定年だ!!世界一周

サラリーマン36年、
いよいよ念願だった世界一周に出発2015年4月1日
2016年1月22日219日間27か国達成

頑張れドリス!

2020-01-22 21:26:27 | 旅行記前半、アジア、アフリカ、中東

私が世界一周中に訪問したナイロビのスラム街で学校を運営している日本人早川千晶さんが、今回日本留学しているドリスの大学院進学のためのクラウドファンディングを立ち上げました。

https://readyfor.jp/projects/machius

私の妻が今回は以前もらった給与の一部を寄付したいと言ってくれました。是非皆さんもこのファンド以外にも何かご協力をお願いします。

https://blog.goo.ne.jp/sekaiojisan/e/00b1557153a7b6feb077db4772e8e3cc



ドリスの日本での大学院進学のためのクラウドファンディングに数多くの方々から応援いただき、本当にありがとうございます。心から感謝の気持ちでいっぱいです。
資金集めはこれからまだ30 日間続きます。引き継ぎ、応援、シェアや拡散をいただけると大変ありがたいです。どうかよろしくお願いいたします!
私自身の経験と想いを書きました。
とても苦労していた子どもだったドリスとの出会いから、保護、成長、これまでの歩みを振り返って私の想いを書きました。
そして未来に向けての第一歩。
ぜひ読んでください。

020年01月22日 12:26

ここから先に目指す世界 〜ドリスの大学院進学に寄せて~

マゴソスクールをケニア人であるリリアンさんと共に立ち上げ、運営されている早川千晶さんよりドリスさんとの出会いから今後の夢に向けての応援メッセージを頂戴しました!
 
私がドリスにはじめて出会ったとき、彼女はまだ子どもだったリリアンに助けられた数多くの問題を抱える子どもの一人として、マゴソスクールでひっそりと暮らしながら勉強していた。ドリスはどちらかと言えば引っ込み思案なほうで、マゴソには他に、お客さんの前に出て歌ったり踊ったり、タイコを叩いたり、発言したりなどが好きな、活発な子どもたちが多かったから、ドリスの幼少期の印象は薄かったというのが正直なところだ。しかしそんな印象が変わっていったのは、高校時代の終わり頃からだった。幼少期に困難な生活環境にあったドリスは、マゴソスクールで安定して生活できるようになってから、勉強では非常に苦労したと思う。

特に高校のときは、なかなか成績が伸びず苦しんだ。高校では、思春期特有の問題も起きる。

特に女子の間では、友達のちょっとした言動に傷つき、仲間割れが起き、その中で疎外感を感じふさぎ込むようなことが頻繁に起こる。

マゴソスクールの子どもたちは大なり小なり、誰もが困難を抱え、苦労した幼少期の傷を抱え、今現在も決して家庭生活が安定しているわけではないが、それでも、互いの中の小さな違いを子どもたちは気にし、比較し、優劣感を抱くものなのだということに、私は気がついた。

たとえ父親に十分な稼ぎが無く、飲んだくれだとしても、親が生きているというだけでその子にとっては優越感となる。

一方、親を亡くした子どもたちは、いかなる状況においても、それを指摘されたり、知られたり、蔑まれることが何よりも辛い。

たくさんの同級生や先輩、後輩がいる中で、ドリスは、家庭状況が最も悪いほうだった。

 

それが思春期の彼女にとって、いかに気持ちを後ろ向きにさせてしまう要因であったかということが、今になって私は痛いほどわかる。

しかしドリスはいつも、コツコツと、一人で努力を続ける生徒だった。繊細な心を持ち、同級生の感情的いざこざに胸を痛めつつ、それに巻き込まれず自分は自分、勉強に集中しようとしていた。

 

ドリスはマゴソスクールにとって初期の生徒の一人で、高校へ進学させることができた生徒たちのGeneration2(二期生)にあたる。当時まだ高校進学経験が浅かった我々(マゴソスクール運営陣)は、生徒たちのための高校探しに苦労した。

スラムの孤児や元浮浪児、貧困児童などへの高校進学に対し、まだ高校側の理解は薄く、環境のよい高校がなかなか得らなかった。

そんな理由で、ドリスが途中で転校しなければならなかったことも、成績に苦労した要因のひとつだと思う。

 

しかし、どんな困難があっても、ドリスは粘り強く、がまん強かった。

不平不満はなく、ひたすら努力した。そしていつも、誠実だった。

高校卒業時の全国統一試験の成績は、ケニア政府から大学の学費補助を受けられる高レベルの成績には達しなかった。

私は、あそこまで家庭事情が悪かったドリスが、高校卒業までたどり着けただけでも大きな成果じゃないかと褒め称えたが、ドリスはそれでは満足しなかった。

 

もっと高みを目指したい。

 

最も困難な状況にある子どもたちを助けるために、特別支援教育を学びたい。

その夢をドリスは持ち続け、マゴソスクールで働きわずかな収入を得ながら、それをコツコツと貯金して、いつか進学するのだと常に語っていた。

 

正直いって、果たしてその夢はいつか叶う日が来るのだろうか?と、私自身は確信は持てなかった。

なぜなら、月給わずか4000シリング(約5千円)しか得ていないドリスが、大学進学を可能にするほどの貯金を貯められるのは途方に暮れるほど長い道のりのように思ったからだ。

そんなあるとき、マゴソスクールの卒業生を連れて日本に講演ツアーに行く計画が持ち上がった。

私は、卒業生の中で希望者にオーディションをすることにした。

卒業生の全員が、そのオーディションに参加した。

一人一人、自分について語ってもらうというオーディションだった。

まだ高校を卒業したばかりの若者たちには、自分の過去や、負ってきた傷、苦しく辛かった経験について詳細に語るのは難しいことだった。

それはおそらく、本人たちも想像もしていなかった自分自身の中の激しい拒否反応であっただろう。

オーディションに参加したものの、審査委員を前にただ泣き続けたり、言葉に詰まって押し黙ったり、本当のことが言えなかったり、逆に、過大に誇張して語ってしまう生徒たちがほとんどだった。

ところが、ドリスはとても落ち着いて、自分の経験を淡々と語った。そうやって語る言葉が、どのように聞き手に届き、そのインパクトがどのように誰かの人生を変えていくかということを実際に経験していくのはもっとあとの話だ。

その時のドリスには、ただ真実を誠実に、ありのままに語ろうという姿勢があった。

その姿勢と落ち着きが、私が気に入ったポイントだった。

オーディションで彼女は選ばれ、約一カ月間の来日ツアーのメンバーとなった。

 

選ばれた3名。真ん中がドリスさん

 

日本では、毎日毎日講演し、歌い、日本全国各地で合計5000人以上の人々の前で自分の人生や夢について語ったと思う。

おそらくこのときのこの経験が、ドリスの魂の扉を開いた最初のきっかけではなかっただろうか。

日本各地で、特別支援学校や児童養護施設、老人ホームを訪問し、交流し、学んだ。

日本の貧困の現場も訪れ、ホームレスの人々が数多く暮らすエリアで夜回りをし、おにぎりを手渡し、話を聞いた。

日本の若者たちとも交流し、中学高校で授業を受け、語り合った。

 

ドリスさんたちが来日した際に、NPO法人アマニ・ヤ・アフリカにて仙台講演をした際のスタッフ集合写真

 

 

このような貴重な経験の中で、私は、人がめきめきと成長していく過程、魂の扉が開く瞬間、目が見開かれていく瞬間を、間近に目撃した。

ケニアの村やスラム街のどうしようもない貧困や、家庭崩壊による悲劇、スラムの貧困の連鎖という世界しか知らなかったドリスが、もっと広い世界へ一歩踏み出した瞬間だったと思う。

