「鹿行の文化財」令和3年3月号に掲載されました【南方三十三館の仕置】を10回シリーズで紹介します。
南方三十三館の仕置 茨城県行方市 山野 惠通 (島崎家家臣末裔)
2.南方三十三館とは
鹿島・行方地域の領主達は「南方(南郡とするものもある) 三十三館」と呼ばれていた。この呼称がついたのは、江戸時代で、 中小豪族の末裔やその重臣の子孫である人々が、先祖の過去の栄光をしのんで名付けたものだという。なぜ三十三なのかははっきりしないが、観音信仰の影響で、室町時代には東北地方まで広がった観音の変化する三十三の姿にかこつけた、三十三ヶ所巡りの関係も考えられるという。従って、三十三もの城があったわけではない。
戦国時代には、それらの領主は古河公方や佐竹氏から「行方衆」「鹿島衆」と呼ばれていた様である。(「佐竹文庫文書」「喜連川文庫])
戦国期に一定の郡や郷を一円的に支配した地域領主として
行方郡では
武田城主 武田信房 (行方市両宿)
玉造城主 玉造重幹 (行方市内宿)
手賀城主 手賀高幹 (行方市手賀)
永山城主 永山知幹 (潮来市永山)
行方城主 行方忠幹 (行方市行方)
富田城主 富田昌幹 (行方市富田)
島崎城主 島崎安定 (潮来市島須)
小高城主 小高刑部少輔」(行方市小高)
大生城主 大生弹正 (潮来市大生)
麻生城主 麻生常安 (行方市麻生)
芹沢城主 芹沢国幹 (行方市芹沢)
羽生城主 羽生氏 (行方市羽生)
鹿島郡では
宮ヶ崎城主 宮ヶ崎幹顕 (茨城町宮ヶ崎)
德宿城主 德宿矩幹 (鲜田市德宿)
沼尾城主 沼尾行幹 (鹿嶋市沼尾)
鲜田城主 鹿島三郎 (鉾田市鉾田)
蕨城主 武田信家 (鉾田市青柳)
鹿島城主 鹿島治時 (鹿嶋市城山)
安房城主 安房幹連 (鉾田市安房)
粟生城主 粟生幹寓 (鹿嶋市粟生)
烟田城主 烟田通幹 (鋒田市烟田)
中居城主 中居秀幹 (斉田市中居)
札城主 札 幹繁 (鲜田市札
下吉影城主野口右兵衛 (小美玉市下吉影)
林城主 林時国 (鹿嶋市林)
田野辺城主 -田野辽胤幹 (鹿嶋市田野迈)
棍山城主 棍山掃部介 (鋅田市棍山)
阿玉城主 阿玉氏(鋅田市阿玉)
用次城主 持寺氏 (茨城町用次)
石神城主 石神二郎 (鹿嶋市石神)
中村城主 中村弥太郎 (鹿嶋市中村) 等の中小の国人が存在したようである。
東国の領主層は関東足利氏や関東管領関係者の外に、館・国人 (地頭の系譜を引く有力な在地領主)・一揆(小規模な国人)という身分があり、身分に応じた書札礼が適用されていた。鹿島氏は国人扱いだったようだが、烟田氏や鹿行地域の中小国人は一揆の格式が適用されていた。
一揆とは一味同心という連帯感を共有する人々の集団で日常的な方法では実現困難な、共通の目的を達成するために結成された。中世には大名から村落住民まで様々な階層で一揆が形成されて、戦場で共闘すべき一族や地縁的集団の団結を固めたり、寺院や村において遵守すべき掟を定めたり、外部勢力の侵入に対して地域住民が団結したり、支配者の不法に対して抵抗したりした。
こ うした目的のために、日常的な社会関係を止揚(矛盾・対立する二つの概念を、両者を包含するより高い概念に統一し発展させること)して全員が平等の資格で合議し、多数決により集団意志の決定を行う集団が、一味神水という神前における誓約の儀式をへて結成された。一揆は神の意志を帯した集団と考えられたために、大きな力を発揮した。近世では、一揆行為は全面的に禁圧されたが、一味神水による一揆結成の慣行は残った。百姓らの幕藩領主に対する 強訴・逃散などの抵抗が百姓一揆である。
鹿行地域にこのように中小の国人が存在した理由としては、一つはこの地域が鹿島神領であったことが大きい。大掾・鹿島一族は交 替で鹿島神宮の祭礼の大使役を務めており、地位を認められ保護・ 尊重されていたこと、また、鹿島・香取の海周辺では富裕の人々が 多く存在したように、水運や商取引の利益や棟別銭や営業税収は大きなものだったに相違なく、そうした地域の経済力がこのような一 較的集団の存在を可能にしていたようである。
細かく見ていくと、かれらは互いに同格ではなく、例えば鹿島氏に対して烟田氏、札氏・中居氏・津賀氏・林氏が従属するゆるやかな主従関係も見られた。また、天正十二年(1584)には島崎氏 が同族の麻生城を奪い、同十七年(1589)には、行方郡大掾氏一族の宗家ともいうべき小高城を攻めるなど勢力拡大を図っていたことから、行方においては、島崎氏が鹿島氏と同様な力関係を形作っていたのではないかと思われる。
更に永禄九年(1566)八月十日には武田城主武田通信 (行方 市両宿) が鹿島氏領に侵入するなど、度々所領の境界紛争を起こしていた。そこで「南方三十三館」の領主達は、さらに上級の領主である江戸氏や佐竹氏を頼って行くようになり、永禄年間後半には佐竹氏から鹿島・行方衆として把握され、軍事指揮を受けるようになった。
彼らの所領支配の在り方については、家臣への所領宛行や安堵・ 役賦課や免除などに関する史料がほとんど見られないので、よく分からない。家臣のほとんどは手作地を持つ百姓としての性格を持ち合わせており、所領支配は自明のものという観念があって文書を発 給しなかったのではないかと思われる。〈鉾田町史 通史編(上)鉾田町史編纂委員会〉参照 ⇒つづく