「鹿行の文化財」3月号に掲載されました【南方三十三館の仕置】を10回シリーズで紹介します。
南方三十三館の仕置
茨城県行方市 山野 惠通 島崎家家臣末裔
1.はじめに
最近では時代の変化に伴って、様々な土地の風習も少しずつ変わりつつあるのではないかと思います。それでも所によっては今でもまだ正月を迎えると、どこのご家庭でも元旦の朝、野菜や魚、肉類などを入れた味噌汁又はすまし汁に餅を入れた「雑煮」を食べて新年の祝賀としておられるのではないでしょうか。
我が家でも雑煮を食べますが、子供の頃から不思議に思っていたことがありました。それは、汁椀に餅が隠れるくらい細かく刻んだ人参だけがどっさり盛られていたのです。そうは思いながらも人参は甘いし、餅もおいしいから「なんで人参だけ?」などとは親に聞 くこともなく、別に気にも留めずに成人していました。
ところが、今から十五年位前に、その謎が解けたのです。ある時、長女が家内に話した内容によると、「おじいちゃんから聞いたんだけど、昔家のご先祖様が、正月に佐竹に斬られたそうなの、その時の悔しい思いを子孫に伝える為にずっと人参なんだって、人参の赤は血を忘れない為とも言ってたよ」とのことでした。私が思いきって聞いていれば話してくれたかも知れないのですが、父は何かの機会に孫に話しておいたのでした。
更に、大本家にも同様の話が伝えられていて、昔、先祖が正月に 家の門のところで佐竹に斬られたので、今でも門松は立てない。雑煮は食べない。焼いた餅を神棚に供え、焼いた餅と鮭を食べるだけ。 今でもこれらのことは守られていて、言い伝えとして残されている ようです。
そして、考えられることは、家の先祖は武士であったことには間違いないこと。元は石神(旧麻生町)に住んでいたが(石神には山野という姓が多く、現在でも六十戸ほどある)、ある時、その一部 が延方と山田に分かれて移り住んだといわれており、山田に移って来たのが我が家の先祖ということになる。武士であったとすれば、仕えていた殿様がいたはずである。当時、大名と言われるほどの勢力があったのは、常陸では佐竹氏を含めて数えるほどだったはずなので、おそらく何人かの小領主が行方地方を治めていたのではないかと思われる。石神を中心に考えると、地理的には島須(潮来市)の島崎氏が思い浮かぶのである。
その手がかりの一つに、昭和四十八年三月発刊、箕輪徳二郎著 「島崎盛衰記・行方軍記後世鑑」に島崎家諸士のあらましとして、大平内膳、柏崎主水、土子伊賀守、窪谷四方之助、鴇田 伊豆守、今泉将監、人見九兵衛、米川佐渡守、石神弥右衛門、新橋五郎左衛門、飯笹源兵衛、浜野但馬守、大川七郎入道、榊原弥治右衛門、小沼源之丞、塙外記、山本玄蕃、小貫大蔵、平山藤蔵、江寺式部、井関舎人、下河辺左近等々その他多くの家臣に交じって山野六右衛門、山野仁兵衛の名が見られたことである。また本家にあった島崎盛衰記(写本)の島崎家諸士の中に山野勘兵衛、山野仁兵衛の名があったこと、更に本家の屋号は「与兵衛」なので島崎氏の家臣団の一員であったことに確信が持てた。
更に、島崎盛衰記の後の方に「御旗下家中の者共子孫島崎村・上戸村・永山村・堀之内村・石神村・八幡村・大生村・水原村・潮来村・築地村・延方村・辻村拾弐ヶ村に散在して永く...」とあること から石神に住んでいたことは間違いない。先祖が島崎氏の家臣団の 一員だったとすれば、戦国時代末期に起きたある一つの忌まわしい事件にたどり着くのである。
それは今を遡ること429年前の天正十九年(1591)二月九日に起きた佐竹氏による南方三十三館主父子・兄弟全員の謀殺事件であり、その後の佐竹勢による鹿島・行方の各城館への一斉攻撃だった。我が家のご先祖様もその時の出来事に何らかの形で巻き込まれた可能性が大きいのである。
さて、私は鹿島・行方の各城主の謀殺事件に衝撃を受け、自分なりに調べてみたことを平成二十二年度の郷土北浦三十三号に投稿させて頂いた。事件のあらましと、時代背景、豊臣政権の天下統一と 佐竹氏の常陸統一の野望が絡んでいたところまでは突き止めたのだ が、それでもなぜ「謀殺」されたのかがずっと心に残っていたのである。