ドリスの内部で起きた変化は、その後次々と協力者を引き寄せ、想像もしていなかった奇跡へと彼女を導いていったと思う。

その後、トントン拍子に進んでいった、のちにドリスの日本留学を実現してくれた恩師との出会い、その恩師が呼び掛けて集まった支援者の努力により実現した日本留学、大学受験と合格、入学・・・。

 

そのすべてが奇跡と呼ぶにふさわしい出来事であったと思う。

 

 

しかし、夢にまで見た日本での大学生活は、想像以上に厳しいものだった。

難しい日本語の学習、次々と進む専門の授業、日本語が理解できず苦労の連続で、ドリスは毎日、泣いていたという。

長い時間をかけ、そんな困難を乗り越えることが出来たのは、ひとえに、恩師の皆様が常日頃、影日向に寄り添い、叱咤激励し、あきらめずに支援し続けてくださったおかげだと、感謝の気持ちで一杯である。

その感謝は言葉に尽くせない。本当に、ありがとうございました。

 

 

勉学に苦労した大学生活の前半だったが、それにも慣れ、軌道に乗った後半は、ドリスは精神と知性の扉をまたぐんぐんと広げていった。

大学院に進学したいという夢を語り始めたのもその頃だ。

四年間の大学生活を日本で送ることが夢のまた夢だったドリスが、大学院に進学・・・。

この夢は、日本で応援を続けてくださった身近な人々を驚き戸惑わせ、また、悩ませることになっただろうと思う。

大学院に進学したいと言ったって、その費用はどうするのか。

そこにどんな意味があるのか。

大学院に行くということをドリスはどのようにとらえているのか。

 

私自身もわかりかね、大学四年の二学期の終わりに、ドリスとじっくり一対一で話を聞くことにした。

 

ゆっくりと順を追って話を聞いていくと、ドリスの中の変化と成長がわかった。

ドリスは留学当初、とにかく頑張って勉強して、将来はマゴソスクールを助けたいとそればかりを夢見ていた。

しかし、大学の途中で、自分がこのまま大学で学んだ知識を持ってケニアに帰り、マゴソスクールに戻ることは、マゴソスクールを助ける最善の方法ではないと気が付いた。

むしろ、マゴソスクールで働き給料を得て、生活をすることになると、自分の存在が、マゴソスクールに負担をかける要因になってしまう。

日本で学ぶレベルの高い知識や実技は、キベラスラムの現実には必ずしもフィットしない。

さらに、実際に特別支援学校教諭の免許を取得しても、日本で取得した免許はケニアでは使えない。

また、大学で学ぶ多様性に富んだ教育理念や手法について、さらなる興味が広がっていた。

 

大学の研修で北欧を訪れ、その最先端の教育の現場に驚いた。

最も興味を引いたのが、障がいのある子どももない子どもも同じ場で学ぶインクルーシブ教育だった。

人間の多様性を尊重し、共生社会に貢献するための取り組み。

これは、ドリスの背景にある、貧困問題や、スラムという被差別コミュニティの問題解決にもつながる取り組みだと、私も直感的に感じた。

 

ドリスは、日本でインクルーシブ教育の研究ができる大学院を調べ、オープンキャンパスにも参加した。

そこで出会った国際基督教大学(ICU)大学院が、ドリスを大きくインスパイアした。

ドリスはこう言った。

「日本ではほとんどの大学で日本語で学ぶため、その後、例えばケニアやその他の世界の国々で日本の大学で学んだことを生かして進んでいくことが非常に難しい。

しかしICUなら、英語で学び研究が出来るため、その後自分がケニアを含む世界の様々な国に進出していくための大きな助けになるだろう。

だから、ICU大学院で学びたい。」

 

 

私は一対一でドリスと語り合い、彼女自身がこれから先の自分自身の道を様々な側面から洞察していることを知り、安堵した。

また、私が日本の大学への留学に送り出したときのドリスとは、全く違うレベルにドリスがいることを実感した。

あの、子守りをしていた家庭から逃げ、マゴソスクールの門の前で泣いていたドリスが、10数年の間にここまで成長し、視野を広げ、道を切り開いてきたことに感嘆した。

 

彼女の目に見えている世界は、すでに、ケニアのスラムの狭い現実ではなく、それは、世界に向かって広がっている世界だ。

4年間の大学での学びで、人はここまで変わることが出来るという実例を目の前に見て、まずはたゆまぬご指導をくださった先生方のご尽力に感嘆し、さらに、ドリス自身の持つ可能性を無限大に感じた。

 

ICU大学院で学びたい理由や目的、目標、将来へのビジョンをドリスから聞き、私の中でも明確にイメージすることが出来、今後のさらなる発展の可能性にワクワクする想いでいっぱいになった。

 

私自身は、生涯かけてケニアのキベラスラムの仲間たちと共に、一人一人がより良く生きていく道を模索していく努力を続けたい。

かつてドリスが生きていたそのスラムの現場から、ドリスへ、大きなエールを送りたい。

私が長年、スラムと接して実感するのは、今苦しんでいる人々、子どもたちへ、対処療法的に応急処置をし続け、なんとかいま救いたい命を救ってきているけど、これがいつまで繰り返されるのか、世界は果たして少しでもよくなっていっているのか。

アフリカで生き、寄り添い続けた32年間を振り返り、私は、ケニアの底辺の人々の暮らしが少しでも楽になっていると胸を張って言うことができない。

むしろ、さらに厳しくなっている貧困者排除の社会傾向に胸を痛めている。

 

このまま受け身でいてはならない。

 

世界中のすべての人々が等しく、人間としての尊厳を守り、生きていくことが出来る条件を獲得できる社会を構築したい。

人の心の中にある無意識の差別意識を越えて、誰もが手を取り合って共に生きる社会を構築したい。

その想いでスラムでの活動を長年続けている私だが、ドリスの成長や目標が、真っ暗闇の中、前方にまぶしく輝く光に見える。

 

ドリスが大学院に進むチャンスを得て、彼女の中ですでにイメージが出来始めている包括的な社会を構築していくための教育的取り組みへの研究を進めていくことが出来るなら、それは必ず将来、キベラスラムに、ケニアに、アフリカに、そして世界全体に有益な取り組みを生んでいくと私は確信している。

 

ドリスの中にやどった意志の力に触れ、この確信を持ったから、多くの皆様に再び、ご支援をお願いする決意に至った。

 

どうか、ドリスのさらなる挑戦への第一歩を応援してください。何卒よろしくお願い申し上げます。

 

 

早川千晶(マゴソスクール運営者)

 


119日世界一周一旦終了、その前にイスラエル

2016-03-14 22:06:16 | 旅行記前半、アジア、アフリカ、中東

☆遂にエルサレム

 

乗合バスでエルサレムへ。セントラルバスステーションで降ろされるはずが、賑やかな市場の前で終点。ここはどこだ?現在位置が分からない。当てずっぽうに歩いていると写真で見たダマスカス門を発見してほっとする。やっとの思いで路面電車LRTに乗ってホテルの近くの停留所へ。ホテルの予約メールではFoxStoreの裏と書いてあったので探すも見つからず。町のおじさんに聞いても英語を喋れなくてすまなそうな顔をして謝ってくる。1時間も探して、探して、そして道行く女性にスマホで探してもらって、やっと別のFoxStoreの裏と判明、へとへとになって新築のマンション型ホテルにたどり着く。

 

溜まった洗濯物を一気にして旧市街地へ。城壁の中はキリスト教、ユダヤ教、ムスリム、そしてアルメニア人地区など複雑な歴史を持っている。どれもが聖地である。スークなど屋根のある土産物屋の道や細い道が多くて迷路のよう。進むうちに、おっ!嘆きの壁へ。沢山のイスラエル人が例の黒服で真剣に壁にお祈りを捧げていました。

 

 

黒い帽子をかぶり、黒いスーツを着て長いひげを伸ばす人たちを「「超正当派」と呼ぶらしい。

 

 

☆悲しみの道を歩く

 

翌日イエスが十字架を背負って歩いたゴルゴタの道へ。今は亡き私の両親がキリスト教だったので、もし生きていたら来たかっただろうと思って、ヴィア・ドロローサ(悲しみの道)を辿ってみました。因みに私は仏教徒ですが。

その後オリーブ山まで行って、復活したイエスが昇天した教会へも足を延ばしました。オリーブの丘からは旧市街地が一望に見渡せ、嘆きの壁の隣で黄金に輝くイスラームの岩ドーム、2つの宗教は今は敵対している。そんな光景を眺めながら日本人には想像すらできない宗教の複雑さを感じる。

 

☆パレスチナ自治区は!

