定年だ!!世界一周

サラリーマン36年、
いよいよ念願だった世界一周に出発2015年4月1日
2016年1月22日219日間27か国達成

42日目いよいよケニアへ

2016-02-29 22:02:36 | 旅行記前半、アジア、アフリカ、中東

☆仲のいいスイスガイ3人ともお別れ

 

 サファリをたっぷり楽しんだタンザニアから、途中マサイ族の村に寄って、アフリカの中心ケニアにやってきました。マサイの村では入場料10USドルを払い見学をしました。最初に歓迎の踊りから始まり、住居へ。多くのマサイ族はいまでも放牧などで生計を立てているらしい。そして泥の住居になぜか一人づつ案内されて説明を受ける。ここまでは良かったが、この後案内人のおじさんが、土産物を買えとしつこく勧める。「このお金は子供たちの教育に使われるのから・・・・・」ほんまかいな?それも相場の5倍。さらにお土産の品質も良くない。だけど買わないとこの泥の住居から出してもらえなさそう。まるで新宿の暴力バー並です。後味の悪い訪問となりました。(注:この後に訪問したケニアのマサイ族は実に紳士的でした。部族によって違うのかな。)小屋後ろではおばちゃんが携帯電話を掛けていました。文明はここまで来ています。

 

 

 いよいよケニアの首都ナイロビです。ここでビクトリアフォールからケニアまでの第二弾のオーバーランドツアーが終わります。スタートから42日目となりました。明日からはケニアからウガンダそしてケニアに戻る2週間、最後のステージです。。今回はすべてキャンプです。従って夕方急いで洗濯をして、部屋で扇風機をガンガンに掛けて乾かしています。夜は少し治安の悪いナイロビをみんなでタクシーに乗って、レストランへ出掛けました。久しぶりにBQQをお腹一杯食べて、飲んで,おしゃべりして楽しい打ち上げとなりました。本当に親切にしてくれたスイス人の21歳と25歳の若者3名とも今日でお別れです。時々英語のスラングも教えてくれました。「pis○」「shi○」hahaaaaaaaa!

  結局最後まで56日間行くのは私を含めて4名になりました。

 

☆さらにサファリ三昧

 

 ナイロビから新しいメンバーを加えて、早朝最終目的地ウガンダに向けて出発。途中マサイ族の村を訪れる。今回はとっても紳士的な対応です。

 

次は大阪府と同じ大きさのマサイ・マラ国立保護区で一泊。ナクル湖では何万羽のフラミンゴに圧倒される。途中イスラエルまで続く大地溝帯も見学。

 

そして3日目ジンジャーに到着。ナイル川の源流を見る。ここから白ナイルと呼ばれてエジプトまでの6695キロが始まっている。アフリカって凄いなとまたまた感動。

 

ここでサプライズ、ナイロビで分かれたスイスガイたちと再会。彼らは自力でウガンダに向けて行っている。同じ21歳のサマーちゃんが私を驚かせようと再会のことを内緒にしていたそうです。こんな若い人から気遣いされるなんて、幸せです。まだ少ししか立ってないのに懐かしい。昼間一緒にカヌー遊びをする。いつもながらに元気、いつの模様に川に飛び込んでいた。

 

☆遂に赤道のの上に・・・・・・

 

続く

 


自然界の動物ってこんなに活き活き!

2016-02-28 23:13:34 | 旅行記前半、アジア、アフリカ、中東

☆待ちに待ったセレンゲッティーへ

  ザンジバルでノンビリした時間を過ごしてエレルギーを補完して、1000キロぐらい移動。待ちに待ったセレンゲッティー国立公園へ。途中遙か彼方にキリマンジャロが見えました。来月の7月には挑戦するぞ、キリ、待ってろよ。

 

  セレンゲッティーはマサイ語で「果てしない平原」その名の通りです。ここは東京、神奈川、千葉、埼玉を合わせた広さの動物保護区。3日間のゲームドライブで、岩に登るライオン、木に群がるライオン、獲物をむさぼるライオンなどライオンづくし。これでもかと言うぐらいサファリを楽しみました。他にも広大なサバンナには他にも何千頭ものシマウマ、バッファローなど出会いました。

 

  そしてオプショナルで贅沢な夜明けの気球サファリにも挑戦。サファリの後はシャンペンで乾杯。高原の真ん中で素晴らしい朝食も取りました。この辺りの演出は欧米人ならではですね。

 

 セレンゲッティー二日目、ライオンを堪能してキャンプに戻ると突然の雷雨。地平線まで見える大地に稲妻が走り、土砂降りの雨になりました。テントから出るのを躊躇していました。しかし丁度ディナータイム、50m離れた小屋に行かなくてはいけません。雨合羽を着てびしょびしょになりながら行ってみると、みんな揃っていました。外国人って本当に自然に強い。さらにここは国立公園、電源は太陽電池のみ、従ってヘッドライトしかなく、ほぼ真っ暗。それでも皆さん飛び回る蛾たちを払いのけ、笑いながら楽しく食事をしていました。

いやあ、普通の日本人には出来ませんね。私もすっかり慣れて、蛾を手で払いのけ何食わぬ顔で食事できるようになりました。同時に少しだけ英語も上達。

 

 「NGORONGORO」ンゴロンゴロ保全地域は南北16キロ、東西19キロのクレーターの底。キリン、インパル、ハイエナなど。そして火口原内の湖には一万羽以上のフラミンゴが群れをなしていました。今迄動物園でしかみたことがなかったこれらの動物、自然の動物ってこんなに生き生きしてるんだなと変なとこに感動していました(笑)

 

  そして今日のキャンプは凄いぞ。夕食を食べていたら窓越しに象が白い大きな牙を出しにご挨拶?。トイレの前にはシマウマさん。極め付きは、先ほど寝る前のトイレに行ったら、なんだか人だかりが。振り向くと私のテントにバッファローがお休みのご挨拶にみえていました。(残念なことにカメラを持っていなかった)如何にもアフリカらしい貴重な体験でした。

 

 ☆仲のいいスイスガイ3人ともお別れ

 

続く


世界一美しいザンジバル

2016-02-27 15:10:58 | 旅行記前半、アジア、アフリカ、中東

☆ハゲワシが寄ってたかってついばむ餌とは?

