“さるかに合戦”  臼蔵 と 蜂助・栗坊 の呟き

震災や原発の情報が少なくなりつつあることを感じながら被災地東北から自分達が思っていることを発信していきます。

政治の閉塞状況打開策(山口二郎教授)

2011年09月06日 18時48分04秒 | 臼蔵の呟き
山口二郎教授(北海道大学教授)の見解です。
フクシマ原発事故を受けて日本のエネルギー政策をどうすべきか、また、2大政党制の限界、混乱に関しても触れています。なかなか面白い意見ですのでご紹介します。
山口教授は民主党菅内閣のブレーンでした。(過去形)

福島第1原発の事故以来、日本のエネルギー政策をどうするか、議論が高まっています。今までの政策も、一応手続き的には民主主義の中で決められてきました。しかし、実質的には一握りの専門家が議論を取り仕切り、政治家もそれを追認するばかりでした。また、原発を受け入れた地元自治体には巨額の交付金が投下され、金の力で議論を封じるという手法がまかり通ってきました。その意味では、原発推進は民主主義の不足の結果ということができます。
 したがって、これからのエネルギー政策を考える際には、民主主義を徹底するという発想が必要です。民主化の試みの1つとして、国民投票を求める運動があります。先日イタリアでは国民投票によって脱原発の路線が決まりました。日本の憲法では国会が唯一の立法機関と規定されているので、国民投票によって法律を変えることはできません。しかし、投票で表明された民意には大きな権威があります。
私も、国民(住民)投票を政治参加の1つの手段として持つべきだと思います。しかし、国民投票が成功するためにはいくつかの条件が必要です。何よりも必要なのは、投票までに時間をかけて、しっかり議論することです。投票という結果ではなく、各人が意思表示至るまでの議論と思考の過程こそが重要なのです。たとえば、一九九六年に新潟県の旧巻町で原子力発電所用地に町有地を売却するかどうかを問うた住民投票が行われました。また、二〇〇〇年には徳島市で吉野川可動堰を建設するかどうかの住民投票が行われました。いずれの地域においても、住民は勉強会を何度も行い、それぞれの施設の必要性、まちの将来への影響について議論を重ねました。そして、ノーという結論を出しました。従来の専門家主導の政策形成における民主主義の不在を、住民の議論が補ったのです。
しかし、議論の積み上げなしでいきなりイエス、ノーを問う投票を行えば、人々の気分や感情で重要な物事が決まる危険があります。AKB48の総選挙ならば好き嫌いで投票すればよいのですが、国民(住民)の命運を左右する政策課題についてはそうであってはなりません。たとえば、今年二月に名古屋市で行われた市議会解散の住民投票においては、河村たかし市長の推進する市民税減税という政策について、掘り下げた議論は存在しなかったように思えます。
二大政党は重要な政策について明確な姿勢を示せず、党の中に様々な意見が入り乱れている状態です。国民投票の運動を盛り上げていけば、必然的に政治家も自分自身の意見を持たざるを得なくなるでしょう。その意味では、直接民主政治が機能不全に陥っている政党政治を鍛えるという効果も期待できると思います。


民主党新内閣の評価(山口二郎教授)

2011年09月06日 12時00分00秒 | 臼蔵の呟き
北海道大学 山口二郎教授の評価 熊本日日新聞への文書を紹介します。

菅首相が退陣し、曲折の末に野田佳彦氏が首相に選ばれた。もはや新政権に何かを期待するというよりも、震災や原発事故という目前の課題に取り組むことだけを願うというのが世論の受け止め方であろう。
 この政権はいわば避難所政権である。民主党内の小沢系、反小沢系の対立に多くの政治家は疲れている。有力候補の中で最も敵が少なく、党内融和をもたらしうる政治家として野田氏が選ばれた。まさに民主党が内部崩壊しそうな状況で、政治家は野田という避難所に逃げ込んだわけである。だから、この政権はその日暮らしを運命づけられている。
 今の政治状況でその日暮らしとは決してけなし言葉ではない。目先の課題、特に原発事故の処理、放射線被曝に関する情報公開と被害者の救済という途方もない問題の解決に道筋をつけることができるならば、それは歴史に残る業績となるだろう。全力でその日暮らしをして欲しいと願うばかりである。

