昭和62年(1987)に発行されました「島崎城跡発掘調査報告書」の内容を抜萃して紹介します。
- 島崎城の構造
小 括
島崎城は標高28~30mの行方台地の南先端部に位置し,中世・戦国期の丘城の典型である空 堀・土塁を幾重にもめぐらす構造である。 城郭域は、大きく内城・中城・外城の各地区に分けられる。内城は,1曲輪・東西の1曲輪を含めた空堀〈4〉に区画された南側台地上で、近世でいう本丸・二の丸に相当する。内城域には,馬出を用いた優れた虎口防禦の築城遺構と大井戸が含まれる。内城域と中城域の中間は 空堀〈4〉と物見台さらに空堀〈5〉からなる緩衝地帯があり,大手口方向の谷間にある腰曲 輪・古屋曲輪も,緩衝地帯に入る。中城域は皿曲輪および越前曲輪等からなり、空堀〈5〉, 堀〈7〉によって区画される。近世でいう三の丸に相当する。
表1.主要曲輪の占有面積一覧
東西m 南北m 平面プラン 面 積 立 地
I曲輪 60 70 三角形 2728m 台地先端
馬出曲輪 33 30 方 形 687㎡ 台地稜線上の平
東Ⅱ曲輪 20~35 75 瓢箪形 2328㎡ 台地稜線上の削平
西Ⅱ曲輪 35 50 四辺形 1639㎡ 技台地先端
水の手曲輪 42 35 四辺形 1032㎡ 台地裁部
越前曲輪 50 35 方 形 1584㎡ 谷間麓
古屋曲輪 55 35 方 形 1800㎡ 谷間蕾
Ⅲ曲輪 185 35 長方形 7083㎡ 台地上平場
大手口である島崎城の正面出入口は、地名にうい門にあたり,大手道は、越前曲輪から坊主屋敷の平場を経由したとみられる。空堀<5>の東出口にある地名・金井柵は「搦手柵」が訛ったものと伝わり,この方面が地形・城の占地からみても搦手方面であったことがわかる。
外城域は、古宿の台地にあって,外曲輪・大構に相当する。外曲輪といっても空堀と土塁が幾重にもめぐり,集落を区画していたと考えられる。外城の西には出城が構えられ、物見の機能を果していた。
城の麓には根小屋集落がテラス状にまわり,さらに西に古宿・宿が発達し,城下集落を形成した。城下集落は砂州上に発展し,当時,霞ヶ浦入江に面して新宿にあたる市場をもった芝宿が発生,永正年間ころに長国寺が芝宿に成立,町場の中心となった。
以上のように,島崎城は保存状況が良好なうえに、中世の城と村落・町場の状況を今日までも伝える地域史研究ばかりでなく、学術上貴重な遺跡標本といえる。⇒島崎城の構造「終了」