久しぶりに、たっぷりと体調を崩してしまいました。
先週末の土日は、ボクのクラス「ホリスティック心理分析講座」の「シャドウ」を扱う二日間でした。
「シャドウ」は、ボクたちが、認めていない「もう一人の自分」・・・・・それも影の自分です。
毎回、この講座を迎えると、体調を崩している人、会社で何かしらのトラブルに巻き込まれてしまった人、パートナーとケンカしてしまった人・・・・など、いろいろな反応をしている人がいます。
自我は意識していなくても、無意識では、ちゃんと影と向き合う準備をしてくるのでしょうね。
だからこそ、いつも以上に気を引き締めてセッションにのぞむのですが・・・・
日曜日の終わった夜あたりから調子が悪くなってきて、五反田からの帰り道、寒気が襲ってきて歯をがちがち言わせながら歩いて帰りました。
そして、月曜日の昼には発熱。
そのまま3日間ダウンでした。
今週末には、大阪の「シャドウ」のセッションがありますから、何とかそれまでには治さねば・・・と必死でした。
ようやく昨日になって快復して来ましたが、体がまだふらふらしていました。
自分の闇・・・影と向き合うこと。
一般的な教育分析の現場では、こういったプロセスをマンツーマンで行います。
でもボクの経験から、分析家といっしょに、自分の影と向き合うのはともかく、その帰り道の気持ちの重たいことといったら・・・
ですから、ボクのクラスでは、いつでも「笑い」がいっぱいです。
笑っていても、深い気づきが得られますからね。
それでも、体調を崩してしまいましたが・・・・
闇と向き合う、物語や映画は世の中にたくさんあります。
そして、その多くが、ボクたちの心を捉え、ヒット作になっているようです。
ご存知スターウォーズの「ダースベーダー」もそうですしね。
ちなみに、スターウォーズのプロデューサーのジョージルーカスは、ユングをかなり研究したそうです。ユングの「アーキタイプ(元型)」が、象徴的に登場してきます。
そして、影といえば誰がなんと言っても『ゲド戦記』でしょう。ル・グィンの名作中の名作です。
最近スタジオジブリが映画化しましたから、ご存知の方もいるでしょうが、あの映画は、原作とは全く違います。
映画鑑賞としては充分に楽しめましたが、「影と向き合う」という普遍的なテーマには少し不十分でしたね。
『ゲド戦記』は、ハイタカと呼ばれる少年が、魔法の才能にあふれていることが分かり、ローク島にある魔法の学校に入学するところから始まるファンタジーの傑作です。
始まりは、大人気の「ハリーポッター」と似ていますよね。
魔法を扱うファンタジーを「ハイ・ファンタジー」と呼びますが、最終的に魔法が使えなくなってしまうというのがハイ・ファンタジーの原則です。
今後どのような展開になるのかは知りませんが、いまのところハリーポッターは魔法を使えているようですから、ファンタジーの枠組みには入りません。
ただし、どの作品も、「闇と向き合う」内容ですからハラハラドキドキ楽しい作品です。
ハイタカは、自分の才能を慢心し、遂に開けてはならない闇の扉を開けてしまいます。そのために学院長は命をかけてその扉を閉め、後にゲドと呼ばれるようになったハイタカは、顔に大変な傷を負うのです。
ゲドは、影の恐怖におびえ、影から逃げます。
そして逃げれば逃げるほど、その影が更に強大なものになっていってしまうのです。
ボクたちの日常でも、嫌なことや嫌いな人を、嫌だ嫌だ、嫌いだ嫌いだと思えば思うほどますます嫌になってしまうことがあります。
嫌だという強い思いが、その影にパワーを与えてしまうのです。
そんな経験は誰にでもあるでしょう。
目に見えない恐怖から逃げようとすればするほど、その恐怖が大きくなってしまうのです。
あるときにゲドは気づきます。
このままではいつまでも何も変わらないことを。
そして遂に、今度はその影を追いかけ始めるのです。
すると、その影は、次第に目に見えるようになり、やがて、人格を持ち始め、遂にゲドの前にその姿を現すのです。
ボクたちの影も、向き合うことで、その正体がハッキリと見えてきます。
確かに向き合うことは勇気の要ることだし、苦しい体験です。
しかし、影と向き合うことは、結果として、自分をより豊かにしてくれるのです。
『はせがわくんきらいや』という絵本があります。
1955年に起きた「森永砒素ミルク事件」という悲しい事件がありました。

赤ちゃんが飲む缶の粉ミルクの中に「砒素」が混入していたのです。
作者は、自らも「3缶飲んだ後に母親が事件を知り母乳に切り替えました」とあとがきで書いています。
