話をかなりさかのぼらなければなりません。
ボクが19歳のころ。
父親の気まぐれと、ボクの小さな冒険心で、イギリスへの短期留学を決意しました。
留学といっても、語学留学ですからそんなに偉そうなものではないのだけれども、そのころはまだ、海外に住むのは珍しく感じられた頃でした。
1ポンド750円でしたし、海外に持ち出す「円」の制限もあったような気がします。
結局ロンドンに約1年間いたのですが、その頃のお話はまた別の機会にするとして、滞在中に父親からよく頼まれごとをしました。
その当時、ボクの父親は西洋骨董に凝っていて、麻仁曼荼羅(まにまんだら)という骨董商まで営んでいました。
その頃は、オークションといえば、イギリスのサザビーかクリスティーズ。
そこに行って、「カタログのナンバーxxを競り落としてこい」なんていう乱暴極まりない頼まれごとです。
あるときに、スイスのチューリッヒのオークションに行って、日本のお地蔵さんが出品されるからそれを何としても競り落としてほしいといわれ、ロンドンからチューリッヒに行きました。
会場に行き、明らかに19歳のそれも日本人のボクは、場違いなわけでして、ドキドキしながら、指定されたナンバーのセリに参加するわけです。
英語だってそう堪能ではなかったし、品物だって事前に確認しているわけでもなく、ただ言われているナンバーの品が登場したら、指定された金額になるまで指をあげてせり続けるわけです。
浮いていたと思います。
それでも、何点かのセリに成功し、その中の一点が、そのお地蔵さんだったわけです。
それっきり、もともと父親とは一緒に生活しているわけでもなく、話もしないために、そのお地蔵さんについては、ボクはすっかり忘れていたのですが、ある日、そのお地蔵さんが、美濃市の清泰寺に寄贈されている事を知りました。
ボクの父親は、青春時代放浪していた時代があって(今でいうホームレス状態)で、色々なお寺にお世話になっていたようで、その恩返しのつもりでお世話になったお寺に色々寄進していたようでした。
1996年の早春に、クエストをスタートするにあたり、ぜひともこのお地蔵さんに出会いたいと思ったわけなのです。
その前年の1995年に父親は亡くなっていましたので、その法要を兼ねてという気持ちもありました。
そのお地蔵さんは、身の丈2メートルくらいある大きなお地蔵さんで、なかなか厳しいお顔をしています。
20数年ぶりの、お地蔵さんとの再会です。
お寺では、そのお地蔵さんのために「地蔵堂」まで建立されていたのです。
父親を知っている老住職にもお会いでき、亡き父へのいい供養になりました。
この旅に出る前に、ボクの初めての著書『やすらぎの扉』を出版してくれた、コスモテンの高橋社長に、
「岐阜に行くなら、高山によって、浜ちゃんに会っておいで」と言われていました。
家族4人での車の旅でしたから、そのまま高山に向かったのです。
ボクが19歳のころ。
父親の気まぐれと、ボクの小さな冒険心で、イギリスへの短期留学を決意しました。
留学といっても、語学留学ですからそんなに偉そうなものではないのだけれども、そのころはまだ、海外に住むのは珍しく感じられた頃でした。
1ポンド750円でしたし、海外に持ち出す「円」の制限もあったような気がします。
結局ロンドンに約1年間いたのですが、その頃のお話はまた別の機会にするとして、滞在中に父親からよく頼まれごとをしました。
その当時、ボクの父親は西洋骨董に凝っていて、麻仁曼荼羅(まにまんだら)という骨董商まで営んでいました。
その頃は、オークションといえば、イギリスのサザビーかクリスティーズ。
そこに行って、「カタログのナンバーxxを競り落としてこい」なんていう乱暴極まりない頼まれごとです。
あるときに、スイスのチューリッヒのオークションに行って、日本のお地蔵さんが出品されるからそれを何としても競り落としてほしいといわれ、ロンドンからチューリッヒに行きました。
会場に行き、明らかに19歳のそれも日本人のボクは、場違いなわけでして、ドキドキしながら、指定されたナンバーのセリに参加するわけです。
英語だってそう堪能ではなかったし、品物だって事前に確認しているわけでもなく、ただ言われているナンバーの品が登場したら、指定された金額になるまで指をあげてせり続けるわけです。
浮いていたと思います。
それでも、何点かのセリに成功し、その中の一点が、そのお地蔵さんだったわけです。
それっきり、もともと父親とは一緒に生活しているわけでもなく、話もしないために、そのお地蔵さんについては、ボクはすっかり忘れていたのですが、ある日、そのお地蔵さんが、美濃市の清泰寺に寄贈されている事を知りました。
ボクの父親は、青春時代放浪していた時代があって(今でいうホームレス状態)で、色々なお寺にお世話になっていたようで、その恩返しのつもりでお世話になったお寺に色々寄進していたようでした。
1996年の早春に、クエストをスタートするにあたり、ぜひともこのお地蔵さんに出会いたいと思ったわけなのです。
その前年の1995年に父親は亡くなっていましたので、その法要を兼ねてという気持ちもありました。
そのお地蔵さんは、身の丈2メートルくらいある大きなお地蔵さんで、なかなか厳しいお顔をしています。
20数年ぶりの、お地蔵さんとの再会です。
お寺では、そのお地蔵さんのために「地蔵堂」まで建立されていたのです。
父親を知っている老住職にもお会いでき、亡き父へのいい供養になりました。
この旅に出る前に、ボクの初めての著書『やすらぎの扉』を出版してくれた、コスモテンの高橋社長に、
「岐阜に行くなら、高山によって、浜ちゃんに会っておいで」と言われていました。
家族4人での車の旅でしたから、そのまま高山に向かったのです。
麻仁曼荼羅 というワードで検索したら、一つだけヒットしました。お父様が経営されていたのですね!
私は、麻仁曼荼羅の前にある出版社に勤務していて、毎日、そこでお茶をしていました。
きのう、久しぶりに会った出版社の先輩に
「あの、面白い西洋骨董のお店、覚えてる?」と聞いたら、しっかり覚えていて、名前まで教えてくれました。いいお店でしたね。
ずっと気づかずにいました。
麻仁曼荼羅をご存じだったんですね。
もともとは、今のヨックモックの場所にありました。
その時には、骨董店の隣で「珈琲沙倫麻仁」もやっていました。サイフォンでコーヒー入れていましたが、所詮素人でした。
元のお店の向かい側にも出版社があって、よく来ていただいていたのを覚えています。
覚えていてくださって、感謝します。