そうした折、友人からお借りした「新編常陸国誌」の中の第一巻建置沿革巻五天正一九年の部分を読んだ時、ある個所に目が止まった。前半は鹿島・行方の館主・兄弟が常陸太田に誘われて謀殺されたことが書かれており、ほぼ三十三号に書かせて頂いた内容であった。しかし、どうしても、その後半からの文が気になり、書き出してみた。その文とは、「二郡舊族武田相賀ヲ除クノ外、否音大掾氏ノ族、所謂常陸平氏 ナリ、歴世各其地二據リ、支庶蕃延、自ラ門閥ヲ以テ誇張シ、下河邊、島並等諸豪下共二南方三十三館下称シ、佐竹氏二属シ、其謳使二従フト雖モ、意二之ヲ甘ンゼズ、各自立ノ志ヲ抱ケリ、(藩翰譜、戸田本佐竹系図、常陸国誌)是ヨリサキ東義久三成二因テ三十三館ノ秀吉ノ令ヲ奉ゼザルコトヲ潜シ、乃特二教書ヲ賜ヒ、其威勢ヲ以テ之ヲ鎮壓センコトヲ請フ、秀吉因テ書ヲ義宣二下シ、意二随テ諸豪ヲ督責スル事ヲ許ス、是ヲ以テ義宣竟二盡ク是ラ亡スコトヲ得タリ、(戸村本佐竹系図、義久飯村氏二與フル書)」
であるが、私なりに読んでみると、「鹿島・行方二郡の旧族のうち武田・相賀を除いて外は、悉く皆大掾氏の一族、所謂常陸平氏である。代々それぞれ其の地に拠り、支族は草木が茂るが如く発展していった。自ら家柄の良さを実際よりも大げさに言って、下河邊、島並等諸豪族と共に南方三十三館と称し、佐竹氏に属して、その駆使に従ってはいたけれども、それで良いとは思っていなかった。それぞれ自立の志を抱いていた。是よりも以前に、東義久は石田三成を頼って、三十三館の領主達が豊臣秀吉の命令を受け入れないことを隠し、すぐに、特別に命令書を頂いて、その威勢で三十三館主を鎮圧することを頼み込んだ。秀吉はそれによって、命令書を義宣に下し、義宣の思うままに諸豪を責めなじる事を許可した。是で義宣はついに悉くこれらを亡ぼすことができた。」ということになる。文中の特に「自ラ門閥ヲ以テ誇張シ」と「各自立ノ志ヲ抱ケリ」が気にかかり、どういうことなのか調べてみることにした。
まず、門閥云々では、家柄が関係しているとすると大掾氏と佐竹氏の家のおこりを知る必要があるし、「自立の志」があったとする。と、領主として領地を統轄するだけの権威・権力と経済的な基盤がしっかりしていることが重要ではないかと考え、数少ない史料を手がかりにして調べたことを、郷土北浦第三十五号、第三十六号に投稿させて頂いた。但し、南方三十三館との関係について直接書かれている史料や著書等はなく、確証の程は定かではないので、あくまでも私なりの仮説でしかないのである。手探りの状態だったが、北浦町史、麻生町史、潮来町史、玉造町史、茨城町史の中世編、佐竹氏関 係の図書、鹿行の歴史、朝日百科・日本の歴史4・中世I・5中世Ⅱ等を手がかりに戦国時代末期の鹿島・行方台地に暮らしていた各領主と民百性達の姿を想像し、生活の様子を少しでも思い描くことができたらありがたいという気持ちだった。
島崎氏の家臣であったご先祖様に繋がる子孫の一人としては、各館主父子・兄弟が謀殺によって絶滅に追いやられた理由も分からず、言い伝えだけが残されているだけでは何ともやるせなく、余りにも哀しい歴史といわざるを得ないのである。そうは思いながらも、 特に史料が有るわけでもなく、県立図書館に行っても、中世常陸地方の豪族についての著書は数も少なく、鹿島・行方については更に少なかった。そして「南方三十三館の仕置」についての史料などは皆無に等しかったのである。
私は歴史研究家でも郷土史研究家でもない。ましてや豊富な史料を持っているわけでもないし、動かぬ証拠となる古文書があるわけでもない。ただほんの少し、歴史に興味を持っているだけの者にしか過ぎない。少ない史料を手がかりに、自分の想像力を駆使して謀 殺事件の遠因らしきものが何かないものか、自分なりに探り当ててみたいという思いが強かったのである。しかし、確証のない事を投稿するのは正直不安であり、いろいろ悩んだ結果、最後はやはりご先祖様の事が何か少しでも分かれば、当初抱いた「哀れ」とか「惨め」 といったような感情も幾分薄らぐのではないかとの思いから、意を決して投稿させて頂いたのでした。
今回、私は、謀殺事件のあらまし(第三十三号)と身近な史料を元に、私なりの考えを書いた(第三十五号)、(第三十六号)に多少 の加除訂正を加えたものとを合わせ、一つに纏めてみることにし た。私なりの考えを凝縮することによって、少しでもご先祖様方の思いに近づくことができればありがたいし、たまたまその歴史に関わりを持った子孫としての努めではないかと思ったからである。⇒つづく