みをつくし語りつくし 朝日新聞より
ジャズシンガー 綾戸 智恵さん(55歳)
(13) 30歳、乳がんを患う
神戸市から乳がん検診のお知らせがきてんな。コロコロで触ったら、見事にありました。がんが。まだ30歳。えらいこっちゃ。
病院はしごしましたわ。どこの病院でも「ある」といわれて。いよいよ手術で開けてみたいていう時に、承諾書書かされたんです。
「何があっても文句いいません」。
保険入って向こうで治療受ける準備して「お母ちゃん、もう一回だけアメリカ行かしてくれへん?」ってきり出してん。
帰ってこないかも知れないという覚悟で、母と東京観光へ。皇居で「陛下、お母ちゃんをよろしゅうお願いします」というて、「アホか」言われましたわ。でも、東京駅で別れる時は、泣いてるように見えましたね。
ところがニューヨーク行って、組織取ったら、「そない言うほど悪いものじゃない」と。ホルモン剤の投与だけ受けました。そしたらどんどん声がオッサンになってきてね。今の声になったんですわ。
(14) ゴスペルが縁、結婚
日本に居た時も「ゴスペル、ええな」と思っててんな。「ブルース・ブラザーズ」の映画とかで聞いて、かっこええなーって。教会で「エーメン」とかやっとって、幼稚園で習うた「もろびとこぞりて」とはちゃうな、と。
ゴスペルは指の先、くるぶしのしわの間、髪の毛一本まで声を共鳴させて、震わせて歌う。心が裸になって、野生にもどるんやね。
そろそろクワイヤーで古株になりかけた時、教会の役員の彼が話しかけてきました。内気で、私が「うわー」っていうのを見て喜ぶタイプ。黒人やのにダンスも下手で。ある日、アパートに誘われて日本食作ってくれ、言われてね。竜田揚げを作ったら、彼はケンタッキーよりおいしい、って。何回か行き来するうち、恋愛しだしたんです。
結婚しましてん。ニューヨーク市役所に届け出して、アメリカ人の妻。ビザも取って、入国審査も楽になった。けど、2カ月ぐらいして、彼のやきもちがはじまったんやね。
(15) DV夫に、命乞いした
あれだけ社交的な私が好きや言うてたのに、夫は新婚2カ月で「今日、誰としゃべった?」ってしつこう聞くようになった。そのうち異常行動が出始めた。ハラスメント。暴力。アメリカでDVを扱った映画があって。男同士のけんかぐらい殴られるわけです。グーで。血痕が飛んで、家の白い壁が真っ赤になって。肋骨は折れるわ、顔は晴れるわ。そんなんないと思ってた。怖かった。鼻が折れて、顔がわからないくらいになって。救急車にも5回ほど乗りました。5回目に彼は警察につかまった。矯正施設へ行きました。けど、家に帰ると直らない。
もうあかん、別れようって決心した時に妊娠がわかってん。「この子には米国籍が必要や。アメリカで産もう。出生届け出して、国籍もうて、離婚届。この順番だけは命かけてでもやったろう」と思った。そこからフェイクな人生が半年続きました。
臨月になるころ、日本から手紙が来た。「男からか?」男って決めつけて、包丁出して来た。「おなかの子どもを出してやる」。命乞いしました。「ごめん。許して。おなかだけは切らんとって」彼がトイレ行ってる間に逃げて、警察呼んで・・・。うちに黒いラブラドルが居たんです。私の代わりに殺されました。そのままアジア女性の駆け込み寺に逃げこんだんです。
(16) 長男連れ、早く帰国を
DVを受けたアジア女性の駆け込み寺には10日ほどおりました。夫はもう絶対に暴力はしないと誓うて、帰宅して2週間で陣痛が来ましてん。1990年10月31日。長男イサが生まれました。
イサが生後2カ月の時やったかな。夫は自分になつかないんで、腹を立てて、5階の窓から落としてん。「身体に悪魔がついてる」言うて。腰がぬけました。そしたら泣き顔が。ランドリーボックスに落ちたんですわ。こんなおっきい、山ほど空き缶の乗ってるとこに。空き缶がアルミなんでバウンドして助かった。彼は「これで悪の心が取れていい身体が残った」って。狂ってると思いました。
病気やった。宗教に左右される人格障害。前の奥さんから「チエ、アメリカを出た方がいい。イサが危険や」って言われた。