 

3日目にはイエスが生まれたとされる聖誕教会を訪問。ここはエルサレムから南に10キロ、パレスチナ自治区の中に聖地ベツレヘムはあります。沢山の信者たちが聖誕教会を訪れていました。その後パレスチナ人のタクシーに乗り市内観光、各所にあるイスラエル人の入植地を守る高さ10m近い城壁や監視塔をしばしば目にしました。

 

そしてパレスチナ人のドライバーの占領された怒りの声にも接しました。城壁には分断壁画家のバンクシーの壁画、平和の象徴の鳩に防弾チョッキを着せるなどブラックジョークの絵などが描かれていた。帰りのバスは途中イスラエル軍の検問所で停止させられ、パレスチナ人以外、イスラエル人や日本人を含む観光客はバスの中で簡単なチェック。一方のパレスチナ人たちは全員バスから降ろされ、一人ひとりマシンガンを抱えた兵士たちから厳しい検問を受け再びバスへ。ここは紛争地という事を思い出させてくれました。

 

 

☆おおパリ

 

世界一出国が厳しいテルアビブ空港で足止めも覚悟していたが、どう言う訳か難なく突破してパリへ。今回のパリ観光は600万人の骸骨が埋まるカタコンペや奇跡の教会メダイユなどを訪問。

 

沢山の骸骨を見た後、気分転換のためにラーメン屋さんへ。今パリでは日本食ブーム。なんだかもうじき日本に帰るというのに里心が。オペラ座近くのホテル目指して帰る途中、最近日本で有名になった岩国の酒「獺祭」ののれんが。のぞいてみると日本人がお二人話していたので、私も仲間に入れていただき日本酒をごちそうになる。とっても素敵なおじさん。その後もお言葉に甘えて日本酒を10杯以上いただく。後で聞いたらパリで超有名人らしい。海外で親切にされると何倍もうれしいですね。

 

最終日は偶然ツールドフランスの最終戦がシャンゼリーゼ通りで行われていた。ラッキー。ゴールは凱旋門でした。

 

そしてマカロンで有名なシャンゼリーゼ通りのラ・デュレで優雅に朝食を頂いて前半の世界一周の旅を締めました。7月28日119日間の世界一周前半、一旦帰国。

 


死海でプカプカ

2016-03-11 21:52:51 | 旅行記前半、アジア、アフリカ、中東

☆本当にプカプカ死海

 

 

さあ次は癒しのスポットTheDeadSea死海です。海抜マイナス420m、陸上で一番低いところに位置して、塩分濃度が30%と極端に高い。古代よりお肌に良いとか、かなづちでも浮いて泳げるといわれる死海へどぶ~ん。浮いちゃった(笑) 隣のおじさんの真似をして海底から採った本物の泥パックを全身に塗ったり。しかしあまりの暑さに他に誰も泳いでいません。

 

ホテルは奮発して超高級。予約していた部屋は海が見える部屋、しかし見えません。変更を申し出ると、部屋なんか無いとけんもほろろ。こっちが怒りたいよね~~そして予約したJTB系のホテルズドットコムに電話するも時間外だそうです。もちろんメールなんかで受け付けません。
だったら外国の時差のある予約受けてはいけないのでは?とにかく暑くて、思考力が下がってきましたので寝ます。

 

 そしてここで思うのは対岸がイスラエル。その昔ヨルダンは対岸までが領地だった。プールで会った青年達はイスラエルへの嫌悪感をもろに表していた。平和な日本人には感じられない部分。

 

☆迷い子の日本人発見

 

今日のお昼に食事をしようと歩いていると、前を日本のおじいさんが歩いていました。暑いのに格子柄の背広の上下。それも少し上下の柄が違っているそんな何処にでもいる日本のおじいさんが死海のリゾートホテルのど真ん中を歩いている。そしてレストランの前で何やら身振り手振り。後ろで見ていると、どうも団体で来たが最初の場所が分からなくて困っている様子。ツアー、ツアーと言っています。相手のヨルダン人も?何かお困りですかと声を掛けましたら、最初の集合場所が分からなくなったとのこと。あ、あ、それはロビーでしょうね。エレベータまで案内して差し上げました。聞くと食事か何かで団体バスがここに寄って、海を見に行ったら帰れなくなった。確かにここのホテルは迷路のような廊下ですから~~これからどちらへと尋ねると、イスラエルに行って二泊するらしい。おお素晴らしい、そうか今日本は夏休み (このおじいさんに関係ないが) なので団体か~~とっても懐かしくなりました。日射病にならないでイスラエルに着いたかな(笑)

 そして2泊3日の贅沢なリゾートホテルでの時間がアフリカの長旅の疲れを一気に取り去ってくれました

☆首都アンマンへ

 

高級ホテルの旅に終わりを告げ、ヨルダンの首都アンマンへ。少し市内観光をして次の目的地イスラエルへ。アンマンは意外と見所あり。

 

☆難関突破してイスラエル入国

宿で一緒になったアメリカ人ハロード君たち二人とタクシーをシェアして国境フセイン橋へ。イスラエル人、パレスチナ人、観光客などがゴッタ返すなかイミグレで何度も繰り返されるしつこい女性係官の質問にも打ち勝ち(?)無事入国。

 

 


106日目さよならアフリカ、ヨルダンへ

2016-03-10 22:51:28 | 旅行記前半、アジア、アフリカ、中東

☆73日間に及んだアフリカから中東へ

 

73日間に及んだアフリカを後にしてケニアからドーハを経由して中東ヨルダンへ。乗り換えのドーハではウガンダで出会った日本の旅行会社の方に教えてもらった、海鮮五目ラーメンを食べて、英気を養いました。ドーハはさすがに巨大ハブ空港、寿司屋もあって、24時間寝ない空港です。

 

 

アンマンの空港からクーポンタクシーで砂漠の中をひた走り三時間。クーポンなのにチィップを要求され揉める。ああ始まったこんな交渉。映画インディージョンーズの最後の聖戦の舞台にもなったペトラ遺跡へ。遺跡の門の真ん前の豪華ホテルに宿泊。明日までラマダン、食事を取るのは外国人のみ、レストランも人がまばら。貴重な体験です。

 

☆夜中の非常ベルが鳴り響く

 

夜中に突然ホテルの非常ベルが響く。火事も心配だけどテロかかと一瞬頭をよぎる。警報のアナウンスはテープで繰り返されるのみ。「非常事態発生」と繰り返す。主にアラビア語、英語で少し。廊下に出ると隣の部屋のおばさんが誤報だとフロントで聞いたという。安心して寝る。一時間後また鳴る。朝までに5回ぐらい繰り返される。その度にフロントに聞きに行く。正式なコメントが流れることはない。最後は遂にフロントに怒鳴り込む。こんなに高級なホテルなのに。テロだったらきっとホテルの従業員はお客を置いて逃げるんだろうな・・・・・。

