昭和62年(1987)に発行されました「島崎城跡発掘調査報告書」の内容を抜萃して紹介します。
第Ⅰ篇 島崎城の構成
- 島崎城の位置と占地
地名からみた城と集落
霞ヶ浦の東端,常陸利根川が霞ヶ浦より東へ流れ出て,常陸・下総両国境を形づくる。この霞ケ浦と常陸利根川に接する北側に水郷の街・牛堀町(現・潮来市)がある。本書で述べる島崎城は、牛堀町形成の原点であり,町のかげがえのない遺跡として町指定文化財として保存されている。
牛堀町の中心部に字「芝宿」といわれる集落があって,ここに島崎城主の菩提寺長国寺が位置する。芝宿より古い町並は、北側にバイパス道路をこえて形成し、この辺りを「宿」という。 宿は島崎城の出城の麓一帯まで集落をつくり,島崎城址の台地麓と,台地上は「古宿」という小字名である。さらには注目されることは、島崎城の丘を囲む微高麓部を「根古屋」「山下」 と呼ぶ。
地名で結ばれる根古屋→古宿→宿→芝宿という地区こそ、島崎城の城下集落の形成過程を如実に示すもので、きわめて貴重な地名伝承なのである。根古屋と古宿・山下には、土子越前屋敷・隼人屋敷・坊主屋敷・表門・東門・金井柵・権現崎・御山台・稲荷山・ハタ崎・原田・天野山・大構と呼ぶ地名,城址に古屋・城内・八幡台(八幡崎)・大井戸・鐘の台・大堀・三の丸と呼ばれる所があって,廃城前の姿が,これら地名から浮かびあがってくるのである。
まさに島崎城はその遺構保存情況も良好だが,地名学からみても、興味つきない存在である。 本書の刊行の機に城址保存はもとより,地名伝承の保存と啓蒙にあたることを提言する。
城郭の占地と歴史的環境
島崎城は標高28~30mの丘陵上にあって、南側に田中川が流れる谷間,北および西側には四石谷原川の谷間となる。田中川の沖積谷は城址東側で幅200m,南側で400mの幅で細長く形成され、中世以来の農耕地・水田とみられる。四石谷原川は、城の西側で湿地沼を形成,近世開拓後も川筋は七条以上の乱流を呈していた(図2,明17年の迅速図参照)。この西側湿地沼のわずか300mの位置にある台地上が,堀之内大台城址で,現在破壊され、牛堀中学校となっている。(詳しくは、『堀之内大台城! 1985年 町教育委員会刊にある)
城址の中心は標高28.4m,霞ケ浦と北浦に挟まれる行方台地が南へ発達する枝丘陵の末端部にあたる。城址の外曲輪・外構は標高30mコンタで、丘陵は大構といわれるように外構地区で西へ発達し,主脈を形成し,この馬背状丘脈上に2ないし3つの出城をつくる。
城の外構台地縁よりわずか西300mに堀之内大台城がある。この城郭は昭和58・59年度に発掘調査が実離され、慶長元年から同7年に至る佐竹氏在城時代の築遺構と多量の遺物が出土した。堀之内大台城は、島崎城にかわり、豊臣大名としての佐竹氏が新たに築いた南常陸の佐竹領内最大の城であった。島崎城を一望とする至近距離の築城は、嶋﨑氏を滅ぼした佐竹氏の新拠点にふさわしい社大な城郭であり、両城が深い歴史因縁にあって、対照的な位置にあった。(前掲「堀之内大台城」1995年)
さらに西に目を転じると北西2kmの地点に山がある。この永山城は大台西出城より700m,夜越川の氾濫原もしくは湿地帯を隔てた舌状台境上(標高25m)に占地する。大永2年(1522) 島崎城主14代島崎安国は、一族永山氏の永山城を攻め藏ぼしている。また,島崎城の西北5kmには、島崎一族の麻生城があって、天正12年(1584)16代島崎氏幹が攻め落している。
これらの諸城はいずれも行方台地の南側末端部の枝丘陵先端にあって、存城期(戦国期)には霞ヶ浦およびその入江に面していたのである。
また町域内では、島崎城およびその歴史に関わりのある遺跡として、
台上戸神明社および国神神社(島崎戦の鬼門鎮護)
観音寺(台上戸・正平7年〈1352〉島崎国安城主の鰐口を蔵す)
長国寺(芝宿・島崎長国が開基)
二本松寺(堀之内・嶋崎氏建立と伝える)
日吉山王神社(永山・応永年中に永山知幹が勧請したという)
嶋﨑家臣大平内膳屋敷跡(台上戸・土塁が残る)
諏訪神社の板碑(応永七年八月造立銘。湯殿坂が旧位置)
などがある。牛堀の三熊野神社も、おそらくは中世熊野信仰の太平洋沿岸布教と関わりがあるとみられる。いずれにせよ、これらの寺社や古石塔は、地名や古城祉と共に島崎城を核として 牛堀町の原形ができあがっていった過程を物語っている。⇒次回は「島崎城の構造・Ⅰ曲輪」を予定。