(17) 出国1年、離婚成立
アメリカで暴力をふるわれた1年半で、「もうこれ以上怖いことないわ」ゆうくらいの根性つきましてん。あれに比べたら、がんの宣告なんて蚊にかまれたみたいなもんですわ。日本に着いてからもおびえてた。毎日、夫から電話がある。
出国から1年経って、離婚成立。「慰謝料も養育費もいらん。新しいスタートが欲しいだけや」と宣言したら、先方の弁護士に「この離婚は得や」と吹き込まれたみたいで、すんなり決まってんな。親権は私が取りました。
(18) 震災前夜、長男言った
阪神大震災の前夜、神戸港ディナークルーズの船の上で歌ったり、司会したり。もちろんイサも一緒。船会社の社長の家には男の子が2人おって、イサにとってはお兄ちゃんやね。よう泊まりに行っていて、この日の晩も泊めてもらうことになっててん。
ところが仕事終わって、船降りたら、イサが「帰る」って言い出してんな。「ぺっちゃんこになっちゃう。ママが」。何言うてんの、この子、って思いましたわ。あんまり言い張るんで、三宮の自宅マンションに戻った。明け方にガタガタガターッと。ビックリしたわ。
社長の家は長田区の高台の方にあって、全壊やったわ。社長は「よう自分のとこに帰ってくれはったこっちゃ」。
(19) 声出ない、でも歌わな
声が出ない、という最大の危機に見舞われたのは、震災後まもなく。大阪の咽喉科を紹介してくれてんな。でもどこ行っても「声帯疲労」「もう歌は無理」って。乳がん治療で打ってたホルモン剤があかんのか、菌に弱くてほかにも強い薬を飲んでたのがあかんのか。抵抗力がなくてね。体重も30キロあったかなかったか。それから2年半ぐらいかけて、ゆっくり治っていってんな。
そら、いろんな歌い方を試しましてん。横隔膜を使って複式呼吸を心がけたり、身体を沈めたりひねったり。のどだけやのうて全身を使うんやね。最近は連続最大4日まで歌えるようになりました。
(20) NY行き、CD録音
金沢にアマチュアとして呼ばれて歌うてた時や。甘エビがギャラで。年1回のおおきなフェスティバルで、アメリカからピアノのジュニア・マンス・トリオを呼んで一緒にやれへんかって話になってんな。イサも6歳になるし、声も調子悪いし、記念に一枚くらいCDを残してもええんちゃうかな、って気になってん。
MISIAみたいなアフロでね。きっついパーマの方が持ちがよくて、金かからんやんか。そんな私に突然、デビューの話がきたんです。
(21) 金は、声は・・・「行ける」
1996年夏、ピアニストの南博君が八ケ岳ジャズフェスティバルに誘ってくれたんですわ。チリチリ頭でアフリカ人の格好して「オン・グリーン・ドルフィン・ストリート」歌ったら、大ウケ。
デビュー決まったころは「金は出るか?声は出るか?何時に帰れんの?」ばっかり考えてた。家にはお母ちゃんと子どもがおったからね。
98年6月21日に初めてのアルバム「For All We Know」が出て、それから1年半後に渋谷のオーチャードホールが3日間満席になった。それでやっと「行けるな」という感じが来てんな。
(22) またか、死ぬ気ない
デビューアルバムができて1カ月も経たないころ、右の乳房の脇のところがプクーッて大きなってきてんな。左の乳がんの経験あるから、自分で指で触診して、「こら、あるわ」「今度はこっちかいな」って思って。友だちに病院を紹介してもうて、その日に手術して帰ってきてんな。梅干しぐらいの大きさで、ゴルフボールぐらい取ってもらいましたわ。
1週間後に抜糸してすぐ名古屋のライブへ。けど左の時ほど人生終わりかな、みたいな感覚はなかった。病気を後ろ向きに考えることはないねん。生きてるリスクやから。死ぬ気がなかったんはイサが小さかったせいもあんねん。もし私が逝っても、イサのことを頼める人がようさんいたら、それが大きな遺産やないか、と。
(23) 成長、屋久島のイサ
イサが小学校1年の夏休みから不登校になりましてん。黒人とのハーフやろ?それまでも「なんで僕だけ顔が違うねん」て言うたこともあった。でも、私が悪いねん。私が先生と衝突した。5年生まで家庭教師つけたり、楽屋で私が勉強みたりしとった。
