「島崎城跡を守る会」島崎城跡の環境整備ボランティア活動記録。

島崎城跡を守る会の活動報告・島崎氏の歴史や古文書の紹介と長山城跡・堀之内大台城の情報発信。

南方三十三館の仕置」鹿行の文化財3月号掲載記事の紹介8回目

2021-07-10 18:57:38 | 歴史

「鹿行の文化財」令和3年3月号に掲載されました【南方三十三館の仕置】を10回シリーズで紹介します。

南方三十三館の仕置 茨城県行方市 山野 惠通 (島崎家家臣末裔)

8.常陸大掾氏一族と鹿島・香取の水運

 現在の霞が浦、北浦は、中世以前においては利根川下流部や千葉側の印旛沼、手賀沼を含めた広大な内海の様相を呈していた。陸地は今の鹿島台地、行方台地、香取台地等で、低地はすべて海であった。鹿島は鹿島灘から九十九里浜へかけてただ一つの大きな湾の湾 口にあり、古代の交通、軍事上の重要な地点でもあったのである。この常総の内海に暮らす中世の人びとにとって内海は、何よりも生活の糧を求める場であった。それらの人びとは、香取社の大禰宜家の文書では「海夫(かいふ)」と呼ばれ、生活の場は「津」と呼ばれていた。

 鹿島神宮文書で鎌倉時代中頃の天福元年(1233)に鹿島社の大宮司家が宮地、宮領、渡田等の社領の他に、「立網・引網」を知行していたという記録がある。立編とは魚を追い込むための水面に立てた網で、引網とは地引きもしくは船引網のことと思われる。

 これらの漁民を大宮司家が支配していた。また、至徳四年(1387) 香取文書大禰宜長房上譲状に「うちのうみ(内海)のかいふ、ぐさひれう(供祭料)の文じょ(書)に見えたり」と記載あり、供祭料の文書とは、供物備進に関する書類のことと思われる。霞が浦付近の海夫が、この文書で香取神宮の供祭料の調達に係わっていたことが確認される。このように、霞が浦、北浦水域の海夫達は、鹿島・ 香取両社の強い支配下に存し、魚備進、「立網」「引網」等をはじめとする種々の負担を両社に果たしていたのである。魚備進などの供祭料は、大禰宜の管領によって行われたが実際は海夫所在の津を知行する者が徴収し、それを神宮へ送進したものと思われる。後になってこのことは、津の知行者と大禰宜間に争いをおこす背景にもなるのである。

 南北朝期に入ると中央政府の不安定さから、地方の地頭、豪族らの武士勢力の活動が活発化してくる。彼らは南北朝対立による地方の混乱に乗じて支配基盤の強化を図っていく。特に霞が浦周辺は南北朝の抗争地にあたり、津の知行者の多くは海夫に対しても支配を強め、香取社の意に反する行動を示してくる。知行者らは、海夫への課税をめぐって神宮大禰宜中臣良房と対立し、貞治五年 (1366)四月と応安五年(1372)十一月の二度にわたって紛争に発展する。これらの海夫達は香取社、鹿島社へ負担を負っていたが、香取社へは海夫税を進納していた。この海夫税は、魚備進を始め諸役のことであろうが、そしてこの海夫税の徴収、送進を行うのが津の知行者たる地頭達であったと思われる。
 地頭達はそれぞれ自分の領地附近の津を知行していた。

 津の立地をみるとほとんどが内定に注ぐ河川の河口に位置し、周辺は農業基盤である小沖積地を伴っている。またそこには城館や寺院が営まれていることが多い。ここから中世の海夫は必ずしも専業漁民ではなく半農半漁で生計を立てていたことが想像できる。香取社大禰宜家文書、建永二年(1207)の海夫注文に常陸の柴崎とみえる柴崎浦の田畠に所当米を課した内容がみえ、漁民と農民の両側面を持っていたことが分かる。

 海夫注文の津のなかにみられる佐原津、信太荘古渡津、鹿島社大船津、府中高浜津そして香取の地には定期市が存在し、これらは水上交通によって相互に結びついていた。そして交易、商業の展開と共に「客船夜泊・常陸蘇城」といわれるように船舶の往来で活況を 呈する潮来の津の他に延方、鹿島の大船津、下総の神崎など津にも都市的な性格を帯びてくる所も現れてきたが、多くは農業と漁撈によって暮らしを立てる穏やかな浦の姿であり、また、地域を支配する領主やその一族の拠点でもあった。それらは水上交通の要衝に位置していたのである。