  昨日やっとタンザニアに入りましたが、首都ダル・エス・サラームまではまだまだ遠く、途中写真でよく見る「バオバオの巨木」を眺めながら、今日はミクニ国立公園でゲームドライブ。

沢山の動物に合いました。その中でも圧巻はハゲワシが死骸をついばんでいるところでしょうか。すごい迫力、ビデオを撮りましたが、お子さんには見せられません。まさに弱肉強食と言ったところ。

 

死骸をついばむハゲワシの群れ

 

  動物たちを楽しんだ次の日、首都ダル・エス・サラームに入ってきました。町は車で溢れ、激しく渋滞しています。そんな中対岸にザンジバル島の見えるビーチで一泊です。さすがインド洋夕日も綺麗です。明日はいよいよザンジバル。

 

☆ザンジバルは国家か?!

 

 ダル・エス・サラームからザンジバルへフェリーで渡るのにパスポートが必要です。同じ国なのに?もともとは別々の国。合併の時も平等にしたとのこと。今でもザンジバルの人はタンザニア人でなくてザンジバル人と誇りを持って自らを称する。そして奴隷制度が廃止された後も、ここが島だったため秘密裏に奴隷を積み出す基地となっていた。奴隷を隠していた洞穴も残っている。

 そしてもう一つ、1894年日本人のからゆきさん達が住んでいた家が今でもある。船員達の遊び場だったよう。こんなに遠くにまで売られて連れてこられた、かゆきさん達の故郷への思いと無念さが、いまでも漂っているような気がします。

 ☆インド洋に浮かぶ夢の島

 

 世界一綺麗な海と呼ばれるザンジバル島の海岸で3泊。それも久しぶりに豪華なリゾートホテルです。青く澄み切った海でシュノーケリング。魚たちと遊んだり泳いだり、これぞ本物の欧米人のリゾートを満喫。さらに海の見えるレストランでゆっくり朝食、お昼はビール飲んでうたた寝。夜は遙か彼方の日本に思いを寄せてインド洋のサンセットです。

 どこまでも透明な海、シュノーケリング最高

 

 

☆世界で一度は行きたいレストラン

 

ホテルから車で3時間、島の最果てに世界で一度は行きたいレストランのひとつ「The Rock Restaurant」があります。ツアー仲間は誰も知らないようで、最初は私一人。しかしそれでは車代が高いのでみんなを誘って出かけました。見るからにロケーションは最高。そこは海の中にあり、入るときは膝まで浸かりながら、そして帰りは潮が満ちていて船がお迎えに。幻想的なザンジバルの夜、最高でした。一緒に行った仲間も大喜び。

 

 ☆やっぱり胡椒!

 

 ザンジバルはヨーロッパとアジアを結ぶ重要拠点。最初はインドで発見した胡椒を運ぶときの中継地としての役割であったらしい。胡椒は西洋人の肉の保存に画期的な変化をもたらした。その後この島でも胡椒を作り出して、今では特産物になっている。胡椒農園も見学。

 

 ☆こんなところに日本人?!

 

 なんとこんなところに日本人。まずはJICAの皆さんが休暇で来られていました。そしてそのお友達も。JICAの若い方達は沢山の方がアフリカで活動されている。若いっていいね。聞いたところによると休暇でも危険地域には行けないらしい。近辺ではケニアが含まれていた。私、来週行くんですが・・・・・

 

そしてこのお二人さん、なんとお友達で日本から西回りと東回りで別々に世界一周をして、アフリカで落ち合ったらしい。すごい二人ですね。特に男性は日本を出て2年経過、この後ヨーロッパなどを山を登って一年後に帰国の予定。豪快ですね。旅の安全をお祈りします。

 

☆待ちに待ったセレンゲッティーへ

 

続く

 


遂にアフリカど真ん中マラウイ!

2016-02-25 02:11:38 | 旅行記前半、アジア、アフリカ、中東

☆アフリカのど真ん中に海が?

 

 日本を出発して60日、今日は5月31日です。アフリカトラックツアーも26日目を迎えました。今日も250キロ移動してマラウイに到着。失礼ながらマラウイという国を知りませんでした。町では今までのアフリカではあまり見られなかったイスラム教のスカーフのような布で頭を覆い隠す女性達が増えてきました。

ここにはとてつもなく大きい湖があります。最初はアフリカの東海岸に出たのかと思いました。この湖の大きさは東西90~160キロ、南北900キロだそうです。まるでアフリカのど真ん中に海です。波も押し寄せているし、きれいな砂浜もあります。なんだかリゾートのビーチのようです。今日から4日間マラウイです。夕日も朝日もとっても綺麗でした。

 

☆金持ちアメリカ人の横暴?!