 野田首相の誕生は、日本政治が五五年体制から完全に離れ、次の段階に入ったことを意味している。野田氏は私とほぼ同年代であり、個人的には世代論的分析に興味がある。私たちは大学闘争を少年時代に見て、イデオロギーの終焉を前提に政治を考えるようなった最初の世代である。また、経済の高度成長期に人間としても成長したので、貧困、不便さ、や生活苦をほとんど知らない。だから、政治に関わる動機づけが上の世代とは異なる。
日本人に飯を食わせること、社会主義の理想を実現することなど、かつての保守、革新の政治家が追求した目標には何の現実感も持たない。この世代の政治家の場合、野田氏のように、普通のサラリーマンの家庭(自衛隊員)に生まれながら政治家を目指すという志自体が売り物になり、毎日駅頭で演説をするというひたむきさが評価される。

 この世代の政治家志望者が三〇代に入った時に、半永久的に続くと思えた自民党が腐敗により内部崩壊し、新しい政治家が待望される時代が突然やってきた。このチャンスに、志とひたむきさを売り物にする若者が政治の世界に参入した。野田氏はその先頭走者であり、政治改革以後に政界に入った最初の首相である。五五年体制の文脈――金権体質の小沢一郎を好きかどうかもその応用問題である――で政治を論じることには、決定的に意味がなくなった。


 野田、前原両氏などから下の、民主党の若手といわれる政治家を見ていると、どのような社会を作りたいのかという基軸が見えない。何か大きな矛盾にぶつかり政治を志したという実存的な動機がないのだからそれも仕方ない。実は彼らも志とひたむきさ以外に売り物がなかったといえば意地悪に過ぎるだろうか。
しかし、政治家に軸が見えないのは日本だけではなく、民主主義国に共通した現象である。この世代として政治の軸をどう立てるかを考えることは、私たちの責任である。それはそれほど複雑な話ではないだろう。無事退職金をもらって逃げ切りを図る団塊世代(偏見ですね??)のまねをしないこと。雇用や社会保障の劣化、放射能汚染など様々な問題をかぶる若い世代の被害を少しでも減らすこと。こうした軸で政策の方向を考えれば、自ずと実現すべきテーマは見つかるはずである。
野田という人が何を考えているのか私には分からない。しかし、そのまじめさやひたむきさを、後にツケを残さないという原則に発揮すれば、それほど変な政治にはならないと思う。様々な意味で五五年体制に規定された政治家が退場し、冷戦も経済成長も自民党一党優位体制との戦いも、すべて過去の話になったという世代が政治の実権を握ることは、本来の課題に取り組む体制を作る機会となるべきである。



隠れ〇〇族

2011年09月06日 06時00分07秒 | 蜂助の呟き
 おはようございます。蜂助です。今日は、見かけと中身の違いについてです。

 りんごは外から見れば赤いですが、皮をむけば白っぽい色なのは誰でも知っています。民主党の大臣も、そのようなものがたくさん居そうです。野田首相は、見かけはニコニコしているものの少し観察すればとんでもない保守、自民党の右派よりももっとひどい人間だということがわかります。わかりやすいかもしれません。

 細野豪志原発担当相。テレビの前では、行動力のある誠実な人柄に見えます。私もそのような印象を持ていました。実は、この男は隠れ原発族です。細野氏は、浜岡原発のある静岡県選出の衆議院議員ですが、民主党に巨額の献金をし続けている電力総連に加担しています。電力総連の機関紙では「民主党 明日の環境とエネルギーを考える会」を2009年11月18日に開催したと報じています。この会に細野氏が出席しています。原発推進の隠れ原発族が、福島第一原発の事故収拾の担当大臣をやっていて良いのでしょうか。

 もうひとり、隠れ〇〇族。「族」ではないかも知れません。経済産業相の鉢呂吉雄氏は9月4日のフジテレビ系番組で「私はどうも出身で見られがちなんですが・・・」としています。どういうことかというと鉢呂大臣は、北海道の農協職員出身であることから、TPPに慎重であると回りは勝手に思ってしまいます。しかし、この男は根っからのTPP推進派なのです。農協出身について、「むしろそうだからこそ、私は合意に向けることができる立場になった」と言っています。野田首相は、農協出身者にTPP反対者を懐柔させようという汚い下心があって、この男を経済産業相に指名したのなら、とんでもないことです。

 見かけの印象に騙されないようにしましょう。