 

 

☆あの映画のペトロ遺跡

 

あまりに早く着いたので一時間ほどお昼寝して1時に出発。途中から少し険しい裏道のワディムズリムに行きたいと思う。しかしどうしてもガイドが一緒でないとダメと言う。止む無くしつこく付き回るガイドを付けるも、何の説明もしないで1時間ほど歩く。ああ始まった、アジアの観光地のような騙し合い。本当に鬱陶しい限り。らくだの勧誘も然り。

 

ペトラは19世紀に発見されるまで、769年の大地震で都市としての機能を失い、時間とともに、砂に埋もれ、岩は風化し、また洪水によって破壊され、すっかりその姿を隠してしまっていたらしい。お陰で沢山の遺跡が誰にも邪魔されずにひっそりと残っていた。

 

 

遺跡のゲートから気温40度を超える砂漠地帯を30分近く歩くとまずは聖霊が宿ると伝えられる墓ジン・ブロックスに出会う。さらにシークという1200m続く断崖絶壁の谷を抜けると、突如現れるバラ色に輝く宝物殿、エル・ハズネ、そして巨大な神殿エド・ディルなど数えきれない遺跡群が見えてきました。広大な敷地に点在する数々の宮殿や墳墓。暑い中2日間岩山を登ったり。昔行ったエジプトの王家の墓以来の暑さだ。

 

 途中あまり人が行かない山道を日本人が歩いてくる。久しぶりなので捕まえて(?)話をする。夫婦で世界一周中。最終はオーストラリアのワーホリに行く計画。若いっていいな。

 

さらに日没後1500本ものろうそくで埋め尽くされた幻想的な「ペトラ・バイ・ナイト」までも堪能しました。日中も光線の関係で微妙に変化するバラ色の岩肌に、古代人たちは何を考えたのでしょう。

 

☆本当にプカプカ死海

 

続く


2キロ四方に150万人のスラムが

2016-03-09 12:01:06 | 旅行記前半、アジア、アフリカ、中東

☆150万人のスラム街?!

 

大自然を満喫したアフリカの旅も間もなく終わり。その雄大な景色や動物たちに歓喜の声を挙げている「旅人」には、どうしても訪れたい場所がありました。

 

それはアフリカ最大の都市ナイロビにあるスラム街「キベラ」です。ナイロビ自体危険なのに、強盗や殺人などが日常的に起きているキベラを訪れることは危険極まりなく不可能に近い。しかし日本にいては見えない現実を「見たい、知りたい」と思うのは不思議でないと思う。そこで20年以上キベラの中で「マゴソスクール」という学校を運営している日本の女性「早川千晶」さんに事前に連絡を取り会いに行きました。

 

待ち合わせのショッピングセンターで、キベラは2キロ㎡にナイロビの人口の1/3の約150万人が住み、5つの村のような組織に分かれ運営されているが、政府や警察などが全く関与してない。そして何よりも学校関係者でも襲われるほど危険との事前説明がありました。緊張が走りました。

 

 

高級住宅地と隣り合わせにあるスラム街、入り口で武装警官3名に前後を護衛されて町の中に進んでいきます。土埃が舞い上がるメインの通りには雑貨屋、クリーニング屋、床屋、食料品店、食堂、家具工場、加治屋などが並び沢山の人が行きかう。一歩脇道に入ると迷路。見渡す限りの錆びたトタン屋根、そして泥壁の家が所狭しと並ぶ。8畳一間の一つの小屋に8人から10人が暮らす。

 

舗装されていない道には排水溝などなく汚水がそのまま流れ、ぬかるんで悪臭を放つ。水道も無く、きれいな水は通常の2倍から10倍ぐらいの値段で小分けで買うしかない。トイレに至っては5~600人に一つあるかないか、したがって袋に入れて捨てに行くか放置するかだ。

 

ゴミもいたるところに投げ捨てられ衛生状態はとても悪い。(NewYorkTimesの記事によれば、キベラに住む少女の三分の二は16歳までに食べ物のために売春をさせられていたとも。)

 

そんな迷路を進んだ先に「マゴソスクール」が現れた。そこでマゴソスクールの創始者リリアンさんを紹介されました。

 

リリアンは18人兄弟姉妹の長女、病気で両親を亡くしてからこのスラムで弟妹の生活を支え、子どもたちでだけで逞しく生き抜いてきました。やがてリリアンは同じように早くに親を失い、より所をなくした子どもたちを自分のもとに引き取り、1999年自分が暮らす長屋の一室に浮浪者20人の寺子屋をはじめたことがマゴソスクールの始まりです。

 

そこに現地で観光ガイド等をしていたケニア在住22年の早川さんが共感して長屋を買ったのが最初の校舎となりました。その後どん底のような貧困がはびこる暮らしの中でも、キベラの仲間たちは力を合わせて、スラムの貧困児童、孤児、虐待を受けた子ども達、家や家族を失い路上の浮浪者になった子ども達などを救済するセンターの役割も担って、現在幼稚園から中学生まで600人が通う学校となっています。

 

 

いろいろなバックグランドを持った子どもたちですが、元気にハツラツと学校生活を送っているように見えました。さらに学校の生徒以外にもキベラの貧困児童へも毎日朝(1食2円)、昼(1食10円)の給食を支給しています。児童たちの中には支給されたお昼の給食を食べない子が6割ぐらいいるそうです。それは家にいるお母さんや妹弟たちに持って帰るからです。

 

今また新しいクラスを作りました。それは障害を持った子供達の教室です。今までは障がいを持った子供達は親が働きに出ている間部屋に閉じ込められたり、極端な場合は最悪な事態など・・・。スラムで初めての障がい児クラス、今までと違って先生一人に生徒は二人ぐらいしか面倒が見られません。従ってお金も掛かります。それでもマゴソは新しい道を切り開いています。

 

 

他にもたくさん伝えたいことがありますが、こんな困難に直面しながらも元気で明るい子ども達、そしてそれを支える早川さん達を目のあたりにして言葉を失ってしまいました。

今ではOBの大学生が休みを利用して手伝ってくれています。

インドのコルカタで行ったマザーテレサの施設、タンザニアで会った75歳で孤児院のボランティアをしている日本の75歳のおじさん。

 

 

世界一周が終わるまでには何かの答えを出そうと思いキベラを後にしました。

次は中東へ。

 


アフリカ最高峰キリマンジャロ!待ってろよ

2016-03-08 14:35:27 | 旅行記前半、アジア、アフリカ、中東

☆75歳日本人ボランティアに会う

アフリカ56日間のトラックの旅も終わり今朝からまたひとり旅。トラックの時は、朝から英語で挨拶して、話しかけられたら英語で答えて、ときどき分からなくて、大変だななんて思っていましたが、いざひとりなると寂しいものです(泣)
 朝一番でサマーたちがひと足先に出発しましたが、別れた後じ~~んときました。

 

10時にホテルを出発。危険と言われるナイロビからキリマンジャロの麓の町モシ(タンザニア)に中型バスで向かいました。運賃は35米ドルと少し高いですが、ホテルでピックアップしてくれます。リバートラベルです。

 

 

バスの中で今から行くモシと言う町で孤児院のお手伝いのボランティアをされている桑波多さん75歳にお会いしました。2時間ぐらいお話を聞きました。


なんでも孤児院にはお金がなく、養鶏を手伝っているが餌代がかかってピンチ。タンザニアでは炭を焼いた後に出るクズ炭を捨てている。これを日本の昔の豆炭にして再利用しようと挑戦。しかし日本の会社が豆炭にする技術を教えてくれなくて困っている。このボランティアは71歳から始められたそうです。(驚き!)ビザの関係でときどき国外に出なければならない。先日もタンザニアの首都ダラエルサラームでタクシー強盗に遭って身包み剥がされたなど、恐ろしい話を聞きました。それでも続けるのは、頭が下がりました。

