万葉集巻第7歌番号1264詠み人知らずの歌
西の市(いち)にただひとり出でて目並べず買いし絹の商じこりかも
(現代語訳) 西の市場にひとりで出かけて、複数人の目で吟味せず買った絹は、金額に見合わなかったことだ
文学の効用のひとつに、失敗の告白がある。読者からしたら、自分では経験したくない失敗をあらかじめ教えてもらえることになる。ドストエフスキーの「罪と罰」しかりである。(小説のテーマに描かれた強盗も殺人も作者ドストエフスキー自身は経験していない)
最近短歌の世界では、好きだの嫌いだの、共感するだのしないだの、情緒的な意見が多く見られるが、そんな愚にも付かない文章を見せられるくらいなら、作歌技巧の話しをした方がはるかに意義深い。 そもそも作者が好きなものを書いて嫌いなものを書かないということでは、作品に哲学が入る余地が無くなってしまう。 作者が気持ち悪いものを表現する場合、それが本当はコントで言うところの「つかみ」であり読者を意識した技巧であっても、こんな気持ち悪い人の作品は読まないことにしようとスルーされてしまったら、まさに木を見て森を見ずになってしまう。
万葉集には、こんな失敗をしましたという告白の歌が多くみられる。 万葉集に数千の歌が収められていても、このような歌は恐らく現代の誰も取り上げないだろうから、そんな中から面白い歌を紹介するのもこのブログの良さであろう。
こんなにも犬が飼われていたのかとオス犬連れて歩くとわかる(椎名夕声。2011年8月号)
昔違う場所に住んでいたときにはメス犬を飼っていたが、散歩中道沿いに飼われている犬から吠えられることはなかった。移り住んでこの短歌を詠んだ頃は、今となっては自分の心理ながら記憶が薄れてしまったが、オス犬にオス犬が吠えるものだと思い込んでいたかもしれない。 それから何年も経って、必ずしもその法則は正しくないことがわかってきた。 ニュータウンに沢山飼われている犬同士でオスメス問わず吠えあっているのである。原因はさまざまだろうが、1画地の面積が小さいのが災いしているということもある。敷地面積が小さいと犬をつなぐ場所が限定されてしまうので、うしろの家の犬と目と鼻の先というケースが多い。縄張り意識により吠えるのだからオスとメスでも吠えあっている。 昔住んでいたニュータウンでは辺鄙な田舎だったので1区画あたり200㎡以上はあった。300㎡近くの家も多かったが、移り住んだ後のニュータウンは150㎡くらいの家が多い。その差は大きいのである。(昔住んだニュータウンは1980年代に公団がてがけたものだが、当時の公団というのは天下りの温床で資金も潤沢だった。その手の団体が大盤振る舞いをしていたのはグリーンピアの逸話が有名)
何年も前のことだから、この歌の情景は詳しくおぼえていないが、ウチの犬に向かってオス犬が吠えかかったとは書かなかったし、「こんなにも」の部分も相当あいまいなので、必ずしも失敗作とは言えないが、ここに小さな失敗を告白するとともに、新たな発見を自慢するところです。