そこへアルピストの野口健君がテレビの登山番組でイサを連れて屋久島に行くことになってんな。島の校長がええ人で「給食だけでええから食べに来い」って。区役所のおばちゃんに頼み込んで、6年生の編入に間に合うた。友だちができて、泳げるようになったって手紙が来た。魚釣りも覚えた。屋久杉の卒業証書もうてん。親が逆立ちしてもできないことがあるって、あのことで私も勉強した。
(24) 「映画やろ?」NYが
私、9月10日が誕生日ですねん。2001年、仕事し始めて初のバケーションを会社からもろて、家族3人でニューヨークに行くことになってんな。その日は台風が接近しててん。やばいわー、まあ雲の上は大丈夫やろ、といいながらJARに乗った。
そのうちみんながワーワー言いだしてね。「ラガーディア空港、火事みたいやで?」「いや違う、テロだ?!」周りの飛行機は全部、方向転換してた。シカゴのオアへ降りたら、グルーンベレーが居て厳戒態勢やねん。ホテルに入ってテレビ付けると、「映画やろ?」と思ったら、隅の方に「LIVE」って。ビルが崩れる情景に血の気が引いた。ホテルのコンシェルジュの女の子が「綾戸さま、よかったです。生きてらして」って泣いてんな。私らが乗ってたのがテロのターゲットに入っていたうちの一機やってんて。
(25) メンバー、ええなあ
いろんな人と音合わせてきて、出会いと別れがあってんな。デビュー翌年から一緒にやってた杉本君が辞めた時はショックやったね。いいベースやねん。音がいい。すごい雑やねん、私が。パーッと録って、さあ帰ろうってタイプ。音を作り込みたくない。けど、杉本君はものすごく作り込む人やねん。そっちがこの業界では普通なんやって後で知ってんな。
(26) 失敗の思い出、重いで
15年間のライブで最も印象深いのは2006年フェスティバルホールやね。声のコントロールがだいぶできるようになってきててんけど、この日の朝、のどの調子が悪くなってんな。とにかく大阪に行けばなんとかなると思って東京を発ったんやけど、現地でもっとわるなってん。マイクの音量を倍にしてもろて「申し訳ありません。声をつぶしました。今日はお代はいただきません。謝りに来ました」って言うて土下座した。すり切れるくらい。そしたら客席から拍手が起きた。こんな茶番劇は二度としたらあかんと思うようになって、コンサートの前の晩は深酒をやめ、早く寝るようになってんな。母の介護も人に頼めるようになった。人間て失敗して次を考えるようになんねんな。
(27) 自分の事なら歌に
私、子どもは作れるけど、音楽は作れないと思ってましてん。私には作曲の才能はない。世の中でいうアレンジはうまいわー。洋裁の才能はないけど、リフォームはうまいねん。昨日までの靴下が便座になる。これは私得意やねん。けど、布から作ることができへんねん。
母親は子どもをおもちゃにしたらあかん。しっかり育てな、と感じてたことを曲にしてんな。私は木の葉が舞い散る光景を見て歌はかけないけど、自分に起きたことは書ける、そういう自信はつきましたね。コマーシャルで使うてくれて、ゼニになったからビックリしたけどな。
(28) 母が認知症、ショック
2007年、活動10周年の直前に母が転んで大腿骨を折ったんですわ。そしたら一気に来ました。認知症が。最初に変やと思ったんは、親としてする我慢がでけへんようになったことやね。私が忙しくしてても「ご飯ーツ」って催促するとか、錯乱して娘に包丁向けるとか。
誰よりも尊敬する母、私を溺愛する母が居なくなったいうんがショックやってんな。脳科学者と対談して、本も書きました。うちの母は肉体になって朽ち果てていくんやとわかった。介護のために仕事のペースを落としてんな。あれがええ勉強やった。四六時中母と一緒に居たおかげで母が何を求めてんのか、わかるようになりましてん。
(29) 今は母を受け入れた