 

次の日の朝「スタディーツアー」があり、近所の村を訪問。ここの診療所ではマラリアとエイズの感染状況について説明を受けました。まだまだ感染率が高く、特に妊婦への対策に力を入れているようです。訪問した後みんなで寄付をしてきました。

 

 ところがツアーの中で少し変わったアメリカ人が、昨夜蚊に刺されたからマラリアかもしれないので検査をしてくれと突然言い出しました。見た目には何の症状も熱もないそうです。診療所の医師がやむなく採血と検査薬で調べました。もちろんマラリアではありません。この行為は如何なものでしょうか。お金がない人たちの施設に行って、現地で高価な検査薬を外国人のために使うこと。そんなに心配なら自分の旅行保険で検査すべきでは。とっても気分悪く帰ってきました。

 

 ☆パンイチでマラウイ湖へ

 

 気を取り直してお昼から乗馬に行きました。今までほとんど馬に乗ったことなどありません。ヘルメットとブーツを渡され、インストラクターの後をついて行きます。揺れに合せて乗るのはとっても大変。ちぐはぐになると男の大事なところを強打します。

 2時間ほど森の中を乗っていくと目の前に一面海のようなマラウイ湖が現れました。鞍を外して湖に入って乗馬をするという。しまった海パン忘れた。「大丈夫パンツ一丁で」と。濡れながらの湖で乗馬、結構深くまで行きました。旅行中ならではの開放感でした。

 

 ☆13時間かけてやっとタンザニア

 

 マラウイからタンザニアまで680キロ、今日中に着くために4時30分に起きてテントを畳み5時に出発。出発前に朝とお昼のサンドイッチを自分で作っていきます。昨日の濡れたパンツはトラックの中で干して、13時間かけてタンザニアに到着しました。

 国境ではビザを取って入国、しかしスイスガイの一名にビザのスタンプが漏れていて引き返す事件もありました。私なんかビザの感覚がいまいちありませんので、スタンプ確認なんかしません。これから注意しなくては。

 

 その晩遅くキャンプ地に到着。今夜は地元料理をレストランでいただきましたが、いつもなら大食いの外国人たちも残していました。13時間のドライブはさすがにつかれました

 さらに夜はとても寒くて震えていました。さあ明日から本格的にタンザニアです。

 

 そしてタンザニアに入り、世界一綺麗な海と言われているザンジバル島の海岸へ。青く澄み切った海でシュノーケリング、魚たちと遊んだり泳いだりして、これぞ本物の欧米人のリゾートを満喫。


1,600キロの悪路を暴走!!

2016-02-24 11:48:08 | 旅行記前半、アジア、アフリカ、中東

☆1,600キロマラウイまで悪路爆走

 

 ビクトリアの滝を後にしてザンビアへ。そしてここから次のマラウイまで1,600キロを5日間かけて走って行きます。まずは500キロ走ってザンビアの首都ルカサ、また600キロ走ってチパタ、130キロ走ってザンビア最大の国立公園サウス・ルアングアで二泊してサファリを楽しみました。

そしてマラウイの首都リロングウェに入りました。ここでもゲームドライブ、ナイトツアー、サンセットツアーなど盛りだくさんでした。特にヒョウ、チーター、ジャッカルやハイエナなどが近くに来たときは緊張しました。

 

 

 

 

地元の村で交流したりダンスしたり

 

☆バスの中でえっ?ジェッシャー

 

この長いドライブ中にさすが外国人は楽しみ方が違います。iPhoneのアプリでジェッシャーです。おでこにiPhoneをくっつけて、表示された言葉を他の人に見せて、見た人たちがジェッシャーして、その言葉を当てる。すごく面白いがジャンルが動物ならまだしも、映画俳優なんかになるとチンプンカンプン。

 

そして飽きたら今度は伝言ゲーム。これまた英語だから覚えられません。私だけ何度も聞き直していいというルールが出来ました。さらに飽きるとトランプです。本当によく楽しんでいます。

 そしてザンビアに入ってきて今までのリゾート感やヨーロッパの匂いはなくなり、これぞアフリカの様相を照らしてきました。道路も経済が大きく発展しているのか至る所で工事です。トラックは土煙を上げて爆走します。そんな中でもランチはなんと工事中の道で取ります。

 

 

 

☆英語で言えるぞモンク?

 

 今回のドライバーは親切なんですが、説明が長い。通常夕食が終わって、一時間ぐらいすると、次の日のブリーフィングが開かれます。もちろんキャンプなので外です。アフリカと言っても結構寒い、そしてこのロングドライブで疲れています。私なんかは明日の訪問先の解説より、何時に起きなくてはいけないのか、明日はキャンプかホテルか、途中スーパーに寄るのか、ATMは、こんな実用的な情報が大切なのです。1時間近く行われますのでこの間集中して英語を聞くのは一苦労。どこで重要ポイントを言うかわからないから。この日は特に寒く、朝も4時半起床で5時出発でしたから相当疲れていました。それをダラダラ(相手は詳しくと思っていたかも)やるものだから、遂に堪忍袋の緒が切れて、「俺たちは疲れているんだ。もっと短く喋ってくれ!!」と。知ってる英語をすべて並べて抗議しました。あまりの剣幕に仲間に止められました。自分の英語力に悔しくて涙が出そうになりました。次の日からはわざわざドライバーが時間などを言ったあと必ず「Are you OK」と確認するようになりました。もちろん「Sure」。

 

☆アフリカの真ん中に海が?

 

続く

 


ビクトリアフォールへ到着!唸りを上げて落ちる

2016-02-23 12:13:51 | 旅行記前半、アジア、アフリカ、中東

☆中国元がアフリカで採用される?

 

 ケープタウンを出発して19日目。ここジンバブエのビクトリアフォールまで5,600キロを超えました。滝の近くのホテルに3泊して、車もスタッフも、そしてメンバーもここで8名を残して入れ替わり、新しい仲間を加えて14名でナイロビ目指して出発します。

 

 ジンバブエは10年ぐらい前に5,000%を超えるハイパーインフレに襲われて、とんでもない通貨を印刷し流通させました。例えば50,000,000,000ジンバブエドル(500億ZD)。昔のドイツのようにジャガイモを買うのに札束を手押し車に積んでいったようです。今では自国の通貨を諦めてアメリカドルか南アフリカランドを使っています。町中では当時の高額(高桁)のお札がお土産として売っています。何でも商売にしますね。私も買ってみました。

なお最近のニュースによるとジンバブエでは中国が債権を放棄して人民元をジンバブエ通貨として採用すると伝えられています。恐るべし中国。

 

☆ビクトリアフォールでラフティング

 

