「鹿行の文化財」令和3年3月号に掲載されました【南方三十三館の仕置】を10回シリーズで紹介します。
南方三十三館の仕置 茨城県行方市 山野 惠通 (島崎家家臣末裔)
6.佐竹氏のおこり
佐竹氏の始祖は一般的には新羅源朝臣義光とされている。義光は清和源氏三郎即ち頼光(摂津源氏)、頼親(大和源氏)、頼信 (河内源氏)の内、河内源氏流で前九年の役で天下に武勇を馳せた源頼義の三男である。母は常陸平氏の一族、検非違使上総介平直方の娘である。
義光と嫡子義業が後三年の役に参加し、その勲功により叔父源義家から恩賞として義光には信濃国、常陸国佐竹郷、陸奥国菊田庄(福島県いわき市)を、義業には常陸国奥七郡を飼馬料地として与えられたのにはじまる。菊田庄は菊田五郷と称し平地が多く海に面し、気候穏和で農産物が豊かであった。義光はこの地を愛し、開墾を奨励するなどして民政に努めた。そしてこの地は嫡子義業に相伝され、佐竹昌義、忠義、隆義へと相続された。 しかし、治承三年 (1180)源頼朝が佐竹秀義を討伐し、この地も没収した。以後佐竹氏の手を離れ約四百年間岩城領とされていた。義光が義家から別業地(別荘地)として与えられた佐竹郷は、当時は稲木、天神林、谷河原の三ヶ村であったが、後に藤田、上河合、下川合、磯部、三才の各村が加わり八ヶ村になった。義光はこの地に相当期間滞留していた。嫡子義業もこの地に留まり、佐竹進士と称して、検非違使に任命された。
このようにして佐竹氏が常陸太田を中心にしてその地盤を固めようとしていた時から遡ること約二百年前、常陸の国における平氏は広大な荘園を保有し、国衙においても常陸大掾職なども世襲的に独占し、国政を事実上専断していた。源氏はこの状況下で武力的、政治的にも平氏の風下に置かれていたため常陸平氏の支援が是非とも必要であると痛感していた。そこで源氏の棟梁達は婚姻関係を結び、それを通して積極的に平氏に接近する政策をとったのである。佐竹氏と常陸平氏・藤原氏との婚姻関係を図に表してみると、下図のようになる。
○ 佐竹氏の始祖新羅三郎義光の母(源頼義の正室)は検非違使上総介平直方の娘
○ 源義光は常陸大掾平重幹の娘を娶り、三男義清を儲けた。義清は吉田郡武田郷 (現在のひたちなか市勝田)に住み武田氏を名乗った。
○ 源義光は常陸大掾平重幹の娘を娶り、義業を儲ける
○ 源義光の子義業の正室は常陸大掾吉田次郎平清幹の娘、昌義を儲ける。
○ 佐竹昌義は常陸大掾平時幹の娘を娶り側室としている。
○ 源頼義が前九年の役で奥州下向の折、多気大掾平致幹の館に致幹の家宿泊しその娘に女子をうませた。
〇 源義光の正室は甲斐守藤原知宗の娘、義光は後に甲斐守に任ぜられている。
○ 佐竹家四代秀義の正室は宇都宮弥三郎藤原朝綱の娘。
このように佐竹氏と常陸大掾氏の草創期におけるお互いの結びつきの強さを知ることができるのである。そして、このような婚姻関係はその後の源氏並びに佐竹氏の発展に大きな影響を与えたのである。
○ 後三年の役で源義家が出羽国に下向する際には常陸平氏の武将もこれに加わり義家を援助した。
〇佐竹初代昌義が天神林刑部正常を急襲して城を奪取する作戦当り、祖父平清幹が兵を出して応援してくれた。
○保元・平治の乱では佐竹昌義は平清盛方にくみし、その戦功により子隆義は行政府の要職をあたえられた。
○平治の乱で源氏は平氏に敗れ、源氏の一党は壊滅的打撃を受けた。しかし、佐竹氏は源氏の本流を受け継ぐ家系にありながら何の制裁もなく、隆義は従五位下常陸介兵衛尉に任ぜられている。平清盛の奏請によるものと考えられる 。
常陸大掾一族は平氏であるが源氏との関係が深く、前九年・後三年の役などの戦乱の時は、大掾致幹らは源義家とともに出兵した。康平五年(1062)に源頼義が安倍貞任を討つ時、途中常陸の大掾致幹の家に滞在した。その内、致幹の娘との間に女子をもうけ、これを清原成衡の妻としたり、源義家の弟義光の長男義業と鹿島成幹の妹とが婚姻したりしている。こうした関係は、源氏にとっては地方の豪族と結んで武士団の棟梁としての地位を確立することにあった。一方、大掾氏にとっては源氏と結びつくことによって、地方の開発領主としての地位を安全なものにしようとする願望があった。《新編問答式佐竹謊本高橋茂著中世常絡名家譜石川豐著〉参照 ⇒つづく