 内海に暮らす人びとは自給自足の牧歌的生活をしていたわけではなかった。それは何よりもこの常総の内海が国境として、常陸と下総を隔てたのではなしに水上交通で両地域を緊密に結びつける役割を果たしていたからである。それは当然のことながら内海に暮らす人びとをその担い手とし、持ち船を操り、他地域から人や物を輸送する運送業、さらには商工業にも従事させていくことになったと考えられる。さて、その津を知行していた霞が浦、北浦周辺の領主であるが、当時の記録「海夫注文」によれば次のようになる。

 

行方郡の津名とその知行者名 (霞が浦と海夫)

宮木崎津  (玉造知行分)  行方氏井上

島崎津   (島崎知行分)  潮来市島須

尾宇津           潮来市大生

江崎津                         潮来市延方

信方津                          潮来市延方

橋門津     (小高知行分)       行方市橋門

西蓮寺舟津 (小高知行分)       行方市西蓮寺

鎌谷津                          潮来市釜谷

高須津     (玉造知行分)       行方市高須

鳴田津     (武田知行分)       行方市成田

水原津  (小栗越後知行分)     潮来市水原

船子津     (小高知行分)       行方市船子

山田津     (武田知行分)       行方市山田

平浜津     (手賀知行分)       行方市白浜

土古津 (島崎・八幡・土子氏) 行方市矢幡

逢賀津                          潮来市大賀

あさうの津  (麻生知行分)      行方市麻生

たうまの津  (高崎知行分)      鉾田市当間

ふなかたの津(島崎知行分)

いたくの津  (島崎知行分)      潮来市潮来

うしほりの津 (鹿島知行分)     潮来市牛堀

とみたの津   (亀岡知行分)      行方市富田

はねうふなつ (羽生知行分)      行方市羽生

 このようにそれぞれの津に居住する海夫は霞が浦、北浦の湖岸に所領をもつ小高氏、手賀氏、玉造氏、羽生氏、島崎氏、武田氏、麻生氏、鹿島氏などの所在領主の知行 (支配)下に入っていたのである。島崎地域の津の知行者としては、「いたくの津」「ふなかたの津」 の両津の他に「島崎津」八幡の「土古津」に島崎氏の名が見られる。島崎氏は常陸大掾氏行方氏族の一派で、隣地牛堀の島崎 (潮来市島須)を本貫とする領主である。

 行方次郎忠幹の子に景幹があり、その二男の高幹が島崎氏の開祖とされる。しかし、島崎氏の動向は高幹が行方郡内に地頭として存在した後、文献的にはほとんど確認されていない。ようやく鹿島神宮文書の建武元年十二月の大禰宜中臣高親社領列并神祭物等注進状案に「石神内太田村嶋崎五郎とあり、鹿島社領の石神郷内太田村(現行方市矢幡付近)にその姿を見いだす。太田村は、島崎氏の本貫地の北方に位置し、北浦沿いに面している。海夫注文の「土古津」の 北隣に存在していたが、嶋崎五郎はこの村の地頭であった。

 嶋﨑五郎は鹿島社の社領へ侵入し、神宮大禰宜と対立していたが、この頃すでに島崎氏は北浦沿いに勢力を伸張し、少なくとも一村の地頭職を有していたことが分かる。しかし、島崎氏と潮来の関係は定かではなかった。海夫注文により、ようやく潮来の地に島崎 氏が勢力を有したことが明らかになる。島崎氏の潮来進出は、鎌倉幕府滅亡からさほど遠くない頃と思われる。海夫注文に「いたくの津 当知行 志まさきの知行分」とあるからおそらく鎌倉幕府滅亡により北条得宗の支配が消えると、その混乱の間隙をぬって島崎は潮来へ勢力を伸ばしたのであろう。もともとこの地は行方景幹の勢力下におかれていたから島崎氏からすれば、旧領へ戻ったということである。こうして南北朝期に潮来の地は北条得宗の支配から島崎氏の支配へと変転していった。そして島崎氏の勢力は次第に潮来地域に浸透していくのである。海夫注文によれば「ふなかたの津」も知行しているから、潮来の北西境の「しまさきの津」も含めて島崎氏は、潮来南西部から牛堀に至るまでの勢力を有していたことになる。この潮来の津を知行したことは、島崎氏にとっては大きな意味を有していた。 〈潮来町史麻生町史 玉造町史〉参照