 アフリカは冬のため水量が多いので、滝の真下でなくて少し離れたところからスタートします。それでも全長18キロ、2時間半掛かりました。同じツアーの21歳のお嬢さん2名と挑戦。若さ溢れる二人、川まで降り時にはなんと裸足です。外国人は本当に裸足で歩く人が多いです。

 さあ出発、激流です。みんなでワイワイ言いながら漕いだり、

 

川へ飛び降りたり、再びボートに戻ったり、びしょ濡れですがめちゃくちゃに楽しい。みんな笑顔です。

 

 

☆さようならカリーナさん

 

 ドイツから来られた21歳のお嬢さん、カリーナさん(写真右の二人目)はビクトリアでお別れ。ツアーの初日にバスの中で初めて隣同士に座って話をしました。今まで南アメリカなどを一人で旅して来られたそうです。旅費は給料が他の仕事より高い、ホテルできつい仕事をして貯めてきたそうです。21歳ながらたいしたものですね。

 

他にも21歳の若者が3名いますが、旅の費用について聞いてみました。スイス人のガイ、デイビットとルークは、高校を出ると政府のプログラムがあって、幼稚園などで補助として半年間働くと結構な額の給与がもらえるので、そのお金で来ているそう。「親からの援助は?」と聞くと、不思議そうな顔して「全くありません」と答えたのが印象的でした。この2名はこの後半年後に大学に行くそうです。こんな制度日本にもあると進路の多様性と幅が広がっていいですね。もう一人のオーストラリア人のサマーちゃんも、旅行好き。普通の仕事の他に夜はベビーシッター、土日は水泳のインストラクターを掛け持ちして稼いだそうです。誰も親のスネをかじっている子はいません。

さてお別れのディナーも終わり部屋に戻っていると、カリーナが、明日速く立つので今夜挨拶に来てくれました。なんと礼儀正しいお嬢さんなのでしょうか。

 

☆大地が崩れ落ちる?ビクトリアフォール

 

 唸りを上げて流れ落ちるビクトリアの滝。地元では「モシ・オア・トゥンヤ」(雷鳴のとどろく水煙)と呼ばれている。滝壺に落ちた水は水煙となって150m以上も上空に舞い上がり、滝の公園を散策していると降り注ぐ飛沫でびしょ濡れ。あまりの迫力に濡れていることも忘れてしまいそう。

 

☆思い切ってヘリコプター

 

 

 ビクトリアフォールの美しさと迫力に魅了され、上空から見てみることに。近くのツアー会社で値切り倒していざヘリへ。上空からみるビクトリアはさらに迫力を増していました。

 

☆若者はバンジージャンプへ

 

 滝の向かい側のザンビア側に渡る途中に世界一高いバンジーのジャンプ台があります。スイスガイのルークが挑戦するというのでみんなで応援に。見ているだけでも足が震える。後で聞いたところによると何年か前にロープが切れた事故があったらしい。それでもやっているんだ、外国は自己責任だからなぁ・・・・・。さすがに今回私は挑戦できませんでした。

 

 明日から11日間連続でキャンプ生活。しっかりとシャワーを浴びて栄養補給しておきました。

 

次の日ホテルから出ようとすると日本語が聞こえました。南アフリカのコムラッズマラソンに出場する方たち。レースの前に観光に来られたらしい。後で聞いたら私の仲間も2名レースに出たらしい。地球は狭いね。

 

 

☆毎日500キロ移動!サウス・ルアングア国立公園へ

 

続く

 


暗闇の水場に集まる野生動物・・・・・

2016-02-22 11:49:12 | 旅行記前半、アジア、アフリカ、中東

☆暗闇の水場に集まる野生動物、ああここに住みたい エトーシャ

 

 アフリカ最大の自然保護区エトーシャ国立公園、東西120キロ、南北80キロ、約4,800㎞²、ここにエトーシャ・パン(乾いた湖)を中心に広がっている。流れ出る川のない塩湖です。

 

  あまりの大きさに3泊しても足りませんでした。その中でもキャンプ場のすぐ隣には動物たちの水飲み場があり、沢山の種類の野生動物がやってきます。特に夜の水飲み場には、環境に配慮してオレンジ色のライトが照らされ、物音一つたてずに人間はじっと見つめています。もちろんベンチに座ってビールなどを飲みながら。そこへ暗闇から動物たちが近づいてくる足音が聞こえます。遂にその姿を表すと、人間たちには声なき驚きの空気が流れます。水を飲む音が静かに響きます。なんと素晴らしい光景なのでしょうか。動物たちには暗黙の順番があるようで、サイが2頭来て求婚していたり、いなくなると次は象の集団が来たり、それはまるで劇場の舞台を観ているようでした。何時間見ても飽きることがありません。もちろん昼間にも沢山の動物がやってきます。

 

  他にもナイトツアーなど沢山のゲームドライブをしました。しかし夜は日本の冬ぐらいの寒さでした。

 

  この後ナミビアの首都ヴィントフックでホテルに泊まり、次はボツワナへと移動していきました。エトーシャから1,000キロ近いトラックでのドライブです。ボツワナはダイヤモンドの産出国として有名、国も豊かですが、さすがに1,000キロのドライブは堪えました。アフリカではよく運転手が悪路に対してジョークを言います。「(悪路の揺れに対して)アフリカンマッサージ」と呼び、さらに「アフリカンマッサージフリー(タダよ)」と。

 

 ☆まさにザ・アフリカ

 ゲートウェイデルタに到着して、中型のサファリ用の車に乗り換え水の中を走ってオカバンゴ湿地帯に到着。途中立ち往生する車も、しかしドライバーたちもこんなトラブルさえ楽しんでいるような笑顔です。オカバンゴは「海に出ることのない川」と呼ばれている、15,000㎞²の巨大な三角湿地帯です。

 

 ここに二泊してボートで動物たちを見に行きました。まさに写真で見たザ・アフリカです。

 

 

 

 夜はサン族の踊りを観て、一緒にダンス。次の日の朝はサン族の暮らしぶりや生活の知恵などを見るモーニングツアーにも参加しました。

 

  翌日チョベ国立公園を周り、前半の山場ジンバブエのビクトリアの滝に向かいました。

 

 ☆崩れ落ちるアフリカ?ビクトリアフォールへ

続く


6日ぶりのホテル!