 

明日その方の定住先のロッジに泊まってお話を聞くことにしました。頑張る日本人、尊敬です。

 

☆網走の頭もスリには敵わない

 

ナイロビをバスで出発して8時間、キリマンジャロの登山口の町、モシに到着。ここでは個人登山が認められてないのでガイドやポーターを同行することが必須。登山前にツアー会社を探して決めなくてはならない。バスを降りると早速沢山の客引きがどっと押し寄せ、袖を引っ張ってきますがここは完全無視。

 

まずは一泊10米ドルの安宿に部屋を取り、昼飯がてらツアー会社を2社ほど回って情報収集と値段のリサーチ。その中で日本人が多く使うキリクライマーズ社で最終交渉。ルートは一番簡単な5泊6日間のマチャメルートを選択、そして値段交渉。一時間ほど粘って950ドルに。この中には国に納める入山料(一日70米ドル×6日)420ドルが含まれる。残りで人件費、装備レンタル、食費、チップなど。特にチップは後で揉めるのでしっかりと契約書に金額を書いてもらう。

 

長旅の疲れもあったので出発は3日後。街をぶらぶらしながら地元の床屋へ。黒人は1ミリも無いくらい剃り上げに近い状態にバリカンで刈ります。私も一応長めと言いましたが、だんだん床屋の親父、気合いが入ってこんな状態です。あっという間に五輪刈り。なんだか網走帰りみたい。別に懺悔をした訳ではありません。まもなく本当の懺悔が来るとは思ってもみなかった。

 

 

その後有名なキリマンジャロコーヒーを飲みに行く途中、しつこい二人の客引きに絡まれ、やっと振り払ってお店に入った瞬間。あっ。斜め掛けのバックのチャックが空いている?やられましたiPhone。盗難証明書を警察に頼むと、なんと賄賂70米ドルを要求されやむなく払う。追い打ち。悔しい。

 

今朝は朝からサンダルの紐が切れたりして、何かを暗示していた。お恥ずかしい話ですが、初心者の旅行者みたい。パスポートも財布も無事です。iPhoneはなくてもIPADがあります。いままでこのIPAD重いからいらないと邪険にしていました。IPADもやっとお役に立てましたと胸を張っているように見えました。

神様が気を引き締めろと言っているのでしょう。慢心しないで7月末まで旅します。


さらに今日行く予定だった孤児院の桑波多さんの定宿も戻ってみれば泥棒に入られてそれどころでは無いと手紙が置いてあったのです。(6日後お宿までお邪魔して2日間たっぷり聞かせていただきました)


☆行くぞキリマンジャロ!待ってろよ!

 

 

気を取り直して7月4日登頂開始。ツアーのお客は私一人。

 

一日目:チーフガイドと足りない装備をレンタル。使ったあと洗ってないようで猛烈に汗臭い。途中でポーターのお兄ちゃん達を車で集めながら出発ゲートへ。

 

どうもこのチーフ初めてのようで手続きに戸惑う。1,790mからゆっくりとした坂道を4時間歩き、今夜のキャンプ地マチャメ3,010mに到着。しかし先に来ているはずのポーター2名とコックが大幅に遅れて到着、夕食は20時に。先が思いやられる。

 

 

二日目:8時30分出発、13時30分にはキャンプ地シラー3,845mに到着。もう富士山を超えている。今日もポーターが後から来る。こんなツアーはないらしい。ガイドがしきりに謝る。謝られてもこちらも困る。

 

三日目:一気に1,000m近く登りラバータワー4,640mに。今度は700m降りてキャンプ地バランコ3,960mへ。高度順応にはいいが疲れる。途中で偶然アフリカで一緒だったチェに出会う。元気が出た。4,000mを超えると草木も見当たらない。風も強くなり夜には激しい雨。

 

四日目:道は岩壁になり這うようにして登る。バラフキャンプ4,640mここがベースキャンプに。仮眠、夕食、仮眠(ほとんど寝れなかったが)

 

五日目:夜中の11時30分猛烈な寒さの中頂上アタック開始。持ってきた防寒具を目いっぱい着込む。5,000mを超えると空気は極端に薄くなり、高山病の危険性も高まる。五歩歩いては休む、また五歩と。やめようと何度も思う。体がやたら重くなる。

 

出発から約7時間、午前6時24分遂に登頂5,890m。アフリカ大陸で一番高いところに今立っている。感激。日の出も。そこでアフリカを共にした仲間の二人にも遭遇。神様の祝福か。

 

ガイドがすぐに降りようという。確かに写真撮るために出した指が5分で凍傷になりそうになる。8時45分ベースキャンプに。2時間仮眠して一気に3,080mまで下山。

 

ところが途中から激しく胃が痛む。こんなの初めて。歩けない。ガイドが救急隊に連絡すると言い出すが断る。脂汗出しながら二倍の時間かけて到着。白湯だけ飲んで寝るも夜中に痛みのためのた打ち回る。

 

 

六日目:まだ激痛がするも1,630mのムウェカゲートに到着。ガイドたちに登頂成功の感謝を込めてチップを50ドル追加。緊張が続き疲れも出ない。エベレストと違い頂上に立った満足感は何と言っても大きい。次の日久しぶりにシャワーを浴びビールで乾杯。アフリカ万歳万歳万々歳!さあ次へ・・・・・

 

このハットの寄せ書きはサマー、デイビッドなどトラックの若者達が登頂成功を願って寄せ書きしてくれたのもです。お陰で登頂成功!


56日間アフリカオーバーランドツアー終わったぞ!

2016-03-07 17:52:14 | 旅行記前半、アジア、アフリカ、中東

☆今度はサイ

 

感動のゴリラの後は2日掛けて約1,000キロ移動してウガンダ最大の国立公園「マーチンソン・フォールズ」に来ました。ここではまずサイを探しにゲームドライブです。ご存じサイは大きく凶暴です。近くに行くと「カァハ~ハァハ~」と鼻息が聞こえます。迫力満点。

 

☆チンパンジーは何を考える

 

 ゴリラツアーと同じく2班に分かれてツアーに出ました。森の中に突然チンパンジーの親子が現れました。自分の中ではチンパンジーの方が見慣れているせいか、緊張はしません。その分心の余裕が。そして日本の動物園で見るよりとても自然さを感じました。当たり前か。こちらを見つめるチンパンジーは何を考えているのか。

 

☆白ナイルはどこから

 

 公園の中央部を流れるナイル川のマーチンソン・フォールズがある。川幅50mのビクトリア・ナイルが僅か5mにまで狭められ、轟音とともに落差42mを流れ落ちる。響き渡る轟音の迫力はお腹に響く。この滝を境にビクトリア・ナイルは白ナイルと名を変えて遙か彼方のエジプトまで6,695kmを流れていく。滝の先は静かな幅広のナイル川だった。

 

☆Ziwa Rhino & Wildlife Ranch

 

 最後のサファリに行きました。何度も見た光景、しかし途中サファリの車が泥沼にはまったり、毎日のトラックが故障したり色々ありましたが、とっても貴重な体験となりました。

 

 いよいよ最後の町ナイロビが近くなってきました。アフリカの町には日本の中古車が沢山は走っています。ボディの漢字はそのまま。アフリカが日本と同じ左側通行、きっとこれが関係してるのでしょう。

 

このツアーも最終日が見えてきて皆さん次の予定の話が多くなってきた。私も次の宿や交通手段をネットで調べ始めました。なんだかソワソワ感が。

 

☆終点ケニアへ。

ケープタウンからケニアまで、9カ国56日間1万4000キロにも及んだアフリカトラックの旅も終わりました。結局最後まで一緒だったのは4人、寝食共にした戦友とシャンペンで乾杯。よくやったね!!