 行方市の北浦地区を流れる武田川や山田川は、中世には現在よりも広い流路を有し北浦に注ぐ「大河」(「烟田文書」)であり、北浦は現在よりもこれらの川沿いに深く入り込んでいた。それを裏付けるものとして、山田川の河口から約2㎞遡ると中根入口に荷下ろし 橋が架かっている。物資輸送のための川船が行き来していたことの証ではないかと思う。また橋まで行く途中に少し突き出たところがあるが、近くの家のお婆さんが「江戸時代の終わりから明治の初め頃には家の下に舟が着いていた」と言っていたことから間違いない。 同じく、武田川も川沿いに大きく入り込み、小貫の入口近くまで川船が行き交っていたのではないかと思われる。小船津は船着き場があった所であり、成田の入口に「浦前通り」の案内板があるが、まさしく北浦に面した通りで、成田の津も近くにあったものと思われる。鎌倉末期の海船は、水深四・五尺(132~165㎝)あれば陸上から曳く等の方法により川を遡れた。逆に大型の川船も沿岸航海は可能であったとされる。(春名徹「海運と船」「常滑焼と中世社会」)

 木崎城の下から漕ぎ出した船は、北浦から霞が浦、更には牛久沼、印旛沼、手賀沼等へ広がる内海を往来していたと思われる。海夫注文によると、行方氏一族の小高氏、島崎氏、玉造氏、羽生氏などが海夫や津の支配にあたっているが、彼らはそれだけではなく、 荒磯を操船する技術を持っていて、自ら操船して交易にあたり、時には敵対勢力に対する掠奪行為なども働き、「海賊」と称されることもあったのではないかと思われる。

 中世の北浦地方でいえば、津を拠点とする水上交通網と、鹿島大道のような本線道路に成田大道などの支線が連結して展開する陸上交通網とが有機的に結びつき、水上交通のネットワークが物資の輸送や人びとの往来を支えていたと思われる。それらのことを裏付け るものとして、島崎城跡と小高城跡の発掘調査の結果、そこから出土した品物が証明しているのである。

 島崎氏が島崎城を築城したのは鎌倉時代の末から室町時代の頃といわれているが、青磁・白磁の椀や皿、火鉢、擂り鉢、古銭、視、 常滑甕、鉄抱の玉、陶器、鉄釘、瓦器などが出土している。小高城は鎌倉時代初期の築城といわれているが、常滑焼、瀬戸焼、美濃焼に混じって中国製の陶磁器(貿易陶磁器)の破片が出土している。 それらのものは、日本、ベトナム、タイ、フィリピン、トルコ、イラン、アフリカ東部にも分布しているものである。さらに、国内では、中国との窓口になっていた博多、京都、鎌倉、広島県、福井県の遺跡からも出土しているのである。中世の鹿行は、霞が浦、北浦を介して太平洋、東シナ海を経て遙か中国とも結ばれていた。〈北浦町史図説鹿行の歴史〉参照

 青磁は青色または緑色の磁器、砧青磁は青色の磁器のなかでも高級品に属する。当時の日本列島の表玄関は筑前博多と越前敦賀であった。中国側では揚州・広州に代わって八世紀半ばより杭州湾口の明州(寧波)が東方海域の中枢港として浮かび上がってきた。宗側がことに輸入を臨んだ商品は、武器の硫黄、刀剣、良質の建築材、棺材、交換手段を補う砂金と水銀であった。

 逆に日本に向かう船は、いわば商品、技術、学術、宗教をミックスしたカプセルであった。船底の倉には銅銭二十五トン、中倉には陶器、陶甕一万余、上倉には絹、書画、文房、仏画、仏像、香薬染 料、漆器、砂糖、砂糖菓子等が満載されていた。これらの物はその 後日本人に吸収され、喫茶、瀬戸焼、博多織、鋳物、医薬、朱子 学、書院、庭園、寺院建築、彫刻、文人画など後世の日本に定着伝統化する多様な技術、学術伝播の源になったのである。

 因みに、十五世紀から十六世紀の畿内周辺における陶磁器の価格は、素焼きのかわらけが標準で一文(一文は現代の金で十~十五円) かそれ以下、素焼きの浅い鍋は三文から五文、中国産の磁器の染 皿(コバルト顔料で藍色の下絵を描く)は三十文程度であったよう だ。大工の日当手間賃が百十文から百二十文であった時代の価格である。東国での値段は流通コストが加わるのでこれよりも高かった。 と推定される。 〈朝日百科日本の歴史4 中世I.I参照〉