2年前の朝やった。母の粗相でろくに眠れなくて、つい言うてしもてんな。「おばあちゃん、ちょっとしんどいな」。そしたら母が勢い込んで言うたんや。「死のう。しの、しの、チエちゃん」ガーンて殴られたみたいやった。アメリカに娘を送り出す時に「レイプされてでも
生きろ」と言うた親がやで?どんな時でも、「生きる」は綾戸家の家訓やったのに、この時は「つらくても生きなさい」とは言うてくれへんかった。母は、私の思い出の中におる。今、目の前におるのは「肉片」やと思うようになりました。無理に母に戻そうとせず、認知症の人として扱うようになった。そしたら、ちょっとずつ人間に戻ってきましてん。
(30) 山あり谷あり生きて歌うわ
被災者に感謝され「天職や」
「あなたの歌はね、聞くと元気になれるんですよ」よくそう言われてきました。けど、本人はいっこもわかれへんかった。あの日までは。2011年3月11日の東日本大震災。東京の白金を母と散歩した時に揺れがきたんですわ。イサはネットで調べて、「宮城沖やで。津波来てるらしいで」「えー、そらえらいこっちゃ」被災地が大変や、というのはわかった。せやけど生きるや死ぬや言うてるところに、私が何ができるやろ?もう何をしたらいいのかわかれへんで、歯がゆかった。
翌年の夏、震災に遭うたところをずっと歩いて、土地の人らとしゃべって。風景見ると、神戸の震災を受けた私でさえ言葉が出てけえへん。ほんでも最初の日にテネシーワルツを歌ったら、みんなが喜んで涙を流してくれるねん。仮設住宅に住んでる人らがやで?
山あり谷ありを経験して50歳を越して、やっと音楽の中に人生が出てくるようになった。自分を大切にしながら、まだまだ生きて歌うていきまっせ。(この連載は阿久沢悦子氏が担当)
★13番からの連載しかないという朝日新聞の切り抜きを、友人から是非読んでと手渡されました。ジャズシンガーの綾戸智恵さんの「みをつくし、語りつくし」です。「人間深く生きる時期は、後に来た方がええね」文中の言葉ですが妙に心に残ります。
色々考えさせられる場面が沢山沢山あり、人生の指針となりそうです。感動しました。有難うございました。
ジャズシンガー 綾戸 智恵さん(55歳)
(13) 30歳、乳がんを患う
神戸市から乳がん検診のお知らせがきてんな。コロコロで触ったら、見事にありました。がんが。まだ30歳。えらいこっちゃ。
病院はしごしましたわ。どこの病院でも「ある」といわれて。いよいよ手術で開けてみたいていう時に、承諾書書かされたんです。
「何があっても文句いいません」。
保険入って向こうで治療受ける準備して「お母ちゃん、もう一回だけアメリカ行かしてくれへん?」ってきり出してん。
帰ってこないかも知れないという覚悟で、母と東京観光へ。皇居で「陛下、お母ちゃんをよろしゅうお願いします」というて、「アホか」言われましたわ。でも、東京駅で別れる時は、泣いてるように見えましたね。
ところがニューヨーク行って、組織取ったら、「そない言うほど悪いものじゃない」と。ホルモン剤の投与だけ受けました。そしたらどんどん声がオッサンになってきてね。今の声になったんですわ。
(14) ゴスペルが縁、結婚
日本に居た時も「ゴスペル、ええな」と思っててんな。「ブルース・ブラザーズ」の映画とかで聞いて、かっこええなーって。教会で「エーメン」とかやっとって、幼稚園で習うた「もろびとこぞりて」とはちゃうな、と。
ゴスペルは指の先、くるぶしのしわの間、髪の毛一本まで声を共鳴させて、震わせて歌う。心が裸になって、野生にもどるんやね。
そろそろクワイヤーで古株になりかけた時、教会の役員の彼が話しかけてきました。内気で、私が「うわー」っていうのを見て喜ぶタイプ。黒人やのにダンスも下手で。ある日、アパートに誘われて日本食作ってくれ、言われてね。竜田揚げを作ったら、彼はケンタッキーよりおいしい、って。何回か行き来するうち、恋愛しだしたんです。
結婚しましてん。ニューヨーク市役所に届け出して、アメリカ人の妻。ビザも取って、入国審査も楽になった。けど、2カ月ぐらいして、彼のやきもちがはじまったんやね。
(15) DV夫に、命乞いした