 

☆夫婦・恋人・姉妹・特別な関係

 

このアフリカのトラックの旅には何組かの夫婦、恋人、同性愛、そしてこの旅の中での恋愛を見てきました。

 

まず夫婦、外国人はとにかく何かあると抱き合いスキンシップを異常にします。しかしその割にはすぐケンカをする。あんなに密着していた2人が朝食の時バラバラに座ったり、トラックの席を離したりします。


見ているとわざとしているのは見え見えです。恋人同士も、同性愛の人も同じです。カップルで旅行中、一週間に一度もケンカしなかった組は無かったように思います。あの異常なスキンシップや大袈裟な愛の表現は何を意味しているのでしょうか^_^

 

そして旅行中の恋愛、今回は明治のカールおじさんのような大声の男と気の強い女。気の強い女は、猛アタックして、カールおじさんが恋人のように馴れ馴れしくしていた看護師さんから自分に乗り換えさせました。しかし最終日、これまた元のさやに戻りそう~と思ったらまた逆転!?
参考までにこのお気の強いベルギーの女性、女性仲間からも評判が悪く最後は誰も口をきかなくなりました。

など旅行ってきっと24時間一緒だから難しいのかも(笑)

男も女もやっぱり日本人が一番優しいかもしれません。(しかし愛の表現、日本人は下手ですね(笑))

☆変わった外国人達

 

バスの中で何時間でも口笛を吹き続ける人がいます。どうも日本人には耳障り、誰も文句言いえませんがどうなのでしょうか?ちなみにこの人、とっても沢山食べます、大体人の三倍、さらにどんなに時間が掛かっても急ぎませんので、この人のお陰で最後の食器は残ります。

 そして写真の女性、なんと180センチぐらいあります。私も方を向いているのは、私に話し掛けているのではなく、なんと本をこちらを向いて読んでいるのです。足は私の座席の横、見てびっくり。この方とても頑固でサファリの時、見やすい座席は途中でみんな交代しますが、頑なに断っていたワガママ娘さんです(泣)

みんな個性的だな~~

 

☆お別れパーティは涙が・・・・

 

 56日間のオーバオランドツアーが終了しました。こんなに長い間外国人と寝食を共に出来たのは、自分でも驚き。途中日本人に会ったのは5回ぐらい、話した時間は合計2時間ぐらい。それ以外は24時間英語でした。いろいろ思うことがあります。しかし答えを出すのにはもう少し時間が掛かりそうです。

 

 親切にしてくれた仲間に感謝して、明日からThe Roof of Africa キリマンジャロに挑戦します。

 

 


ゴリラってなんて哲学的なの!

2016-03-04 21:26:59 | 旅行記前半、アジア、アフリカ、中東

☆道なきジャングルの先に「ゴリラ」

 

 今日は朝5時半からゴリラツアーへ。今回のアフリカの目玉の一つです、
予約はなんでも2年前から埋まっているらしい^_^そして高額(スイスガイ達は高くてこのツアーを諦めたそうです、残念)

 

私たちは昨日と今日の二班に分かれ行くことになりました。私は後半組。昨日の人たちはとっても楽しそうにゴリラに会った話をしていました。ゴリラに会った時間は1時間弱だったそうです。何でもいいから会いたい。しかし条件によっては見られないこともあると事前説明を受けたので、心配しながら行きました。

 

レンジャー事務所で注意事項を聞き、前と後ろにライフルを持った隊員がつきます。これは途中で象に襲われたときの対策だそうです。

 

まずは集団で少し急な山道を進みます。そして先発の隊員がゴリラの人付けされたグループを見つけてトランシーバーで連絡してきました。ここからは急に道なき森の中に突っ込んで行きます。蔦を掴み、地面を這い、崖を登り、滝を渡りながら、まるで昔見た川口探検隊のようです。藪なんていうものではありません、本当のジャングルです。

 

全身泥まみれで登ること一時間、突然ゴリラが目の前に現れびっくり、それからは2時間半ゴリラ、ゴリラ、ゴリラでした。凄すぎ^_^。自然保護のためこちらから2mいないに近づいてはいけません。子供のゴリラが来ても手を出してはいけません。それほど近く見みえました。しかし親のゴリラは悠然としてこちらを眺めています。人間がゴリラを見に行ったのではなくて、ゴリラが人間を観察しているようでした。なんてゴリラの顔は哲学的なんでしょうか。

 

 ここでもアメリカ人は途中、靴裏ははがれても、楽しそうに靴下で歩いていました。本当に楽しんでいますね。

 

 

☆マラリアはすぐそこ?

 

アフリカで一番怖いのはマラリア。日本でマラリアのクスリをお願いすると、最高12錠しかくれない。(週一錠)その内一錠は感染地帯に行く前に飲み、二錠目から予防効果が出てくる。そしてさらに危険地区を離れて後も4週間(4錠)は飲み続けなくはならない。と、言うことは、残り7錠分つまり35日分の処方となる。
 私の場合全く足りないので医師に相談したところ「マラリアは高熱が出るから、出たら直ぐ病院に行きなさい。その病院に運ばれる日数分だけ飲みなさい」言われそんなもんだと信じていました。

 ところがあのスイスガイが毎朝錠剤を飲んでいるので、なんだと聞いたら、マラリア予防薬だと。その日の夕食の時に他の皆んなに聞いたら、当たり前と言った顔で!全員「飲んでいる」(泣)(マラリア薬は毎日飲むのと週一飲むのと二種類あり)
 スイスガイの年長のジョナサンに聞くとマラリア薬飲んでいてもウガンダでマラリアに二回かかったと言う!「マラリア薬を飲んでいたから軽かったよ。一回目は5日の入院、二回目は3日で済んだよ(笑)」これ聞いて慌てて日数計算して先週から飲み始めて今日で二回目、つまり今日から効いていることに。一番危険なウガンダのゴリラツアーは昨日終わった。さて今は潜伏期間(蚊に刺されて1週間から4週間)なのか?無事なのか?ドキドキしながら旅を続けました。

 


アフリカ9カ国目遙々来たぜウガンダへ

2016-03-03 23:44:40 | 旅行記前半、アジア、アフリカ、中東

☆黒人主権とは・・・・・

 

 ちょっとオーバーな話かもしれませんが。今日はウガンダの首都カンパラにあるキャンプ地、プールがあって、立派なホテルを併設しているリゾートです。そこには沢山の黒人の人たちがお客として泳いでいました。えっ!今まではほとんどプールで泳ぐ黒人はもちろん、リゾートに泊まる黒人も見たこともありません。アフリカに来てとても不思議でした。タンザニア、ケニアそしてウガンダではリゾート地の経営者も黒人が多くなってきました。何が幸せなのかは別にして仕事や機会は平等ではなくては。(ただし一部の国では強制的に農園の経営を黒人に変えたところ管理がうまくいかなくて元の荒れ地になっていることもあり。移行は難しい。)

 

☆イッタイイツスルウンチ?!