 さて、このようにみてくると行方氏一族のそれぞれの領主達は、領民から徴収する年貢の他に、津の経営からもたらされる莫大な現金収入があったことになる。様々な商品取引での利益、海夫が納める棟別銭や営業税等その経済的効果は計り知れないほど大きかったに違いないのである。行方氏一族は、どの領主も総じて裕福だったことになるのではないか。鹿島神宮の大使役の当番に当たった時でも、郡役、郷役という相互援助はあるにしてもその他の出費ではびくともしないし、時々はあった軍事催促にも能力に応じた動員は楽に可能であったに違いないと思われる。

 小田原参陣の際、島崎安定が用意した秀吉への贈答品であるが、金一枚の者に比べると太刀一、馬一は豪勢にみえる。初めはかなり無理をしているのではないかと思えたが、これまでに知った領主としての権威とそれを支える経済的背景を知ると納得できるし、寧ろ周りに気遣って、やや控えめにしているのではないかとさえ思えるのである。

 自然災害に遭うこともそれ程多くなく、地形的には決して恵まれているとはいえないまでも、それ相応の稔りをもたらしてくれる田畑があり、水運を通しての利益も大きく経済的にも余裕があって、その上に領民達からも「俺たちの殿様」と尊敬される立場にあって豊かな領地経営がなされていたとするならば、誰が何と言って来ても邪魔されたくはない。行方郡の領主達はそういう状況下におかれていたのではないのだろうか。「自立ノ志ヲ抱ケリ」とはこのような「独立した領国の経営」を指していたのではないかと思うのである。 ⇒つづく

 


南方三十三館の仕置」鹿行の文化財3月号掲載記事の紹介7回目

2021-07-10 18:40:42 | 歴史

「鹿行の文化財」令和3年3月号に掲載されました【南方三十三館の仕置】を10回シリーズで紹介します。

南方三十三館の仕置 茨城県行方市 山野 惠通 (島崎家家臣末裔)

7.常陸大掾氏と鹿島神宮祭礼の大使役

 新編常陸国誌の文の中で最も気になるのは、「各自立ノ志ヲ抱ケリ」の部分である。広辞林によると、自立とは「服従の関係を脱して自主の地位に立つこと」、自主とは「他の保護または干渉を受けず、自力で処理することができること」とある。

 鹿島・行方の各館主達は皆がそのような考えを持ち、共に行動していたことになるのである。「服従の関係を脱して他の保護または干渉を受けずに自力で処理」していく状態とは、あらゆる面で一個の独立した氏族(勢力)とみることができるのではないか。そう考えると、自分たちの領地を治めていくだけの領主としての権威・権力が必要だし、更には経済的な基盤がしっかりしていることが不可欠の条件になると思うのだが、果たしてそれらを満たすものはあったのだろうか。

 そのヒントになるのが鉾田町史研究会「七瀬」十号からの引用になるが「2. 南方三十三館とは」のP26上8行から12大掾・鹿島一族は交替で鹿島神宮の大使役を務めており、地位を認められ保護・尊重されていたこと、また、鹿島・香取の海周辺では富裕の人々が多く存在したように、水運や商取引の利益や棟別銭や営業税収入は大きなものだったに相違なく...」の部分である。「 」 内の文は「大掾・鹿島一族は...」となっているが、同時代なのであるから勿論「大掾・行方一族」も同じように行方郡内で活躍していたことは間違いないのである。

 そこで、まず、大掾氏一族がその権威を誇り、権勢を維持できたとされる鹿島神宮祭礼の大使役について見ていきたいと思う。

 鎌倉時代の中頃、行方郡に定着した行方氏は、景幹の四子以来、郡内の諸郷村に急速に広まり、勢力を拡大していった。その後、行方氏は鹿島神宮の祭事や造営等に関与することで支配を安定させる。とりわけその支配権の確立に影響を与えたのが、鹿島神宮祭礼の鹿島大使役だったのである。

 鹿島大使役とは、鹿島社の七月十日、十一日に実施された大祭の祭使を勤める役である。鹿島社の七月の大祭は、中世鹿島社の 一千百以上に及ぶ大小神事中、一月の白馬(あおうま)節会と並ぶ最大の伝統的祭事であり、その起源は平安期に由来するものであった。

 寛弘四年(1007)の「道長公記」、更に後一条天皇の寛仁元 年(1017)九月には一代一度の奉弊が定めらた(「左経記」)。 その後、寛仁四年(1020)関白藤原頼通は去る長和六年(1017)に内大臣に任じられた慶賀に藤原能隆を使として鹿島に詣で (「小右記」)、治安三年(1023)には右大臣実資は大臣に任ぜられたので藤原経孝を鹿島に遣わした⦅小右記⦆である。