2016-02-21 11:45:40 | 旅行記前半、アジア、アフリカ、中東

☆野宿じゃないぞ!6日ぶりにホテル、

 

250キロ移動してナミビア第2の都市、スワコップムントに到着。久しぶりにスーパーやATMのお世話になる。ドイツの植民地だったらしく町は碁盤の目のようにきっちり整備されている。同じテントのドイツ人、セバスッチャンは何だか誇らしげだった。

ここで6日ぶりにホテルで2泊。シャワーはしっかり出るし、ランドリーサービスもある。もちろんWi-Fiも。早速シャワーを浴びて、町に出る。アフリカ=暑いなんて思っていたら以外に寒い、朝晩は0度近くまでなることも。スーパーで厚すぎず、薄すぎず、ぴったりのパーカーを購入。これでなんとかなる。

 

夕方みんなで誘い合わせて、これまた久しぶりのレストランに出かける。ドイツ料理のお店だ。もちろんドイツビールに赤ワインも。

 

出発して一週間、皆なん打ち解けてきて話が弾む。こちらも必死も英語でしゃべる、しかしなかなか砕けた話題には早過ぎてついて行けない。笑ってごまかしているそんなときに何人かが、私が寂しいだろうと思い話題を私に振ってくれる。親切はいいがこれまた大変。ああもっとまじめに英語をやっとくべきだったといつもの後悔をする。英語力のなさ痛感→帰国する→参考書購入→三日坊主、この繰り返し、なんと根性のないこと。この夜は久しぶりの文明生活にみんなはじけて、二次会ではクラブにも行って大騒ぎして踊ってしまった。お陰で人気者に。

 

 

 ホテル二日目、オプショナルツアーがあり、8名は砂漠のスカイダイビングに出かけ、私は砂漠のバギーへ。見渡す限りの大砂漠に私とガイドのエンジン音だけがこだまする。走っても走っても砂丘、ふと迷って取り残されたらどうするのだろうかと心配が横切る。2時間のドライブは無事終了。

 

 

この後町の床屋へ。閉店間際だったがなんとかお願いしてすっきり。ありがとう床屋のおばさん。夜はまた皆さんイタリアンレストランへ。日本の「何食べる?」なんて他人は気にしない、自分の食べたいものをオーダーする。「何でもいいよ」なんて通用しない。

 

 

今夜は野生のOryxのステーキにも挑戦しました。

 ☆ブッシュマンの壁画の前で寝る?!

 

 翌朝出発準備をしていると、なんとロビーに日本人の女性が立っている。アフリカが好きで10日間の休みを取って一人で来ているとのこと。今回はナミビアのみ。久しぶりに日本語が話せてほっとしました。20分ぐらいでしたが。

 今夜はアフリカのマッターホルンと呼ばれるスピッツコップの周りをトレッキングしてサン族(ブッシュマン)が残した古代の壁画を見学。これは岩にたくさんの動物などが描かれているため当時の学校ではなかったかと説明があった。今夜はここでキャンプ。シャワーもなし。岩の上で夜空を見ながら野宿。本当に外国人は自然が好き。私も何でも体験して、挑戦することにした。

 

 

 ☆赤い婦人、ヒバ族にドッキリ?!

 

 美しい日の出で起こされ、今日は赤い婦人と呼ばれるヒバ族の保護区です。本来は遊牧民です。強い日差しから守るために、バターと赤い粘土を混ぜたものを体に塗り、全身が赤茶色をしているため「赤い婦人」と呼ばれている。今は保護区で暮らすが、このように観光収入も得て子供たちには隣の小学校に通わせ、英語も堪能でした。確かにテレビで見るように町で買い物するときもこの裸同然の姿でした。ドッキリします。

 

 ただ一緒にいたスイスの青年は、これは見世物のようで不快だと素直な感想を述べていました。はっきり意見を言う若者は清々しい。明日はいよいよ期待のエトーシャ国立公園です。

 

 ☆水場に集まる野生動物、ああここに住みたい エトーシャNP

続く


真っ赤な夕日、ナミブ砂漠に感動

2016-02-21 00:26:16 | 旅行記前半、アジア、アフリカ、中東

☆真っ赤な夕日、ナミビア砂漠に感動!

 

 南アフリカを後にして次はナミビア共和国。日本の2.2倍の面積に220万人が住んでいる縦長の国。何でも資源が豊富でなかなか独立が出来なかったそう。世界で二番目に大きい渓谷、フィッシュリバー・キャニオンで夕日を見る。

 

 

次の日、500キロほど移動。ナミビアといえば、やはり赤い砂漠。なかでも世界最古の砂漠と言われるナミブ・ナウクルフト公園に一泊。4時半に起きてキャンプ場を出発、アプリコット色の砂丘が連なるソススフレイ、その中でも一番高い、高さ350mの砂丘Dune45へ、日の出を見に行く。話には聞いていたが、こんなに赤いとは。そして真っ赤な太陽。これほどまでに赤が似合う風景に出会ったことはない。

 たっぷりと日の出を味わい、サンドバギーに乗ったかのように一気に急斜面の砂丘を滑り降りる。麓ではトラックの隣に朝食の準備がされていた。こんなところにこのツアーのお洒落さがある。

 

 朝食後さらに進むと、立ち枯れた白い木々が地面に突き刺さっている死海に。

 

夕方にはナショナルパークの中のキャンプ場へ。今夜は星空を眺めながら、寝袋一つで野宿。初めての体験、夜中に動物に襲われないのか心配しながら眠りについた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 


拾う神あり?!