 

 トラックの旅の朝は移動距離が長いこともあって早い。起床は5時半から6時。朝食は起床から30分後です。その間にテントを畳んで、トラックに格納。マットも。朝食のテーブルや椅子を有志がセットします。だいたい朝食のメニューは食パン(焼いていません生)またはシリアル、バターかピーナツバターをお好みで。バナナまたはリンゴ。コーヒー。これをさっと食べて、自分の食器は自分で洗います。起きてから1時間後には出発します。この時間に遅れる人はいません。しかしこの間に洗面、歯磨き、うんちをする必要があります。ゆっくりしているいと間に合いません。

 

 歯磨きはほとんどが食前、食後は私とあと一人ぐらい。そして肝心要のうんち。これは人間の朝の一大事業です。いままで日本では私は食後30分以上ゆっくり休んでからのルーチンでした。しかしこれでは出発に間に合いません。外国人はいったいいつするんだあれ?何度も観察しましたが不明です。とにかく自分のことを時間内にするだけでギリギリでした。外人は腸が長いのか?

 

☆遂に来ました赤道直下

 

 赤道、凄く遠くまで来たようにこの言葉は響きます。しかし地面や空に赤い線が引いているわけではありません。記念碑が建っています。ぶら下がりながら「はるばる来たぜアフリカ~~、赤道へ~~」とサブちゃん風に心の中で歌っていました。(同じ赤道でも後日行ったケニアの赤道は、ブリキ看板一つでした。こんなに違うんだ)

 

ケニアの赤道看板

☆いよいよゴリラにご対面、その前に

 

 かつて英国のチャーチル首相が第二次大戦でドイツに爆撃されたとき、本気でここウガンダに首都を移そうと言ったぐらい美しい町「アフリカの真珠」と称えられていた。そのウガンダでいよいよゴリラツアーです。しかしマウンテンゴリラにストレスを与えないように森に入るときには一つの群れに対して7~8人と制限されています。私は後半組に。一日のんびりと過ごしました。

そんな日の午後、スタディーツアーがあって近くの小学校を訪問しました。イギリス財団が支援して、イギリス人のボランティアも派遣されています。授業の様子や運動場で一緒に遊んだり楽しいひとときでした。帰りにはなにがしかの寄付ですが、ちっともいやな気持ちがしません。それはこの子供たちの清んだ目でしょうか。それにしても歌などを上手に取り入れた英語教育は素晴らしいものがありました。日本でも取り入れては?

 

☆道なき山をかきわけてゴリラにご対面!

 

続く

 


42日目いよいよケニアへ

2016-02-29 22:02:36 | 旅行記前半、アジア、アフリカ、中東

☆仲のいいスイスガイ3人ともお別れ

 

 サファリをたっぷり楽しんだタンザニアから、途中マサイ族の村に寄って、アフリカの中心ケニアにやってきました。マサイの村では入場料10USドルを払い見学をしました。最初に歓迎の踊りから始まり、住居へ。多くのマサイ族はいまでも放牧などで生計を立てているらしい。そして泥の住居になぜか一人づつ案内されて説明を受ける。ここまでは良かったが、この後案内人のおじさんが、土産物を買えとしつこく勧める。「このお金は子供たちの教育に使われるのから・・・・・」ほんまかいな?それも相場の5倍。さらにお土産の品質も良くない。だけど買わないとこの泥の住居から出してもらえなさそう。まるで新宿の暴力バー並です。後味の悪い訪問となりました。(注:この後に訪問したケニアのマサイ族は実に紳士的でした。部族によって違うのかな。)小屋後ろではおばちゃんが携帯電話を掛けていました。文明はここまで来ています。

 

 

 いよいよケニアの首都ナイロビです。ここでビクトリアフォールからケニアまでの第二弾のオーバーランドツアーが終わります。スタートから42日目となりました。明日からはケニアからウガンダそしてケニアに戻る2週間、最後のステージです。。今回はすべてキャンプです。従って夕方急いで洗濯をして、部屋で扇風機をガンガンに掛けて乾かしています。夜は少し治安の悪いナイロビをみんなでタクシーに乗って、レストランへ出掛けました。久しぶりにBQQをお腹一杯食べて、飲んで,おしゃべりして楽しい打ち上げとなりました。本当に親切にしてくれたスイス人の21歳と25歳の若者3名とも今日でお別れです。時々英語のスラングも教えてくれました。「pis○」「shi○」hahaaaaaaaa!

  結局最後まで56日間行くのは私を含めて4名になりました。

 

☆さらにサファリ三昧

 

 ナイロビから新しいメンバーを加えて、早朝最終目的地ウガンダに向けて出発。途中マサイ族の村を訪れる。今回はとっても紳士的な対応です。

 

次は大阪府と同じ大きさのマサイ・マラ国立保護区で一泊。ナクル湖では何万羽のフラミンゴに圧倒される。途中イスラエルまで続く大地溝帯も見学。

 

そして3日目ジンジャーに到着。ナイル川の源流を見る。ここから白ナイルと呼ばれてエジプトまでの6695キロが始まっている。アフリカって凄いなとまたまた感動。

 

ここでサプライズ、ナイロビで分かれたスイスガイたちと再会。彼らは自力でウガンダに向けて行っている。同じ21歳のサマーちゃんが私を驚かせようと再会のことを内緒にしていたそうです。こんな若い人から気遣いされるなんて、幸せです。まだ少ししか立ってないのに懐かしい。昼間一緒にカヌー遊びをする。いつもながらに元気、いつの模様に川に飛び込んでいた。

 

☆遂に赤道のの上に・・・・・・

 

続く

 


自然界の動物ってこんなに活き活き!

2016-02-28 23:13:34 | 旅行記前半、アジア、アフリカ、中東

☆待ちに待ったセレンゲッティーへ

  ザンジバルでノンビリした時間を過ごしてエレルギーを補完して、1000キロぐらい移動。待ちに待ったセレンゲッティー国立公園へ。途中遙か彼方にキリマンジャロが見えました。来月の7月には挑戦するぞ、キリ、待ってろよ。

 

  セレンゲッティーはマサイ語で「果てしない平原」その名の通りです。ここは東京、神奈川、千葉、埼玉を合わせた広さの動物保護区。3日間のゲームドライブで、岩に登るライオン、木に群がるライオン、獲物をむさぼるライオンなどライオンづくし。これでもかと言うぐらいサファリを楽しみました。他にも広大なサバンナには他にも何千頭ものシマウマ、バッファローなど出会いました。

 

  そしてオプショナルで贅沢な夜明けの気球サファリにも挑戦。サファリの後はシャンペンで乾杯。高原の真ん中で素晴らしい朝食も取りました。この辺りの演出は欧米人ならではですね。

 

 セレンゲッティー二日目、ライオンを堪能してキャンプに戻ると突然の雷雨。地平線まで見える大地に稲妻が走り、土砂降りの雨になりました。テントから出るのを躊躇していました。しかし丁度ディナータイム、50m離れた小屋に行かなくてはいけません。雨合羽を着てびしょびしょになりながら行ってみると、みんな揃っていました。外国人って本当に自然に強い。さらにここは国立公園、電源は太陽電池のみ、従ってヘッドライトしかなく、ほぼ真っ暗。それでも皆さん飛び回る蛾たちを払いのけ、笑いながら楽しく食事をしていました。

いやあ、普通の日本人には出来ませんね。私もすっかり慣れて、蛾を手で払いのけ何食わぬ顔で食事できるようになりました。同時に少しだけ英語も上達。

 

 「NGORONGORO」ンゴロンゴロ保全地域は南北16キロ、東西19キロのクレーターの底。キリン、インパル、ハイエナなど。そして火口原内の湖には一万羽以上のフラミンゴが群れをなしていました。今迄動物園でしかみたことがなかったこれらの動物、自然の動物ってこんなに生き生きしてるんだなと変なとこに感動していました(笑)

 

  そして今日のキャンプは凄いぞ。夕食を食べていたら窓越しに象が白い大きな牙を出しにご挨拶?。トイレの前にはシマウマさん。極め付きは、先ほど寝る前のトイレに行ったら、なんだか人だかりが。振り向くと私のテントにバッファローがお休みのご挨拶にみえていました。(残念なことにカメラを持っていなかった)如何にもアフリカらしい貴重な体験でした。

 

 ☆仲のいいスイスガイ3人ともお別れ

 

続く


世界一美しいザンジバル

2016-02-27 15:10:58 | 旅行記前半、アジア、アフリカ、中東

☆ハゲワシが寄ってたかってついばむ餌とは?

