なかなか面白い話です。
<毎日新聞>危機の真相:ギリシャのユーロ出口 ファンタジーの中の心理=浜矩子教授
「ある程度の規模と財力を持つ地方都市は、みんな街の景色が似てくる。その土地らしさは、生活の細部−−食べ物とか地酒とか生活習慣とかにまで踏み込まないと、なかなか感じ取れなくなる。豊かになると、生活の基礎部分が均一化されるからだ」
これは誰の言葉か。トマ・ピケティ氏の「21世紀の資本」からの引用か。さにあらず。出典は宮部みゆきさんの近著「悲嘆の門」。
極上のファンタジーの奥深く浸り込んでいたら、このくだりに出合った。いきなり、エコノミスト的現実感覚の世界に引き戻されてしまった。少々愕然(がくぜん)。だが、何と慧眼(けいがん)。宮部さんのこの指摘を読んで、今、ユーロ圏の中で吹き荒れているギリシャ旋風の本質が、改めて見えた気がした。おのずと形成された豊かさが、おのずと生活の基礎部分の均一化をもたらすならいい。問題は、そこに、背伸びや幻想や希望的観測という名の不自然さが忍び込むことなのである。
むろん、均一化には均一化自体がもたらす問題がある。均一化が前面に出て多様性が後景にしりぞくと、経済社会は必ず滅びる。宮部さんがいう「その土地らしさ」が希薄化していくと、共同体はみずみずしさを失っていく。
これも、実はギリシャも(今のところ)その一員である統合欧州が抱える永遠のジレンマだ。だが、このテーマはひとまずおくとして、今のギリシャ問題に焦点をあてたい。
いまこの瞬間、ギリシャとユーロ圏はまさにのるかそるかの土壇場を迎えている。ギリシャとその他諸国の間で、金融支援継続に向けて合意がなるか。その代償として、ギリシャはどこまで、引き続き厳しい緊縮政策に甘んじるのか。交渉決裂でギリシャはユーロ圏から飛び出していくことになるのか。
本稿をお読みいただく時点では、実はいずれにせよ何らかのつなぎ的決着がついているかもしれない。何しろ、執筆時点では、ギリシャ提案を検討するユーロ圏財務相会合が、これから数時間後に始まるという状況にある。こんなタイミングでこのテーマを取り上げるのも無謀だが、やはり、どうしても関心が向く。
決着がどうなるかということについては、妥協成立を展望するのが無難な観測だろう。ただ、観測としてはともかく、そのような決着が本質的に無難だとは、とうてい言えない。そうなるのだとすれば、それは、不自然な均一化の世界を不自然な形で延命することを意味しているからだ。
冒頭の宮部さんの考察は、単一通貨圏というもののあり方を実に良く表現している。ご本人が、単一通貨圏を語っているわけではない。だが、くしくも、通貨が一つになるということの力学が、何ともうまく語られている。名エコノミストの素質あり。
ある経済圏が単一通貨圏としてうまくいくためには、まさしく「景色が似てくる」ことが必要だ。経済的風景が均一化し、均質化する。これが、単一通貨圏を成り立たせるための最も本源的条件だ。経済的風景を構成する要素には、さまざまある。物価水準・賃金水準・失業率・金利水準・産業構造等々。
それらが、おのずと似てくる。次第にほとんど区別がつかなくなる。それくらいの似た者同士なら、一つの通貨を共有することに差し障りはない。実力が酷似している同士なら、競い合うにしても、どちらかにハンディキャップをつけてやる必要はない。
だが、規模も財力も違い、豊かさのレベルも違い、したがって生活の基礎レベルも均一化していない者たち同士がともに生きていくなら、やはり、通貨が一つというのは無理だ。それぞれのお財布の形や大きさにピッタリサイズの通貨がなければ、誰もが不自由で仕方がない。不自然さは、かならず不自由さにつながる。
ギリシャは、やはり不自由通貨ユーロと決別して、自然体に戻るのがいいだろう。筆者のこの思いは、強まる一方だ。自分にとって一番落ち着く経済的風景に立ち戻る。それが最適解だ。ギリシャは、食べ物も地酒もおいしい。
そもそも、このままで行けば、ギリシャは、遠からずユーロ不足状態に陥る。継続融資交渉が決裂すれば、2月末でユーロ圏からの支援は断ち切られる。欧州中央銀行(ECB)からの緊急資金供給も止まる。国際通貨基金(IMF)からの融資はあるが、返済期限が迫っている。民間金融機関は預金流出ラッシュに見舞われている。物理的なユーロ欠乏状態が、間近に迫っているのである。
完全に手持ちのユーロが底をついてしまえば、当然ながら、ギリシャはユーロ圏内にはとどまれない。すると、ギリシャは独自通貨を発行することになる。さしあたりは、ギリシャ国内でしか通用しない通貨かもしれない。鎖国通貨だ。だが、もし、その体制で経済が何とかうまく回りだしたら、ある時、その鎖国通貨はユーロをはじめ、他の通貨との交換性を回復するかもしれない。そんなひょうたんから駒のシナリオも、ふと、思い浮かべてしまう。極上ファンタジーの読み過ぎだろうか。
■人物略歴 ◇はま・のりこ 同志社大教授。