あれだけ社交的な私が好きや言うてたのに、夫は新婚2カ月で「今日、誰としゃべった?」ってしつこう聞くようになった。そのうち異常行動が出始めた。ハラスメント。暴力。アメリカでDVを扱った映画があって。男同士のけんかぐらい殴られるわけです。グーで。血痕が飛んで、家の白い壁が真っ赤になって。肋骨は折れるわ、顔は晴れるわ。そんなんないと思ってた。怖かった。鼻が折れて、顔がわからないくらいになって。救急車にも5回ほど乗りました。5回目に彼は警察につかまった。矯正施設へ行きました。けど、家に帰ると直らない。
もうあかん、別れようって決心した時に妊娠がわかってん。「この子には米国籍が必要や。アメリカで産もう。出生届け出して、国籍もうて、離婚届。この順番だけは命かけてでもやったろう」と思った。そこからフェイクな人生が半年続きました。
臨月になるころ、日本から手紙が来た。「男からか?」男って決めつけて、包丁出して来た。「おなかの子どもを出してやる」。命乞いしました。「ごめん。許して。おなかだけは切らんとって」彼がトイレ行ってる間に逃げて、警察呼んで・・・。うちに黒いラブラドルが居たんです。私の代わりに殺されました。そのままアジア女性の駆け込み寺に逃げこんだんです。
(16) 長男連れ、早く帰国を
DVを受けたアジア女性の駆け込み寺には10日ほどおりました。夫はもう絶対に暴力はしないと誓うて、帰宅して2週間で陣痛が来ましてん。1990年10月31日。長男イサが生まれました。
イサが生後2カ月の時やったかな。夫は自分になつかないんで、腹を立てて、5階の窓から落としてん。「身体に悪魔がついてる」言うて。腰がぬけました。そしたら泣き顔が。ランドリーボックスに落ちたんですわ。こんなおっきい、山ほど空き缶の乗ってるとこに。空き缶がアルミなんでバウンドして助かった。彼は「これで悪の心が取れていい身体が残った」って。狂ってると思いました。
病気やった。宗教に左右される人格障害。前の奥さんから「チエ、アメリカを出た方がいい。イサが危険や」って言われた。
(17) 出国1年、離婚成立
アメリカで暴力をふるわれた1年半で、「もうこれ以上怖いことないわ」ゆうくらいの根性つきましてん。あれに比べたら、がんの宣告なんて蚊にかまれたみたいなもんですわ。日本に着いてからもおびえてた。毎日、夫から電話がある。
出国から1年経って、離婚成立。「慰謝料も養育費もいらん。新しいスタートが欲しいだけや」と宣言したら、先方の弁護士に「この離婚は得や」と吹き込まれたみたいで、すんなり決まってんな。親権は私が取りました。
(18) 震災前夜、長男言った
阪神大震災の前夜、神戸港ディナークルーズの船の上で歌ったり、司会したり。もちろんイサも一緒。船会社の社長の家には男の子が2人おって、イサにとってはお兄ちゃんやね。よう泊まりに行っていて、この日の晩も泊めてもらうことになっててん。
ところが仕事終わって、船降りたら、イサが「帰る」って言い出してんな。「ぺっちゃんこになっちゃう。ママが」。何言うてんの、この子、って思いましたわ。あんまり言い張るんで、三宮の自宅マンションに戻った。明け方にガタガタガターッと。ビックリしたわ。
社長の家は長田区の高台の方にあって、全壊やったわ。社長は「よう自分のとこに帰ってくれはったこっちゃ」。
(19) 声出ない、でも歌わな
声が出ない、という最大の危機に見舞われたのは、震災後まもなく。大阪の咽喉科を紹介してくれてんな。でもどこ行っても「声帯疲労」「もう歌は無理」って。乳がん治療で打ってたホルモン剤があかんのか、菌に弱くてほかにも強い薬を飲んでたのがあかんのか。抵抗力がなくてね。体重も30キロあったかなかったか。それから2年半ぐらいかけて、ゆっくり治っていってんな。
そら、いろんな歌い方を試しましてん。横隔膜を使って複式呼吸を心がけたり、身体を沈めたりひねったり。のどだけやのうて全身を使うんやね。最近は連続最大4日まで歌えるようになりました。
(20) NY行き、CD録音