  昨日やっとタンザニアに入りましたが、首都ダル・エス・サラームまではまだまだ遠く、途中写真でよく見る「バオバオの巨木」を眺めながら、今日はミクニ国立公園でゲームドライブ。

沢山の動物に合いました。その中でも圧巻はハゲワシが死骸をついばんでいるところでしょうか。すごい迫力、ビデオを撮りましたが、お子さんには見せられません。まさに弱肉強食と言ったところ。

 

死骸をついばむハゲワシの群れ

 

  動物たちを楽しんだ次の日、首都ダル・エス・サラームに入ってきました。町は車で溢れ、激しく渋滞しています。そんな中対岸にザンジバル島の見えるビーチで一泊です。さすがインド洋夕日も綺麗です。明日はいよいよザンジバル。

 

☆ザンジバルは国家か?!

 

 ダル・エス・サラームからザンジバルへフェリーで渡るのにパスポートが必要です。同じ国なのに?もともとは別々の国。合併の時も平等にしたとのこと。今でもザンジバルの人はタンザニア人でなくてザンジバル人と誇りを持って自らを称する。そして奴隷制度が廃止された後も、ここが島だったため秘密裏に奴隷を積み出す基地となっていた。奴隷を隠していた洞穴も残っている。

 そしてもう一つ、1894年日本人のからゆきさん達が住んでいた家が今でもある。船員達の遊び場だったよう。こんなに遠くにまで売られて連れてこられた、かゆきさん達の故郷への思いと無念さが、いまでも漂っているような気がします。

 ☆インド洋に浮かぶ夢の島

 

 世界一綺麗な海と呼ばれるザンジバル島の海岸で3泊。それも久しぶりに豪華なリゾートホテルです。青く澄み切った海でシュノーケリング。魚たちと遊んだり泳いだり、これぞ本物の欧米人のリゾートを満喫。さらに海の見えるレストランでゆっくり朝食、お昼はビール飲んでうたた寝。夜は遙か彼方の日本に思いを寄せてインド洋のサンセットです。

 どこまでも透明な海、シュノーケリング最高

 

 

☆世界で一度は行きたいレストラン

 

ホテルから車で3時間、島の最果てに世界で一度は行きたいレストランのひとつ「The Rock Restaurant」があります。ツアー仲間は誰も知らないようで、最初は私一人。しかしそれでは車代が高いのでみんなを誘って出かけました。見るからにロケーションは最高。そこは海の中にあり、入るときは膝まで浸かりながら、そして帰りは潮が満ちていて船がお迎えに。幻想的なザンジバルの夜、最高でした。一緒に行った仲間も大喜び。

 

 ☆やっぱり胡椒!

 

 ザンジバルはヨーロッパとアジアを結ぶ重要拠点。最初はインドで発見した胡椒を運ぶときの中継地としての役割であったらしい。胡椒は西洋人の肉の保存に画期的な変化をもたらした。その後この島でも胡椒を作り出して、今では特産物になっている。胡椒農園も見学。

 

 ☆こんなところに日本人?!

 

 なんとこんなところに日本人。まずはJICAの皆さんが休暇で来られていました。そしてそのお友達も。JICAの若い方達は沢山の方がアフリカで活動されている。若いっていいね。聞いたところによると休暇でも危険地域には行けないらしい。近辺ではケニアが含まれていた。私、来週行くんですが・・・・・

 

そしてこのお二人さん、なんとお友達で日本から西回りと東回りで別々に世界一周をして、アフリカで落ち合ったらしい。すごい二人ですね。特に男性は日本を出て2年経過、この後ヨーロッパなどを山を登って一年後に帰国の予定。豪快ですね。旅の安全をお祈りします。

 

☆待ちに待ったセレンゲッティーへ

 

続く

 


遂にアフリカど真ん中マラウイ!

2016-02-25 02:11:38 | 旅行記前半、アジア、アフリカ、中東

☆アフリカのど真ん中に海が?

 

 日本を出発して60日、今日は5月31日です。アフリカトラックツアーも26日目を迎えました。今日も250キロ移動してマラウイに到着。失礼ながらマラウイという国を知りませんでした。町では今までのアフリカではあまり見られなかったイスラム教のスカーフのような布で頭を覆い隠す女性達が増えてきました。

ここにはとてつもなく大きい湖があります。最初はアフリカの東海岸に出たのかと思いました。この湖の大きさは東西90~160キロ、南北900キロだそうです。まるでアフリカのど真ん中に海です。波も押し寄せているし、きれいな砂浜もあります。なんだかリゾートのビーチのようです。今日から4日間マラウイです。夕日も朝日もとっても綺麗でした。

 

☆金持ちアメリカ人の横暴?!

 

次の日の朝「スタディーツアー」があり、近所の村を訪問。ここの診療所ではマラリアとエイズの感染状況について説明を受けました。まだまだ感染率が高く、特に妊婦への対策に力を入れているようです。訪問した後みんなで寄付をしてきました。

 

 ところがツアーの中で少し変わったアメリカ人が、昨夜蚊に刺されたからマラリアかもしれないので検査をしてくれと突然言い出しました。見た目には何の症状も熱もないそうです。診療所の医師がやむなく採血と検査薬で調べました。もちろんマラリアではありません。この行為は如何なものでしょうか。お金がない人たちの施設に行って、現地で高価な検査薬を外国人のために使うこと。そんなに心配なら自分の旅行保険で検査すべきでは。とっても気分悪く帰ってきました。

 

 ☆パンイチでマラウイ湖へ

 

 気を取り直してお昼から乗馬に行きました。今までほとんど馬に乗ったことなどありません。ヘルメットとブーツを渡され、インストラクターの後をついて行きます。揺れに合せて乗るのはとっても大変。ちぐはぐになると男の大事なところを強打します。

 2時間ほど森の中を乗っていくと目の前に一面海のようなマラウイ湖が現れました。鞍を外して湖に入って乗馬をするという。しまった海パン忘れた。「大丈夫パンツ一丁で」と。濡れながらの湖で乗馬、結構深くまで行きました。旅行中ならではの開放感でした。

 

 ☆13時間かけてやっとタンザニア

 

 マラウイからタンザニアまで680キロ、今日中に着くために4時30分に起きてテントを畳み5時に出発。出発前に朝とお昼のサンドイッチを自分で作っていきます。昨日の濡れたパンツはトラックの中で干して、13時間かけてタンザニアに到着しました。

 国境ではビザを取って入国、しかしスイスガイの一名にビザのスタンプが漏れていて引き返す事件もありました。私なんかビザの感覚がいまいちありませんので、スタンプ確認なんかしません。これから注意しなくては。

 

 その晩遅くキャンプ地に到着。今夜は地元料理をレストランでいただきましたが、いつもなら大食いの外国人たちも残していました。13時間のドライブはさすがにつかれました

 さらに夜はとても寒くて震えていました。さあ明日から本格的にタンザニアです。

 

 そしてタンザニアに入り、世界一綺麗な海と言われているザンジバル島の海岸へ。青く澄み切った海でシュノーケリング、魚たちと遊んだり泳いだりして、これぞ本物の欧米人のリゾートを満喫。