「鹿行の文化財」令和3年3月号に掲載されました【南方三十三館の仕置】を10回シリーズで紹介します。
南方三十三館の仕置 茨城県行方市 山野 惠通 (島崎家家臣末裔)
5、常陸大掾氏(南方三十三館)のおごり
南方三十三館の仕置に関して私が知りうることはここまでなのだが、ご先祖様が仕えていた殿様父子がなぜ謀殺の憂き目に遭わねばならなかったのか、子孫の一人としてどうしても知りたいと思った。しかし、それを知りたく思っても史料も参考にさせて頂くような著書も皆無に等しい状態だった。私が知りたいと思う謀殺の証拠になるような文書など佐竹氏がわざわざ残す筈がないのである。ただ言い伝えだけが残されていた。「謀殺」の原因までは分からなくても、何かしら関わりのある些細なことにでもたどり着けたらありがたいと思った。従って、身近にある少ない史料をもとに関係する出来事をお互いに結びつけながら想像していかなければならないのである。
友人からお借りした、新編常陸国誌の中の第一巻建置沿革巻五天正十九年の部分を改めてもう一度読んでみると、前半は鹿島・行方の館主親子・兄弟が常陸太田に誘われて謀殺されたことが書かれており、「4. 仕置の実際」に書いた内容である。しかし最初に目にしたときから、どうしてもその後半からの文が気になり、もう少し調べてみることにした。
その文とは、
「二郡舊族武田相賀ヲ除クノ外、悉皆大掾氏ノ族、所謂常陸平氏ナリ、歴世各其地二拠リ、支庶蕃延、自ラ門閥ヲ以テ誇張シ、下河邊、島並等諸豪下共二南方三十三館卜称シ、佐竹氏二属シ、其驅使二従フト雖モ、意二之ヲ甘ンゼズ、各自立ノ志ヲ抱ケリ、(藩翰譜、戸村本佐竹系図 常陸国誌)」である。
仕置事件に関係するのは、清和源氏流の佐竹氏と桓武平氏竜の大掾氏である。そこで手始めに両家のおこりを調べてみることなした。
まず、常陸大掾氏の生い立ちであるが、桓武天皇の第四子葛原親王が、天長七年(830)に常陸の大守(親王の任国と定められていた上総・常陸・上野三か国の守〈かみ〉)となったことによって、常陸国と関係を持つようになり、その子高望王にいたって宇多天皇の寛平元年(889)に皇籍をはなれ、野に下って平姓を賜り上総介に任ぜられて赴任したことに始まる。高望王は在任中に上総、下総、常陸三国にわたって広大な農地を開発し、地方における一大豪族となって覇を唱えるようになっていった。
高望王の三男良将(良持とも)の子将門が起こした承平・天慶の乱に、長男国香の子貞盛は、常陸大掾職として将門追討の官符を受けてこれを平定してから一段とその勢力を伸ばし、広大な荘園を持つようになった。また、貞盛は繁盛の子維幹に家督を継がせ、維幹は常陸大掾職となり常陸国平氏の本家となって一族の長となった。当時、上総・上野・常陸の三国は親王の任国であった。
長官である「守」は遙任(平安・鎌倉時代、国守が京都にいて赴任せず、国守の代わりに目代を行かせて事務を取り扱わせたこと) で任国に赴任しなかったので、その実務を高望王の子国香らが補任された「介」「掾」らが次官として代行することになり、彼らの勢力は「守」に担当するようになった。こうして維幹らの子孫はその職名を苗字として大掾家を称するようになった。その後常陸の大掾家はいち早く中央における貴族的存在の源氏と関係を結びつつ国内の郡郷を拡大していった。その子孫は行方・真壁・小栗・吉田・東條・鹿島・馬場の七家が七郡の地頭となり、常陸国の大半を支配することになった。