2016-02-18 12:17:38 | 旅行記前半、アジア、アフリカ、中東

☆拾う神あり?!

 

 

コロンボからヒッカドゥワまでまた列車で移動。あいにくこの日は仏教の祝日、二等の切符を買って乗りましたが車内は定員の10倍以上、溢れ出てデッキにいました。それでも次から次に車内に入っていきます。こんなに二等の切符売っているわけないと思いますが・・、もちろん日本のような車内検札などありません。

 

そんなすし詰めを乗り越えて着いたヒッカドゥワは、美しい海と浜辺を持つ、さすがスリランカで一番と言われるリゾート地でした。25年前に日本で勉強しながら働いて、日本好きになったオーナーが経営する「Nippon Villa」でのんびり二泊してこれから行くアフリカの旅への英気を養いました。さあ休養も終わりコロンボに戻っていよいよアフリカへ飛びます。オーナーに相談するとコンボより空港に近いニコンボまで行って一泊してツクツクで空港に行きなさいと教えてくれました。さらにコロンボのバス停への行き方や高速バスへの乗り方など私が迷ってもすぐに使えるように現地語のメモを書いてくれました。「拾う神あり」とはこのことですね。

 

☆民宿のおばさんの方が英語が上手い

 

 無事ニコンボに到着。日本人経営の宿で最後の日本食食べてと思いバスを乗り継いで行きました。ところがなんと宿の主の日本人はゴールデンウイークで日本に里帰り中です。困り果てて立っていると、目の前のおばさんがうちに泊まれと勧める。漁民民宿、海岸でおじさんとあさりを取って夕ご飯のおかずにしたり、魚料理が出たりして、これまたのんびり。私を誘ってくれた60過ぎのおばさんの英語がすごく上手なので理由を聞くと。「誰にも習ってないよ。外国人のお客さんが泊るから自然に覚えた」と。私の英語、何年も学校で習っておばさんの十分の一程度、ああ恥ずかしい。

 

 

第四話

 

「いよいよアフリカ、バスだ!トラックだ!キャンプだ!」の巻

 

ドーハを経由して30時間、アフリカの玄関口南アフリカのケープタウンにに到着。

早速喜望峰(Cape of Good Hope)へ。「希望峰」と勘違い。ケープポイントで荒い波と渦巻く潮流を見ながら、この難所でどれほど多くの冒険家の夢が断たれたことか、感傷に浸っていました。1497年初めてヨーロッパからここを経由してインドへ航海に成功したバスコダガマはどんな思いでここに立ったのでしょうか。

 

☆遂にはじまった アフリカ14,000キロの旅

 

 

そして5月6日より外国人17名とオーバーランドツアーと言う56日間のツアーに参加しました。日本を出発する一か月前、さてアフリカの2か月間どうしようとネットで調べていた時に出てきました。アフリカと外国人のW体験と飛びつきました。乗り物は悪路に堪えられるように下がトラックで、その上にバスを積んでいる形式です。そしてお泊りはなんとテントでキャンプ生活です。ドライバーが一人と料理をするコックが一人が同乗しています。テントは自衛隊が使うような分厚くて重い防水布で出来たもの。自分たちで組み立てて、ここに二人で寝ます。毎日の事ですが結構重労働です。

 

 

一日目の夕方自己紹介をしました。定年退職したアメリカ人の夫婦、恋人同士のオーストラリア人。オランダから来た老姉妹。特殊な関係のイタリアとスイスの女性。21歳のスイスガイ2名。ドイツ人とオーストラリア人の旅行好きの女の子、22歳の女医の卵、単独で来た南アフリカ、カナダ、ドイツそして私。世界中から来ています。もちろん共通語は英語。最初の二日間は自己紹介や旅の話などで盛り上がりましたが、あとは大変でしたがみんな親切にしてくれました。

 

そんなみんなの思いを載せてトラックはケープタウンを出発。2日目にはナミビア国境のオレンジ川まで来ました。赤く燃える夕日、そして川。外国人たちは到着するとすぐに泳ぎだします。私も無理やり誘われて川にダイブ。ああアフリカに来たなと感じた夕方でした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

☆真っ赤な夕日、ナミビア砂漠に感動!

 

次回に


第三話「やられた!インドの洗礼?!」

2016-02-17 13:27:52 | 旅行記前半、アジア、アフリカ、中東

第三話

「やられた!インドの洗礼?!」の巻

 

☆マザーテレサでボランティア

 

 夜行寝台は朝方コルカタに到着。ここは昔カルカッタと呼ばれていたインドの大都市です。駅からツクツクで日本人宿サンタナに到着。Wi-Fiも通じ地震の状況も分かってきて、更に被害は拡大していました。家族にもう一度無事であることを連絡しました。宿の管理人の「リュウ」さんが親身になって私の話を聞いてくれて、その上昼食にスタッフが食べる日本食を勧めてくれました。異国で不安になった時の日本語と日本食、そして話を聞いてくれる親切な人、お蔭で心のざわつきも落ち着いてきました。(リュウさんは日本で有名な武道家だったことが分かりました。現在は地震で疲弊したネパールの山奥の村へ単独で赴き、「武士道」を現地の人に教えています。)

 

 昨日までは世界一周を中断して帰国まで考えていましたが、皆さんの親切で落ち着きを取り戻してコルカタに来た本来の目的のマザーテレサが設立したホスピス施設へボランティアに行くことにしました。朝6時からミサが始まり、7時から朝食を頂き、各施設に派遣されます。私が行ったのは病気で体の不自由な老人たちが入っている施設です。まずはシーツやカバーなどを手で洗って、洗濯層をリレーしながら濯いで絞って干して行きます。100人以上の分を洗いますのですごい量です。その後食事の世話をしたり、歩けない人には尿瓶の中を捨てに行ってあげたり、マッサージをしたりして大忙しでお手伝いをさせてもらいました。ボランティアは世界中から集まってきていました。知り合ったスエーデンの方は定年後ここに来て、半年も続けておられるとのこと。中には髭剃り、理髪、理学療法などの特技を活かして喜ばれている方たちもたくさんおられました。マザーテレサさんは1950年にお一人でこの活動を立ち上げられ、そして今でも世界中にその精神が受け継がれていることに感銘を受けました。

