短歌研究1月・2月合併号に僕の歌集に関する訂正記事が載った。
本来であれば12月号の「過去1年間の歌集総覧」という一覧表に載るのが当然なのに、短歌研究社に歌集を贈呈しなかったためだろうか、漏れてしまったからである。
当然載るべきという意味は、1年前同誌1月号に当該歌集の広告が載ったからである。
以前このブログの4回前に書いたが、どの雑誌の編集部にも歌集は贈呈しなかった。そのブログ記事では、これから歌集を出す人は贈呈しなさい、と書いたのだが、贈呈しなかったことは、僕の秘かな自慢である。
短歌研究誌は長い年月定期購読し、今年の夏に定期購読をやめたのだが、編集部に歌集を贈呈するという発想は浮かんだことがなかった。これは、あとから考えると不思議なことだ。
同誌には「歌集歌書評・共選」という欄が昔からあり、複数人の歌人が評を書いている。問題なのは「共選」の意味するところである。業界のやり方はさておき、一般人の受け止めは、複数人の歌人が共同で、もしくは分担して評を書くということだ。なので、編集部の音頭取りが不可欠であり、仮に評を書いて欲しい歌集があるなら、編集部に送れば、希望が叶う可能性があることになる。
なのに僕は「共選」の意味を考えてみることもなかった。編集部に送るようにという説明が一切無かったからである。
この原因はふたつ有り得る。
ひとつ目は、単にボーとしていたからであり、もうひとつは「知らないということが最適解」だからである。
例えば、裸足で砂浜を駆けて行く人は、広い砂浜の1箇所に割れたガラスが埋まっていることを知らない。知っていたら、気分良く駆けることはできない。
それと同じで、変な誘惑に惑わされることもなく、僕はどの雑誌の編集部にも歌集を送らなかったし、今それを自慢している。
業界のやり方を、僕は知らないが、ある疑いを持っている。
歌集評というやつが全ての短歌雑誌に載っているが、あれは雑誌社の差し金ではなかろうか。全部とまでは思わないが、ほとんどの歌集評は編集部から「○○という歌集について評を書いてください」と依頼されて書いているのではなかろうか?
それが事実なら、歌集評にはそんなことはひと言も書いてない訳だから、読者への裏切り行為である。評を書いた歌人の自発的意思でやっていると思っていた。
さらに言えば、雑誌社どうしで相手の出版物を誉めあっているとしたら、詐欺に近い行為と言えるだろうが、真相は知らない。
さて本題だが、何回か前のブログで「短歌の真髄は認識にある」と書いた。直観による宇宙の把握ということだが、凡人が直観だけで宇宙を把握できるかどうかについて、世人と同じく僕も疑問を持っている。じゃあ、やはり理論的なものが必要なのかというと、それを否定しないが、必須とは考えていない。教典を脇に置くだけで良いと思っている。千年以上前に確立し、千年以上多くの人が拠り所とした教典をである。
直観と直感とは似たり寄ったりだが、例えば地球温暖化を直感的に理解できるグラフィックとして下図がある。1980年代までは涼しかった地球が、この20年ほどの間に急激に温暖化して来たことが一目瞭然である。
この図は、しかし細部が嘘だから、よそで使用しないようにお願いします。
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