 このように鹿島使は、遠く畿内より道路の険しき、風俗習慣の違い等々途中の危険をおかして東国鹿島に下向したのである。朝廷や時の権門藤原氏が鹿島神宮をいかに崇敬していたかが分かる。更にまた、鹿島神宮及び鹿島の氏人たちがいかに藤原氏と関係が深かったか、そうして藤原氏を媒介として神威を伸ばし、氏人たちが自分たちの住む鹿島の地の安全を図り発展せしめたかを知ることができるのである。

 その後、朝廷ではそれまで続いていた律令制度が崩壊し、国家財 政が悪化したために、長寛元年(1163)の詔によって鹿島使等の奉弊使を遣わすことを中止した。この奉弊使に代わって、国司代より使いを遣わして神を祀るようになった。(尾張藤浪真野氏「神国類聚」)これを大使役(大祭使役)といった。また、鹿島長歴の建久四年(1163)の頃に、鹿島社造営行事のことに対する東鑑、税所文書、行方泰陳状等によるに「この七月十日、十一日の両日の大祭は国司の祭であり、年中の大祭で、大掾大使目官使としてともに 勅使に準じ鹿島に赴き、祭を勤める...」とあり、大掾職が勅使の代理として毎年大使役を務めるようになったのである。このように大使役は、大掾氏一族のみで勤仕され、他氏の介在を全く許さないものであった。

 大掾氏はこの大使役を一族の巡役で勤めている。常陸大掾は「七家七郡地頭」と称され、鎌倉初期に有力七家によって構成されていた。この七家が大使役を七年に一度、順番で勤仕する体制をとっていた。七家とは、国府(馬場)、吉田、行方、鹿島、小栗、真壁、

 東条の各家である。現存する記録によると、大使役は建長元年以降真壁=小栗=吉田=東条=鹿島=国府=行方となっており、以後規則正しく行われている。大使役の巡役体制は、源頼朝の在世中にすでに開始され戦国時代まで続いていたのである。

 重大な役割を担ったようである。鹿島大使役は、行方四頭に一族統 この大使役の勤仕者は、在任中に一時的に国衙の大掾職に任命さ 合のために有利な状況を与えたのであった。各頭は、大使役に任命され、鹿島へ赴き祭使として大祭を執行した。一方この大祭の費用は されると、行方郡役を催促し、更に自分の勢力下の諸郷から郷役を鹿島社領に特に設定されず、大使役を勤める大掾氏一族の供出に依リ徴収して大祭の祭使を勤めたのである。但し、この大使役も天正 存することが極めて大きかったようである。(水野類「鹿島大使役と常陸の大掾氏」「茨城県史研究」四十二号)

  このため、大掾氏一族は、一族の居住する郡、郷から郡役、郷役 〈「鹿島神宮 堀田富夫著」「玉造町史」「麻生町史」「茨城町史」> を徴収できる特別の権限を持っていたと推測される。郡役、郷役とは一郡、一郷単位に一律に賦課される課役で、大掾氏一族は、大使役に決定すると彼等の居住する郡、郷へ郡役、郷役を課税して大使役の資金を捻出したものと思われる。

 大掾氏一族で大使役を勤仕する者の支配地では、一時的ではあるが郡、郷役と大使役の二重の負担を負うことになったから経済的負担は大きかった。しかし、大使役の勤仕は必ずしも七家が一様に実施したわけではなかった。小栗、真壁、東条、国府の四家はほぼ一族の惣領のみが勤仕、吉田、行方、鹿島の三家は郡内の庶子家に分担させている。この三家で大使役を分担した者を「頭」と呼んだ。「常陸大掾伝記」によると「鹿島六頭」「行方四頭」「吉田三頭」と見える。「鹿島六頭」とは鹿島、徳宿、立原、沼尾、宮ヶ崎、中居の六家。「行方四頭」とは小高、島崎、麻生、玉造の四家、「吉田三頭」とは吉田、石川、馬場の三家である。

 行方氏の場合、小高氏を中心に四頭が順番は不同であるが、一様 の間隔で行方郡役を勤めている。頭は大使役の勤仕という一大神事を通じて郡内に拡大した一族の中核的地位を占め、リーダーとして重大な役割を担ったようである。鹿島大使役は、行方四頭に一族統合のために有利な状況を与えたのであった。各頭は、大使役に任命されると、行方郡役を催促し、更に自分の勢力下の諸郷から郷役を徴収して大祭の祭使を勤めたのである。但し、この大使役も天正十九年、常陸大掾氏一族が佐竹氏に滅ぼされるに及んで完全に断絶したのである。

「鹿島神宮 堀田富夫著」「玉造町史」「麻生町史」「茨城町史」参照   ⇒つづく