Nonsection Radical

撮影と本の空間

JPopPhoto

2010年07月10日 | Weblog
某月某日
フランスで日本のポップカルチャーを紹介するジャパンエクスポというのが開かれていたそうだ。
主にアニメや音楽などが中心になっているのだが、それらはアチラの基準に合わせたものではない。
コチラの基準で作られたものを持っていき、アチラが勝手に評価しているものだ。
日本独自の世界が何がしかの評価を得て、ファンを獲得しているようだ。
これまでは「世界進出」などといって、アチラのまな板に乗って評価を受ける事が多かったのだが、別にそんな事をしなくても魅力のあるものは評価を受ける(こともある)事がジャパンエクスポでわかったわけだ。
まあ浮世絵みたいなものである。

で、気になるのが最近、アチラの基準に合わせた写真を「持ち込み」して評価を受けるというのが「流行っている」ことなのだ。
写真もジャパンエクスポに参加して、アチラに勝手に評価させるという手もあるではないか。
コチラの基準で作られた写真をアチラが「クール」だと感じさせれば写真もポップカルチャーの仲間入り出来るではないか。
だいたい、持ち込みしようが何しようが、アチラで受けているのはアチラの基準の写真ではない事が多い。
同じまな板の上で争ってもその他の一人でしかないが、JPopPhotoとして相手がウタマロ並みに判断すれば評価されるのだから。
そしてアチラのナウなヤングがJPopPhotoを真似した写真を撮るようになれば、それがカルチャーとなるのである。
そういう写真を日本のヤングは撮った方がイイと思う。
どんな写真を撮っても自由なはずなのに、これほど「こうあらねばならない」というシバリがあるのも珍しい世界だ。
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文化難民

2010年07月08日 | Weblog
某月某日
東京近郊と言えども地方都市であるからろくな本屋がない。
ろくでもない本屋とは欲しい本がない本屋の総称だ。
今、文春文庫のある翻訳小説を探しているのだが、通勤途上の本屋にはない。
だいたい翻訳小説のストックが少ない。
なんとかの100冊などの定番ものは平積みで売りまくっているのだが、流行に遅れた小説は置いていない事が多い。
取り寄せというのはどうも好かない。
本というのはその場で出会い、魅かれて手に取り、我がものにする事に意義がある。
恋愛みたいなものだ。
一方、取り寄せというのはデリヘルのような気がする(あくまでも気がするだけ)。

目当ての本はアマゾンにある事は確認済みだ。
しかしアマゾンで文庫本を買うのは躊躇する。
これはオヤジの通販心理だ。
他では手に入らないから利用する。
便利さから逃げているわけだ。
不便でも足を運んで本屋で探したい。
しかし近くの本屋にはない。
まったく。

撮影に行ったついでに本屋に入る事が多いが、地方の本屋はみんな似たり寄ったりだ。
本屋は読者が育てると思うのだが、その読者がいないのだから仕方ない。
まだ地方に本屋があるだけマシだ。
本という文化がすたれて、安易にテレビにだけ娯楽を求めると、つまらない安易な話の筋書きだけの文化に馴れてしまいそうだ。
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芸能としての相撲

2010年07月07日 | Weblog
某月某日
朝日新聞に小沢昭一さんが芸能としての相撲について書いていた。
芸能としての相撲は、satoboも書きたい事があったのだが、小沢さんの方がもっとしっかり書けているのでやめにした。
satoboの論点は、相撲をもっと自由な立場にして芸能として生き残らせては、というものだ。
せっかくここまでの地位を築いてきたのに、この地位を捨ててたまるかと相撲協会側は思うだろうが、スポーツとしての、あるいは格闘技としての相撲など限界に来ているのではないか。
確かにテレビ放映によって相撲の地位向上と収入向上はあったが、そのかわり細かい事に気を使わなければならない。
気は優しくて力持ちが相撲のいいところ。
この際、相撲は芸能として興行する事にし、文科省の管轄からも出るべきでは。
その代わり、地方巡業で好ましからざる団体による興行も、バクチも自由にどうぞとしては。私的興行を取り締まることもあるまい。
個人的には、芸能人化した相撲取りには野球選手の知り合いもいるだろうに、野球賭博をして相手がどう思うだろうにと考えないでもないが。

世の中がキチンとしているのに、相撲界は・・・と考えるのは間違いで、世間のカガミとして写し出されているだけだ。
つまり相当この世はグチャグチャだと。
あるべき姿を追い求めるのではなく、ないものを求めているのだと考え直し、もっとルーズにテキトーに気楽に相撲を楽しもうではないか。
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上滑り

2010年07月06日 | Weblog
某月某日
コンデジでASA1600で撮れば画像が荒れてヘタな写真もコンポラ風にごまかせるかと思い挑戦してみたのだが、こんな小さな画像では粒子も見えない。
思った以上に広角での「盗撮」は難しく、24mmから28mm、やがては35mmといつものようになってしまうのはヘタレな証拠。
やってみて初めてわかる事もある。
他の人の写真がいかに大変な事をしているのか理解出来る。
最初は、軽い軽いなんて思っていて、森山大道とはいかないが、森山大同小異ぐらいにはなどと思っていたのがハズカシい。
反省。

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ドキュメンタリー「映画」

2010年07月04日 | Weblog
某月某日
岩波書店の「日本のドキュメンタリー1」佐藤忠男編著 を読んでいるのだけど、映画のエの字も知らないsatoboにとって「へ~そうなんだ」と思う「常識」がわんさかあってためになる。
一番参考になったのは、ドキュメンタリーは映画であるという事。
まあ、本の最後の方にこれからのドキュメンタリーとして、映画ではないドキュメンタリーの可能性についても書いているから、これまでのドキュメンタリーはドキュメンタリー映画であったというべきかもしれないが。
映画であるから監督、カメラマンがいて、演出や編集が加えられ「作品」として「仕上がる」のだ。
だから観て面白いのだ。
しかし、作って面白いとは思えない。
それはsatoboにはドキュメンタリー映画を作る才能などないからで、才能がないのをわかっていて面白いはずがない。
ただ、ある種の場面を映像に残しておきたいという願望が時々現れるので、そういう時にはビデオカメラやデジカメ動画でシロートらしく演出や編集などしない(できない)非作品を撮っている。
理想とする映像は、シングル8で撮影したような何げない家族の記録みたいな映像だ。
意味も意義もなく、ただ撮っておきたいと思ったから撮ったというカンジの映像がサイコーにイイ。
まあ、写真も同じだけど・・・
コメント (2)
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