めました。私は決して菅さんを支持するわけではありませんが、かといって、あの人はだめだよって指をさす気にもならない。それは私自身をひっくるめ多くの国民が、菅さんと同質の「だらしなさ」を共有していると思うからです。
「気をつけ! 休め」っていうのがありますよね。子供のころ、校庭に整列したときにやった、あれです。
例えて言うならば、黒船がやって来て、太平洋戦争が終わるまでの約100年間、日本はずっと「気をつけ」の姿勢で気を張っていたんじゃないか。そんな「気をつけジェネレーション」の最後にあたるのが、経営者ならソニーの盛田昭夫さんや大賀典雄さん、ホンダの本田宗一郎さん。政治家では後藤田正晴さん、中曽根康弘さん、宮沢喜一さんあたりでしょうか。戦争をごく身近なものとして経験し、並ではない苦労をした人たちです。
ところが戦争が終わると、人々は緊張から解放され「休め」の状態になった。昭和7~8年生まれ以降の世代は「団塊」を含めて、平和な世の中でちゃらちゃら暮らし、苦労の足りない「休みっぱなしジェネレーション」と呼べるのではないでしょうか。
終戦から66年。戦後の復興を必死で引っ張ってきた「気をつけジェネレーション」がどんどんいなくなり、今の日本は国全体が「休め」の人々であふれているように感じます。そんなわけで、菅さん1人を「だらしない」と責めるような気分にはちょっとなれないんです。
菅さんはよく「リーダーシップがない」と批判されましたが、そもそも日本の場合、政治家に求められるリーダーシップとはどんなものなのでしょうか。定義もしっかりしていないのに「リーダーシップがない」って国会で騒ぎ立てるのはおかしいと思うんです。
これは間違っていたらごめんなさいですが、私たち「休みっぱなしジェネレーション」は、どこかでアメリカ大統領のような形を漠然とリーダーシップと考えているのではないでしょうか。菅さんにせよ、その前の鳩山由紀夫さんにせよ、「リーダーシップ=アメリカ大統領」というイメージで首相をやっていたような気がします。でも議院内閣制の日本は大統領制のアメリカとは政治の仕組みが違う。大統領のような権力の裏付けがないのに、大統領のようなつもりで首相が振る舞おうとすれば、当然、上滑りします。
日本は現場力が圧倒的に強く、その結果として暗黙知によるチームワークで伸びてきた国です。歴史的に、それほど強力なリーダーシップを持たない首相の下でも何とか政治を切り盛りしてきた。社会が進むべき方向性が見えにくくなり、人々が強力な指導者を求める気持ちは分かります。けれども日本の社会と政治の成り立ちを考えれば、急に「頼れるリーダーシップを!」と叫んでも、それは無い物ねだりというものでしょう。むしろ円滑なチームワークがとれるように組織のメンテナンスをしっかりやる方が日本では現実的ではないかと思うんです。
菅さんだけでなく「休みっぱなしジェネレーション」の政治家の言動は市民運動型だとも感じてきました。政治というのは、さまざまな見方や意見がある問題について、どこかに落としどころを探るものだと思います。野党と折衝するにしても、プランAがだめならプランB、それでもだめならプランCという具合に「次の手」を用意していなければならない。真の政治家ならAからEくらいまで持っているべきでしょう。
ところが民主党の菅さん、鳩山さんに限らず、自民党の小泉さん、安倍さん、福田さん、麻生さんと「休みっぱなしジェネレーション」の政治家は、プランAと言ったらプランAの一点張りで、あとはびくとも動かない。市民運動ならそれでもいいかもしれません。むしろプランBやCを持ち出したりしたら、主張が一貫していない、弱腰だ、となる。でもそれでは政治の世界では議論が先に進まず、問題を解決できません。
どうせ新しい首相が出てきても、あまり代わり映えしないだろうなと思いつつ、ここ何代かの首相の顔を改めて思い浮かべてみました。すると、ある共通点に気がついたんです。どの首相経験者も、最近の高層ビルの壁面を覆うガラスのように顔がツルツルしている感じなんですね。苦労の足りないツルンとした顔。物事を表面的なデータや数字でとらえ、概念的、抽象的な思考ばかりしていると、ああなります。
かつての自民党政権時代、与野党には「悪代官」ぽい国会議員がたくさんいました。そんなあくの強い顔を見て私は「イヤだなー」と思っていたのですが、振り返ってみると、決してツルンとしていないあの手の顔は、自信を持って現場を掌握し己の存在を主張していたことの表れだったのかもしれません。
野田新首相もまた顔がツルツルしているでしょう。日本全体がいつまでも「休め」のままでいいはずはないのですが。