昭和62年(1987)に発行されました「島崎城跡発掘調査報告書Ⅱ」の内容を抜萃して紹介します。
一曲輪外周堀の発掘
島崎城の特長のひとつは砂岩層を刳り貫く型で掘りあげた空堀・堀切が幾重にもめぐり,まことにみごとで堅固にして厳然たる景観を呈していることである。平成元年度(3年次)の第 4次調査では,一曲輪北側外周空堀と馬出曲輪 北側空堀の二ヶ所にトレッチを設定、旧状を明らかにすることなった。
水堀だった一曲輪外周の堀
一曲輪北側は水の手曲輪と馬出曲輪の間に空堀が残る。馬出曲輪側の堀切りは,昭和55年度に埋められ現状のように浅い空堀となっている。水の手曲輪側は、岩壁を直角状に堀り込む型で堀がよく保存されている。しかし、あまりに急な塁壁斜面(急勾配)があるため、鬱蒼たる自然林の根により, いたる箇所で砂岩が崩壊している。そこで,調査トレンチは最も欠落が少ない東寄りに,幅2 m,長さ7mのトレンチを堀の延長と直角に一本設定した。
発掘作業に着手してまもなく、深さ70cmの褐色土辺りから水が湧き出し,その下層の明褐色層は,かなりのヘドロが混入しており,1m以下を掘り進むため、排水ポンプを現場に持ち込み,作業進行にあたった。1m20cm辺りからは、まったくのヘドロ層となって多数の遺物が埋もれている。作業は遺物レヴェルをのこして、むずかしい発掘を行なった。ヘドロ層内には、カワラケ, 染付けなど陶磁器・漆器・鉄製品および木材片・杭・種子などである。なかでも乱杭が多数みつかり、堀底に進入を防ぐための杭と横木・逆茂木が設置されていた訳である。このように木材が原形のまま保存されているのは、廃城前から今日までかわらぬ水の中に埋没していたことを示し,今の空堀は,濠としての水堀だったことが判明した。
多量の遺物が語るもの
多量の出土遺物の中でもト筮もしくは呪いに用いた天地、鬼などを墨書した大型カワラケ、「大明」の二字が判読できる景徳鎮窯の染付皿が出土したことは注目される。このように、たった幅2mのトレンチ内に100点以上にのぼる遺物が出土することは、きわめて注目されてよい。おそらく火災の折か, 落城(天正19年の佐竹氏入部の折)した折に, 一曲輪内から投げ込まれたためであろう。
乱杭にしても、出土遺物の数々からは、天正19年2月,島崎安定・徳一丸が佐竹義宣により殺害され、大挙して島崎城にせまった佐竹勢が, 島崎城に火を放って落城させたであろう想像をかきたてる。城内にあった島崎氏一族と家臣たちは,大挙して攻めて来る佐竹勢を前に、また落城する折り、悔しまぎれにいろいろな物を, この堀に投げ入れたものであろう。同様な多量の遺物検出は,次に述べる馬出曲輪北側空堀でもいえるのである。
なお,佐竹氏時代には,水堀ではなく、1m ほど埋め立て、赤褐色土層を堀底にしていたとみられる。
⇒次回は馬出曲輪空堀の調査を掲載します。