 さらに日本人宿には5,6名の日本の女性が、短期、長期でボランティアに来られていました。何人かとお話ししましたが、休みを取って来た方、仕事を辞めて来た方など、動機はいろいろでした。皆さん「ボランティアやってるぞ!」なんて肩に力が入っていなくて、とっても自然な感じで爽やかでした。こんなに素敵な日本女性たちが静かに活動している姿をみて、本物とはこんなに自然だと思いました。

そしてムンバイを経由してスリランカのコロンボへ移動しました。

 

☆インドの洗礼に撃沈

 

 スリランカの空港ではお金を払うだけでビザを取得、幸先よくスタート。空港からバスで市内のバスセンターへ到着。そこで目的の天空の城シーギリヤへ行く途中の乗り換えの町ダンプーラへ向うことに。ガイドブックと違って完全なローカルバス乗ることになりました。6時間で200円。横6人席、どんどん人が乗り降りしながら進みました。一時間もしない内にお腹がゴロゴロ言い始めました。もしや?インドを無事に過ぎたと思ったのは甘かった~~やっぱりきました、あのピーが・・・・・インドのあれを経験している人には分かると思うがそれは想像以上の攻撃です。一度は臨時停車してもらいましたが、二度目はもう非常事態、バスからバックバックを投げ捨て飛び降りました。近くの商店に飛び込むも、トイレは無しと言われ、向かいの農家に突撃、ピー!トイレから出てみると農家の親子がびっくりしているし、後ろから不審者の私に向かって犬がお尻をガブリ!インドを甘く見ちゃいけません。

 

ところが降りた場所がどこなのか分かりません。途方に暮れて歩いていると道路工事の若い監督官が、どこに行きたいのか聞いてくれて、「15番のバスに乗れ」と言う。さらにバスを止めてやるからここで待ってるようにと。なんと親切なのでしょうか。おお神様ありがとう。

すべての体力を消耗しながらやっとシーギリアに到着。体力回復の為に珍しく高級ホテルに宿泊しました。翌日無事天空の城と言われるシーギリアロックにも登れました。テレビで見た以上の迫力でした。1500年前にお父さんを殺して王位を奪い、復讐が怖くてこんな山奥の崖の上に城を作ったそうです。罰が当たって10年ぐらいで滅亡したそうです。いつの時代も権力者は横暴ですね。

 

その後古いイギリスの街並みが今でもあるキャンディーから鉄道で移動しました。奮発して一等客車。まるでテレビの「世界の車窓から」のようなゆったりとした眺めを楽しみながらコロンボのYMCAに到着しました。

次の日の朝、中心街まで散歩をしていると一人の紳士が近づいてきて、特別なお祭りがあるから案内してくれるという。ツクツクで寺院に行き、お祈りをして、町を観光して海岸線をYMCAに戻っていきました。ところが途中で写真を撮った後、豹変「有り金全部出せ」と叫んできました。嫌だと言って小競り合いになって、こちらもこんな状況を予想していたのでポケットには小銭しか入れていませんでした。反対側の窓から飛び降りて小銭を投げつけ走って逃げました。ああ分かっていながらこんな詐欺にあうとは情けない。気を引き締めていこう。

半年たって南米でこの話をしたら同じコロンボで全く同じ被害にあった旅人に会いました。「シラトンホテルのマネージャーで・・・・・」設定は何から何まで一緒。スリランカは素朴でとってもいいところなのに残念です。気を取り直してアジアでベスト3に入る美しいビーチ「ヒッカドウ」へ。

 

☆拾う神あり?!

 

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第二話「カトマンズ危機一髪脱出?」の巻

2016-02-15 11:58:23 | 旅行記前半、アジア、アフリカ、中東

☆世界一周ルートはどうして決めた?!

 

そもそも世界一周のルートをどうやって決めたのか?定年後世界一周をすると決めた時からノートの真ん中に世界地図を張って、テレビで見たり、ブログを見たりして気になった場所を放射線状にメモをしたり、紙ナプキンに書いたメモなど。普段ツアーなどで行ける東南アジや、北米、ヨーロッパなど今回は除外。なかなかいけない国をピックアップして、世界一周のスタートは世界の屋根エベレストに登ることに決めました。ここならそう簡単には行けないだろう。どうだ!!

 

第二話

「カトマンズ危機一髪脱出?」の巻

 

4月1日に成田を発ちクアラルンプールを経由してネパールのカトマンズに降りたちました。

 

到着後現地の入山許可証などの手続きを終え、17人乗りのプロベラ機でヒマラヤ街道の入り口の町、ルクラ2640mに降りたちました。ここで帰りのチケットをロッジに預けます。初めてといってもいい本格的トレッキング、何日かかるかわからなし、天候不順も考えられる。そこで3,000m付近に降りてきてから連絡をして帰りの航空券の予約してもらわないと、飛行機は17人乗りと座席も少ないし、最悪何日間も足止めを食らうことになるから。

 

もちろんヒマラヤ街道にはバスや自動車もなくすべて自力、またはヤク(牛の一種)かポーターに助っ人に頼んで荷物を運んでもらうのが一般的です。私も最初はガイドとポーターを頼むはずだったのですが、出発前にネットで25,6歳の日本人の女の子が予算の関係でヘロヘロになりながら一人で登ったというブログ「キラキラ☆旅ガール」を見つけました。若い女の子が一人で登れたのだから、男の意地で、今回はノーガイド、ノーポーターのひとり旅としました。最初は気合いが入っていたんですね。そして道案内の地図も彼女の作った簡素なものを使いました。

 