維幹は貞盛の養子となって筑波郡水守に住み、「水漏大夫」といわれ、同郡多気にも館をもち「多気大夫」ともいわれた。維幹の子為幹も父と同じく従五位下に叙任され、その勢力は強大であった。この維幹、為幹の系統がいわゆる常陸平氏である。平為幹の子重(繁)幹は、数名の男子をもうけてそれぞれの子にその所領を配分した。長男致幹は宗家(本家)を継ぎ、二男清幹は吉田、行方、鹿島の三郡内の所領を与えられ、四男の政幹は下総の市毛(石下町) あたりを、五男の重家は真壁郡小栗保を与えられて、それぞれの地に勢力をひろげていった。
平清幹は、吉田郡を本拠として、吉田次郎と称し、吉田郡の郡司職を掌握して郡全体に対する支配を固めていった。清幹が勢力下においていたのは、久慈川以南の常陸国の東海岸地域一帯である。清幹はそれを子息たちに三分し、吉田郡は太郎盛幹に、行方郡は次郎忠幹に、鹿島郡は三郎成幹に与えた。
行方郡を与えられた忠幹は、行方次郎または行方平四郎と称し、行方郡 (行方市行方一帯)に居を構えた。その子景幹は、行方太郎形部大輔と称し、行方郡内の荒野の開発を押し進めた。その代表的な例が四六村(行方市四鹿)である。四六村(郷)には、のちに行方氏一族の四六氏が地頭に任命されている。また、景幹は、鹿島社領への侵入を繰り返すことによって自領を拡大していった。このため、景幹は神宮の神官と社領支配をめぐってしばしば衝突を引き起こした。
景幹が元暦元年(1184)源義経に従って屋島の戦いで戦死すると、その開発所領や特権は四人の子息たちに分割譲与された。長男為幹は、行方氏の惣領を継いで行方太郎と称した。行方氏は、のち小高(行方市小高)に本拠を移し、小高を姓とした。次男高幹は、島崎 (潮来市島須、茂木、堀之内、築地一帯)に居住し、島崎次郎と称して、島崎氏の祖となり、三男家幹は、麻生に居住し、麻生三郎と称して麻生氏の祖となり、四男幹政は、玉造に居住し、玉造四郎と称して、玉造氏の祖となった。この四子の創設した行方(小高)、島崎、麻生、玉造の四家は、郡内に広まった行方氏一族の中心的地位を占めたので、「行方四頭」とよばれた。四頭は、小高氏を惣領として結合し、島崎、麻生、玉造の三氏が惣領を支援するという形で行方氏一族を統合していったのである。
その頃の坂東武者たちは、幾多の戦乱のなかで逐次実力を蓄えてきたが、まだ平氏の支配に服していた。文治元年(1185)平家 が滅び源頼朝が鎌倉幕府を開くと、守護、地頭制を確立し、常陸においては大掾氏をはじめ小栗重成、八田知家などの武士達は御家人として頼朝の配下となる主従関係を結ぶようになった。
元弘三年(1333)北条氏が滅亡し、鎌倉幕府が崩壊すると、朝廷は南朝・北朝に分れて内乱の時代となった。当時、常陸国では 三大豪族がそれぞれ勢力を誇っていた。八田一族 (藤原氏)は筑波、信太郡を、大掾一族(平氏)は新治、茨城、行方、鹿島郡を、佐竹氏 (源氏)は那珂、久慈、多賀郡をそれぞれ治めていた。八田一族である小田治久は南朝方に終始し、佐竹貞義は同じ源氏系で北朝の足利尊氏にくみし、大掾高幹は、一時北条時行に味方していたが、後に尊氏に降って北朝方になった。これにともなって大掾氏族の行方、鹿島、烟田、小栗なども本家の大掾氏について足利尊氏のもとで働いた。
この頃、大掾高幹は北畠顕信を招いたり、顕信が奥州へ下向するのを阻む佐竹勢と一戦交えたりしている。こうした事は、源氏の佐竹氏と平氏の大掾氏の宿命的な対立観や、新興の佐竹氏と名門の大掾氏との摩擦がだんだんと現われてきたものと見ることができる。
〈中世常総名家譜・麻生町史・北浦町史・玉造町史〉参照 ⇒つづく