彼にとって、同級生や、友達の悲しい姿(脳性麻痺や知的障害など)を見るにつれ、自分の人生からこの事件は切り離せないという気持ちで、この作品を書いたようです。
「ボク、はせがわくんきらいや」という明快な関西弁で始まります。
どうして嫌いかというと、初めて出会った幼稚園のときに
「はせがわくんは乳母車のようなものに乗っていた」し、
小学校の頃は、
「何をやってものろいし、何をやってもへたくそ」だからです。
山に登るときにも、おぶってあげなきゃならないし、野球のときも、せっかくバッターボックスに立たせてあげたのに三振するし・・・
だから「はせがわくきらいや」が何度も何度も繰り返されます。
はせがわくんの母親に「何でそんなミルク飲ませたん」と聞くと、母親は「ため息」をつくだけなのです。
それでも、その母親が「お菓子をくれたから」仕方ないから遊んであげる・・・のです。
そして、最後は、
「はせがわくん、もっとたくさん食べえな」
「はせがわくん、もっと大きくなりいな」
「はせがわくんきらいや」
「はせがわくんきらいや」
「はせがわくんきらいや」
と何度も何度も繰り返されて終わります。
はせがわくんへの愛情と、深い優しさが胸に迫ってくる作品です。
闇と向き合うという事は、こういったプロセスを踏むのでしょうね。
はじめは、向きあうことが本当に嫌でたまりません。
でも、闇を認め、闇の存在を受け入れていくと、そこに何かしら新しい「生命」のようなものが生まれてくるのです。
自分の闇と向き合うのは、大変な作業です。
ファンタジーや物語の力を借りながら、皆さんも少しずつ向き合ってみてはいかがでしょうか。
先週末の土日は、ボクのクラス「ホリスティック心理分析講座」の「シャドウ」を扱う二日間でした。
「シャドウ」は、ボクたちが、認めていない「もう一人の自分」・・・・・それも影の自分です。
毎回、この講座を迎えると、体調を崩している人、会社で何かしらのトラブルに巻き込まれてしまった人、パートナーとケンカしてしまった人・・・・など、いろいろな反応をしている人がいます。
自我は意識していなくても、無意識では、ちゃんと影と向き合う準備をしてくるのでしょうね。
だからこそ、いつも以上に気を引き締めてセッションにのぞむのですが・・・・
日曜日の終わった夜あたりから調子が悪くなってきて、五反田からの帰り道、寒気が襲ってきて歯をがちがち言わせながら歩いて帰りました。
そして、月曜日の昼には発熱。
そのまま3日間ダウンでした。
今週末には、大阪の「シャドウ」のセッションがありますから、何とかそれまでには治さねば・・・と必死でした。
ようやく昨日になって快復して来ましたが、体がまだふらふらしていました。
自分の闇・・・影と向き合うこと。
一般的な教育分析の現場では、こういったプロセスをマンツーマンで行います。
でもボクの経験から、分析家といっしょに、自分の影と向き合うのはともかく、その帰り道の気持ちの重たいことといったら・・・
ですから、ボクのクラスでは、いつでも「笑い」がいっぱいです。
笑っていても、深い気づきが得られますからね。
それでも、体調を崩してしまいましたが・・・・
闇と向き合う、物語や映画は世の中にたくさんあります。
そして、その多くが、ボクたちの心を捉え、ヒット作になっているようです。
ご存知スターウォーズの「ダースベーダー」もそうですしね。
ちなみに、スターウォーズのプロデューサーのジョージルーカスは、ユングをかなり研究したそうです。ユングの「アーキタイプ(元型)」が、象徴的に登場してきます。
そして、影といえば誰がなんと言っても『ゲド戦記』でしょう。ル・グィンの名作中の名作です。
最近スタジオジブリが映画化しましたから、ご存知の方もいるでしょうが、あの映画は、原作とは全く違います。
映画鑑賞としては充分に楽しめましたが、「影と向き合う」という普遍的なテーマには少し不十分でしたね。
『ゲド戦記』は、ハイタカと呼ばれる少年が、魔法の才能にあふれていることが分かり、ローク島にある魔法の学校に入学するところから始まるファンタジーの傑作です。
始まりは、大人気の「ハリーポッター」と似ていますよね。
魔法を扱うファンタジーを「ハイ・ファンタジー」と呼びますが、最終的に魔法が使えなくなってしまうというのがハイ・ファンタジーの原則です。
今後どのような展開になるのかは知りませんが、いまのところハリーポッターは魔法を使えているようですから、ファンタジーの枠組みには入りません。
ただし、どの作品も、「闇と向き合う」内容ですからハラハラドキドキ楽しい作品です。