しかし早くも1日目から肩に食い込む荷物の重さに、これならポーターだけでもつけておけばよかったと後悔していました。途中綺麗な桜の花に癒されながら一日目の宿をモンジョに決め、初めての宿の交渉も何とかなってロッジに泊まりました。二日目もブログの地図を頼りに、ナムチョ3440mに到着。高度順応の為二泊。そしてパンポチェ3930m、チュクリン4730m、トゥクラ4620mと4000m台の高度順応を重ねました。途中何度も中国から来たパーティと抜きつ抜かれつしながら登って行きました。こんな時は言葉なんかいりません、すぐに友達になりました。

しかし4000mを超えてくると寝ていても寒くて息苦しい。1時間毎に目が覚め熟睡出来ない、何度も寝袋の中で兄にもらった般若心経を唱えました。食欲も落ちてきました。このままのスピードでは高度順応は出来ても体力を消耗するというジレンマです。愚図愚図してはおれない体力が残っている内に一気に頂上にアタックすることにしました。残る体力をすべて使ってベースキャンプ、ゴラクシップ5140mへ到着しました。最初に行ったゲストハウスは満員で断られ、テントならどうと言う。部屋のペットボトルも凍るほど寒いのに、か弱い私は死んじゃう。二件目でやっとゲット。

 

夕食を取りながら聞いてみると、夜中に出発して頂上で夜明けを迎えるのがいいと言う。しかしあのブログのチャチな地図では夜道も分からない。4時に起きてにロッジにいたアメリカ人のグループに紛れ、普通の装備で登れるヒマラヤ最高峰カラ.パタール5550mを目指しました。空気は薄く、冷凍人間になるぐらい寒い。五歩歩いては一休み、また五歩、また五歩と足を進める。前日降った雪が道に積もっていました。登り始めて1時間半後、遂に憧れのカラパタール5550m頂上目前。しかしそこには5,6人の中国人の女の子が陣取っていて、他人の迷惑など顧みず登山用品をばらまいて、写真を撮ったり、寝転がってご飯まで食べたりしています。なかなか道を譲ってくれません。無理やりその脇をこじ開けて進み、崖から滑り落ちそうになりながらやっと頂上へたどり着きました。日の出に感無量、感激の記念撮影をしました。

 

ベースキャンプのゴラクシップに戻り1時間仮眠して本物の8,848mへアタックするベースキャンプ5304mを目指して出発しました。往復6時間、さすがに疲労困憊。ベースキャンプで日本隊を探してポーターのテントにでも一泊させてもらおうと思っていましたが、あまりの多くのテントに日本隊を発見する事が出来ませんでした。残念。途中パンポチェで一緒の宿だったドイツの青年とすれ違い、お互いの健闘讃えてハグをしました。

 

8日掛けて登った道も帰りはなんと3日で下山です。下山3日目、朝起きて見ると外は大雪、11日間禁酒していましたが、前の晩あとは一日だけと思い、登頂記念にビールを飲んでしまった。山の天気は本当に変わりやすい、天下のエベレストなめちゃいけない。何度も積もった雪に足を取られながら、なんとか飛行場のあるルクラへ戻ってきました。ここで出発の時に預けた航空券の予約を確定してもらいました。この手筈もなかなか大変でした。

 

その後カトマンズに戻り幸せの国ブータンに行きました。昔のソ連のように予めブータン国内の会社へツアーを申し込み、事前承諾書が必要になっていました。基本的には一日2万円以上、そのうち65米ドル分を国に納めて、国民の医療と教育を無料にしているらしい。ブータンはヒマラヤの桃源郷として知られる敬虔な仏教徒の国。崖っぷちに建てられた世界遺産のタクツァン僧院、ブータンで一番有名で尊敬されている日本人のダショウ西岡さん。20世紀末まで鎖国のような状態だった謎の「幸せの国」を満喫。しかし携帯電話が普及して、思ったより普通の国になっていました。

 

 

その後カトマンズに戻りブッタ生誕の地ルンビニーで二泊してお昼にはカトマンズに戻り、ガイドのラムさんの家で休憩させていただく。奥さんから疲れているでしょうから今晩は家に泊まっていってはと親切に勧められました。しかし世界一周の旅はエベレストに行ったとはいえまだ始まったばかり、ここはお気持ちだけを頂き夕方の夜行バスでインドのダージリンへ出発した。

 

6時間も遅れて出発した超満員のバスは、舗装もされてない真っ暗闇の山道を進んでいきました。20時間かけてやっとダージリン到着。

(途中の山奥の休憩所)

ダージリンで一泊後、トイトレンと言う可愛い山岳列車に乗って麓まで下りて行きました。

途中多くの人が野外に出てきて何かに驚いていました。

 

 

 

そのあと麓の町ニュージャルバイグリではリキシャに騙されながらやっとの思い出でコルカタへ向かう夜行寝台に乗り込みました。片言の英語で乗り合わせたインド人に旅行の話をしていると、そのインド人が携帯電話のニュースを見せながらネパールの大地震について教えてくれました。「おまえ本当に一昨日までカトマンズにいたのか。もう1000人以上は死んでるぞ」。後から写真を見てみるとあの沢山の人が外に出て騒いでいた時が地震発生直後のようでした。なんと2日違い。あの時カトマンズのラムさんの家に一泊していたら、ネパールの山奥に閉じ込められて一カ月ぐらいは行方不明だったでしょう。間一髪とはこのことか。寝台車の二段ベットで眠りにつこうとすると、急に不安が押し寄せてきました。

この時携帯電話はネパールでペットボトルの締め忘れで水没。現地で同じSIMフリーのアイフォンを買うも、ドコモのSIMカード入れても、ショートメールも通話も受信が出来ない。日本に問い合わせるも「他で買った携帯にはお答えできません」と無情な回答。だってSIMはドコモなのに。そんな訳で日本にいる家族への「無事に生きている」連絡が遅れて心配をかけてしまった。

 

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