金沢にアマチュアとして呼ばれて歌うてた時や。甘エビがギャラで。年1回のおおきなフェスティバルで、アメリカからピアノのジュニア・マンス・トリオを呼んで一緒にやれへんかって話になってんな。イサも6歳になるし、声も調子悪いし、記念に一枚くらいCDを残してもええんちゃうかな、って気になってん。
MISIAみたいなアフロでね。きっついパーマの方が持ちがよくて、金かからんやんか。そんな私に突然、デビューの話がきたんです。
(21) 金は、声は・・・「行ける」
1996年夏、ピアニストの南博君が八ケ岳ジャズフェスティバルに誘ってくれたんですわ。チリチリ頭でアフリカ人の格好して「オン・グリーン・ドルフィン・ストリート」歌ったら、大ウケ。
デビュー決まったころは「金は出るか?声は出るか?何時に帰れんの?」ばっかり考えてた。家にはお母ちゃんと子どもがおったからね。
98年6月21日に初めてのアルバム「For All We Know」が出て、それから1年半後に渋谷のオーチャードホールが3日間満席になった。それでやっと「行けるな」という感じが来てんな。
(22) またか、死ぬ気ない
デビューアルバムができて1カ月も経たないころ、右の乳房の脇のところがプクーッて大きなってきてんな。左の乳がんの経験あるから、自分で指で触診して、「こら、あるわ」「今度はこっちかいな」って思って。友だちに病院を紹介してもうて、その日に手術して帰ってきてんな。梅干しぐらいの大きさで、ゴルフボールぐらい取ってもらいましたわ。
1週間後に抜糸してすぐ名古屋のライブへ。けど左の時ほど人生終わりかな、みたいな感覚はなかった。病気を後ろ向きに考えることはないねん。生きてるリスクやから。死ぬ気がなかったんはイサが小さかったせいもあんねん。もし私が逝っても、イサのことを頼める人がようさんいたら、それが大きな遺産やないか、と。
(23) 成長、屋久島のイサ
イサが小学校1年の夏休みから不登校になりましてん。黒人とのハーフやろ?それまでも「なんで僕だけ顔が違うねん」て言うたこともあった。でも、私が悪いねん。私が先生と衝突した。5年生まで家庭教師つけたり、楽屋で私が勉強みたりしとった。
そこへアルピストの野口健君がテレビの登山番組でイサを連れて屋久島に行くことになってんな。島の校長がええ人で「給食だけでええから食べに来い」って。区役所のおばちゃんに頼み込んで、6年生の編入に間に合うた。友だちができて、泳げるようになったって手紙が来た。魚釣りも覚えた。屋久杉の卒業証書もうてん。親が逆立ちしてもできないことがあるって、あのことで私も勉強した。
(24) 「映画やろ?」NYが
私、9月10日が誕生日ですねん。2001年、仕事し始めて初のバケーションを会社からもろて、家族3人でニューヨークに行くことになってんな。その日は台風が接近しててん。やばいわー、まあ雲の上は大丈夫やろ、といいながらJARに乗った。
そのうちみんながワーワー言いだしてね。「ラガーディア空港、火事みたいやで?」「いや違う、テロだ?!」周りの飛行機は全部、方向転換してた。シカゴのオアへ降りたら、グルーンベレーが居て厳戒態勢やねん。ホテルに入ってテレビ付けると、「映画やろ?」と思ったら、隅の方に「LIVE」って。ビルが崩れる情景に血の気が引いた。ホテルのコンシェルジュの女の子が「綾戸さま、よかったです。生きてらして」って泣いてんな。私らが乗ってたのがテロのターゲットに入っていたうちの一機やってんて。
(25) メンバー、ええなあ
いろんな人と音合わせてきて、出会いと別れがあってんな。デビュー翌年から一緒にやってた杉本君が辞めた時はショックやったね。いいベースやねん。音がいい。すごい雑やねん、私が。パーッと録って、さあ帰ろうってタイプ。音を作り込みたくない。けど、杉本君はものすごく作り込む人やねん。そっちがこの業界では普通なんやって後で知ってんな。
(26) 失敗の思い出、重いで