ハイタカは、自分の才能を慢心し、遂に開けてはならない闇の扉を開けてしまいます。そのために学院長は命をかけてその扉を閉め、後にゲドと呼ばれるようになったハイタカは、顔に大変な傷を負うのです。
ゲドは、影の恐怖におびえ、影から逃げます。
そして逃げれば逃げるほど、その影が更に強大なものになっていってしまうのです。
ボクたちの日常でも、嫌なことや嫌いな人を、嫌だ嫌だ、嫌いだ嫌いだと思えば思うほどますます嫌になってしまうことがあります。
嫌だという強い思いが、その影にパワーを与えてしまうのです。
そんな経験は誰にでもあるでしょう。
目に見えない恐怖から逃げようとすればするほど、その恐怖が大きくなってしまうのです。
あるときにゲドは気づきます。
このままではいつまでも何も変わらないことを。
そして遂に、今度はその影を追いかけ始めるのです。
すると、その影は、次第に目に見えるようになり、やがて、人格を持ち始め、遂にゲドの前にその姿を現すのです。
ボクたちの影も、向き合うことで、その正体がハッキリと見えてきます。
確かに向き合うことは勇気の要ることだし、苦しい体験です。
しかし、影と向き合うことは、結果として、自分をより豊かにしてくれるのです。
『はせがわくんきらいや』という絵本があります。
1955年に起きた「森永砒素ミルク事件」という悲しい事件がありました。

赤ちゃんが飲む缶の粉ミルクの中に「砒素」が混入していたのです。
作者は、自らも「3缶飲んだ後に母親が事件を知り母乳に切り替えました」とあとがきで書いています。
彼にとって、同級生や、友達の悲しい姿(脳性麻痺や知的障害など)を見るにつれ、自分の人生からこの事件は切り離せないという気持ちで、この作品を書いたようです。
「ボク、はせがわくんきらいや」という明快な関西弁で始まります。
どうして嫌いかというと、初めて出会った幼稚園のときに
「はせがわくんは乳母車のようなものに乗っていた」し、
小学校の頃は、
「何をやってものろいし、何をやってもへたくそ」だからです。
山に登るときにも、おぶってあげなきゃならないし、野球のときも、せっかくバッターボックスに立たせてあげたのに三振するし・・・
だから「はせがわくきらいや」が何度も何度も繰り返されます。
はせがわくんの母親に「何でそんなミルク飲ませたん」と聞くと、母親は「ため息」をつくだけなのです。
それでも、その母親が「お菓子をくれたから」仕方ないから遊んであげる・・・のです。
そして、最後は、
「はせがわくん、もっとたくさん食べえな」
「はせがわくん、もっと大きくなりいな」
「はせがわくんきらいや」
「はせがわくんきらいや」
「はせがわくんきらいや」
と何度も何度も繰り返されて終わります。
はせがわくんへの愛情と、深い優しさが胸に迫ってくる作品です。
闇と向き合うという事は、こういったプロセスを踏むのでしょうね。
はじめは、向きあうことが本当に嫌でたまりません。
でも、闇を認め、闇の存在を受け入れていくと、そこに何かしら新しい「生命」のようなものが生まれてくるのです。
自分の闇と向き合うのは、大変な作業です。
ファンタジーや物語の力を借りながら、皆さんも少しずつ向き合ってみてはいかがでしょうか。
TBさせてください。
きっとファンタジーを、愛し
人間を愛する気持ちは
ジャンルを問わないのでしょう。
それを伝える使命、私達に生きる力を与えてくださる
先生の最善がクエストの講座で、
アニメーションの現場の最善は、あの形である、と。
だから先生が他の方法を手放しで誉めていたら
おかしいですよね。
私はまだ受け取るだけだったけれど
自分の最善を見つけ、与える側の誇りに
じりじりとあこがれて、います。
未来をありがとう~☆
二日の講座にお疲れ様でした~
ゲト戦記の原作をまだ読まないけど、
ジブリのゲト戦記が大好きですね~
原作と比べて大きな差別があるかもしれないけど…
影のことは、私にとってこのアニメがそれを伝えたい気持ちを感じました。
その他は、私はアニメのウタ(テルーの唄)に感動されましたよ。
でも、もしアニメは原作の十分の一だけを表現した~
やっぱり原作を読むことは大切なんですね~^_^
あんまりこころよく思っていない感じがする。。。
私はそれらが好きなので、悲しい><です。
やっぱり、小説にくらべて劣っているのかなぁ?
最近、高尚なメディア?代表の
オペラのチケットを取ろうとしたら
C席が売り切れで、B席の一枚2万2千円のみ空席でした。
しばらくはLD版で我慢します。