15年間のライブで最も印象深いのは2006年フェスティバルホールやね。声のコントロールがだいぶできるようになってきててんけど、この日の朝、のどの調子が悪くなってんな。とにかく大阪に行けばなんとかなると思って東京を発ったんやけど、現地でもっとわるなってん。マイクの音量を倍にしてもろて「申し訳ありません。声をつぶしました。今日はお代はいただきません。謝りに来ました」って言うて土下座した。すり切れるくらい。そしたら客席から拍手が起きた。こんな茶番劇は二度としたらあかんと思うようになって、コンサートの前の晩は深酒をやめ、早く寝るようになってんな。母の介護も人に頼めるようになった。人間て失敗して次を考えるようになんねんな。
(27) 自分の事なら歌に
私、子どもは作れるけど、音楽は作れないと思ってましてん。私には作曲の才能はない。世の中でいうアレンジはうまいわー。洋裁の才能はないけど、リフォームはうまいねん。昨日までの靴下が便座になる。これは私得意やねん。けど、布から作ることができへんねん。
母親は子どもをおもちゃにしたらあかん。しっかり育てな、と感じてたことを曲にしてんな。私は木の葉が舞い散る光景を見て歌はかけないけど、自分に起きたことは書ける、そういう自信はつきましたね。コマーシャルで使うてくれて、ゼニになったからビックリしたけどな。
(28) 母が認知症、ショック
2007年、活動10周年の直前に母が転んで大腿骨を折ったんですわ。そしたら一気に来ました。認知症が。最初に変やと思ったんは、親としてする我慢がでけへんようになったことやね。私が忙しくしてても「ご飯ーツ」って催促するとか、錯乱して娘に包丁向けるとか。
誰よりも尊敬する母、私を溺愛する母が居なくなったいうんがショックやってんな。脳科学者と対談して、本も書きました。うちの母は肉体になって朽ち果てていくんやとわかった。介護のために仕事のペースを落としてんな。あれがええ勉強やった。四六時中母と一緒に居たおかげで母が何を求めてんのか、わかるようになりましてん。
(29) 今は母を受け入れた
2年前の朝やった。母の粗相でろくに眠れなくて、つい言うてしもてんな。「おばあちゃん、ちょっとしんどいな」。そしたら母が勢い込んで言うたんや。「死のう。しの、しの、チエちゃん」ガーンて殴られたみたいやった。アメリカに娘を送り出す時に「レイプされてでも
生きろ」と言うた親がやで?どんな時でも、「生きる」は綾戸家の家訓やったのに、この時は「つらくても生きなさい」とは言うてくれへんかった。母は、私の思い出の中におる。今、目の前におるのは「肉片」やと思うようになりました。無理に母に戻そうとせず、認知症の人として扱うようになった。そしたら、ちょっとずつ人間に戻ってきましてん。
(30) 山あり谷あり生きて歌うわ
被災者に感謝され「天職や」
「あなたの歌はね、聞くと元気になれるんですよ」よくそう言われてきました。けど、本人はいっこもわかれへんかった。あの日までは。2011年3月11日の東日本大震災。東京の白金を母と散歩した時に揺れがきたんですわ。イサはネットで調べて、「宮城沖やで。津波来てるらしいで」「えー、そらえらいこっちゃ」被災地が大変や、というのはわかった。せやけど生きるや死ぬや言うてるところに、私が何ができるやろ?もう何をしたらいいのかわかれへんで、歯がゆかった。
翌年の夏、震災に遭うたところをずっと歩いて、土地の人らとしゃべって。風景見ると、神戸の震災を受けた私でさえ言葉が出てけえへん。ほんでも最初の日にテネシーワルツを歌ったら、みんなが喜んで涙を流してくれるねん。仮設住宅に住んでる人らがやで?
山あり谷ありを経験して50歳を越して、やっと音楽の中に人生が出てくるようになった。自分を大切にしながら、まだまだ生きて歌うていきまっせ。(この連載は阿久沢悦子氏が担当)
★13番からの連載しかないという朝日新聞の切り抜きを、友人から是非読んでと手渡されました。ジャズシンガーの綾戸智恵さんの「みをつくし、語りつくし」です。「人間深く生きる時期は、後に来た方がええね」文中の言葉ですが妙に心に残ります。
色々考えさせられる場面が沢山沢山あり、人生の指針となりそうです。感動しました。有難うございました。